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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
間章 獣人の約束

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第6話 忘れていた名前 後編


 カイが地面を蹴った瞬間、空洞にいたゴブリンたちが一斉に振り返った。


 濁った黄色の目が、岩陰から飛び出した銀狼を捉える。


「ギャッ!」


 最初に声を上げたのは、風牙狼の傍らにいた一匹だった。


 錆びた短剣を握り、仲間へ知らせるように腕を振る。


 その声が広がり切るより早く、カイは右の壁際へ踏み込んでいた。


 正面から突っ込まない。


 岩の陰を使い、杖を持った個体との距離を詰める。


 事前に決めたとおりの動きだった。


 背後で、風を切る音がした。


 スイが放った石が、天井近くの岩棚へ飛ぶ。


 矢をつがえようとしていたゴブリンの手元へ当たり、乾いた音を立てて弓が落ちた。


「ギィッ!」


 弓持ちがよろめく。


 その間に、地上の二匹がカイへ向かって走り出した。


 一匹は短剣。


 もう一匹は棍棒。


 どちらも装備は粗末だったが、連携するように左右へ広がってくる。


「カイ、左が先!」


 スイの声が届く。


 カイは大剣を低く構えたまま、左から迫る短剣持ちへ身体を向けた。


 振り下ろされた刃を、大剣の腹で受け止める。


 金属同士が擦れ、狭い空洞へ甲高い音が響いた。


 すぐ横から棍棒が迫る。


 大剣を振り回す余裕はない。


 カイは短剣持ちの身体を押し返し、その陰へ半歩入った。


 棍棒が仲間の肩へぶつかる。


「ギャッ!」


「ギィ!」


 二匹の動きが崩れた。


 カイは身体を沈め、大剣の柄頭を棍棒持ちの腹へ叩き込む。


 息を詰まらせたゴブリンが前屈みになったところへ、肩から体当たりを加えた。


 小柄な身体が地面を滑り、風牙狼の手前で止まる。


 そこで黒い鎖が強く脈打った。


 杖を持ったゴブリンが、こちらへ先端を向けている。


 濁った魔力が鎖を伝い、風牙狼の身体から吸い上げられていた。


「こいつ、狼の魔力を使ってる!」


 カイが叫ぶ。


「鎖の根元は杖!」


 スイの答えが返る。


 同時に、足元へ淡い光が広がった。


 《私の箱庭》。


 スイを中心に生まれた領域が、空洞の入口からカイの足元まで届く。


 身体を巡る魔力が整い、荒くなりかけていた呼吸が僅かに軽くなった。


 カイは短剣持ちの攻撃を大剣で受け流し、そのまま右へ駆ける。


 目指すのは杖持ち。


 だが、岩陰からもう一匹が飛び出した。


 それまで姿を伏せていたゴブリンだ。


 手には槍。


 カイの腹を狙い、低い位置から突き出してくる。


「下!」


 スイの声と同時に、カイは大剣を地面へ突き立てた。


 刃の腹で槍先を外へ弾く。


 勢いを逸らされた槍が岩壁へ当たり、先端が欠けた。


 カイは剣を抜き直さず、柄を握ったまま身体を回す。


 振り抜いた尾が、ゴブリンの顔へまともに当たった。


「ギャッ!」


「これ、結構痛ぇからな!」


 前世にはなかった身体の一部。


 最初は動かし方にも戸惑っていたが、今では平衡を取るだけでなく、近距離で相手の意識を逸らすことにも使える。


 怯んだゴブリンの胸を蹴り、カイは大剣を地面から引き抜いた。


 その時、空気が鳴った。


 上から矢が落ちてくる。


 先ほど弓を落としたゴブリンが、予備の矢を直接投げつけたらしい。


 狙いはカイではない。


 入口に立つスイだった。


「スイ!」


 カイの胸の奥が熱を持つ。


 視界が僅かに狭まり、代わりに身体の輪郭が研ぎ澄まされた。


 足へ力が満ちる。


 距離が、急に短くなったように感じた。


 カイは二歩でスイとの間へ入り、大剣を振り上げる。


 矢が刃へ当たり、横へ弾けた。


「大丈夫か?」


