第9話 神の酒が眠る場所 中編
足音は、すぐには近づいてこなかった。
一歩ごとに石壁を震わせながら、何かが通路の奥をゆっくりと横切っている。こちらへ向かっているようにも、ただ周囲を巡っているだけのようにも聞こえた。
スイは《ハク》を構えたまま、意識を《私の箱庭》へ沈める。
半径二十メートル。
領域の外にいるものまでは、はっきり捉えられない。
それでも、床を伝う振動と、空気に混ざる魔力の癖は感じ取れた。
広い。
一体だけとは思えないほど、魔力の気配が通路全体へ染み込んでいる。
「近くにいるのに、位置が掴めない」
「壁の向こうか?」
「それもある。でも、なんか変。魔力が散ってるんじゃなくて、ダンジョンに馴染んでる感じ」
カイは正面を見たまま、足元へ視線を落とした。
石床に残る足跡は大きい。
だが、深さが揃っていなかった。
一つは岩が砕けるほど深く、次は表面を撫でただけのように浅い。その先では、跡そのものが途切れている。
「重さを変えてるのか?」
「魔法で身体を軽くしてるなら、ありえるかも」
「見た目以上に器用な奴かもしれねえな」
カイは軽く言ったが、声にはいつもの浮ついた調子がない。
大剣を握る手も、必要以上に力んでいなかった。
二人はその場で待つことを選ばなかった。
入口の前は退路こそ分かりやすいが、通路が狭い。巨体を持つ相手なら抑えやすい反面、崩落や広範囲攻撃を受ければ逃げ場がなくなる。
カイが先に進み、スイは半歩後ろをついていく。
青白い魔法灯が、二人の通過に合わせて順番に明るさを増した。
通路の壁には古い壁画が刻まれている。
杯を掲げる人々。
その前に立つ、角のある巨大な獣。
獣の周囲には何本もの線が描かれ、酒を運ぶ者たちを囲うように伸びていた。
スイは足を止めず、壁画だけを目で追った。
「守ってるのかな」
「酒を?」
「それか、飲もうとする人を止めてる」
「夢のない解釈をするなあ」
「ダンジョンの壁画って、だいたい忠告でしょ」
「宝の場所を教えてる可能性もある」
「今までそんな壁画あった?」
「なかったな」
素直に認めたカイが、通路の角で止まる。
左手を上げ、スイへ待つよう合図した。
角の先から、風が流れてきている。
冷たい。
だが入口付近より湿り気が少なく、微かに焦げた匂いが混じっていた。
カイが鏡のついた細い棒を取り出し、角の向こうへ差し込む。
トレジャーハンターを名乗り始めた頃に自作した道具だ。最初はすぐに角度がずれて役に立たなかったが、今では何度も作り直され、荷物の中でも特に大切に扱われている。
小さな鏡に、広い空間が映った。
円形の部屋。
中央には大きな柱が立ち、床にはひび割れた石像がいくつも転がっている。
動くものはない。
「見える範囲には何もいねえ」
「足跡は?」
カイが鏡の角度を変える。
部屋の中央。
柱の周囲を円を描くように、大きな足跡が続いていた。
「ある。さっきのと同じだ」
「通ったばかりかも」
「焦げた匂いもあそこからだな」
二人はすぐに入らず、入口付近を調べた。
糸。
感圧板。
魔力式の罠。
目に見える範囲には何もない。
それでもスイが《ハク》の銃口を床へ向け、最低限の魔力弾を一発だけ撃つ。
乾いた音が響き、弾は部屋の中央手前で石床を弾いた。
何も起きない。
「行けそう」
「ああ」
カイが先に部屋へ入る。
壁際をなぞるように進み、スイも反対側へ少しだけ広がった。
互いの姿が常に視界へ入る距離を保つ。
部屋の中央に立つ柱には、幾重にも鎖のような模様が彫られていた。
その下。
黒く焼け焦げた石床に、何かを引きずった跡がある。
スイがしゃがみ込む。
「血じゃないね」
床に残っていたのは、黒い粉だった。
