最終話 約束 前編
目を覚ました時、空洞の奥にはまだ薄い靄が残っていた。
金色の水が流れる音だけが、遠くで絶えず響いている。
スイは壁へ預けていた背を起こし、眠気を払うように何度か瞬きをした。隣ではカイが座ったまま、左手だけで包帯の具合を確かめている。
昨日より顔色はいい。
右腕も完全ではないが、指先は動いていた。
大剣を両手で振るえるほどではない。それでも、戦えない状態ではないことは、スイにも分かった。
「おはよう」
「おう。よく寝てたな」
「カイも寝てたでしょ」
「俺は見張りの途中でちょっと目を閉じただけだ」
「それを寝たって言うんだよ」
カイは否定しようとしたが、あくびが先に出た。
スイは小さく笑い、荷物から水筒を取り出す。
外の朝日が届かないダンジョンの中では、時間の感覚が曖昧になる。けれど、身体が教える空腹と疲労の残り方から考えれば、十分には休めたはずだった。
干し果実と硬いパンで簡単に腹を満たす。
その間も、二人の視線は何度となく石橋の向こうへ向いた。
巨大な影は、昨日と同じ場所で眠っている。
長い首を前脚の間へ落とし、翼のような突起を畳んでいた。
呼吸のたび、胸がゆっくりと上下する。
それだけで、遠く離れた石床へ低い振動が伝わってくる。
「あれ、起きてると思う?」
カイが小声で尋ねる。
「寝たふりしてる可能性はあるかも」
「昨日、耳が動いた気がしたんだよな」
「気のせいじゃない?」
「そう思いたいけどな」
スイは《私の箱庭》を薄く広げた。
まだ距離があるため、ボスの身体までは届かない。
けれど、石橋を渡った先に満ちる魔力は感じられた。
《黒杯の番獣》よりもさらに濃い。
ただ広いのではない。
深い。
底が見えない水へ手を入れたような、不気味な重さがある。
「正面から行くしかないね」
「回り道は?」
「金色の川の向こうは崖。壁伝いに進める場所もない」
「橋を壊されたら終わりか」
「だから、渡り切ってから戦う」
カイは頷いた。
以前なら、橋の途中から攻撃して様子を見ようと言っていたかもしれない。
けれど、橋の上は狭く、逃げ道もない。
戦いを始めるなら、二人が動ける場所まで進んでから。
それが今の二人の判断だった。
装備を整える。
スイは《双雷鳥》を腰から抜き、一度ずつ魔力を流した。
白銃は軽く応える。
黒銃は昨日より銃身が落ち着いていた。
カイは大剣を左肩へ担ぎ、右手を柄へ添える。
痛みはある。
それでも、握ることはできていた。
「無理なら言ってね」
「スイもな」
「私はちゃんと言うよ」
「俺だって言う」
「昨日、腕が動かないのに平気って言ってたよね」
「動かなかったんじゃなくて、動かしづらかっただけだ」
「それを動かないって言うんだよ」
「細けえなあ」
互いに言い合いながら、最後にはいつもの位置へ並ぶ。
カイが前。
スイが斜め後ろ。
何百回も繰り返してきた形。
その距離が、今は何より心強かった。
石橋へ足を踏み出す。
一歩進むごとに、甘い香りが濃くなっていく。
果実。
穀物。
樽。
そのどれにも似ていて、どれとも違う。
カイの耳が落ち着かなく動いていた。
「走らないでね」
「まだ走ってねえだろ」
「今にも走りそうだから」
「酒の匂いが近づいてくるんだぞ」
「向こうが近づいてるんじゃなくて、私たちが進んでるの」
「似たようなもんだ」
「全然違うよ」
橋の中央へ差しかかる。
下を流れる金色の水は、近くで見ると光そのものに見えた。
水面には波がある。
だが、流れる音はほとんどしない。
石橋の縁へ触れた細かな光が、淡く宙へ浮かんで消えていく。
スイは一瞬だけ足を止めた。
「これ、普通の水じゃない」
「飲めそうか?」
「絶対やめて」
「聞いただけだって」
水面から立ち上る魔力は穏やかだった。
攻撃的ではない。
けれど、強すぎる。
身体に取り込めばどうなるか想像もつかなかった。
二人は橋を渡り切る。
眠れる主まで、まだ距離がある。
そこから先は広い石の広場になっていた。
