第8話 積み重ねた足跡 前半
旅立ちの日は、薄い雲の広がる朝だった。
雨が降るほど空は暗くない。けれど、陽射しも地上までは届かず、町を囲む石壁はいつもより淡い灰色に見えた。
東門の前には、七台の荷馬車が並んでいる。
積まれているのは、乾燥させた穀物や布、加工前の革、町で作られた薬などだった。荷台には分厚い布が掛けられ、隙間から縄で固く縛られた木箱が覗いている。
商人たちは出発前の確認に追われていた。
荷車の車輪を調べる者。
馬へ水を飲ませる者。
帳面を片手に、荷物の数を何度も数え直す者。
その周囲を、《青燕》を中心とした冒険者たちが行き交っている。
「カイ。荷物、もう一回見せて」
「昨日確認しただろ」
「確認した後に何か増やしてたよね」
「増やしてない」
「じゃあ、見せられるよね?」
スイが手を差し出す。
カイは背負っていた荷袋を抱え込んだ。
その動きだけで、何かを隠していることは明らかだった。
「これは俺の荷物だぞ」
「二人で旅するんだから、重すぎたら途中で困るでしょ」
「重くない」
「昨日より袋が膨らんでるよ」
「綺麗に入れ直したから」
「普通、綺麗に入れたら小さくなると思うけど」
スイが荷袋の紐へ手を伸ばす。
カイは身体を捻って避けたものの、肩の傷が僅かに痛んだのか動きが止まった。
その隙に袋を奪われる。
「あっ、待て!」
「やっぱり重いじゃん」
地面へ置き、紐を解く。
衣服。
保存食。
水袋。
手入れ道具。
仲間の分まで持ってきた木の駒。
ここまでは、昨夜二人で確認したものと同じだった。
その下から、小さな陶器の瓶が出てくる。
布へ丁寧に包まれ、割れないよう衣服の間へ挟まれていた。
「カイ」
「寒い時に必要になるかもしれない」
「薬屋さんに、お酒は身体を温める薬じゃないって言われたでしょ」
「気持ちは温まる」
「同じこと昨日も聞いたよ」
「じゃあ説明いらないな」
「持っていかないって話になったよね?」
「スイが一人で決めただけだろ」
スイは瓶を持ち上げ、朝の光へ透かした。
中には琥珀色の酒が半分ほど入っている。
「いつ買ったの?」
「昨日」
「ずっと一緒にいたよ?」
「スイが宿の人と話してる時」
「一人で酒場に行ったの?」
「店先で買っただけ」
「怪我してるのに?」
「もう治ってる」
カイは借りていた肩当てを軽く叩いた。
昨日の診察で、旅へ出ても問題ないとは言われている。
ただし、無理な戦闘は避けること。
重い大剣を振る時には、痛みが出たらすぐ休むこと。
完全に元どおりになったわけではなかった。
「置いていく」
「少しだけだぞ」
「その少しが荷物になるの」
「俺が持つ」
「水よりお酒を優先するの?」
「水もある」
「途中で水が足りなくなったら?」
「酒を飲む」
「余計に喉乾くよ!」
スイの声が門前へ響く。
近くで荷物を確認していたダグが、二人を見て笑った。
「朝から元気だな」
「カイが旅の荷物にお酒を隠してたんです」
「酒くらい持たせてやれよ」
「ほら」
カイが胸を張る。
「ただし、自分の荷物を全部持てるならな」
ダグが続けた。
「持てる」
「六日間歩いた後も?」
「余裕」
「肩の傷は?」
「治った」
「昨日、防具屋で痛がってたって聞いたぞ」
「何で知ってるんだよ」
「この町は狭いからな」
カイの耳が伏せる。
スイは少しだけ考えた後、陶器の瓶を布へ戻した。
「一日一口だけ」
「少なすぎない?」
「嫌なら置いていく」
「一口でいい」
「野営の前には飲まない。夜番の日も駄目」
「分かった」
「誰かに勧められても増やさない」
「スイも飲むなら?」
「私はいらない」
「なら俺が二口」
「一口」
「厳しいなぁ」
カイは荷袋を背負い直した。
