第7話 世界のどこかで 前半
町へ戻った頃には、空の半分が夕焼けに染まっていた。
西へ傾いた日の光が街道を赤く照らし、三人の影を長く引き伸ばしている。朝には冷たかった風も少し和らぎ、畑の向こうからは一日の仕事を終えた農夫たちの声が聞こえてきた。
カイは北門をくぐるなり、鼻を小さく動かした。
「肉焼いてる」
「今それ?」
「朝から歩いて、ダンジョン入って、ゴブリンと戦ったんだぞ。腹減るだろ」
「報告と治療が先だって言われたばっかりだよ」
「分かってる。匂いがしただけ」
「そのわりには、尻尾がすごく動いてるけど」
スイに指摘され、カイは後ろを振り返った。
自分の意思とは関係なく、銀色の尾が左右へ揺れている。
「これは風」
「風は前から吹いてるよ」
「じゃあ疲れ」
「疲れると嬉しそうに動くの?」
「今日からそうなった」
「あはは! 便利な尻尾だね」
カイは誤魔化すように歩調を速めたが、肩の傷に響いたのか、すぐに顔をしかめた。
傷口はロウが応急処置をしている。
血も止まっていた。
それでも、影の魔力に触れた部分には、じわじわと冷たい痛みが残っている。
スイは笑うのをやめ、カイの横へ並んだ。
「痛む?」
「少しだけ。動けないほどじゃない」
「宿に戻ってからも薬を塗ろうね」
「ロウさんの薬、痛いんだよなぁ」
「我慢して」
「スイの箱庭で治せない?」
「治りやすくはできるけど、残った魔力を取り除くのは無理だと思う。変な使い方をして悪化したら嫌だし」
「そっか」
カイは素直に頷いた。
能力を手にしたからといって、急に何でもできるようになったわけではない。
むしろ、分からないことが増えた。
どこまで力が上がるのか。
誰を仲間と認識するのか。
離れた時には、どの程度まで効果が残るのか。
そして、自分が守ろうとするほど強くなる力が、身体へどれほどの負担をかけるのか。
何一つ確かなことはない。
スイの《私の箱庭》も同じだった。
領域の広さ。
回復の速度。
味方と敵を区別できるのか。
範囲内にあるものを感じ取るだけでなく、どこまで干渉できるのか。
初めて使ったばかりでは、推測しかできなかった。
「ギルドに着いたら、まず依頼の報告をする」
前を歩いていたロウが、二人へ確認するように言った。
「ゴブリンメイジが確認された以上、《風抜けの洞》は一時的に立入禁止となる。内部の再調査が終わるまでは、他の冒険者を入れられない」
「逃げた一匹だけでも?」
カイが尋ねる。
「一匹だからだ。統率する個体が単独でダンジョンへ入り込むとは考えにくい。別の場所に群れがあるか、さらに上位の個体に従っている可能性もある」
「ゴブリンメイジより強いのもいるの?」
「いる。ゴブリンナイトやゴブリンシャーマン、さらに群れをまとめる上位種も確認されている」
ロウは歩調を緩めずに続ける。
「今回の個体が単独で風牙狼を捕らえたのか、それとも別の何者かが関わっているのか。それも調べる必要がある」
スイは森で見た黒い鎖を思い浮かべた。
ゴブリンメイジが操っていた魔法。
風牙狼の傷へ食い込み、その魔力を吸い上げていた。
低級の魔物しかいないはずの小さなダンジョンに、なぜあのような術を使う個体がいたのか。
「風牙狼は、どうなるんですか?」
スイが聞く。
「森へ戻ったなら、今すぐギルドが追うことはない。人や家畜を襲った記録がなければ、討伐対象にもならない」
「魔物なのに?」
「魔物だからという理由だけで、すべてを討伐するわけではない」
ロウは少しだけ振り返った。
「森や山には、人間より先に暮らしていた魔物もいる。町へ近付き、人を襲うなら対処する。だが、縄張りの中で生きているだけなら、それを理由に殺す必要はない」
「倒せることと、倒す必要があることは違う」
カイが呟いた。