周囲には酒樽を模した巨大な石柱が並び、中央の建物へ続く道を囲んでいる。
ボスは、その道を塞ぐように座っていた。
近くで見ると、昨日感じた以上に大きい。
前脚だけでカイの背丈を超えている。
全身は深い黒に近い鱗で覆われ、鱗の隙間から琥珀色の光が漏れていた。
頭部には鹿のような枝角。
背中には翼。
だが、鳥や竜のような形ではない。
樽板を重ねたような硬質な翼が、何枚も折り畳まれている。
長い尾の先には、杯を逆さにしたような骨の器官がついていた。
「変な形だな」
カイが呟く。
「ダンジョンに合わせて生まれたのかも」
「酒を守るために、杯までついてんのか」
「触らないでね」
「触らねえよ。まだ倒してもないのに」
「倒した後も」
「それは倒してから考える」
スイはため息をついた。
その時。
眠っていた主の鼻先から、白い息が漏れた。
空気が震える。
次に、ゆっくりと片目が開いた。
琥珀色の瞳。
縦に細い瞳孔が、真っ直ぐ二人を捉える。
カイは大剣を下ろした。
スイも《ハク》を構える。
だが、すぐには撃たない。
主は立ち上がらなかった。
ただ、二人を見ている。
長い沈黙。
その眼差しには、獣らしい飢えも、怒りもない。
見定めるような静けさだけがあった。
「話、通じると思うか?」
「試す?」
カイは少しだけ迷い、剣を構えたまま口を開いた。
「俺たちは酒を取りに来た。全部は取らねえ。少し分けてくれれば、戦わずに帰る」
スイが横を見る。
「それ、交渉になってる?」
「正直でいいだろ」
主は動かない。
けれど、琥珀色の瞳が一度だけ細くなった。
理解したのか。
ただ瞬きをしただけなのか。
次の瞬間、尾の先にある杯状の器官が、ゆっくりと持ち上がった。
「お、くれるのか?」
「待って」
スイが止めるより早く、器官の中へ金色の光が集まる。
酒ではない。
魔力。
主の周囲に満ちていた魔力が一点へ圧縮されている。
「違う、来る!」
尾が振り下ろされた。
金色の光が地面へ落ちる。
爆発は起きなかった。
代わりに、広場全体へ琥珀色の波紋が広がっていく。
スイの《私の箱庭》へ、異変が一気に流れ込んだ。
足元の石床。
石柱。
橋。
空気。
そのすべてへ、同じ魔力が染み込んでいく。
「動いて!」
二人が左右へ飛ぶ。
直後、先ほどまで立っていた場所から、透明な柱が突き出した。
水。
だが、金色の川とは違う。
強い酒の匂いを纏った液体が、槍のように地面から噴き上がっている。
カイが顔をしかめた。
「酒を攻撃に使うなよ!」
「飲めるものとは限らないでしょ!」
液体の柱が次々と生まれる。
地面の魔力を感じ取れるスイは、噴き上がる位置を直前に察知できた。
右。
左。
前。
《私の箱庭》を通して、カイへ動く方向を伝える。
「右!」
カイが横へ跳ぶ。
その足元を液体の柱が突き抜けた。
「次、前!」
着地と同時に踏み込む。
背後から噴き上がる液体が、銀色の髪の先を濡らした。
カイは主へ向かって走る。
主はまだ立ち上がらない。
尾だけで二人を追い詰めている。
「近づけば止まる!」
「たぶんね!」
「たぶんか!」
カイが石柱を蹴り、主の側面へ回り込む。
大剣を両手で握る。
右腕が痛む。
それでも、足を止めない。
一撃。
鱗へ大剣が叩きつけられる。
硬い音が響いた。
刃は弾かれた。
カイの腕へ強い反動が返る。
「硬っ……!」
主の頭部が、ゆっくりとカイへ向いた。
前脚が上がる。
大きい。
速さはない。
だが、振り下ろされれば避ける場所ごと砕かれる。
「下がって!」
スイが《ハク》を連射する。
狙いは前脚の関節。
白い弾丸が鱗の隙間へ入り、主の動きをわずかに鈍らせた。
カイはその間に後ろへ跳ぶ。
前脚が地面へ落ちる。
広場全体が揺れた。
石床へ大きな亀裂が走る。
その亀裂から、また酒の匂いを持つ液体が噴き上がった。
二人は距離を取る。
「鱗は正面からじゃ通らねえ!」
「関節には入った。でも傷が浅い!」
「魔力の流れは?」