酒瓶を残せたことで機嫌は戻ったらしく、尾がゆっくりと揺れている。
「それと」
スイが言う。
「木の駒、全部持ってきたの?」
「ああ」
「十個?」
「今は八個だろ。俺たちの二個は別にしてる」
「やっぱり多いよ」
「仲間を見つけたら、すぐ使える」
「一人見つけるたびに作ればいいじゃん」
「同じ木じゃなくなるだろ」
「何か意味あるの?」
「揃ってる方がいい」
カイはそれだけ言い、荷袋の口を固く結んだ。
自分でも、なぜそこまで持っていきたいのか説明できないのだろう。
木の駒は、旅に必要な道具ではない。
食べられない。
身体も守れない。
金にもならない。
けれど、いつか仲間たちと同じ卓を囲む時、最初からその席を用意していたかった。
スイはそれ以上何も言わなかった。
「全員、集まってください」
商隊の前方から、エレナの声が届いた。
冒険者たちが荷馬車の周囲へ集まる。
主護衛を担当する《青燕》の四人。
ダグ、ミラ、セトの三人。
Eランクの二人組。
そして、カイとスイ。
商人や御者を含めれば、二十人を超える一行だった。
「隊列を確認します」
エレナは広げた地図を荷台の側面へ押し当てた。
「先頭は《青燕》の私とガルド。街道の状態を確認しながら進みます。三台目と四台目の間にダグたち。最後尾に残りの《青燕》二人」
地図の上で指を動かす。
「カイとスイは、二台目の周辺を担当してください。単独行動は禁止。異常を見つけても追わず、まず近くの護衛へ報告すること」
「分かりました」
スイが答える。
カイも頷いた。
「二人とも、返事を」
「分かった」
「声に出せるなら問題ありません」
エレナは表情を変えずに言った。
カイの隣で、スイが小さく笑う。
「何だよ」
「ちゃんと見抜かれてるね」
「返事しようとしてたって」
「少し遅かったけどね」
続いて、魔物が現れた場合の合図と避難方法が説明された。
短い笛が一度なら警戒。
二度なら停止。
三度なら、商人たちは荷馬車の中央へ集まり、冒険者が外側を守る。
戦闘が起きても、カイとスイの役割は荷車から離れないことだった。
目の前の敵を倒すより、積み荷と人を守る。
それが護衛依頼である。
「質問は?」
エレナが尋ねる。
カイが手を上げた。
「魔物が一匹だけ逃げた場合は?」
「追いません」
「荷馬車の進む先へ逃げたら?」
「斥候が確認します。あなたは追わないでください」
「俺の鼻なら匂い追えるけど」
「必要になれば頼みます。それまでは隊列を守ってください」
「分かった」
今回は、返事が早かった。
エレナは一度頷き、出発の指示を出した。
御者が手綱を引く。
馬がゆっくりと歩き始め、荷馬車の車輪が石畳を転がった。
町の門を出ると、広い街道が東へ伸びていた。
左右には畑が広がり、その向こうに低い森が見える。
カイとスイは二台目の荷馬車に並び、一定の速さで歩いた。
背後から、町の鐘が聞こえてくる。
出発を知らせる鐘ではない。
いつもどおり、朝の時間を知らせているだけだった。
それでも二人は、ほとんど同時に振り返った。
三か月を過ごした町。
石壁の上では、見張りの兵士がこちらへ手を振っている。
門の傍には、宿の主人や防具屋の職人の姿もあった。
忙しい時間にもかかわらず、見送りに来てくれたらしい。
「行ってきます!」
スイが大きく手を振る。
「また来るからな!」
カイも声を張った。
宿の主人が何かを叫び返す。
距離があり、言葉までは聞き取れない。
だが、防具屋の職人がカイの肩を指し、自分の腕を大きく振っている。
「大剣を振り回すなって言ってるんじゃない?」
「多分、しっかり戦えって言ってる」
「絶対違うよ」
町は少しずつ遠ざかっていった。
石壁が小さくなり、やがて街道の起伏に隠れて見えなくなる。
