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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
間章 獣人の約束

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第9話 神の酒が眠る場所 後編


暗闇の中で、最初に動いたのは守護者だった。


赤い光を宿した胸部が大きく膨らみ、実体を得つつある巨体から魔力が押し出される。床へ落ちていた石片が一斉に浮かび上がり、見えない波に弾かれるように四方へ飛んだ。


カイは大剣を立て、スイの前へ滑り込む。


甲高い音が連続して響いた。


石片が刃の腹へ当たり、砕けた破片が頬や腕を掠めていく。すべてを防ぐことはできない。それでも、カイは顔を背けず、剣をわずかに傾けながら衝撃を左右へ逃がした。


その背後から、白い光が走る。


《ハク》の魔力弾がカイの肩越しを抜け、守護者の胸へ吸い込まれた。


一発。


二発。


三発。


狙いはすべて、赤い光が集まる一点。


だが、弾丸は胸へ届く直前で軌道を曲げた。


まるで水面へ落ちた小石のように、魔力の壁を滑って左右へ逸れていく。


「防いでるんじゃない」


スイは銃口を動かさず、守護者の周囲へ意識を向けた。


《私の箱庭》に触れる魔力の流れは、一定ではない。


胸の前だけが強いのではなく、全身を巡る魔力が攻撃に反応し、その瞬間だけ一か所へ集まっている。


「攻撃された場所に魔力を集めて、弾いてる!」


「じゃあ、守れねえくらい同時に殴るか!」


カイが床を蹴る。


守護者の右側へ走り、赤い胸部から外れるように回り込む。その動きへ合わせ、スイは反対側へ広がった。


守護者の頭部が、二人の間でわずかに揺れる。


どちらを見るべきか迷った。


その一瞬で十分だった。


カイが大剣を横薙ぎに振るう。


狙ったのは前脚。


同時に、スイの《ハク》が反対側の後脚へ連続して撃ち込まれる。


守護者の魔力が二方向へ分かれた。


大剣は甲殻に食い込み、浅い傷を作る。


《ハク》の弾丸も一発だけ魔力の壁を抜け、後脚の外殻を砕いた。


「通った!」


「けど浅い!」


傷口から赤い光が溢れ、すぐに塞がり始める。


守護者が尾を振り上げた。


先ほどの獣たちが持っていた細い尾とは違う。実体化した尾は岩の柱ほど太く、先端にいくつもの骨棘が並んでいる。


カイが身を低くする。


尾はその頭上を通り過ぎ、部屋の壁を抉った。


衝撃で石壁が崩れ、粉塵が一気に舞い上がる。


視界が消える。


だが、スイには位置が分かる。


《私の箱庭》の中で、カイも守護者も輪郭を失ってはいない。


「カイ、前!」


叫ぶより先に、《ハク》を撃つ。


白い弾丸が粉塵を切り裂き、カイの目前へ迫っていた角へ命中した。


わずかに逸れた角が、銀色の髪を掠める。


カイは身体をひねり、守護者の首元へ大剣を叩きつけた。


刃が入る。


だが、今度は甲殻ではなく、赤い魔力の塊へ触れたような感触だった。


「手応えがねえ!」


「まだ身体が完成してないのかも!」


守護者は完全な魔物ではない。


元の身体を失い、蓄えていた魔力だけで形を作っている。


実体と魔力体の中間。


攻撃の瞬間ごとに身体の密度が変わり、刃も弾丸も安定して届かない。


守護者の六本の角が、一斉に赤く光った。


スイの背筋に冷たいものが走る。


「下がって!」


二人が左右へ飛ぶ。


次の瞬間、六本の角から細い熱線が放たれた。


一本ではない。


複数の赤い光が部屋を無秩序に薙ぎ払い、壁や床へ次々と焼け跡を刻んでいく。


カイは大剣を盾にしながら走る。


熱線が刃へ触れるたび、表面が赤く焼けた。


受け続ければ剣が持たない。