「全身に広がってる。核みたいな場所は見えない」
主が立ち上がる。
巨大な身体が完全に起き上がっただけで、視界の半分が黒い鱗で埋まった。
折り畳まれていた翼が開く。
樽板のように見えたそれは、魔力を含んだ透明な膜を間に持っていた。
翼が一度振られる。
風ではない。
甘い匂いを含む霧が、広場全体へ広がった。
スイはすぐに口元を袖で覆う。
「吸わないで!」
「毒か?」
「分からない!」
カイも口を押さえ、後ろへ下がる。
けれど、霧は速い。
足元から。
頭上から。
逃げ場を塞ぐように広がっていく。
スイは風魔法を放った。
霧を押し返す。
だが、完全には散らない。
魔力を含んだ霧が風へ絡みつき、形を崩しながらもその場に残る。
ほんの少し吸い込んだだけで、身体が熱くなった。
頭の奥がふわりと軽くなる。
「これ……酔わせる霧」
「まじかよ」
「嬉しそうにしないで!」
「してねえよ!」
声は元気だったが、カイの足取りが僅かにふらついた。
スイは《私の箱庭》の回復を二人へ流す。
傷は癒やせる。
魔力も補える。
だが、酔いまで消せるかは分からない。
少なくとも、完全には止められていなかった。
「長引いたらまずい」
「酔い潰される前に倒す」
「酔ってない時でも無茶するのに」
「今はまだ平気だ!」
主が口を開く。
喉の奥で、金色の光が膨らむ。
熱線とは違う。
魔力の塊が、液体のように揺れている。
「散って!」
二人が左右へ走る。
主の口から放たれたのは、金色の奔流だった。
水のようでありながら、触れた石床を削り取るほどの圧力を持っている。
奔流は広場を直線に切り裂き、石柱を一本へし折った。
カイは倒れてきた柱の影へ滑り込む。
スイは反対側へ走りながら、《ハク》で主の目を狙った。
弾丸がまぶたへ当たる。
鱗に弾かれる。
だが、主は一度だけ顔を背けた。
「目は嫌がる!」
「なら狙い続けろ!」
カイが柱の影から飛び出す。
大剣を引きずるように低く構え、主の懐へ入る。
前脚ではない。
腹部。
鱗の重なりが薄い場所へ、下から刃を突き上げる。
手応えがあった。
刃先が鱗の間へ入る。
けれど、深くは届かない。
主の尾が横から迫る。
カイは剣を抜かず、身体を伏せた。
杯状の尾先が頭上を通り過ぎる。
その器官から霧が一気に噴き出す。
近距離。
避けきれない。
カイの顔へ霧がかかった。
「カイ!」
スイが《ハク》を撃つ。
尾の付け根へ連射。
一発。
二発。
三発。
尾がわずかに持ち上がる。
カイは大剣を引き抜き、その場から転がった。
「平気?」
「ちょっと目が回る」
「下がって!」
「まだ動ける!」
立ち上がったカイは、言葉どおり動けていた。
だが、足が僅かに遅い。
呼吸も乱れている。
スイは《私の箱庭》の出力を上げる。
身体能力。
魔力。
回復。
すべてを強める。
その代わり、自分の魔力が速く減っていく。
主は二人を見下ろした。
まだ本気ではない。
そんな感覚があった。
動きに無駄がない。
怒りも焦りもない。
ただ、侵入者を試すように攻撃を繰り返している。
「私たちを見てる」
「知ってる。目、合った」
「そうじゃなくて。攻撃の仕方を変えてる」
最初は足元からの噴出。
近づけば前脚。
距離を取れば霧と奔流。
二人の動きに合わせ、適した攻撃を選んでいる。
獣ではある。
だが、戦い方には明確な知性があった。
「こいつ、俺たちがどう動くか確かめてる」
「たぶん」
「なら、予想できねえ動きをする」
カイが大剣を肩へ担ぐ。
スイはその横顔を見た。
「何する気?」
「まだ考えてない」
「それは予想できないんじゃなくて、何も考えてないだけ!」
「あはは!」
笑ったのは、カイではなくスイだった。
思わず出た声に、自分でも少し驚く。
霧を吸ったせいか。
緊張のせいか。
けれど、笑ったことで張りつめていた肩の力が抜けた。
カイも一瞬だけ目を丸くし、すぐに笑う。
「やっぱちょっと酔ってるだろ」
「カイに言われたくない」
「俺はまだ全然だ」
「顔、赤いよ」