指先へ近づけると、微かな魔力の熱を感じる。
「燃えた魔石か?」
「たぶん。かなり濃い魔力が残ってる」
カイも隣へしゃがみ、粉を覗き込む。
「魔物の核が焼けた跡かもしれねえな」
「誰かが倒した?」
「最近じゃねえ。匂いは残ってるけど、粉は乾いてる」
スイは立ち上がり、周囲を見渡した。
転がっている石像は、どれも同じ獣を象っていた。
太い四肢。
背中から伸びる複数の角。
長い尾。
入口まで続いていた足跡と、よく似ている。
「これ、さっきの壁画にいたやつかな」
「じゃあ、ここを守ってる魔物ってことか」
「でも石像が壊れてる」
カイが最も近い石像へ近づく。
砕けた断面は新しくない。
長い年月の中で崩れたように風化している。
一方で、石像の胸には拳ほどの穴が空いていた。
外側から壊された穴ではない。
内側から何かが突き破ったような形だった。
カイの表情から笑みが消える。
「スイ」
「うん。離れよう」
二人が同時に後ろへ下がった、その直後。
部屋の中央にある柱から、低い音が響いた。
ごり、と石が擦れる。
柱に刻まれていた鎖の模様が、淡い赤色へ変わる。
床に転がっていた石像のうち、一体の胸が内側から膨らんだ。
スイは迷わず《ハク》を撃つ。
魔力弾が石像の胸を打ち抜き、亀裂を広げた。
次の瞬間。
石像の中から、黒い腕が飛び出した。
石片が四方へ弾ける。
カイが前へ出て、大剣の腹で破片を受け流す。その背後から、スイがもう二発撃ち込み、飛んできた石を空中で砕いた。
崩れた石像の中から現れたものは、獣だった。
黒い甲殻に覆われた身体。
牛に似た太い首。
頭部から後方へ伸びる、湾曲した四本の角。
長い尾の先には、槍のように尖った骨がついている。
大きさは、カイの倍近い。
だが、先ほどまで聞こえていた足音の主にしては小さい。
獣は低く身を伏せ、赤い瞳を二人へ向けた。
その身体の内側では、魔力が脈打っている。
スイの《私の箱庭》が、いくつもの流れを捉えた。
「カイ、これ一体じゃない」
「分かってる」
部屋の反対側。
もう一体の石像に亀裂が走る。
続けて、その隣も。
三体。
四体。
壊れた石像の内側から、同じ姿の獣が次々と這い出してきた。
カイは大剣を正面へ向けながら、舌打ちする。
「足跡が揃ってなかった理由は、こいつらが重なって歩いてたからか?」
「違う。魔力が全部つながってる」
スイの視線は、獣ではなく中央の柱へ向いていた。
柱から伸びた魔力の線が、現れた四体へ繋がっている。
それぞれが別の個体に見える。
だが、流れる魔力は一つだった。
まるで同じ身体を、四つに分けて動かしているように。
「本体は柱?」
「分からない。でも、あれを止めない限り増えるかも」
「なら壊す」
カイが踏み込もうとした瞬間、最前列の獣が口を開いた。
声は出ない。
代わりに、喉の奥で赤い光が灯った。
「右!」
スイの声と同時に、カイは身体を横へ投げる。
獣の口から放たれた熱線が、二人の間を通り抜けた。
石床が赤く焼け、溶けた石が飛び散る。
さらに別の一体が、逃げたカイへ突進する。
カイは大剣を立て、角を正面から受けた。
鈍い音。
踏ん張った靴の下で石床が割れる。
「重っ……!」
腕へ伝わった衝撃を逃がしながら、大剣を斜めに倒す。
獣の角が刃の表面を滑り、身体が横へ流れた。
その瞬間、スイの《ハク》が獣の前脚を撃つ。
三発。
同じ場所へ連続して命中した魔力弾が、黒い甲殻を削り、その奥へ浅く食い込む。
獣の体勢が崩れた。
カイは大剣を返し、柄頭を顎へ叩き込む。
巨体が持ち上がり、床へ横倒しになる。
だが、倒れた獣の傷はすぐに赤い光へ包まれた。
削れた甲殻が、ゆっくりと元へ戻っていく。