スイは前を向いた。
胸の中に、僅かな寂しさが残っている。
里を出た時とは違う。
家族のいる場所を離れたあの日は、不安よりも外の世界への期待が大きかった。
今は、戻りたい場所が一つ増えたことを知っている。
「スイ」
「なに?」
「また来ればいいんだろ」
顔を見なくても、考えていることが分かったらしい。
「うん」
「仲間を連れて戻ってきたら、もっと驚くだろうな」
「宿の部屋、足りなくなるかもね」
「食堂で寝ればいい」
「仲間を床で寝かせるの?」
「俺も一緒ならいいだろ」
「よくないよ」
「あはは」
カイの笑い声に、胸の奥の重さが少しだけ薄れた。
東へ向かう旅は、穏やかに始まった。
最初の二日間は魔物の姿もなく、街道を行き交う別の商隊と何度かすれ違っただけだった。
日中は荷馬車と並んで歩き、日が傾く前に野営地を探す。
カイとスイは薪を拾い、水場を確認し、荷台から道具を運ぶ。
戦闘がないからといって、護衛に仕事がないわけではない。
馬の様子。
車輪の軋み。
林の中から聞こえる音。
街道の先に残る足跡。
小さな異変を見落とさないことが、何よりも大切だった。
「カイ。右の森、何か聞こえる?」
三日目の昼過ぎ。
二台目の荷馬車と並んでいたスイが、小声で尋ねた。
カイはすぐに耳を動かした。
車輪の音。
馬の息遣い。
御者たちの会話。
その向こうに、枝葉が擦れる音がある。
「一匹じゃない」
「魔物?」
「分かんねぇ。俺たちと同じくらいの速さで動いてる」
スイは前方のエレナへ目を向けた。
まだこちらの異変には気付いていない。
「報告しよう」
「ああ」
カイは荷馬車から離れず、近くを歩くダグへ声をかけた。
「右の森に何かいる。ずっと並んで動いてる」
ダグの表情が変わる。
「距離は?」
「二十歩より遠い。三十……いや、もっとある」
「数は?」
「三匹か四匹」
ダグは短い笛を一度吹いた。
隊列全体へ警戒の合図が伝わる。
荷馬車の速度は変えない。
だが、冒険者たちは武器へ手を伸ばし、森側へ意識を向けた。
先頭からエレナが戻ってくる。
「何がいましたか?」
「まだ見てない。音だけ」
カイが答える。
「追ってきてるというより、並んでる」
「スイは魔力を感じますか?」
「弱い反応がいくつかあります。でも、遠いので種類までは分かりません」
「能力は使わなくて構いません。まだ距離があります」
エレナは森を見ながら判断する。
「こちらからは近付かず、速度も変えません。敵意を見せなければ、そのまま通り過ぎます」
「襲ってきたら?」
「森側へ盾役を集めます。カイとスイは荷馬車の陰から離れないこと」
カイは大剣の柄へ手を置いたが、抜かなかった。
音はしばらく一行と並んでいた。
時折、木々の隙間に小さな影が見える。
狼ほど大きくない。
猿に似た魔物だった。
細い腕で枝を渡り、こちらを観察している。
「森猿だな」
ダグが呟く。
「襲ってくる?」
「荷物に食料があると分かれば、夜に近付くことはある。昼間から商隊を襲うほど強くはない」
森猿たちは一行を暫く追った後、街道が森から離れ始めると姿を消した。
戦闘にはならなかった。
「追わなくて正解だったろ」
ダグがカイを見る。
「最初から追うって言ってない」
「昔なら行ってそう」
スイが言う。
「三か月前と一緒にすんなよ」
「三か月で昔になるの?」
「俺は成長が早い」
「身体は変わってないけどね」
「そこはこれからだろ」
カイは少し不満そうだったが、森の方へ戻ろうとはしなかった。
その日の野営地は、小さな川の近くに決まった。
荷馬車を円形に並べ、その内側へ商人たちの寝床を作る。
冒険者は外側。
夜番は交代制だった。
カイとスイの担当は、日付が変わる前の二刻。
