第9話 神の酒が眠る場所 前編
十八歳の朝は、拍子抜けするほど静かに始まった。
山あいの宿場町には薄い霧が残り、石畳の隙間に溜まった夜露が、昇り始めた朝日を淡く返している。店先の看板はまだ半分ほど閉じられ、通りを歩くのは荷車を引く商人と、朝食を求めて宿を出た旅人くらいだった。
その静かな道を、二人の獣人が並んで歩いている。
一人は、背丈ほどもある大剣を背負った銀狼の青年。
もう一人は、腰の左右に白と黒の魔法拳銃を下げた妖狐の少女。
四年前と比べれば、二人とも随分と大人びていた。
カイは背が伸び、以前より厚みの増した肩に旅装を馴染ませている。腰には小さな道具袋がいくつも並び、鍵開け用の細い工具や、遺跡の文字を写すための紙片が覗いていた。
冒険者というより、今ではすっかり遺跡漁り――本人の言葉を借りるなら、立派なトレジャーハンターである。
隣を歩くスイも、十四歳の頃の面影を残しながら、身のこなしには迷いがなくなっていた。
白銀に近い淡緑色の髪が朝風に揺れ、狐耳が周囲の音を拾うようにわずかに動く。腰に収められた《双雷鳥》は、長い旅で傷ひとつ増えていない。手入れを欠かさず、何度も修理と調整を重ねてきたからだ。
白銃。
黒銃。
二丁とも、今ではスイの手足と変わらない。
「なあ、スイ」
カイが歩きながら、前を向いたまま口を開いた。
「今ならまだ戻れるぞ。宿に戻って二度寝して、昼から酒場で十八歳の祝い直しって手もある」
「朝から何言ってるの。昨日、十分飲んだでしょ」
「祝い事ってのは何回やってもいいんだよ。それに、今日から向かう場所は危険だ。万全を期すなら、あと一日くらい休んでもいいんじゃねえか?」
スイは横目でカイを見る。
その顔には、いつもの軽い笑みが浮かんでいた。
けれど、足取りは止まらない。
宿へ戻りたいわけでも、酒場へ行きたいわけでもないことくらい、長年一緒にいるスイには分かっている。
「緊張してる?」
「俺が?」
「うん」
「まさか。神の酒が俺を待ってるんだぞ。緊張するのは向こうだろ」
「お酒が緊張するわけないじゃん」
「あれだけの噂がある酒だ。意思くらい持ってるかもしれねえ」
「持ってたら、カイには飲まれたくないって逃げそう」
「それは困るな」
真剣な顔で答えたカイに、スイは小さく笑った。
あれから四年。
二人は多くの町を渡り、多くの依頼を受けた。
盗賊に襲われた村を助けたこともあれば、依頼主に騙されて報酬を踏み倒されかけたこともある。地図にない遺跡へ入り、三日かけて何も見つけられず帰ったこともあった。
酒の噂を追って山を越えた先で、見つけたのがただの酢だった時には、カイは三日ほど引きずっていた。
仲間の名も探し続けた。
アム。
ゆうき。
ぽぽ。
レイ。
さわら。
あすか。
冒険者ギルドへ立ち寄るたび、酒場で旅人と話すたび、似た名前や特徴を聞けば足を運んだ。
けれど、手掛かりはひとつも見つからなかった。
何度期待して、何度違ったと知ったかは、もう数えていない。
それでも、カイの荷物の奥には、仲間のために作った木の駒が今も収められている。
一つも捨てることなく。
「スイ」
「今度は何?」
「別に戻ろうって話じゃねえんだけどさ」
「うん」
「今日で、本当に十八歳なんだな」
その声だけが、少し昔へ戻っていた。
十二歳の成人の儀。
十三歳の旅立ち。
十四歳での大型ダンジョン攻略。
四年前、二人は《岩喰らいの迷宮》を制覇した直後、この約束を交わした。
十八歳になったら、神の酒を探しに行く。
あの頃は、随分と先の話に思えていた。
けれど、歩き続けているうちに、その日はすぐ目の前まで来ていた。
「そうだね」
スイは前方に見える西門へ目を向けた。
門の外には、深い山々が連なっている。さらにその先、霧と険しい岩峰に囲まれた地に、目的のダンジョンがある。
一定の季節にしか入口が現れない、古代の迷宮。