「うん。でも、戻りすぎ!」


「当たるよりいいだろ!」


「杖持ちが逃げる!」


 スイが空洞の奥を指差した。


 杖を持ったゴブリンは、黒い鎖を引きずりながら細い通路へ下がろうとしている。


 鎖に繋がれた風牙狼の身体も、地面を少しずつ引かれていた。


 傷口が開き、血が岩肌へ筋を作る。


「行かせるかよ」


 カイが追おうとする。


 その前へ、残ったゴブリンたちが集まった。


 三匹。


 短剣、棍棒、折れた槍。


 背後には弓持ち。


 正面から全員を相手にしていれば、杖持ちへ届かない。


「スイ、道作れる?」


「やってみる!」


 《私の箱庭》の光が強くなる。


 領域の中にあるものが、スイの意識へ重なった。


 ゴブリンたちの足元。


 転がる骨。


 湿った地面。


 壁際に積もった細かな砂。


 直接、相手の身体を動かすことはできない。


 けれど、自分の領域にある魔力の流れなら整えられる。


 スイは右手を振り、風魔法を放った。


 強い風ではない。


 壁際の砂と骨の欠片を巻き上げ、ゴブリンたちの顔へ叩きつける。


「ギャアッ!」


 三匹が腕で目を覆った。


「今!」


「それな!」


 カイは大剣を横へ構えた。


 斬るためではない。


 刃の腹を三匹へ押し当て、そのまま身体ごと前へ出る。


 銀狼の膂力と身体強化。


 さらに、背後にいるスイへの信頼が、《愛を求める怪獣》を通じて力へ変わる。


「どけぇっ!」


 三匹の身体がまとめて押し退けられた。


 完全に倒すことはできない。


 それでも、通路へ続く一直線の道が開く。


 カイは大剣を肩へ担ぎ、杖持ちを追った。


 足場は悪い。


 風牙狼から伸びる鎖が、地面を蛇のように這っている。


 触れれば何が起きるか分からない。


 鎖を避けながら距離を詰めると、杖持ちが振り返った。


 他のゴブリンより一回り大きい。


 額には黒い布が巻かれ、骨と石で作られた首飾りを下げている。


 ただのゴブリンではない。


 職種を持った上位個体。


「ゴブリンメイジ!」


 スイの声が飛ぶ。


 ゴブリンメイジが杖を振る。


 先端の黒い魔石から、細い影の槍が三本生まれた。


 正面。


 右。


 左。


 逃げ道を塞ぐように飛んでくる。


 カイは大剣を前へ立てた。


 一つ目を刃の腹で受ける。


 衝撃が腕へ伝わり、足が半歩後ろへ滑った。


 二つ目は身体を捻って避ける。


 三つ目が肩を掠め、革鎧を裂いた。


 熱ではない。


 触れた場所から体温を奪われるような、冷たい痛みが広がる。


「カイ!」


「平気!」


 傷は浅い。


 だが、ゴブリンメイジはすでに次の術を作っていた。


 杖の先端へ影が集まっていく。


 ここで受け続ければ、いずれ押し切られる。


 カイは地面を強く踏んだ。


 土属性の魔力を流す。


 足元の岩が僅かに盛り上がり、壁のように前へ突き出した。


 影の槍が岩へ突き刺さる。


 完全には止められない。


 けれど、威力は落ちた。


 砕けた岩の向こうから、カイが飛び出す。


「ギッ――」


 ゴブリンメイジの顔が歪む。


 杖を振り上げるが、遅い。


 カイは大剣の柄で杖を横から叩いた。


 乾いた音と共に、黒い魔石へ亀裂が走る。


 影の鎖が大きく揺れた。


 風牙狼が低く呻く。


「もう一発!」


 カイは大剣を両手で握り直す。


 刃ではなく、厚い背の部分を杖へ打ち付けた。


 黒い魔石が砕ける。


 空洞を満たしていた濁った魔力が、弾けるように散った。


 風牙狼へ巻き付いていた鎖が形を失い、黒い霧となって消えていく。


「ギャアアッ!」


 ゴブリンメイジが両手で頭を抱えた。


 術式を破壊された反動なのか、鼻と耳から血が流れている。


 それでも逃げようと背を向けた。


 カイは大剣を振り上げる。


 振り下ろせば、終わる。


 だが、その背中へ刃を向ける必要があるのか。


 一瞬の迷いが生まれる。