「再生する!」
「柱から魔力を送ってるな!」
カイが叫ぶ。
スイは《コク》へ持ち替え、中央の柱を狙った。
魔力を圧縮する。
引き金を引く直前、横から尾が迫った。
スイは上体を反らし、槍のような尾先を避ける。
そのまま一歩後ろへ下がり、《ハク》へ戻して尾の付け根を撃つ。
獣が振り返った。
そこへカイが割って入り、大剣を横薙ぎに振るう。
刃は甲殻を浅く砕いたが、身体を両断するまでには届かない。
「固えな!」
「一体ずつ倒しても駄目! 柱を止める!」
「道を作る!」
カイが大剣を床へ叩きつける。
石片が跳ね、二体の獣の視線がカイへ集まった。
そのまま背を向けるように走り、部屋の外周へ誘導する。
通常なら、複数の敵へ背中を向けるなど自殺行為だった。
しかし、スイがいる。
《ハク》の魔力弾が、カイの肩越しを抜けて飛ぶ。
一発は左から迫った獣の目元へ。
もう一発は右側の前脚へ。
最後の一発は、背後から尾を伸ばした個体の関節へ。
どれも致命傷ではない。
だが、攻撃の軌道はわずかにずれた。
その隙間を、カイは迷わず駆け抜ける。
「そのまま右!」
「分かってる!」
カイが柱の周囲を回り込む。
獣たちは一斉に追う。
巨体が同じ方向へ集中し、互いの進路を塞いだ。
スイは《コク》を抜いた。
呼吸を整える。
狙うのは柱の根元。
魔力の線が最も集中している一点。
引き金を引く。
重い発射音が部屋へ響いた。
黒い魔力弾が一直線に飛び、柱の根元へ命中する。
硬い石を貫き、内側に隠された赤い魔石を砕いた。
柱全体が大きく揺れる。
四体の獣が同時に動きを止めた。
「やったか?」
「まだ!」
砕けた魔石から、赤い光が床へ流れた。
一本。
二本。
四本。
魔力の線は途切れるどころか、獣たちの身体を通じて互いに繋がり始める。
最も近い二体が、まるで溶け合うように重なった。
甲殻が軋み、骨が形を変える。
二つの頭部が一つへまとまり、四本だった角が六本へ増える。
身体は先ほどまでの倍近く膨れ上がった。
残る二体も同じように融合する。
二体の巨大な獣。
スイの《私の箱庭》へ流れ込む魔力が、一気に濃くなった。
「柱が本体じゃない」
「壊して強くなったぞ!」
「柱は封じてたんだと思う!」
カイが一瞬だけ目を見開く。
直後、巨大化した獣の一体が前脚を振り上げた。
叩きつけ。
カイは大剣で受けず、横へ飛ぶ。
前脚が床へ落ちた瞬間、部屋全体が揺れた。
石床が波打つように隆起し、無数の岩槍が突き出す。
「跳んで!」
スイは壁際の石像へ足をかけ、上へ跳んだ。
その足元を岩槍が突き抜ける。
空中で身体をひねり、《ハク》を連射。
弾丸はカイの前方に伸びた岩槍を砕き、着地点を作った。
カイはそこへ滑り込み、肩から転がる。
「助かった!」
「まだ来る!」
もう一体が口を開く。
先ほどより大きな赤い光。
熱線が横薙ぎに放たれた。
カイがスイの方へ走る。
スイも同時にカイへ向かう。
熱線が部屋を二つに分けるように通過し、背後の壁を赤く溶かした。
二人は柱の陰へ滑り込む。
壊れかけた柱が熱を遮り、表面を焼かれながらも辛うじて残った。
「危なっ……」
カイが息を吐く。
スイは柱の陰から獣を観察した。
二体。
魔力はつながったまま。
一方が攻撃すると、もう一方の魔力が僅かに減る。
傷を負えば、互いに魔力を回して補っている。
「共有してる」
「何を?」
「魔力も、傷も。二体で一つなんだと思う」
「じゃあ同時に倒すしかねえか」
「それだけじゃない」
スイは目を細める。
先ほど《コク》で砕いた柱の魔石。
そこから流れ出した魔力は、二体へ吸収された。
封印だった可能性は高い。
けれど、それだけではない。
柱の奥。