最奥到達者はいない。
生還者も少ない。
そして、その最深部には、神が造った酒が眠るといわれている。
ただの噂かもしれない。
誰かが冒険者を呼び寄せるために広めた話かもしれない。
それでも、四年かけて集めた情報を突き合わせた結果、迷宮そのものが実在することだけは確かだった。
「カイ」
「ん?」
「約束、覚えてる?」
「神の酒は半分ずつ」
「違う」
スイは即座に否定した。
カイが視線を逸らす。
「宝箱は先に調べる」
「それもだけど」
「酒の匂いがしても調べる」
「うん」
「無茶をしない。危険なら戻る。スイの話を聞く」
「最後のが一番大事」
「四年経っても条件が減ってねえな」
「増やしてもいいよ」
「すみませんでした」
素直に謝ったカイを見て、スイは満足そうに頷いた。
西門を抜ける。
町の外へ出た瞬間、空気の冷たさが変わった。
山から吹き下ろす風には、湿った土と針葉樹の匂いが混じっている。遠くでは鳥の鳴き声が響き、その下を流れる川の音が、薄い霧の向こうから聞こえてきた。
二人は街道から外れ、西へ続く細い山道へ入る。
この先に村はない。
宿もない。
目的地まで、順調に進んでも三日はかかる。
「昨日のうちに出てもよかったんじゃねえか?」
「誕生日を山の中で迎えたくなかったのはカイでしょ」
「十八歳の朝は酒場の匂いで迎えたいって言っただけだ」
「同じだよ」
「でも、ちゃんと朝まで飲まなかっただろ」
「当たり前でしょ。これから伝説級ダンジョンに行く人が、二日酔いで出発したら笑えないからね」
カイは笑いながら、肩越しに大剣の位置を直した。
かつては重さに振り回されることもあった大剣だが、今は歩調を乱すことすらない。力が増しただけではなかった。身体の使い方を覚え、荷重を受け流す歩き方が身についている。
それはスイも同じだった。
歩きながらも周囲への警戒を切らさず、足元の草の倒れ方や、枝に残る傷を自然に確認している。
突然、スイの足が止まった。
少し遅れて、カイも止まる。
「どうした?」
スイは答えず、しゃがみ込んだ。
道の脇にある泥へ指を近づける。触れはせず、刻まれた跡を目で追った。
幅の広い獣の足跡。
深さから見て、かなり重い。
さらに少し先には、木の幹が削られたような傷が残っている。
「何か通ってる」
「熊か?」
「違うと思う。爪の跡が浅い。体重の割に、足先が小さい」
カイも隣にしゃがみ、足跡を覗き込む。
「荷車じゃねえよな」
「荷車が森の中を歩く?」
「脚の生えた荷車かもしれねえ」
「そんな魔物がいたら、ちょっと見たいけど」
スイは立ち上がり、周囲へ視線を巡らせた。
足跡は街道を横切り、そのまま北側の森へ消えている。
追えば、正体は確かめられるだろう。
四年前のカイなら、迷わず足跡を追っていた。
だが今のカイは、森の方角を一度見ただけで、肩をすくめた。
「行くか」
「追わないの?」
「目的地は西。足跡は北。知らねえ魔物を興味だけで追うほど、俺も若くねえよ」
「今日で十八歳だけどね」
「十分大人だろ」
「じゃあ、お酒も一日一杯までにできる?」
「それとこれとは話が別だ」
二人は足跡を避け、再び西へ進み始めた。
陽が高くなるにつれ、霧は晴れていった。
山道は次第に傾斜を増し、地面も土から岩へ変わっていく。昼を過ぎる頃には木々の背丈が低くなり、遠くの山肌が見渡せる場所へ出た。
そこで二人は一度、休憩を取ることにした。
大きな岩の陰へ入り、荷物を下ろす。
カイが干し肉を取り出す横で、スイは水筒へ口をつけた。
「それ、今日の昼?」
「そうだけど」
「朝も干し肉だったよね」
「日持ちするからな」
「昨日も食べてたよね」
「好きなんだよ」
「三日分しかないから、ちゃんと考えて食べて」
「分かってるって」
そう言いながら二枚目へ手を伸ばしたカイの指を、スイが軽く叩く。
「一枚」
「成長期なんだよ」