スイは柱の残骸を蹴り、上へ跳ぶ。


空中で身体をひねり、《ハク》を六連射。


狙ったのは守護者ではない。


天井に残るひび割れ。


四発が同じ場所へ入り、最後の二発で亀裂が大きく広がった。


岩塊が落ちる。


守護者の背中へ直撃した。


巨体がわずかに沈む。


その瞬間、角の光が弱まった。


「重さは効く!」


着地したスイが叫ぶ。


「魔力で身体を作ってても、完全に消えることはできない!」


「なら押さえ込む!」


カイが大剣を両手で握り直し、守護者の正面へ走る。


角が向けられた。


真正面から行けば、熱線を避けられない。


それでも速度を落とさない。


「カイ!」


「合わせろ!」


スイは迷わなかった。


カイの前方にある床へ《ハク》を撃つ。


連続した魔力弾が石床を砕き、浅い窪みを作った。


カイはそこへ片足を踏み込む。


重心を一気に沈め、放たれた熱線の下へ潜り込んだ。


髪の先が焦げる。


熱が背中を撫でた。


それでも、カイは止まらない。


守護者の胸元へ入り込み、大剣を斜め下から振り上げた。


赤い胸部が揺れる。


魔力を集めて受け止めようとするが、その直前。


黒い光が反対側から飛んできた。


《コク》。


スイは守護者の後方へ回り込み、背中の中央を狙っていた。


前と後ろ。


ほぼ同時。


二つの攻撃を受け、守護者の魔力が引き裂かれるように分散した。


大剣が胸へ食い込む。


《コク》の弾丸が背中を貫く。


守護者の身体の中で、二つの攻撃がぶつかった。


赤い光が内側から弾ける。


咆哮。


守護者は大きく身を反らした。


胸に開いた傷の奥。


一瞬だけ、黒い何かが見えた。


魔石ではない。


液体のように揺れながら、形を変える小さな塊。


「見えた!」


スイはすぐに《ハク》へ持ち替える。


だが、傷はすでに閉じ始めていた。


守護者の前脚が、胸元にいるカイへ振り下ろされる。


カイは大剣を引き抜くことを諦め、柄から手を離して横へ転がった。


前脚が床へ落ちる。


大剣は巨体の下へ巻き込まれ、刃の半分まで石床へ押し込まれた。


「俺の剣!」


「今は諦めて!」


「あとで絶対返してもらう!」


カイは武器を失ったまま立ち上がる。


守護者の尾が横から迫った。


避けるには遅い。


カイは両腕を交差させ、正面から受けた。


鈍い衝撃。


身体が宙へ浮く。


そのまま壁へ叩きつけられる寸前、スイの領域が強く脈打った。


《私の箱庭》による強化がカイの全身へ集中する。


空中で身体をひねったカイは壁へ両足をつき、衝撃を膝へ逃がした。


石壁にひびが入る。


肺の空気が押し出され、喉から苦しげな音が漏れた。


それでも落ちない。


壁を蹴り返し、その勢いのまま守護者の背中へ飛びついた。


「カイ、何してるの!」


「剣を取る!」


「そこから取れないでしょ!」


「近づけば何とかなる!」


「ならないよ!」


スイは叫びながらも、カイの狙いに気づいた。


大剣ではない。


守護者の背中から伸びる岩の翼。


カイはその根元を掴み、巨体の動きに振り落とされないよう身体を密着させていた。


守護者が背中の異物を振り払おうと暴れる。


前脚が床を踏み抜き、尾が無秩序に壁を砕く。


そのたびに、胸の守りが薄くなる。


カイは武器がなくても、敵を引きつけられる。


むしろ今は、守護者の身体そのものへ取りつくことで、意識を完全に奪っていた。


「スイ! さっきの黒いやつを狙え!」


「見えない!」


「見えるようにする!」


カイは翼の根元へ足をかけ、身体を持ち上げた。


そのまま両腕を、守護者の六本ある角のうち一本へ回す。


全身の力を使い、後方へ引いた。


角は動かない。


当然だった。


カイ一人の力で折れるほど細くない。


守護者が首を振る。