焚き火から少し離れた場所へ座り、森と街道を見張る。
空には雲がなく、星がよく見えた。
「静かだな」
カイが小声で言う。
「昼の森猿、来るかな」
「来たら音で分かる」
「寝ないでよ」
「寝てない」
「目閉じてた」
「耳で聞いてた」
「夜番は目も使うの」
スイは焚き火へ小枝を足した。
炎が小さく弾け、二人の顔を照らす。
荷馬車の内側からは、眠っている商人たちの呼吸が聞こえていた。
遠くでは虫が鳴いている。
「旅って、もっと毎日何か起きると思ってた」
スイが呟く。
「何もない方がいいだろ」
「分かってる。でも、ずっと歩いて、ご飯作って、見張って、また歩いてるだけだなって」
「それが旅なんじゃね?」
「カイに言われると、ちょっと意外」
「何で?」
「毎日冒険したいって言いそうだから」
「冒険してるじゃん」
カイは空を見上げた。
「初めての道を歩いて、知らない森を見て、知らない奴らと飯食ってる。戦わなくても、前に進んでるだろ」
スイも星空へ視線を向けた。
前世で見ていた空と、同じ星があるのかは分からない。
里で見ていた空とも、少し違って見える。
場所が変わっただけで、星そのものが変わったわけではない。
それでも、自分が歩いた分だけ景色は変わる。
「うん。そうだね」
「明日は何かあるかもしれないし」
「危ないことを期待しないでよ」
「美味い飯屋がある村とか」
「それならいい」
「酒蔵でもいい」
「それはカイだけでしょ」
小さく笑い合い、再び周囲へ意識を戻した。
その夜、森猿が野営地へ近付くことはなかった。
六日目の午後。
街道の先に、広い湖が見えた。
陽の光を受けた水面が白く輝き、その向こうには大小の建物が密集している。
湖畔の交易都市。
高い石壁の内側から、幾本もの煙が上がっていた。
町の周囲には倉庫や船着き場が並び、街道には出入りを待つ荷馬車の列ができている。
「でかい」
カイが足を止めかける。
「隊列から離れない」
スイが服を掴んだ。
「離れてないって」
「今止まったでしょ」
「見たかっただけ」
「中に入ったら見られるよ」
近付くほど、人の多さが分かる。
獣人。
人間。
小柄な種族。
大きな荷を背負う者。
異国の服を着た商人。
町の中から漂ってくる匂いも、最初の町とはまるで違った。
香辛料。
焼いた魚。
甘い果実。
発酵した酒。
カイの鼻が何度も動く。
「スイ」
「駄目」
「まだ何も言ってない」
「酒の匂いがするって言うつもりでしょ」
「何で分かるんだよ」
「顔に出てる」
「町に入ったら少しだけ見に行こう」
「先に宿とギルド」
「その後」
「荷物を置いてからね」
「それな!」
商隊は大きな門をくぐった。
石畳の通り。
両側に並ぶ店。
船から荷物を運ぶ人々の声。
最初の町とは比べものにならないほどの賑わいが、二人を包んだ。
「ここなら、何か分かるかもね」
スイが呟く。
人が多い。
情報も多い。
自分たちと同じように、別の場所から来た者もいるかもしれない。
仲間の名前を知る者がいるかもしれない。
「まずギルドで聞こう」
カイが答える。
「酒より先?」
「当たり前だろ」
少しだけ間を置く。
「酒は逃げないからな」
「結局行くんだ」
「あはは」
その日のうちに、仲間の情報は得られなかった。
アム。
ゆうき。
ぽぽ。
レイ。
さわら。
あすか。
知っている名を一つずつ尋ねても、受付の職員は首を横に振った。
冒険者の登録名には似た名前がいくつかあった。
けれど、二人が探している相手だと確かめられる者はいなかった。
カイとスイは落ち込んだ。
それでも、翌日には町の掲示板や酒場、宿を回った。
人の多い市場で聞き込み、旅商人にも尋ねた。
返ってくる答えは同じだった。