「十八歳はもう成長期じゃないでしょ」
「銀狼は二十五まで伸びる」
「初めて聞いた」
「今作った」
「返して」
取り上げられた干し肉を目で追いながら、カイは不満そうに水を飲んだ。
その様子に、スイは呆れながらも口元を緩める。
四年経っても、変わらない部分はある。
むしろ、変わらずにいてくれることへ安心している自分に、スイは気づいていた。
強くなった。
判断もできるようになった。
以前より多くの人に頼られ、ギルドでは二人ともBランクとして認められている。
単独でもAランク相当の魔物と渡り合える。
二人が揃えば、それ以上。
それでも、カイは干し肉を多く食べようとするし、宝の噂を聞けば目を輝かせる。
スイも、それを止めながら一緒に笑う。
変わることと、変わらないこと。
その両方が積み重なって、今の二人になっていた。
「スイ」
カイが、遠くの山を見ながら呼んだ。
「神の酒、本当にあったらどうする?」
「飲むんじゃないの?」
「そりゃ飲むけど、その後だよ。仲間が見つかってないのに、俺たちだけで飲んでいいのかって話」
スイは水筒の蓋を閉じる手を止めた。
風が二人の間を抜けていく。
遠くの山にかかる雲が、ゆっくりと形を変えていた。
「残せるなら、残す」
「全部飲み切らずに?」
「カイにできる?」
「無理かもしれねえ」
「じゃあ、私が預かる」
「それが一番危ねえな」
「なんで?」
「スイ、意外と酒好きだから」
「カイほどじゃないよ」
「俺より飲む時あるだろ」
「量じゃなくて、味わってるの」
「同じだって」
互いに譲らず、しばらく見つめ合う。
やがて、どちらからともなく笑った。
「まあ、見つけてから考えるか」
「うん。まずは帰ってくるところまで」
「二人でな」
「二人で」
短い言葉だった。
けれど、その約束だけは、何年経っても軽くならない。
休憩を終えた二人は、再び山道を進んだ。
一日目は何事もなく終わった。
二日目、谷を越える途中で小型の飛行魔物に追われたが、スイが《ハク》で進路を散らし、カイが近づいた個体だけを大剣の腹で叩き落とした。討伐が目的ではないため、追撃はしなかった。
三日目の午後。
二人はついに、目的の山域へ入った。
周囲の岩は灰色から黒へ変わり、ところどころに青白い鉱石の筋が走っている。風は冷たいが、妙に湿っていた。
音が少ない。
鳥も鳴かない。
獣の気配もない。
スイの狐耳がわずかに伏せられる。
「静かすぎるね」
「ああ」
カイも笑っていなかった。
二人は歩調を落とし、互いの距離を少し詰める。
スイが右手を《ハク》の握りへ添え、カイは背負っていた大剣の留め具を外した。
事前に集めた記録では、入口は山腹の裂け目に現れる。
季節の境目。
陽が山の稜線へ重なるわずかな時間だけ、古い術式が反応し、道が開くという。
二人は日が傾く前に、記録に記された場所へ辿り着いた。
切り立った黒い岩壁。
そこには、入口らしきものは何もない。
ただ、岩の中央に、円を描くような浅い傷が刻まれている。
「これか?」
カイが近づこうとする。
スイはすぐに腕を伸ばし、その胸元を止めた。
「触らない」
「まだ何もしてねえよ」
「しようとしたでしょ」
「確認しようとしただけだ」
「手で?」
「手で」
スイは小さく息を吐き、岩壁の前へ立った。
《私の箱庭》を薄く展開する。
淡い魔力の気配が、二人を包み込んだ。
領域内にあるものの位置と、流れる魔力が感覚として伝わってくる。
岩壁の奥。
深い場所から、巨大な何かがゆっくりと脈打っていた。
それは魔物の魔力とは違う。
整えられた術式。
だが、長い年月を経ているにもかかわらず、魔力の流れはほとんど崩れていない。
「生きてる」
「何が?」
「ダンジョンそのものが」
カイの目が輝く。
「最高じゃねえか」
「その反応、やめて」
太陽が傾いていく。