カイの身体が左右へ激しく揺さぶられる。


手が滑る。


それでも離さない。


《愛を求める怪獣》の魔力が脈打つ。


スイが近くにいる。


守るべき仲間がいる。


ただそれだけで、カイの腕へもう一度力が戻る。


「うおおおおっ!」


角の根元に亀裂が走った。


一本。


細い音を立てて折れる。


守護者の頭部が大きく傾いた。


同時に、全身を覆っていた赤い魔力が乱れる。


スイの《私の箱庭》が、身体の中にある黒い塊を再び捉えた。


位置は胸ではない。


守護者が動くたび、腹、首、背中へと移動している。


固定された核ではなかった。


「動いてる……」


攻撃された場所から逃げている。


身体の中を自由に移動し、傷つく直前に別の場所へ避難する。


だから攻撃が通っても、決定打にならない。


守護者がカイへ向けて前脚を振り上げる。


「カイ、離れて!」


カイは折った角を抱えたまま、背中から飛び降りた。


落下の途中、前脚が背後を掠める。


地面へ転がり、すぐに立ち上がる。


その手には、守護者から折り取った角が残っていた。


「武器、手に入れたぞ!」


「それで戦うつもり?」


「ないよりましだろ!」


守護者の胸が膨らむ。


今度は口ではない。


全身の亀裂から赤い光が漏れ始めた。


スイは周囲を見渡す。


逃げ場は少ない。


柱は崩れ、遮蔽物もほとんど残っていない。


広範囲の魔力放出。


まともに受ければ耐えられない。


「カイ、こっち!」


スイは部屋の端へ走った。


そこには、守護者が尾で砕いた壁の一部がある。崩れた石の向こうには、わずかな窪みができていた。


二人で身を隠すには狭い。


だが、他に場所はない。


カイがスイへ追いつく。


背後で守護者が咆哮した。


「入れ!」


カイがスイの背を押し、窪みへ入れる。


自分も身体を滑り込ませるが、肩までは隠れない。


カイは折れた角を前へ立てた。


赤い光が弾ける。


部屋全体を埋め尽くす魔力の波が押し寄せた。


石壁が軋む。


カイの持つ角が赤く光り、守護者の魔力をわずかに受け流した。


だが、すべてではない。


熱が腕を焼く。


皮膚が裂け、血が滲む。


スイは《私の箱庭》の回復をカイへ集中させる。


同時に、自分の魔力が急激に減っていく。


「スイ、止めろ!」


「止めたらカイの腕が持たない!」


「お前の魔力がなくなる!」


「なくなる前に終わらせる!」


魔力の波が途切れる。


カイはその場へ膝をついた。


折れた角の表面は赤熱し、先端が溶けかけている。


スイも壁へ片手をつき、息を整えた。


《私の箱庭》の残り時間はまだある。


だが、魔力は半分を大きく下回っていた。


《コク》を高威力で撃てるのは、おそらくあと一度。


守護者も無傷ではない。


大規模な魔力放出の反動で、身体の輪郭が薄くなっている。


先ほどまで絶えず動いていた黒い塊が、胸の近くで止まっていた。


「今なら核が動けない」


スイが呟く。


「核なのか?」


「分からない。でも、あれを壊さないと終わらない」


カイは息を吐きながら立ち上がった。


右腕は上がらない。


左手には、溶けかけた角。


大剣は守護者の足元にある。


「どうする?」


「《コク》で撃つ。でも正面からだと、また魔力を集められる」


「なら背中を向けさせる」


「今のカイじゃ、さっきみたいには動けないよ」


「動ける」


「腕、上がってないでしょ」


「足は動く」


スイは何か言い返そうとして、やめた。


カイの目は真っ直ぐ守護者を見ていた。


無茶をしている。


けれど、何も考えず飛び込もうとしている顔ではない。


スイの残り魔力。


自分の怪我。


守護者の状態。


そのすべてを理解した上で、必要な役割を選んでいる。


「十秒」