「ああ。相手が魔物であっても同じだ」
カイは森の奥へ消えていった風牙狼の背中を思い出した。
近付けば恐ろしいほど大きく、鋭い牙を持っていた。
だが、助けた二人へ襲いかかることはなかった。
洞窟の最奥まで導き、帰り道にもついてきた。
言葉は通じなくても、何も分かり合えないわけではない。
「また会えるかな」
「会わない方が平和かもしれないよ」
スイが答える。
「何で?」
「カイが会ったら、絶対ついていこうとするから」
「しないって」
「風牙狼が森の奥へ行ったら?」
「少しだけなら」
「ほら」
「危なくない場所までだよ」
「森の奥が危なくないか、カイには分からないでしょ」
「風牙狼がいるなら大丈夫じゃね?」
「その風牙狼より強い魔物がいたら?」
カイは口を閉じた。
少し考えたあと、腕を組む。
「その時は逃げる」
「ちゃんと逃げられる?」
「スイが止めるだろ」
「最初から私を当てにしてるじゃん」
「役割分担」
「便利な言葉だね」
呆れた声とは裏腹に、スイの口元は少し笑っていた。
冒険者ギルドへ入ると、夕方の受付を待つ者たちで広間は混み合っていた。
依頼を終えて戻った冒険者。
素材の入った袋を抱えた者。
食堂で酒を飲みながら、仲間と話している者。
カイとスイが初めて足を踏み入れた頃には、誰もが熟練の冒険者に見えていた。
今でも、自分たちより経験のある者ばかりだ。
それでも、三か月前のように場違いな場所へ紛れ込んだ感覚は薄くなっていた。
「お帰りなさい」
いつも依頼を受けている受付の女性が、二人の姿を見て表情を和らげる。
だが、カイの肩に巻かれた布へ気付くと、すぐに眉を寄せた。
「怪我をされたんですか?」
「少しだけ」
「影属性の魔力を受けている。先に治療室へ連れていく」
ロウが答える。
「依頼の方は?」
「調査札への登録は完了。ただし内部でゴブリン六匹、そのうち一匹はゴブリンメイジを確認した」
受付の女性の顔から笑みが消えた。
「ゴブリンメイジが?」
「ああ。詳細は二人の治療後に報告する。《風抜けの洞》は直ちに封鎖してくれ」
「分かりました」
女性は隣にいた職員へ声をかけ、立入禁止を知らせる札と連絡用の書類を用意させた。
広間にいた何人かの冒険者が、こちらへ視線を向ける。
ゴブリンメイジという言葉が聞こえたのだろう。
「カイ、行くぞ」
ロウに促され、二人は受付横の通路へ入った。
治療室には薬草の匂いが満ちていた。
壁際の棚には瓶や包帯が並び、中央には細長い寝台が二つ置かれている。
担当の治療師は、カイの革鎧を外させると、傷口を覆っていた布をゆっくり剥がした。
乾き始めていた傷が空気に触れ、カイの肩が小さく跳ねる。
「痛むね」
「まぁ、少し」
「少し?」
治療師が黒く変色した傷の周囲を押す。
「いっ――!」
カイの耳と尾が同時に跳ねた。
「結構痛そうだね」
隣にいたスイが、心配しながらも少し笑う。
「今のは押されたからだろ」
「押されて痛いなら、少しじゃないよ」
「治すために聞いているんだから、強がるな」
ロウにも言われ、カイは大人しく寝台へ座り直した。
治療師は傷へ残った魔力を確かめるように指先へ光を灯す。
柔らかな光が触れた瞬間、冷たかった傷口に熱が走った。
「ゴブリンメイジの影魔法だね。浅い傷で済んでいるけれど、放っておくと周囲の感覚が鈍くなることがある」
「剣で弾いたんだけど、一個だけ掠った」
「初めて相手にする術を二つ避けて、一つが掠っただけなら十分だよ。ただ、十分に戦えたことと、怪我を軽く扱っていいことは別だからね」
「はい」
カイが素直に答える。
治療師は僅かに目を丸くし、それからロウを見た。
「思っていたより聞き分けがいいね」
「三か月で多少は成長した」
「最初はどうだったんですか?」
スイが興味を示す。