 その間に、ゴブリンメイジは細い通路へ飛び込んだ。


「追う?」


 追いついてきたスイが尋ねる。


 カイは通路の奥を見た。


 暗闇。


 逃げた先に仲間がいる可能性もある。


 今の目的は、ゴブリンの全滅ではない。


「追わない」


 大剣を下ろす。


「鎖は消えた。風牙狼の逃げ道もできた」


「うん」


「残りは?」


 スイが振り返る。


 入口付近にいたゴブリンたちは、術者が逃げたことで動揺していた。


 弓持ちは岩棚から姿を消し、地上の三匹もじりじりと後退している。


 カイとスイが追わないと分かると、仲間を引きずるように別の通路へ逃げていった。


 空洞に静けさが戻る。


 残ったのは、荒い呼吸音だけだった。


 風牙狼が地面へ横たわっている。


 黒い鎖は消えた。


 しかし、前脚の傷は深く、長い間魔力を吸われていたせいか身体を起こせない。


 カイは大剣を構えたまま、ゆっくり近付いた。


「待って」


 スイが服の背を掴む。


「助けるって決めたけど、近付いて大丈夫とは限らないよ」


「分かってる」


「全然止まってないじゃん」


「ここから様子見る」


 カイは風牙狼から五歩ほど離れた位置で膝をついた。


 灰色の毛皮。


 鋭い牙。


 伏せた状態でも、自分たちよりずっと大きい。


 意識はある。


 青灰色の目が、カイを警戒するように睨んでいた。


「俺たちは敵じゃない」


 言葉が通じるとは思っていない。


 それでも、静かな声で伝える。


「鎖は切った。俺たちを襲わないなら、傷だけ見せてくれ」


 風牙狼の喉から、低い唸り声が漏れた。


 カイは動かない。


 目も逸らさなかった。


 力を見せつけるのではなく、逃げるつもりもないと伝える。


 スイはその半歩後ろへ立ち、《私の箱庭》を静かに広げた。


 淡い光が風牙狼の前脚へ届く。


 巨体がびくりと震えた。


 唸り声が一段強くなる。


「スイ、止める?」


「まだ。嫌がってるというより、驚いてるだけだと思う」


 領域の中へ入ったことで、傷の状態が伝わってくる。


 肉が裂けている。


 骨までは届いていない。


 ただ、黒い鎖が魔力の流れを乱していたせいで、自然治癒が止まっている。


 スイは光を強めすぎないよう注意しながら、風牙狼の身体を包んだ。


 乱れていた魔力が、少しずつ本来の流れへ戻っていく。


「治せそう?」


「傷を閉じるだけなら。でも、失った血と魔力はすぐに戻らない」


「立てるくらいにはなる?」


「分からない」


 スイの額から汗が落ちた。


 カイはすぐに気付く。


「無理するな」


「まだ大丈夫」


「さっきもそれ言ってただろ」


「今は本当に大丈夫」


「顔に出てる」


「カイにだけは言われたくないなぁ」


 軽口を返しながらも、スイの呼吸は少しずつ浅くなっている。


 風牙狼ほどの大きな生き物を領域へ入れ、乱れた魔力を整える。


 想像以上の消耗だった。


 カイは風牙狼を見た。


「悪い。全部は無理だ」


 獣へ向けて言う。


「スイを倒れさせるわけにはいかねぇから、歩けるくらいで止めるぞ」


 風牙狼の目が、僅かにスイへ動いた。


 言葉を理解したのかは分からない。


 それでも、先ほどまで続いていた唸り声が弱くなる。


 スイは前脚の傷が塞がり始めたところで、ゆっくりと領域を狭めた。


 淡い光が消える。


 その場で膝をつきかけた身体を、カイが支えた。


「ほら、大丈夫じゃない」


「ちょっと力抜けただけ」


「それを大丈夫じゃないって言うんだよ」


「カイ、言うようになったね」


「スイが何回も言うから覚えた」


「あはは……」


 笑い声にも、少し疲れが混じっている。


 カイは水袋を渡し、スイが飲むのを確認してから風牙狼へ視線を戻した。


 巨体がゆっくり動く。


 前脚を地面へつき、何度か身体を震わせる。


 一度は崩れたが、再び力を込めると立ち上がった。


 脚はまだ震えている。