砕けた石のさらに内側に、別の魔力反応が残っている。
小さい。
獣たちと比べれば、あまりにも弱い。
だが、二体の魔力は一定の間隔でそこへ戻っていた。
「カイ。柱の中に、まだ何かある」
「さっきの魔石とは別か?」
「うん。もっと奥」
「壊すか?」
「今度は慎重に」
「分かってる」
返事をしたカイの横顔には、少しだけ不満があった。
スイはそれを見て、眉を上げる。
「何?」
「ちゃんと聞いてるだろ」
「珍しいなって思っただけ」
「俺はいつも聞いてる」
「聞いた後に勝手なことするでしょ」
「それは状況に合わせてるだけだ」
言い合っている間にも、獣は近づいている。
床を踏むたび、重い振動が柱へ伝わる。
スイは短く息を吐き、《私の箱庭》の出力を上げた。
カイの身体へ、強化の感覚が流れ込む。
筋肉の動き。
呼吸。
踏み込み。
傷の状態。
すべてが領域の中で繋がる。
「正面のやつ、右前脚に傷が残ってる。完全には治ってない」
「もう一体は?」
「首の付け根。さっきカイが斬ったところ」
「そこを狙って動きを止める」
「私は柱の中を撃つ。時間を作って」
カイは大剣を構え直す。
「どれくらい?」
「十秒」
「長いな」
「じゃあ十五秒」
「増えてんじゃねえか」
「できる?」
カイは獣を見たまま、口元を上げた。
「誰に言ってる」
柱の陰から飛び出す。
二体の獣が同時に反応した。
片方が突進。
もう片方が尾を振り上げる。
カイは突進してきた獣へ真っ直ぐ向かう。
衝突の寸前で身体を低く沈め、大剣を床へ滑らせた。
刃が傷の残る右前脚へ入り、甲殻の隙間を深く裂く。
獣の巨体が傾いた。
その背後から尾が迫る。
カイは大剣を引き抜かず、柄を支点に身体を持ち上げる。
尾が足元を薙ぎ、崩れた獣の脇腹へぶつかった。
二体が一瞬、互いに重なる。
「今だ!」
スイは柱の前へ出た。
《コク》を両手で構える。
狙うのは、砕けた魔石の奥。
二体の魔力が戻っていく、細い一点。
魔力を込める。
一発では足りない。
それでも、強くしすぎれば柱そのものが崩れ、何が起きるか分からない。
魔力を削るように調整する。
引き金を引いた。
黒い魔力弾が柱の亀裂へ入り込む。
外側の石を砕き、その奥にあった薄い殻へ突き刺さった。
高い音。
ガラスが割れるような響きが、部屋全体へ広がる。
二体の獣が同時に頭を上げた。
その口から、初めて声が漏れた。
獣の咆哮ではない。
いくつもの声を無理に重ねたような、不自然な音だった。
柱の内側から、白い光が溢れる。
スイは目を細めた。
そこにあったのは、魔石ではなかった。
小さな杯。
片手に収まるほどの、銀色の杯が柱の中へ埋め込まれている。
杯の底には黒い液体が僅かに残り、その表面から細い魔力の糸が二体の獣へ伸びていた。
「酒……?」
スイが呟いた瞬間。
カイがこちらを振り返る。
「本当にあったのか!?」
「今そっち見ないで!」
正面の獣が前脚を振り上げる。
カイは咄嗟に大剣を構えた。
衝撃。
巨体ごと弾き飛ばされ、床を何度も転がる。
「カイ!」
スイの声が部屋へ響く。
カイは壁へぶつかる直前、大剣を床へ突き立てた。
刃が石を削り、ようやく身体が止まる。
すぐに立ち上がろうとするが、右腕が僅かに震えていた。
「平気だ!」
「平気な人はそんな飛ばされない!」
「酒に気を取られた!」
「正直に言えばいいってことじゃないから!」
スイは《ハク》で迫る獣の顔を撃ち、カイとの間へ割って入る。
魔力弾が角へ当たり、進路を少しだけ逸らした。
それでも巨体は止まらない。
スイは横へ跳び、獣の側面へ回る。
《コク》を抜く。
狙うのは首の付け根。
カイが斬りつけ、まだ傷の残っている場所。