「宿へ入る前にギルドへ駆け込もうとした」
「それ、もう何回言うんだよ」
「あはは! やっぱり第一印象から変わってないんだね」
「スイも一緒に来ただろ」
「私は止めてたよ」
「最終的には来たじゃん」
「カイを一人にしたら、依頼まで受けそうだったから」
治療師が肩を揺らして笑いながら、薬を傷口へ塗った。
今度は鋭い痛みが走り、カイは奥歯を噛む。
声だけは出さなかった。
しかし伏せた耳と硬くなった尾が、痛みを隠せていない。
治療が終わると、肩へ新しい布が巻かれた。
「今日は大剣を振らないこと。お酒も控えめに」
「控えめって、一杯?」
「その身体なら半分」
「減った」
「嫌なら飲まない」
「半分でいいです」
カイが即答すると、スイが呆れたように息を吐いた。
「そこまでして飲みたいの?」
「初ダンジョン攻略祝いだぞ」
「お酒じゃなくても祝えるよ」
「気持ちの問題」
「酒を飲みたい気持ちでしょ」
「それも含めて」
治療師は次にスイの脈と魔力の状態を確認した。
外傷はない。
ただ、魔力を大きく消耗した影響で、指先が僅かに冷えていた。
「こちらは魔力切れの手前だね。今日は魔法を使わず、温かい物を食べて休むこと」
「分かりました」
「自分では、まだ使えると思っていた?」
尋ねられ、スイは少し考えた。
「大丈夫だとは思ってました。でも、領域を消した後に力が抜けました」
「魔力はなくなる直前まで動けることもある。新しい力を使う時ほど、身体の感覚だけを信用しない方がいい」
「はい」
「新しい力?」
治療師が何気なく口にした言葉に、カイの耳が僅かに動いた。
ロウが説明したのだろうか。
だが、治療師は詳しいことを知っている様子ではなかった。
「魔力の減り方が、普段の基礎魔法とは違うからね。慣れない術を使ったのかと思っただけだよ」
「まあ、そんな感じです」
スイは曖昧に答えた。
治療師も、それ以上は尋ねなかった。
治療を終えた二人は、ロウと共に奥の小部屋へ移動した。
普段の依頼報告は受付台で行う。
今回は予定外の魔物と遭遇したため、他の冒険者に聞かれない場所が用意されたらしい。
部屋には大きな卓と六脚の椅子があり、壁には周辺地域の地図が掛けられていた。
しばらくすると、受付の女性と、恰幅のいい中年の男性が入ってくる。
男性は町の冒険者ギルドを任されている支部長だった。
「二人とも、まずは無事に帰ってきてくれてよかった」
支部長は椅子へ腰を下ろすと、向かいに座る二人を見た。
髭の混じった穏やかな顔立ちをしているが、目は静かに二人を観察している。
「ロウから概要は聞いた。これから何が起きたかを順に確認するが、責任を追及するためではない。今後、同じ場所へ入る冒険者を守るための報告だ」
「分かりました」
スイが答え、カイも頷いた。
まず、入口付近で洞窟鼠三匹と遭遇したこと。
討伐せず、逃げるのを待って先へ進んだこと。
地図には記されていない崩落箇所があり、深い穴ができていたこと。
その先で、ゴブリンたちに拘束された風牙狼を発見したこと。
ロウが聞き手となり、受付の女性が内容を書き留めていく。
「ゴブリン六匹の配置は、どうやって把握した?」
支部長が尋ねる。
「私が魔力を感じました」
スイが答える。
「通常の魔力感知で?」
「最初はそうです。でも正確な位置は、私の……領域の中で確認しました」
「領域?」
支部長の視線が、スイの足元へ一度落ちる。
スイは少し迷った。
ユニークスキルであることを告げれば、詳しい効果を聞かれるだろう。
危険な能力ではない。
隠し通したい理由もない。
ただ、自分でも分かっていないものを、確かな情報として話すことには抵抗があった。
「ユニークスキルらしきものを使いました」
「らしきもの、か」