 それでも、自分で歩ける程度には回復したようだった。


「よかった」


 スイが安堵の息を吐く。


 風牙狼はカイたちへ顔を向けた。


 近くで見ると、額から左目の上にかけて古い傷が走っている。


 野生の魔物。


 ここまで生き残ってきた力がある。


 助けたからといって、懐くような相手ではない。


 カイは大剣へ手を置きながら、進路を塞がないよう横へ退いた。


「行っていいぞ」


 風牙狼は動かなかった。


 青灰色の目で二人を見比べる。


 やがて鼻を鳴らすと、カイへ一歩近付いた。


「え?」


「カイ、動かないで」


「分かってる」


 大きな鼻先が、カイの胸元へ近付く。


 血と土に混じり、獣特有の匂いがした。


 風牙狼はカイの帯の内側へ顔を寄せる。


 そこには、スイからもらった木彫りの狼が結ばれていた。


 鼻先が木彫りへ触れる。


 風牙狼はしばらく匂いを嗅ぎ、それから小さく息を吐いた。


「気に入った?」


 カイが恐る恐る尋ねる。


「違うと思うよ」


「分かんねぇだろ」


「何となく」


 風牙狼は今度こそ二人へ背を向けた。


 しかし、逃げたゴブリンたちの通路ではなく、空洞の反対側にある細い道へ向かう。


 数歩進んだところで立ち止まり、振り返った。


「ついてこいってこと?」


 カイの耳が立つ。


「勝手に決めないで」


「でも、こっち見てるぞ」


「逃げ道を確認してるだけかもしれない」


 風牙狼は再び数歩進み、また振り返る。


 今度は短く吠えた。


「絶対ついてこいって言ってる」


「……私も、そう見えてきた」


 二人は顔を見合わせた。


 依頼の最奥へ続く道がどちらかは、地図だけでは分からなくなっている。


 ゴブリンたちがいたことで、内部の状況も想定と違っていた。


 風牙狼が向かう先に安全がある保証はない。


「どうする?」


 スイが尋ねる。


「少しだけ行く。道が違ったら戻る」


「傷ついた風牙狼を信用するの?」


「全部信用するわけじゃない。警戒しながら見る」


「分かった。私も感知を続ける」


 風牙狼は歩みを再開した。


 二人も少し距離を空けて後を追う。


 細い道は、緩やかに下っていた。


 先ほどまで吹いていた風が弱まり、代わりに水の流れる音が近付いてくる。


 道の途中には血の跡が残っていた。


 風牙狼が捕まる前に通ったのだろう。


 足取りは遅い。


 何度か止まりながらも、獣は確かな意志を持って先へ進んでいく。


「カイ」


「ん?」


「前世のこと、どれくらい分かる?」


 声は小さかった。


 先ほどまで戦っていたこともあり、互いに記憶について落ち着いて話す余裕がなかった。


 カイは風牙狼の背中を見ながら考える。


「全部じゃない。家とか仕事とか、細かいことは穴だらけだな」


「私も。名前やみんなのことは分かるけど、何年に何があったとかは曖昧」


「でも、俺が失敗だらけだったのは覚えてる」


「そこは鮮明なんだ」


「スイがよく笑ってたからな」


「笑うしかなかったんだよ」


「あはは」


 カイが笑う。


 洞窟へ入る前とは、同じ声でも少しだけ響きが違っていた。


 カイとして過ごした十三年。


 怪獣として生きた時間。


 どちらかへ戻ったわけではない。


 二つが重なり、今の自分を作っている。


「バイク、乗ってた」


 カイが呟く。


「うん。よく話してたね」


「この身体じゃ乗れないな」


「そもそも、この世界にないよ」


「作れない?」


「無理じゃない? 魔道具で似たものならあるかもしれないけど」


「探す目的増えたな」


「まだ増やすの?」


「仲間と酒と、バイクみたいな乗り物」


「最初の二つを忘れないでよ」


「忘れねぇって」


「順番は?」


「仲間、酒、乗り物」


「酒が二番なんだ」


「仲間と飲む酒を探すんだから、一緒みたいなもんだろ」


 スイは呆れながらも、どこか懐かしそうに笑った。


「カイらしいね」


「今も昔も?」


「うん。変わってない」