引き金を引く。
魔力弾が甲殻を貫き、その奥へ食い込んだ。
獣の身体が大きく揺れる。
だが倒れない。
傷口から赤い光が溢れ、もう一体から魔力が流れ込んでくる。
「やっぱり繋がってる……!」
スイの視線が銀の杯へ戻る。
獣たちを繋いでいるのは、杯の中に残った黒い液体。
酒かどうかは分からない。
だが、そこから伸びる魔力の糸が二体を一つにしている。
「カイ! 杯を壊せば止まるかも!」
「神の酒だったらどうすんだ!」
「命とどっちが大事なの!」
「ちょっとだけ迷う!」
「迷わないで!」
カイは笑いながらも、もう杯を見ていなかった。
大剣を肩へ担ぎ直し、傷ついた右腕を一度振る。
獣の一体が再び熱線を溜め始める。
もう一体はスイへ狙いを定めている。
「杯まで道を作る」
「今度は絶対に余所見しないで」
「分かってる」
「本当に?」
「今は酒よりスイの方が大事だ」
「今は、ってつけないでよ!」
カイが踏み込む。
《愛を求める怪獣》の魔力が、その身体の奥で強く脈打った。
スイが近くにいる。
それだけで、カイの動きはさらに鋭くなる。
だが、スイはその力に頼り切らない。
《私の箱庭》でカイの動きを補い、怪我を少しずつ癒やしながら、魔力の残量を確かめる。
長引けば不利。
《コク》を何度も使い、《私の箱庭》の出力も上げている。
残りの魔力を考えれば、大きな攻撃はあと数回。
「左のやつが先に熱線!」
「任せろ!」
カイが熱線を溜める獣へ向かう。
口が開く。
赤い光が放たれる直前、カイは大剣を下から振り上げた。
刃ではなく、厚い峰を顎へ叩きつける。
獣の頭部が上を向き、熱線が天井へ放たれた。
爆発。
天井の一部が崩れ、石塊が降り注ぐ。
スイは《ハク》を連射し、自分と杯の間に落ちる石を砕く。
細かな破片を浴びながら、柱へ走った。
もう一体の獣がそれを追う。
背後から、槍のような尾が迫る。
スイは振り返らない。
《私の箱庭》の中で、尾の位置は分かっている。
一歩左へ。
尾先が肩を掠め、衣服を裂いた。
熱い痛みが走る。
それでも止まらない。
杯まで、あと三歩。
獣が再び尾を引く。
二撃目。
避けきれない。
その直前、カイの大剣が飛んできた。
回転しながら尾へぶつかり、軌道を大きく逸らす。
大剣はそのまま床へ突き刺さった。
「行け、スイ!」
カイは素手のまま、熱線を放った獣の角へ両腕を回していた。
巨体に引きずられながらも、首を押さえ込んでいる。
スイは振り返らない。
杯の前へ辿り着く。
銀色の表面には、小さな文字が刻まれていた。
読む時間はない。
黒い液体が揺れ、獣たちへ魔力を送り続けている。
スイは《コク》を構えた。
壊す。
そう決めたはずなのに、引き金へかけた指が止まる。
杯そのものを撃てば、何が起きるか分からない。
黒い液体が本当に酒なら、魔力を暴走させる可能性もある。
カイの声が飛ぶ。
「スイ!」
迷っている時間はない。
だが、壊すだけが正解とも限らない。
スイは銃口を下げた。
代わりに、腰のショートソードを抜く。
刃先を杯と柱の隙間へ差し込んだ。
固定している金具だけを断つ。
一度。
浅い。
もう一度。
金属の軋む音がした。
銀の杯が柱から外れる。
同時に、二体の獣へ伸びていた魔力の糸が激しく揺れた。
スイは杯を掴む。
冷たい。
黒い液体がこぼれそうになり、慌てて水平に保つ。
「取った!」
その瞬間。
二体の獣が動きを止めた。
カイを引きずっていた巨体も。
尾を伸ばしていた個体も。
赤い瞳から光が消える。
静寂。
次の瞬間、二体の身体へ無数の亀裂が走った。
黒い甲殻が崩れ、その内側から赤い魔力が噴き出す。
「スイ、離れろ!」
カイが叫ぶ。
スイは杯を抱えたまま走った。