スイが言った。


「また長いな」


「今度は本当に十秒。胸を守れないくらい、動かして」


「分かった」


「あと、剣を拾って」


「それも込みか?」


「カイの大事な剣でしょ」


カイは口元を上げた。


「任せろ」


二人は窪みから出る。


守護者もゆっくりと顔を上げた。


全身を覆う赤い光は弱まっている。


それでも、残る魔力は二人を大きく上回る。


カイが先に走った。


正面ではない。


守護者の左側を、大きく回り込む。


手にした角を床へ投げた。


硬い音が響く。


守護者の視線が、一瞬そちらへ向いた。


その隙にカイは巨体の懐へ入り、大剣の柄を左手で掴む。


引く。


動かない。


刃は守護者の前脚と床の間へ深く挟まれている。


守護者がカイへ気づき、前脚を持ち上げた。


カイは大剣を引き抜く。


間に合わない。


振り下ろされる前脚。


カイは抜いたばかりの剣を横へ寝かせ、床との間へ滑り込ませた。


前脚が刃の腹へ落ちる。


大剣が大きくしなる。


カイの左腕から血が噴き出した。


「ぐっ……!」


それでも柄を離さない。


剣を支点にして、守護者の前脚をわずかに外へ逸らす。


巨体が傾いた。


「スイ!」


一秒。


スイは《ハク》を撃つ。


守護者の右目。


二秒。


続けて左目。


三秒。


守護者が顔を背ける。


四秒。


カイが大剣を引き抜き、足元へ斬りつける。


五秒。


守護者が尾を振る。


カイは避けず、剣の腹で受けた。


六秒。


衝撃で身体が浮く。


それでも、空中で大剣を守護者の背中へ投げつける。


七秒。


剣が翼の根元へ突き刺さる。


守護者が首を後ろへ向けた。


胸が完全にスイから外れる。


八秒。


スイは《ハク》を収め、《コク》を両手で構える。


九秒。


守護者の身体の中で、黒い塊が動き始める。


逃げようとしている。


十秒。


「そこ!」


スイは引き金を引いた。


発射音は、今までで最も重かった。


《コク》の内部で限界まで圧縮された魔力が、黒い光となって放たれる。


弾丸は守護者の背中へ向かわない。


胸でもない。


身体の奥を移動しようとする黒い塊の、わずかに先。


逃げ道を塞ぐ位置へ撃ち込まれた。


黒い魔力弾が甲殻を貫く。


守護者の身体の中で、黒い塊が進路を変えた。


だが、その先にはカイが投げた大剣が刺さっている。


刃に残ったスイの《私の箱庭》の魔力。


守護者はそれを避けようとし、再び胸へ戻った。


スイは《コク》から左手を離す。


腰の《ハク》を抜いた。


銃身が熱を持つ《コク》を右手に。


《ハク》を左手に。


性質の異なる二丁を、同じ一点へ向ける。


四年前は、同時に撃つことさえできなかった。


片方は上へ。


片方は地面へ。


何度も失敗し、何度も腕を直した。


今は違う。


左右の呼吸も。


魔力の量も。


反動の向きも。


すべて身体が覚えている。


《ハク》が先に火を噴いた。


速射された魔力弾が、閉じかけた胸の傷を再び広げる。


その中心へ、《コク》の残った魔力を撃ち込む。


黒と白。


二つの雷が重なった。


守護者の胸を貫き、奥で止まっていた黒い塊へ突き刺さる。


音が消えた。


守護者の巨体が動きを止める。


六本の角から赤い光が失われた。


胸の奥で、黒い塊に一本の亀裂が走る。


二本。


三本。


細かな亀裂が全体へ広がり、最後には音もなく砕けた。


赤い魔力が守護者の身体から溢れ出す。


今度は怒りも、意思も感じない。


長い間ひとつの場所へ縛りつけられていたものが、ようやく形を保つ理由を失ったように、静かに宙へほどけていく。


守護者は崩れなかった。


その巨体は薄い光へ変わり、足元から少しずつ消えていく。