「使えたのは初めてなので、詳しいことはまだ分かりません。自分を中心に一定の範囲を作って、その中にいる人や物の位置を感じ取れます。味方の魔力や傷の回復を助ける効果もあると思います」
受付の女性の筆が止まる。
支部長も、少し驚いたように目を細めた。
「随分と珍しい能力だな」
「名前は《私の箱庭》です」
「名称まで自然に理解できたのか?」
「はい」
支部長はしばらく考え、頷いた。
「分かった。話してくれてありがとう」
それだけだった。
効果の詳細をすぐに求められることも、測定を命じられることもない。
スイは僅かに目を瞬いた。
「もっと聞かないんですか?」
「自分でも分からないものを、今ここで無理に説明させても意味はない。それに、ユニークスキルは本人のものだ。ギルドへの申告に強制力はない」
「そうなの?」
カイが聞き返す。
「能力によっては、知られることで不利になる者もいる。冒険者本人が隠したいなら、ギルドが無理に聞き出すことはできない」
支部長は二人の顔を見比べた。
「今回尋ねたのは、二人がまだ幼く見えるからだ」
「成人してる」
カイがすぐに言う。
「ああ。和の国では成人の儀を終えていることも、登録時に確認している」
「じゃあ何で?」
「若い冒険者が、理解できていない力を無理に使って身体を壊すことがある。特にユニークスキルは、通常の魔法より消耗や条件が分かりにくい」
支部長の声は穏やかだった。
「能力を取り上げたいわけでも、秘密を暴きたいわけでもない。困っているなら、ギルドが測定や訓練を手伝えると伝えたかっただけだ」
カイは少しだけ肩の力を抜いた。
報告しなければ罰を受ける。
正式名称まで記録され、誰かに見られる。
そう思い込んでいた。
「じゃあ、名前を言わなくてもよかった?」
「ああ」
支部長はあっさり答えた。
カイの表情が固まる。
隣でスイがゆっくり顔を逸らした。
「スイ」
「なに?」
「知ってた?」
「……強制じゃないのは、今知ったよ」
「でも、絶対報告しないと駄目って言ってたよな」
「安全のためには話した方がいいと思ったから」
「名前まで?」
「効果だけだと、説明しにくいかなって」
「笑いたかっただけじゃない?」
「少しは」
「やっぱり!」
「あはは!」
スイが吹き出す。
支部長と受付の女性は事情が分からず、二人を交互に見た。
ロウだけが、何を話しているのか理解している。
「カイの方にも、ユニークスキルが発現した」
ロウが淡々と言った。
「ロウさん!」
「本人が名称を話したくないなら、記録しなくても構わない」
支部長はカイへ視線を向ける。
「効果についても、共有したくない部分は答えなくていい。ただし、身体への影響や危険性を調べてほしいなら、必要な範囲で話してくれ」
逃げ道を与えられたはずだった。
だが、すでにスイとロウには知られている。
ここで頑なに隠せば、余計に気にしているように見える。
何より、自分の力が仲間を守るためのものなら、危険性くらいは確かめておきたかった。
「……仲間が近くにいると、身体能力と魔力が強くなる」
カイは卓の上へ視線を落としたまま説明する。
「俺が仲間だと思ってる相手だけだと思う。特に、その仲間が危ない時とか、守りたいと思った時に強くなる」
「発動中、身体に痛みや違和感は?」
「戦ってる時はなかった。でも、終わった後は少し身体が重かった」
「普段の身体強化と併用していたか?」
「してた」
「なら、負荷が重なった可能性がある。しばらくは全力で同時使用しない方がいいだろう」
支部長が受付の女性へ何かを記録するよう目配せする。
「名称は記載しなくていい」
「いや」
カイは短く息を吐いた。
「もういい。そこだけ空いてる方が、ずっと気になる」
「無理に言う必要はないぞ」