背後で、二体の獣が同時に崩壊する。
爆発ではない。
身体を形作っていた魔力が支えを失い、石と灰へ戻っていく。
赤い光が部屋の中へ舞い上がり、やがて柱の上へ集まり始めた。
カイが大剣を引き抜き、スイの前へ立つ。
集まった魔力は、ゆっくりと一つの形を作る。
先ほどまでの獣より、さらに巨大な輪郭。
頭部には六本の角。
背中からは岩の翼に似た突起が伸びている。
まだ実体はない。
魔力だけの影。
それでも、スイの《私の箱庭》は、その存在がこれまでとは比べものにならないほど強いと伝えていた。
「まだ終わってねえのか」
カイの声が低くなる。
スイは銀の杯を左手に抱え、《ハク》を右手で構えた。
影の胸元。
そこに、ひときわ濃い赤い光が集まっている。
だが、それは核ではない。
視線。
意思。
怒り。
そんなものが形になったように、赤い光が二人を見下ろしていた。
影の口が開く。
今度は、はっきりと声が響いた。
言葉ではない。
けれど、その咆哮には意味があった。
奪ったものを返せ。
そう告げられているような圧が、部屋全体を満たす。
カイは大剣を構えたまま、スイの手元を見る。
「それ、戻した方がいいんじゃねえか?」
「さっきまで壊そうとしてたのに?」
「状況が変わった」
「そういう判断はできるんだ」
「俺を何だと思ってる」
スイは杯の中を見た。
黒い液体。
甘い匂い。
入口で感じたものと同じ。
ほんの少しだけ、酒に似ている。
だが、飲み物というより、魔力そのものが液体になったような気配だった。
「これは神の酒じゃない」
「分かるのか?」
「たぶん、鍵。あの獣を縛ってたもの」
「取ったから、本体が出てきたってことか」
「そうだと思う」
カイは小さく息を吐く。
「じゃあ戻すか」
「戻して、また石像に閉じ込める?」
「それで済むならな」
スイは柱を見る。
杯が埋め込まれていた場所は壊れている。
同じように戻したところで、封印が再び働く保証はない。
それに、影の輪郭は少しずつ濃くなっていた。
待ってはくれない。
「無理だと思う」
「だよな」
影の前脚が、ゆっくりと床へ降りる。
まだ実体のない脚が触れただけで、石床が沈んだ。
魔力が現実へ干渉し始めている。
スイは杯を腰の道具袋へ収め、蓋をしっかり閉じた。
「倒すしかない」
「最初からそれが一番分かりやすい」
カイが笑う。
その横顔には疲労が見えていた。
右腕の痛みも残っている。
スイの肩からは、尾に掠められた傷の血が滲んでいた。
それでも、二人とも退くとは言わなかった。
背後の入口は閉じている。
先へ進む道も、この影の向こうにある。
そして何より。
この魔物を封じていた杯を、自分たちが外した。
ここで逃げれば、次に迷宮へ入った誰かが遭遇するかもしれない。
スイは《私の箱庭》を広げ直す。
残り時間。
残り魔力。
カイの傷。
自分の傷。
影の魔力の流れ。
すべてを一つずつ確かめる。
「カイ」
「なんだ?」
「倒せると思う?」
カイは影から目を離さないまま答えた。
「一人なら無理だな」
「私も」
「でも二人なら?」
スイは《ハク》の銃口を上げる。
影の胸へ向けた。
「やるしかないね」
「違うだろ」
カイは大剣を肩に担ぎ、半歩前へ出た。
いつもの位置。
スイを守りながら、同時にその射線を塞がない場所。
「二人なら、やれる」
影が咆哮する。
赤い魔力が弾け、部屋の魔法灯が一斉に消えた。
暗闇の中。
スイの《双雷鳥》に刻まれた魔法文字が、白と黒の光を放つ。
カイの銀色の瞳が、獣のように細くなる。
十八歳までの四年間。
積み重ねてきたすべてを試すように。
伝説級ダンジョンの守護者は、ようやく本当の姿を現した。