最後まで残った頭部が、スイとカイの方を向いた。


赤い瞳はもう光っていない。


それでも、ほんの一瞬だけ。


見られているような気がした。


敵意ではない。


怒りでもない。


何百年、あるいは何千年も守り続けてきた役目を、誰かへ渡すような静かな眼差し。


やがて、それも消えた。


部屋へ静寂が戻る。


スイの手から《コク》が滑り落ちそうになる。


指に力が入らない。


銃を収めようとしたところで、膝が崩れた。


「スイ!」


カイが駆け寄る。


だが、右腕が動かないせいで支えきれず、二人揃って床へ座り込んだ。


「ちょっと……支えるならちゃんとしてよ」


「両腕ほとんど使えねえんだよ」


「じゃあ無理しないで」


「倒れそうだっただろ」


「カイも倒れてるじゃん」


「俺は座っただけだ」


「同じだよ」


二人は背中を近くの石へ預ける。


息を整えるだけで、しばらく何も話せなかった。


床には砕けた石像。


折れた角。


深く刻まれた熱線の跡。


そして、守護者が消えた場所には、拳ほどの黒い結晶だけが残っている。


スイはそれを見た。


「ユニークモンスターだったのかな」


「たぶんな」


通常の魔物とは違う魔力構造。


ダンジョンと一体化した存在。


複数の身体を持ち、融合し、最後には魔力だけで実体を作った。


ギルドの記録にない個体。


同種が他に存在するとも思えない。


ユニークモンスター。


その呼び方が最も近かった。


「名前、つけるか?」


「ギルドに報告するなら必要かもね」


「酒守り」


「そのまますぎる」


「六角酒獣」


「お酒から離れて」


「じゃあ、黒杯の守護者」


スイは少し考えた。


柱に埋め込まれていた銀の杯。


その中に残っていた黒い液体。


そして、その杯に繋がれるように存在していた守護者。


「《黒杯の番獣》」


「いいじゃん」


カイは満足そうに頷く。


「俺の案ってことにしよう」


「今、私が言ったよね?」


「元になったのは俺の黒杯の守護者だろ」


「帰ったら報告書にちゃんと書くから」


「共同命名で頼む」


「あはは!」


笑った途端、肩の傷が痛み、スイは顔をしかめた。


カイもつられるように笑ったが、すぐに右腕を押さえる。


二人は互いの怪我を確認した。


カイの右腕は強い打撲と火傷。


骨までは折れていないものの、しばらく大剣を両手で振るのは難しい。


左腕にも傷がある。


スイは肩を深く切られ、魔力も大きく消耗していた。


この状態で先へ進むのは危険だった。


「今日はここで休もう」


スイが言う。


カイは部屋の奥を見る。


守護者が消えた後、閉ざされていた壁の一部が開き、先へ続く通路が現れていた。


その奥から、冷たい風が流れてくる。


微かに甘い匂いもあった。


「すぐそこかもしれねえぞ」


「カイ」


「分かってる。言ってみただけだ」


カイは素直に視線を戻した。


四年前なら、怪我を押してでも先へ進もうとしたかもしれない。


今は、言葉にする前から答えを分かっている。


二人は比較的崩れていない壁際を選び、簡易の休息場所を作った。


入口側と奥の通路へ警戒用の糸を張り、音の出る小さな金具を結ぶ。


スイは《私の箱庭》を解除した。


急に身体が重くなる。


領域による回復も途切れ、隠れていた痛みが戻ってきた。


カイが荷物から薬と包帯を取り出す。


「先に肩見せろ」


「カイの腕が先」


「俺は動かさなきゃ平気だ」


「私も肩を動かさなきゃ平気」


「銃を撃つだろ」


「カイだって剣を振るでしょ」


しばらく睨み合う。


結局、片腕ずつ同時に手当てすることになった。


カイは左手で不器用にスイの肩へ薬を塗り、スイも片手でカイの右腕へ包帯を巻く。


「痛っ」


「動かないで」