「知らないな」
「聞いたことがない」
「別の町じゃないか」
やがて二人は、この町に長く留まることをやめた。
冒険者として依頼を受け、旅費を稼ぎながら、さらに東へ向かう。
湖畔の遺跡。
森に埋もれた小さな神殿。
地下水路へ続く迷宮。
山肌に口を開けた鉱山跡。
二人は各地の町を巡り、その土地にあるダンジョンへ挑んだ。
最初の頃は、入口から半日ほどで戻れる場所ばかりだった。
魔物の種類を調べ、地図を作り、採取物を持ち帰る。
危険を感じれば戻る。
依頼の目的を果たせば、奥に宝箱が見えていても無理に進まない。
カイは何度も名残惜しそうに振り返ったが、スイが呼べば戻った。
「あと少しだったのに」
「帰る分の体力がなくなったら意味ないでしょ」
「次は絶対取る」
「準備してからね」
街道で盗賊に遭遇したこともあった。
荷物を渡せと迫られ、カイが剣へ手を伸ばす。
だが、スイは周囲の人数を確認し、先に逃げ道を示した。
二人は荷物を捨てることなく、森の細い道を使って距離を取った。
追ってきた二人だけを倒し、残りとは戦わなかった。
「全員倒せたかもしれない」
「倒した後に増援が来るかもしれないよ」
「でも悔しい」
「生きて荷物も守れたんだから、私たちの勝ちでしょ」
「……それな」
冬には雪の積もる山道を歩いた。
カイが持ってきた小瓶の酒は、その頃には空になっていた。
「一日一口って約束だったよね」
「寒かったから」
「三日でなくなってたよ」
「思ったより一口が多かった」
「瓶から直接飲むからでしょ」
「次は杯を持ってく」
「反省するところが違うよ」
春には、花の咲く平原を抜けた。
道端へ座り、二人で乾いたパンを分けた。
風の中に甘い匂いがあり、スイの髪と尾が揺れていた。
「アム、こういう場所好きそう」
「花好きだったっけ?」
「分からない。でも、似合いそう」
「見つけたら連れてくればいい」
「覚えておこうね」
「ああ」
仲間の情報は、まだ見つからない。
けれど、二人は探すことをやめなかった。
町へ着くたびにギルドへ行き、酒場で名を尋ね、旅人の話へ耳を傾けた。
同じ名前を持つ者に会いに行き、別人だと分かったこともある。
遠い村に、白い髪の悪魔がいるという噂を聞いた。
三日かけて山を越えたが、そこにいたのは年老いた魔族の女性だった。
「ごめんなさいね。探している人じゃなくて」
「ううん。会えてよかったです」
スイは笑って答えた。
帰り道、カイはしばらく何も話さなかった。
「残念だった?」
「少し」
「私も」
「でも、違うって分かった」
「うん」
「次探せるな」
「そうだね」
夏が近付く頃には、里を出てから一年が過ぎていた。
二人の装備は、最初の頃とは大きく変わっている。
カイの大剣には、魔力を流しやすくする新しい柄が取り付けられた。
革鎧も何度か修理を重ね、肩や胸元には魔物の素材を使った補強が施されている。
スイのショートソードも、刃こぼれするたびに研ぎ直されていた。
初めは両手で構えていた剣を、今では片手でも自在に扱える。
空いた手では魔法を使い、敵の足を止め、カイの死角を補った。
《私の箱庭》も、以前より長く維持できるようになった。
ただし、無理に範囲を広げない。
必要な場所だけを包み、敵と味方の位置を確かめる。
カイの《愛を求める怪獣》も、常に最大の力が出るわけではなかった。
スイが近くにいれば、身体能力は確かに高まる。
だが、その力へ頼りすぎれば、自分の動きが雑になる。
だからこそ、普段は基礎を鍛えた。
剣を振る。
走る。
魔力を身体へ流す。
能力がなくても戦えるように。
能力がある時には、さらに仲間を守れるように。
「カイ!」
大型ダンジョン《岩喰らいの迷宮》。