「分かってる。でも、俺の力なんだろ。恥ずかしいからって、ないことにするのも違う」
スイが笑うのをやめ、カイを見る。
耳はまだ伏せている。
表情も、心底嫌そうだった。
それでも、逃げるように誤魔化そうとはしていなかった。
「《愛を求める怪獣》」
今度は聞き返されないよう、はっきりと言った。
受付の女性は表情を変えず、用紙へ名前を書き込む。
支部長も真面目な顔で頷いた。
「仲間への感情を力へ変える能力なら、よく性質を表した名だと思う」
「真面目に言われると、もっと恥ずかしい」
カイが両手で顔を覆う。
スイは口元を押さえたが、肩が僅かに揺れていた。
「笑うなら笑えよ」
「今は我慢してる」
「結局笑うんじゃん」
「あはは! でも、本当にカイらしいと思うよ」
「それが嫌なんだって」
「似合ってるのに」
「褒め言葉になってない」
支部長は小さく咳払いをし、話を戻した。
「二人とも、希望するなら後日、能力の測定を受けられる。義務ではないし、測定した内容を本人の許可なく公開することもない」
「何を調べるんですか?」
スイが尋ねる。
「効果範囲、魔力消費、持続時間。カイの場合は強化率と、身体への負荷だな。ただし、感情を条件とする力は正確な数値を出せないことも多い」
「受けた方がいい?」
カイがスイを見る。
「私は受けたい。使いすぎて動けなくなるのは怖いから」
「じゃあ俺も」
「合わせなくてもいいよ?」
「別々の日に来るの面倒じゃん。それに、スイがいないと俺の力も測れないだろ」
「私が仲間だって前提なんだ」
「今さら何言ってんだよ」
カイは当然のように答えた。
「スイが仲間じゃなかったら、誰が仲間なんだよ」
あまりにも迷いのない言葉だった。
スイの耳が僅かに揺れ、視線が卓へ落ちる。
「……それもそうだね」
声は普段と変わらなかった。
ただ、尾の先だけが落ち着かないように小さく動いていた。
ゴブリンとの戦闘についても、詳しい確認が続いた。
風牙狼を助ける判断をした理由。
六匹の配置。
ゴブリンメイジが使用した魔法。
逃げた敵を追わなかったこと。
風牙狼を治療し、最奥まで案内されたこと。
「助けた風牙狼が、調査札のある石室まで導いたのか」
支部長が腕を組む。
「はい。あそこが棲み処だったみたいです」
スイが答える。
「泉と、古い爪痕がありました」
「森の風牙狼が洞窟を棲み処にする例は少ないが、ないわけではない。ただ、通常の風牙狼は単独でゴブリン六匹に遅れを取る魔物ではない」
「捕まったから弱かったんじゃないの?」
「捕まえるまでが難しいんだ」
ロウが答える。
「風牙狼は動きが速く、風魔法で遠距離からも攻撃できる。正面からゴブリンが挑めば、通常は近付くことすらできない」
「じゃあ、何で捕まったの?」
「それを調べるために、明日調査隊を出す」
支部長は壁の地図へ視線を向けた。
「逃げたゴブリンメイジが戻る可能性もある。森の周辺で他の群れが確認されれば、この町だけの問題では済まない」
穏やかだった部屋の空気が、少しだけ重くなる。
カイは森の方角を思い浮かべた。
風牙狼は傷ついたまま、奥へ戻っていった。
「風牙狼、大丈夫かな」
「今夜すぐに追われる可能性は低いだろう。ただし、明日の調査で姿を見つけても無理に接触はしない」
「俺たちも行ける?」
カイが身を乗り出す。
「駄目だ」
ロウが即座に答えた。
「何で?」
「怪我人と魔力切れ寸前の者を、再調査へ連れていく理由がない」
「俺たち、道分かるぞ」
「記録した地図がある。案内は必要ない」
「でも、風牙狼は俺たちなら警戒しないかもしれない」
「その可能性はある」
支部長は否定しなかった。
「だが、だからこそ連れていけない。あの個体が二人を気に入っていたとしても、周囲に別の風牙狼がいれば話は変わる。魔物との関係を過信するのは危険だ」