「戦ってるからだ!」
主が再び翼を広げる。
今度は霧ではない。
翼の膜に、幾つもの金色の光が灯った。
「来るよ」
「ああ」
二人は互いの位置を確かめる。
言葉で作戦を決める時間はない。
けれど、何をするべきかは分かっていた。
攻撃を一つずつ受けていては、いずれ酔いと疲労で動けなくなる。
主の攻撃を崩す。
その上で、弱点を見つける。
カイが正面へ走った。
主の意識が向く。
翼から、無数の光弾が放たれる。
スイは《ハク》を構えた。
光弾を一つずつ撃ち落とす。
白い魔力弾と金色の光がぶつかり、空中で小さな爆発を繰り返した。
全部は無理。
撃ち漏らした光弾がカイへ迫る。
カイは大剣で一発を弾く。
もう一発は肩を掠める。
それでも走る。
主が前脚を振り上げる。
カイは止まらない。
振り下ろされる直前、身体を横へ滑らせる。
前脚が地面を砕く。
その足へ、大剣を振るわない。
カイは剣を床へ突き立て、柄を踏み台にして跳んだ。
主の前脚。
肩。
そして首元へ。
鱗の上を駆け上がる。
「カイ!」
「目を閉じさせる!」
首の上へ到達したカイは、大剣を両手で逆手に持った。
右腕が震える。
それでも、刃先を主の顔の前へ振り下ろす。
主は目を閉じた。
刃はまぶたへ届く前に、琥珀色の魔力に弾かれる。
だが、それでいい。
一瞬、視界が塞がれた。
スイは《コク》を抜く。
狙うのは目ではない。
主が目を閉じた瞬間、全身を守る魔力が頭部へ集まった。
腹部の鱗。
そこだけ、魔力が薄くなる。
「カイ、離れて!」
カイは主の角を蹴り、空中へ跳ぶ。
スイは《コク》の引き金を引いた。
黒い魔力弾が腹部へ飛ぶ。
鱗へ命中。
表面を砕き、その奥へ深く食い込んだ。
主の身体が初めて大きく揺れる。
低い咆哮が広場へ響いた。
カイは着地し、大剣を引きずりながらスイの横へ戻る。
腹部の傷から、金色の液体が流れた。
血ではない。
酒のような甘い香りを持つ、濃い魔力の液体。
「やっぱり腹が弱い」
「でも核は見えない」
主の魔力が、傷へ集まり始める。
鱗が少しずつ再生していく。
その時。
スイの《私の箱庭》が、傷の奥に別の流れを捉えた。
全身に巡っている魔力が、腹のさらに奥で一度集まっている。
核ではない。
何かを守っている。
「中にある」
「何が?」
「分からない。でも、魔力が腹の奥を避けて流れてる」
「避けてる?」
「守ってるんじゃなくて、触れないようにしてる感じ」
カイは傷の塞がりかけた腹を見る。
「なら、そこを開く」
「簡単に言うね」
「やることが分かれば、あとはどうにかするだけだ」
主が咆哮する。
今までの静かな動きとは違う。
腹部を撃ち抜かれたことで、初めて怒りを見せていた。
翼が大きく開く。
広場に満ちていた霧が、一斉に主の周囲へ集まる。
スイは息を止めた。
金色の川まで揺れている。
水面から光が立ち上がり、主の身体へ吸い寄せられていく。
「まずい」
「何が来る?」
「分からない。でも、今までより大きい」
石橋の向こう。
神殿のような建物の扉が、僅かに振動した。
眠れる主が本気で動き始めたことで、ダンジョン全体が応えるように魔力を巡らせている。
カイは大剣を構え直した。
「スイ」
「なに?」
「勝ったら、あの酒をみんなで飲もう」
突然の言葉に、スイは一瞬だけ目を瞬いた。
仲間はまだ見つかっていない。
どこにいるのかも分からない。
それでも、カイは見つける前提で話している。
「残せるの?」
「俺が飲み切る前に止めろ」
「それ、私の役目なの?」
「いつもやってるだろ」
スイは呆れながら、少しだけ笑った。
「分かった。だから、ちゃんと帰るよ」
「ああ。二人でな」
主の周囲に集まった霧が、巨大な輪を作る。
輪の内側で、金色の液体が渦を巻き始めた。
二人は並ぶ。
カイが前へ。
スイが後ろへ。
十八歳まで積み重ねてきた時間を、互いの距離で確かめる。
神の酒を守る最後の主。
その本当の戦いが、ここから始まろうとしていた。