崩れかけた石橋の上で、スイの声が響いた。
眼下には、底の見えない亀裂が走っている。
向こう側からは、岩の身体を持つ魔物が三体迫っていた。
ロックゴーレム。
一体ならEランク。
三体が狭い橋へ並べば、正面から抜けることは難しい。
「真ん中だけ魔力の流れが違う!」
《私の箱庭》の中で、スイは敵の核を捉えていた。
三体とも同じ形に見える。
だが中央の一体だけ、胸ではなく左肩に魔力が集まっている。
「左肩だな!」
「うん。でも、橋を壊さないでよ!」
「分かってる!」
カイが大剣を振り上げる。
以前なら、正面から強く叩きつけていただろう。
今は違う。
一歩下がり、最初の攻撃を避ける。
ゴーレムの拳が橋へ落ちる寸前、剣の腹で腕を横へ逸らした。
石の拳が欄干を砕く。
その隙に、スイが風魔法を放った。
岩の隙間へ入り込む細い風。
左肩を覆っていた石が剥がれ、内側の核が露出する。
「今!」
「それな!」
カイは橋を強く踏み込まない。
短く距離を詰め、大剣の切っ先だけを核へ突き入れる。
赤い光が弾けた。
中央のゴーレムが崩れ落ち、後ろの一体へぶつかる。
「右は私が止める!」
スイが手を広げる。
《私の箱庭》の中で魔力が流れ、カイの足取りが軽くなる。
同時に、スイは右側のゴーレムへ土魔法を放った。
足元の橋が僅かに盛り上がり、巨体の均衡を崩す。
倒すほどの威力はない。
だが、動きを止めるには十分だった。
「行ける!」
カイが残った一体へ向かう。
ゴーレムの腕を潜り、大剣の柄頭を膝の継ぎ目へ叩き込む。
片脚が崩れる。
低くなった胸元へ、今度は刃を振り抜いた。
核が砕け、巨体が橋の上へ沈む。
最後の一体は、スイが足止めしている。
カイが振り返った時、橋の床へ細い亀裂が走った。
「カイ、急いで!」
「スイ、先に行け!」
「一緒に行くよ!」
スイは魔法を解き、カイの方へ走る。
拘束から逃れたゴーレムが腕を振り上げた。
橋が持たない。
カイは倒したゴーレムの身体へ大剣を差し込み、梃子のように持ち上げた。
「おおおっ!」
石の塊が横へ転がる。
最後の一体へぶつかり、二体まとめて橋の端へ押しやった。
重みに耐えきれず、石床が崩れる。
ゴーレムは瓦礫と共に亀裂の底へ落ちていった。
「走れ!」
二人は同時に向こう岸へ駆けた。
背後から石橋が崩れる音が追ってくる。
スイが先に足場へ飛び込み、カイもその隣へ転がった。
最後の石片が暗闇へ消える。
しばらくしても、落下音は返ってこなかった。
「……深すぎない?」
スイが床へ座り込んだまま呟く。
「落ちなくてよかったな」
「カイが橋を壊したんだけど」
「俺じゃなくてゴーレムだろ」
「最後に押したのはカイ」
「あれしなかったら、俺たちが潰されてた」
「それはそうだけど……」
スイは大きく息を吐いた。
それから、カイの腕を軽く叩く。
「先に行けって言わないでよ」
「橋が崩れると思ったから」
「だからって一人で残るの?」
「スイだけでも渡れた方がいいだろ」
「よくない」
普段より低い声だった。
カイは言葉を止める。
「二人で帰るって決めたでしょ」
「でも、あの時は――」
「一緒に走れば間に合った。実際、間に合ったよ」
スイはカイを見つめた。
怒鳴ってはいない。
それでも、その目には譲らない意志がある。
「カイが私を守りたいのと同じくらい、私もカイを置いていきたくない」
「……悪かった」
「次は?」
「一緒に逃げる」
「うん」
「間に合わなかったら?」
「二人で考える」
「その間に落ちそうだけど」
「そういうこと言わない」
「あはは」
カイが笑う。
スイは少し不満そうだったが、やがて同じように笑った。
二人が挑んでいる《岩喰らいの迷宮》は、周辺でも最大級のダンジョンだった。