カイは納得できない顔をした。
だが、すぐに反論はしなかった。
今の自分たちが疲れていることは分かっている。
明日の朝、問題なく動ける保証もない。
「調査が終わったら、結果を教えてくれる?」
「ああ。今回の第一発見者として、必要な範囲は伝える」
「なら、今日は休む」
カイが背もたれへ身体を預けた。
「成長したな」
ロウが言う。
「無理に行っても邪魔になるだけだろ」
「その判断ができるなら十分だ」
「でも、風牙狼が怪我してたら教えて」
「何をするつもりだ」
「傷薬くらい渡せるかもしれない」
「風牙狼が人間の薬を使うと思う?」
「スイの箱庭なら」
「今日は使わせないよ」
カイが先に言った。
スイが驚いたように顔を向ける。
「私、まだ何も言ってないけど」
「風牙狼が怪我してるって聞いたら、絶対行こうとするだろ」
「カイもでしょ」
「俺は止められた」
「今止められたばっかりじゃん」
「だから、次は俺が止める」
「自分が止まれたからって、急にしっかりした側に来ないでよ」
「あはは」
カイが笑う。
支部長はそんな二人を見ながら、報告書を閉じた。
「今回の依頼は達成として扱う。想定外の魔物に遭遇しながらも、調査札への登録と生還を果たした。討伐を優先せず、必要な判断もできている」
「報酬は?」
カイの耳が立つ。
「通常の依頼報酬に加えて、ゴブリンメイジ発見の情報料を支払う」
「酒、増やせる?」
「半杯だけだよ」
スイが言う。
「報酬増えたのに?」
「怪我は変わらないでしょ」
「じゃあ肉を増やす」
「それならいいよ」
「よし」
支部長は苦笑しながら、受付の女性へ報酬の用意を頼んだ。
「それと、二人の現在の功績を確認した。今回の依頼を含めて、Fランクへの昇格条件を満たしている」
「本当?」
カイが勢いよく立ち上がり、肩の傷に響いたのかすぐに顔をしかめる。
「座ってろ」
ロウに言われ、大人しく椅子へ戻った。
「まだ三か月だよ?」
スイも目を丸くしている。
「依頼の達成数だけなら、もう少しかかる。ただし、二人は規定以上の魔物へ遭遇した際にも、依頼目的を見失わず帰還した」
支部長は二枚の木札を卓へ置いた。
これまで二人が持っていた冒険者証とよく似ているが、刻まれたランクを示す文字が変わっている。
「昇格を受けるかどうかは自由だ。Fランクになれば受けられる依頼は増えるが、それだけ危険も増す」
「受ける」
カイは迷わなかった。
だが、木札へすぐ手を伸ばさず、隣を見る。
「スイは?」
以前なら、自分が決めたまま話を進めていたかもしれない。
今は二人で旅をしている。
受けられる依頼が増えれば、スイも同じ危険へ立つことになる。
スイは木札を見つめ、少し考えた。
「受けたい」
「怖くない?」
「怖いよ。でも、受けられる依頼が増えれば、町の外へ行く機会も増える。仲間を探すなら、ここにずっといるわけにはいかないでしょ」
「それな」
「ただし、Fランクになったからって、すぐ危ない依頼を受けるのはなし」
「分かってるって」
「明日、森の調査に勝手についていくのもなし」
「それも分かってる」
「お酒は半杯」
「それは別の話だろ」
「あはは!」
二人は同時に、新しい冒険者証へ手を伸ばした。
薄い木札は、手にしたところで以前より重くなったわけではない。
それでも、刻まれた一文字が、三か月間の積み重ねを静かに示していた。
里を出た日の二人は、どこへ向かうかも曖昧だった。
仲間を探す。
世界を見る。
美味い酒を探す。
大まかな目的だけを抱え、最初の町へ辿り着いた。
今は、自分たちの力を知り始めている。
まだ弱く、経験も足りない。
それでも、前へ進むための一歩を、自分たちで選べるようになっていた。
「よし」
カイは冒険者証を胸元へしまい、立ち上がった。