「スイこそ強く巻きすぎだろ」


「止血してるの」


「腕ごと止まりそうなんだけど」


「しばらく使わない方がいいから、ちょうどいいでしょ」


「絶対わざとだろ」


言葉とは裏腹に、カイは腕を引かなかった。


スイも薬が傷へ染みるたびに狐耳を伏せたが、我慢して座っている。


手当てを終えると、二人は遅い食事を取った。


干し肉。


固いパン。


少量の乾燥果実。


カイはいつものように二枚目の干し肉へ手を伸ばしたが、途中で止めた。


「食っていい?」


「今日はいいよ」


「珍しいな」


「怪我してるから」


「じゃあ三枚」


「二枚まで」


「ぐぬぬ」


「それ、私のだから」


カイは笑い、二枚目を口へ入れた。


食後、スイは腰の道具袋から銀の杯を取り出した。


黒い液体は、戦闘の中でも一滴もこぼれていない。


杯の表面には細かな文字が刻まれていた。


先ほどは読む余裕がなかったが、落ち着いて魔力を流すと、文字が青白く浮かび上がる。


スイは指でなぞった。


「読める?」


「一部だけ。古い文字だけど、今の言葉に近いところもある」


カイが隣から覗き込む。


「何て書いてある?」


スイはゆっくり文字を追った。


「これは……酒じゃない」


「やっぱり?」


「《酔神の雫を守るため、その影を杯へ注ぐ》」


「酔神?」


「神の名前か、それとも呼び方だと思う」


さらに下。


擦れて読めない部分を飛ばしながら、残る文字を拾う。


「《影は番獣を生み、杯を離れた時、ひとつへ戻る》」


カイが守護者の消えた場所を見る。


「じゃあ、あいつはこの液体から作られたのか」


「たぶん。神の酒を守るための力を、杯に分けて封じてた」


「俺たちが杯を外して、本来の姿へ戻した」


「うん」


正確には、長い年月で封印が変質していたのかもしれない。


守護者は元からあの姿だったのか。


石像へ分かれていたのが正しい状態なのか。


今となっては分からない。


スイは杯を傾けず、文字の続きを読む。


最後の一文だけは、はっきりと残っていた。


「《番を越えた者へ、最奥へ至る資格を与える》」


二人は同時に、開いた通路へ目を向けた。


「俺たち、合格したってことか」


「命がけの試験だったけどね」


「伝説級だからな」


カイは嬉しそうに笑う。


だが、すぐ立ち上がろうとはしなかった。


スイも杯をしまい、壁へ背を預け直す。


「寝るか」


「うん。交代で見張ろう」


「先に寝ていいぞ」


「カイ、片腕使えないでしょ」


「耳は使える」


「私も使えるよ」


「魔力切れかけてるだろ」


「カイの方が怪我はひどい」


いつものように決まらない。


最後は、警戒用の糸を増やし、二人とも短い時間だけ眠ることになった。


完全に気を抜くことはできない。


それでも隣に互いの気配があるだけで、張りつめていた身体は少しずつ緩んでいった。


数時間後。


先に目を覚ましたのはスイだった。


青白い魔法灯が戻り、荒れ果てた部屋を静かに照らしている。


隣ではカイが壁にもたれ、腕を組めないまま眠っていた。


荷物の口が少し開いている。


その奥に、小さな木製の駒が見えた。


仲間のために用意した席。


四年経っても、ひとつも埋まっていない。


それでも、カイは持ち続けている。


神の酒が本当にあるなら、全員で飲みたい。


昼間の言葉を思い出し、スイは小さく息を吐いた。


見つからないことに慣れたわけではない。


諦めたわけでもない。


ただ、見つからないたびに立ち止まっていては、いつまでも先へ進めないと知った。


だから歩く。


もしかすると、その先で誰かに繋がる道が見つかるかもしれない。


「見つけようね」


眠るカイへ聞かせるでもなく、スイは小さく呟いた。


仲間も。


神の酒も。