地下七層。
内部は広く、一日で攻略できる場所ではない。
各階層に設置された安全地帯を使い、何日もかけて最奥を目指す。
これまで二人が入ったどのダンジョンよりも、魔物は強く、罠も多かった。
挑戦を決めた時、ギルドからは何度も止められた。
二人だけでは危険だと。
最低でも四人の隊を組むべきだと。
カイとスイも、最初から無理に入ろうとはしなかった。
近くの冒険者と共に上層を調査し、地図を作り、魔物の性質を覚えた。
何度も途中で戻った。
食料が足りなくなれば帰る。
傷を負えば帰る。
知らない魔物を見つければ、無理に戦わず情報を持ち帰る。
その積み重ねの先に、二人だけで最奥へ挑める日が来た。
「残り、あと一層だね」
スイが立ち上がる。
壁には、先人が残した階層を示す印が刻まれていた。
六層。
次へ下りれば、最下層となる。
「食料は?」
「二日分」
「水は?」
「余裕ある」
「酒は?」
「ない」
「持ってくればよかった」
「荷物になるって話、まだ覚えてないの?」
「最奥で祝う分くらい」
「攻略してないのに飲むつもりだったの?」
「勝つって信じてるから」
「帰る分の体力も残してね」
「分かってるって」
二人は崩れた橋の代わりとなる迂回路を探し、奥へ進んだ。
六層の安全地帯へ着いた頃には、外では日が落ちている時間だった。
石室の中央へ小さな焚き火を作る。
乾燥肉と硬いパンを湯へ浸し、簡単な食事にする。
「攻略できたら、何が出るかな」
カイが器を覗きながら言う。
「大型ダンジョンだから、宝物庫があるかもしれないって話だったね」
「武器かな」
「魔道具かも」
「酒だったら?」
「ここ、酒のダンジョンじゃないよ」
「古い王様が隠した酒とか」
「何でも酒に繋げないで」
「スイは何が欲しい?」
尋ねられ、スイは少し考えた。
今使っているショートソードへ目を向ける。
何度も研いだ刃。
一年の旅を共にした武器。
扱いやすく、不満があるわけではない。
「遠くから戦える武器かな」
「弓?」
「弓もいいけど、もっと速いやつ」
「魔法でいいじゃん」
「詠唱や準備に時間がかかるでしょ。カイが前にいる時、すぐ援護できるものが欲しい」
「投げナイフ?」
「回収できないよ」
「石」
「旅を始めた頃から変わってないじゃん」
「あはは」
カイは器の中身を食べ終え、壁へ背を預けた。
「スイなら何使っても強いだろ」
「急にどうしたの?」
「ショートソードも魔法も、最初より上手くなった」
「カイもね」
「俺は元々強い」
「最初の角兎に転ばされた人が?」
「あれは不意打ち」
「正面から見てたよ」
「地面が悪かった」
「平らな草原だったけど」
「一年前のこと、よく覚えてるな」
「あはは! 面白かったから」
焚き火の光が、二人の間で揺れる。
里を出て一年。
まだ仲間は見つかっていない。
それでも、二人の間に焦りはなかった。
探すことを諦めたわけではない。
世界が想像していたより広いと知っただけだ。
すぐに会えると思っていた。
大きな町へ行けば、誰かの噂が見つかると思っていた。
けれど、何十もの町を巡っても手掛かりはなかった。
だからこそ、長く探す覚悟ができた。
「カイ」
「ん?」
「あと何年かかると思う?」
「分からん」
「十年かもしれないよ」
「なら十年探す」
「百年だったら?」
「俺たち、どれくらい生きるんだろうな」
「獣人は人間より少し長いくらいじゃない?」
「じゃあ生きてる間ずっと探す」
カイは迷わず答えた。
「全員見つからなくても?」
「見つけられた奴はいるだろ」
「一人も見つからなかったら?」
「スイがいる」
焚き火が小さく弾けた。
あまりにも自然に言われ、スイは返事を忘れる。
「何?」