「肉食いに行こう」
「結局そこなんだ」
「昇格祝いも増えたからな」
「最初の一杯は、初ダンジョン攻略祝いじゃなかった?」
「半分ずつ分ければ、一杯で二回祝える」
「そういう問題?」
「俺、天才かもしれない」
「お酒のことだけ頭回るよね」
二人が部屋を出ようとしたところで、支部長が声をかけた。
「待ちなさい。まだ報酬を受け取っていない」
カイの足が止まる。
「忘れてた」
「さっき一番に聞いてただろ」
ロウが呆れたように言う。
「肉のこと考えてた」
「財布は私が持つからね」
「報酬くらい俺にも持たせてくれよ」
「半分だけ」
「全部スイが管理してるじゃん」
「使う分は渡してるでしょ」
「酒代が少ない」
「必要な分だけ渡してるの」
言い合いながら受付へ戻る。
広間は先ほどより人が減り、食堂から漂う料理の匂いが強くなっていた。
報酬を受け取ると、スイはその場で枚数を確認し、いつもの小さな帳簿へ記していく。
カイは隣から覗き込んだ。
「情報料、結構あるな」
「ゴブリンメイジの情報は、それだけ大事だったってことだよ」
「肉、二皿いける?」
「いけるけど、旅の道具も買い替えたい」
「何買うの?」
「カイの革鎧。肩が切れてる」
「直せるだろ」
「影魔法が残ってた部分は、傷みやすくなってるかもしれない。鍛冶屋さんか防具屋さんに見てもらおう」
「じゃあ、直せたら肉二皿」
「一皿でも十分でしょ」
「ダンジョンと昇格で二皿」
「お祝いの数だけ食べるの?」
「次にユニークスキルの発現祝いもある」
「三皿に増やそうとしてるじゃん」
「スイも食うだろ?」
「少しはね」
「なら決まり」
「決まってないよ」
ギルドの扉を開けると、夜の空気が頬へ触れた。
通りには提灯の明かりが並び、行き交う人々の影が石畳の上で揺れている。
朝には、初めてのダンジョンへ向かう新人冒険者だった。
今は傷を負い、魔力を使い果たしかけ、知らなかった力を抱えて帰ってきた。
冒険者証に刻まれた文字も、一つ上がっている。
「スイ」
「なに?」
「俺たち、ちょっと強くなったな」
スイはすぐには答えなかった。
隣を歩くカイの肩。
包帯の下に残った傷。
自分の身体に沈む、魔力を使い切った疲労。
強くなったから、傷つかなかったわけではない。
むしろ力が増えたことで、どこまで進めるのかを慎重に考えなければならなくなった。
「少しだけね」
「もっと強くなれる?」
「なれるよ。でも、急いだら駄目」
「分かってる」
「本当に?」
「強くなることと、無茶することは違うだろ」
カイは前を向いたまま答えた。
「仲間を見つけても、俺たちが途中で死んでたら意味ないじゃん」
スイは僅かに目を見開いた。
それから、ふっと頬を緩める。
「うん。そうだね」
「だから、ちゃんと強くなる」
「私も」
「全員見つけられるくらい」
「世界中を歩けるくらいね」
二人の足音が、夜の通りへ重なる。
宿へ戻れば、温かな食事が待っている。
明日は森の調査結果を聞き、傷が治れば次の依頼を探す。
急ぐ必要はない。
それでも、足を止めるつもりもなかった。
まだ見ぬ土地。
離れた場所で生きているかもしれない仲間たち。
そこへ続く道は、町の門の向こうにいくつも伸びている。
カイは通りの奥に掲げられた酒場の看板へ目を向け、少しだけ歩調を速めた。
「カイ、宿はそっちじゃないよ」
「肉の匂いがする」
「宿でも食べられるって」
「見るだけ」
「飲むつもりでしょ」
「半杯だけ」
「先にご飯」
「それな!」
スイに腕を掴まれ、カイは酒場の前を通り過ぎる。
名残惜しそうに振り返りながらも、無理に止まろうとはしなかった。
夜の町へ、二人の笑い声が小さく残る。
その声は、これから始まる長い旅の中では、まだほんの最初の一つに過ぎなかった。