帰る道も。


どれか一つではなく、全部。


しばらくすると、カイの耳がわずかに動いた。


「起きてるなら返事してよ」


「寝てる」


「喋ってるじゃん」


「寝言だ」


「じゃあ、もう一回寝てて」


「腹減った」


「さっき食べたでしょ」


カイは目を開け、ゆっくりと身体を起こした。


休息と薬のおかげで、顔色は少し戻っている。


スイの魔力も、十分とはいえないが戦える程度には回復していた。


二人は装備を整える。


カイは右腕を使わず、大剣を左肩へ担いだ。


普段のような力強い斬撃はできない。


それでも、短時間なら戦える。


スイは《双雷鳥》を確かめる。


《コク》の銃身は冷えていた。


残る魔力を考えれば、大威力の射撃は控えなければならない。


「戻る選択もあるよ」


スイが言う。


開いた通路を見ながら、カイは少し考えた。


「入口は閉じてる」


「中から開ける方法を探せばいい」


「先へ進んだ方が、その方法も見つかりそうだ」


「それはそうだけど」


「それに、守護者を倒した後の通路だ。すぐ戦闘になる可能性は低い」


カイの言葉には、宝へ急ぐ響きがなかった。


状況を見て、先へ進む理由を選んでいる。


スイも同じように考えていた。


「無理だと思ったら戻るからね」


「ああ」


「お酒の匂いがしても走らない」


「善処する」


「約束」


「走らない」


「宝箱があっても?」


「先に調べる」


カイは答えながら、わずかに視線を逸らした。


スイはその横顔をじっと見る。


「本当に?」


「本当だって。俺を信用しろ」


「信用してるから、何回も言ってるの」


「それ信用してる奴の言葉か?」


二人は並んで通路へ入った。


守護者の部屋を離れると、空気が変わった。


これまでの石造りの迷宮とは違い、壁は白い岩で作られている。天井には細い水晶が伸び、青と金の光を交互に放っていた。


罠の気配はない。


魔物の足跡もない。


床の中央には、一本の線が最奥へ続いている。


酒を注いだような、淡い琥珀色の線。


二人はそれを踏まないよう、左右を歩いた。


通路の途中には、小さな部屋がいくつもあった。


朽ちた樽。


割れた壺。


空になった酒瓶。


どれも中身は残っていないが、壁には古い酒造りの様子が描かれている。


穀物を砕く者。


果実を潰す者。


大きな窯へ火を入れる者。


そして最後には、角のある小柄な人物が杯を掲げ、周囲の者たちが笑っていた。


「神様って、もっと偉そうな感じじゃないんだな」


カイが壁画を見上げる。


「これが神様とは限らないよ」


「酔神ってやつだろ?」


「たぶん。でも、みんなと一緒に造ってる」


壁画の人物は、見下ろす場所に描かれていなかった。


他の者たちと同じ地面に立ち、同じように樽を運び、最後には一番楽しそうに杯を掲げている。


スイは少しだけ笑った。


「カイみたい」


「俺は酒を守るためにあんな化け物作らねえよ」


「でも、お酒が盗まれたら怒るでしょ」


「相手による」


「私なら?」


「半分くれるなら許す」


「持ち主が私でも?」


「話し合いだな」


「盗る気じゃん」


通路の先で、風が止まった。


やがて二人は、大きな扉の前へ辿り着く。


黒い金属で作られた両開きの扉。


表面には、杯を囲む六本の角が刻まれている。


守護者と同じ意匠。


扉の中央には、銀の杯を収めるための窪みがあった。


スイは道具袋から杯を取り出す。


「これを使うみたい」


「入れて大丈夫か?」


「珍しく慎重だね」


「さっき同じようなもん外したら、化け物が出てきたからな」


「あはは! ちゃんと学んでる」


「笑うところか?」


スイはすぐに杯を入れなかった。


扉と杯の魔力を《私の箱庭》で確認する。


流れは穏やかだった。