「……何でもない」
「変な顔」
「してないよ」
「耳動いてる」
「カイに言われたくない」
スイは器を片付けるため、焚き火へ背を向けた。
尾の先が僅かに揺れている。
「明日は最下層だな」
カイが言った。
「うん」
「絶対攻略しよう」
「無理だと思ったら戻るよ」
「分かってる」
「宝箱が見えても?」
「……分かってる」
「今、間があった」
「見るだけならいいだろ」
「開ける前に調べるからね」
「罠なんて毎回あるわけじゃないって」
「大型ダンジョンだからこそ、あるかもしれないでしょ」
「スイは心配しすぎ」
「カイが心配しなさすぎるの」
いつものやり取りを終え、二人は交代で眠った。
翌朝。
地上の光が届かない迷宮の中では、朝になったことさえ分からない。
身体の感覚と、小さな砂時計だけが時間を知らせていた。
二人は食事を取り、装備を整える。
カイは大剣の刃を確かめる。
スイはショートソードを抜き、布で拭った。
「行ける?」
スイが尋ねる。
「ああ」
「無理しない?」
「ああ」
「一人で残らない?」
「昨日謝っただろ」
「確認」
「二人で帰る」
カイは右手を出した。
スイは少し笑い、その手を握る。
「二人で帰る」
短い約束を交わし、最下層へ続く階段を下りた。
七層は、それまでの迷宮と空気が違っていた。
岩壁には淡い金色の鉱石が混じり、照明がなくても通路の輪郭が見える。
風はない。
音もない。
二人の足音だけが、奥へ長く響いていく。
「何かいる?」
カイが小声で聞く。
スイは《私の箱庭》を薄く広げた。
領域を必要以上に大きくしない。
床。
壁。
天井。
周囲に動くものはない。
「今は何もいない。でも、奥から大きい魔力を感じる」
「ボスか」
「たぶん」
「やっとだな」
「嬉しそうにしない」
「一年かけて来たんだぞ。嬉しいだろ」
「まだ倒してないよ」
「倒して帰る」
カイの声には、以前のような無謀さはなかった。
勝てると信じながら、逃げる判断も持っている。
それが今の二人だった。
長い通路の先に、巨大な石扉が現れた。
表面には、大地を食らう獣の姿が彫られている。
扉の前には、古びた文字が刻まれていた。
スイが指でなぞる。
「読める?」
「少しだけ」
古い言葉。
今使われている文字とは形が違う。
それでも、似た部分を拾えば意味は推測できた。
「大地を砕きし者へ、眠りし雷鳴を……かな」
「雷?」
「たぶん。最後の部分は武器か、力って意味だと思う」
「宝物庫にあるもの?」
「ボスを倒せば分かるよ」
カイは石扉へ手を当てた。
「開けるぞ」
「待って」
「また?」
「食料、水、傷薬」
「ある」
「帰り道の魔力」
「残してる」
「逃げる時の道」
「後ろ」
「私から離れない」
「分かってる」
スイは一度深く息を吸い、頷いた。
「開けよう」
二人で扉を押す。
重い石が床を擦り、低い音を立てた。
隙間から、冷たい空気が流れ出す。
扉の向こうには、これまでのどの部屋よりも広い空間があった。
中央に横たわる、巨大な岩山。
最初はそう見えた。
だが、二人が一歩入った瞬間、岩山の表面に赤い亀裂が走る。
地面が震えた。
岩の塊がゆっくりと持ち上がる。
四本の脚。
長い尾。
頭部には、金属のように光る二本の角。
迷宮の主が目を覚ます。
赤く燃える瞳が、入口に立つ二人を捉えた。
「大きすぎない?」
スイが呟く。
「倒しがいあるな」
「カイ」
「分かってる。帰れるように戦う」
カイは大剣を抜いた。
スイもショートソードを構え、《私の箱庭》を静かに広げていく。
巨大な魔物が息を吸う。
岩の隙間から、赤い光が漏れた。
「来る!」
二人は左右へ飛ぶ。
次の瞬間、地面を焼く熱線が、石扉の前を真っ直ぐに貫いた。