山の稜線に光が重なり、細い一筋となって黒い岩壁へ差し込んだ。
円形の傷が、淡く光る。
低い音が山腹に響いた。
岩壁の中央に亀裂が走り、左右へゆっくりと開いていく。
奥から流れ出した空気は冷たく、古い土と金属、それから微かに甘い匂いが混じっていた。
カイの鼻が動く。
「酒だ」
「絶対違う」
「いや、今、甘い匂いしただろ」
「酒とは限らないでしょ。毒かもしれない」
「こんなにいい匂いの毒があるか?」
「あるよ」
「夢がねえなあ」
入口の向こうには、下へ続く石段があった。
壁には青白い魔法灯が並び、誰かを招くように、ひとつずつ奥へ明かりが点っていく。
スイとカイは、すぐには入らなかった。
周囲を調べ、入口の縁や石段へ罠がないか確認する。
四年前なら、開いた瞬間に飛び込んでいたかもしれない。
今は違う。
装備を確かめる。
退路を確認する。
空気の流れを読む。
戻るための印を入口へ残す。
すべてを終えてから、二人は石段の前へ並んだ。
「準備は?」
スイが尋ねる。
カイは大剣を肩へ担ぎ、笑った。
「ああ。四年待ったからな」
「無茶しない」
「分かってる」
「危険なら戻る」
「分かってるって」
「宝箱は?」
「先に調べる」
「お酒の匂いがしても?」
「調べる」
「私の話は?」
「ちゃんと聞く」
スイはカイの顔をじっと見た。
「本当に?」
「本当だ。だからそんな疑うなよ」
「四年分の実績があるから」
「何の実績だよ」
「宝箱を勝手に触ろうとした回数」
「触ってない時も数えてるだろ」
「触ろうとしたら同じ」
カイは不満そうに鼻を鳴らしたが、先へ行こうとはしなかった。
代わりに右手を差し出す。
四年前。
十八歳になったら、この場所へ来ると約束した時と同じように。
スイは一瞬だけその手を見つめ、やがて自分の手を重ねた。
「二人で帰る」
「ああ。神の酒を持ってな」
「そこはなくても帰るの」
「できれば持って帰る」
「カイ」
「分かったって」
二人は手を離した。
先に足を踏み出したのはカイだった。
けれど、一人で進みすぎることはない。
半歩後ろにスイがいると分かる距離を保ちながら、ゆっくりと石段を下りていく。
入口を越えた直後、背後で岩壁が動き始めた。
カイが振り返る。
「閉まるぞ」
「季節の入口だからね。中から開けられる術式があるはず」
「なかったら?」
「次に開くまで待つ」
「食料、三日分しかねえぞ」
「だから、帰り道を探しながら進むの」
黒い岩壁が閉じる。
最後の一筋の光が消え、青白い魔法灯だけが二人を照らした。
その瞬間。
スイの《私の箱庭》が、遠くから何かを捉えた。
微かな振動。
重いものが、石床を踏みしめる音。
一度。
二度。
まだ距離はある。
だが、その魔力は異様だった。
広い。
濃い。
そして何より、周囲のダンジョンの魔力と混ざり合いながら、はっきりと一つの意思を持っている。
スイは《ハク》を抜いた。
同時に、カイも大剣を下ろす。
互いに声を掛ける必要はなかった。
カイが前へ。
スイがその斜め後ろへ。
四年間で何百回と繰り返した位置へ、自然に収まる。
「スイ」
「うん」
暗い通路の奥。
青白い灯りの向こうで、大きな影が横切った。
床に残った足跡は、入口へ来る途中で見つけたものと同じ形をしている。
追わなかったはずの何かが。
先回りするように、迷宮の中で二人を待っていた。
カイが大剣を構え、低く息を吐く。
「どうやら、神の酒より先に、歓迎されてるみたいだな」
スイは銃口を影の消えた通路へ向けたまま、静かに答えた。
「歓迎なら、もう少し優しくしてほしいけどね」
再び、足音が響く。
先ほどより近い。
石壁が震え、天井から細かな砂が落ちた。
スイの尾がゆっくりと持ち上がる。
カイの銀狼の耳が、正面へ鋭く向けられた。
伝説級ダンジョン。
その最初の一歩から、二人がこれまで歩いてきた場所とは、何もかもが違っていた。