攻撃的な術式もない。


杯の中の黒い液体が、扉の奥へ続く魔力と反応している。


「たぶん大丈夫」


「たぶんか」


「絶対って言えるものは、ダンジョンにはないでしょ」


「それもそうだな」


スイは銀の杯を窪みへ収めた。


ぴたりとはまる。


黒い液体が淡く光り、扉に刻まれた六本の角へ順番に光が巡っていく。


一つ。


二つ。


最後の角が光った瞬間、杯の中の液体が消えた。


代わりに、扉の奥から低い音が響く。


黒い扉が、ゆっくりと左右へ開いていった。


その先には、巨大な空洞が広がっていた。


天井は見えない。


遠くには岩の柱が立ち並び、その間を金色の水が川のように流れている。


空洞の中央。


長い石橋の向こうに、ひときわ大きな建造物があった。


神殿とも。


酒蔵とも。


王の墓とも見える、不思議な形の建物。


その入口の前には、巨大な影が座っている。


先ほどの守護者とは違う。


今度は、完全な肉体を持った魔物。


眠っているように頭を下げながらも、呼吸のたびに周囲の魔力が揺れていた。


距離がある。


それでも、感じ取れる。


《黒杯の番獣》より強い。


比べることすら難しいほどに。


カイの笑みが、ゆっくりと消えた。


「さっきのが門番で、あれが本命か」


「たぶん、このダンジョンの主」


石橋の手前には、古い文字が刻まれた石碑が立っている。


スイは近づき、表面の文字を読む。


「《番を越え、酔神の蔵を望む者よ》」


その下。


文字は一度途切れ、最後に大きく刻まれていた。


「《最後の杯を、眠れる主より受け取れ》」


カイが遠くの巨大な影を見る。


「受け取るって、話し合いで済まねえかな」


「起こした瞬間に襲ってきそうだけどね」


「酒を分けてくださいって頼むか」


「カイが言うと、ただの酔っ払いにしか聞こえないよ」


「あれ倒した後じゃ、今の怪我じゃ無理だな」


「うん」


二人は石橋の前で足を止めた。


ここから先が最奥。


求めてきた神の酒も、おそらくあの建物の中にある。


けれど、焦って進めば帰れない。


スイがカイを見る。


カイも同じタイミングでこちらを見た。


言葉にするまでもなかった。


「一度休むか」


「うん。ちゃんと回復してから」


「酒は逃げねえよな」


「何百年も残ってるなら、一日くらい待てるでしょ」


二人は扉の内側にある小さな空間へ戻り、休息の準備を始めた。


石橋の向こう。


眠れる主は動かない。


ただ、その大きな胸が上下するたび、空洞全体へ低い風が流れてくる。


甘い香りを運ぶ風。


今までより、ずっと濃い。


カイの鼻がわずかに動く。


「スイ」


「走らないでね」


「まだ何も言ってねえだろ」


「顔に書いてある」


「本当に酒の匂いだぞ」


「分かってる」


スイにも感じていた。


果実の甘さ。


穀物の香ばしさ。


冷たい水。


長い年月を樽の中で過ごしたような、深く柔らかな匂い。


噂だけだったものが、ようやく現実に近づいている。


けれど、その前には倒さなければならないものがいる。


二人は並んで座り、石橋の先を見つめた。


四年前に交わした約束。


十八歳になったら、神の酒を探しに行く。


その場所へは、もう辿り着いた。


あとは最奥の主を越え、二人で帰るだけ。


カイは左手を差し出した。


「明日だな」


スイはその手へ自分の手を重ねる。


「うん。二人で倒して、二人で帰る」


「神の酒も持って」


「宝箱を先に調べたらね」


「分かってるって」


石橋の向こうで、眠っていた巨大な影の耳が、ほんのわずかに動いた。


その変化に、二人はまだ気づかなかった。

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