「スイもな」


「どこが?」


「しっかりしてるけど、結構ノリいいとこ」


「私はちゃんと考えてるよ」


「考えたうえで一緒に馬鹿やるだろ」


「カイが先に始めるから、仕方なくでしょ」


「それな!」


「肯定しないで」


 前を歩く風牙狼の耳が、二人の声へ反応するように一度動いた。


 しばらく進むと、通路の先が明るくなった。


 青白い光。


 天然の魔石ではない。


 壁一面に生えた小さな発光苔が、静かな水面を照らしている。


 そこは円形の石室だった。


 中央には浅い泉。


 奥の壁には、ギルドの紋章が刻まれた調査札が設置されている。


「最奥だ」


 スイが息を漏らす。


 地図に記されていた石室で間違いない。


 風牙狼は泉の傍らまで歩くと、静かに身体を横たえた。


 どうやら、この水場へ戻りたかったらしい。


 泉の縁には、古い獣の爪痕がいくつも残っている。


 風牙狼は以前から、この場所を棲み処にしていたのかもしれない。


「ここをゴブリンに奪われたのか」


 カイが周囲を見回す。


 石室に争った痕跡はない。


 おそらく、外へ出たところを捕らえられたのだろう。


 スイは調査札へ近付き、表面の紋様を確認した。


「壊れてない。魔力を流せば依頼は終わるよ」


「じゃあ先にやるか」


 二人は調査札へ手を置いた。


 冷たい石の感触。


 カイとスイが同時に魔力を流すと、刻まれた紋様が順番に光り始めた。


 銀色。


 淡い緑色。


 二色の光が中央で重なり、ギルドの紋章が浮かび上がる。


 登録完了を知らせる小さな音が鳴った。


「終わった?」


「うん。これで大丈夫」


 カイは大きく息を吐き、泉の縁へ腰を下ろした。


「初ダンジョン、結構大変だったな」


「洞窟鼠だけって話だったのにね」


「ゴブリンメイジまでいた」


「風牙狼も」


「ユニークスキルも分かった」


 カイの表情が急に曇る。


「ギルドで名前言わないと駄目かな」


「まだ気にしてるの?」


「一生気にすると思う」


「そのうち慣れるよ」


「スイはいいよな。《私の箱庭》だぞ。普通に格好いい」


「《愛を求める怪獣》も、意味を知ったら格好いいと思う」


「意味を説明しないと格好よくならない時点で駄目だろ」


「あはは!」


 スイの笑い声が石室へ響く。


 風牙狼が薄く目を開けた。


 睨まれているように見え、スイは少し声を抑える。


「ごめん」


「別に寝てないんじゃね?」


「休んでるんだよ。カイと違って」


「俺も宿で休んでただけだろ」


「寝息立ててたよ」


「考え事」


「目を閉じて?」


「集中してた」


「今も同じ言い訳なんだね」


「前世でも言ってた?」


「たぶん」


 戻ってきた記憶の中に、同じような会話があった気がする。


 明確な場面までは浮かばない。


 それでも、何度も繰り返した空気だけは分かる。


 カイは泉の水を手ですくった。


「飲めるかな」


「すぐ飲まないで」


「風牙狼は飲んでるぞ」


「魔物が飲めるからって、獣人も平気とは限らないよ」


「調べられる?」


「簡単になら」


 スイは小さな容器へ水を汲み、匂いと色を確かめる。


 魔力感知でも、濁った反応はない。


 毒草が溶け込んでいる様子もなかった。


「たぶん大丈夫。でも、持ってきた水があるならそっちを飲もう」


「慎重だなぁ」


「初めてのダンジョンでお腹壊したくないでしょ」


「それは嫌だ」


 カイは素直に水袋を開けた。


 二人で少し休み、保存食を口にする。


 風牙狼にも干し肉を近くへ置いたが、匂いを嗅ぐだけで食べなかった。


「肉、嫌いなのか?」


「警戒してるんじゃない?」


「毒入れてないぞ」


「分からないでしょ」


「俺、そんな悪そうに見える?」


「初対面なら、ちょっと」


「嘘だろ」


「大剣持ってる銀狼が近付いてきたら警戒するよ」


「スイは?」


「私は可愛い妖狐だから」


「自分で言う?」


「あはは!」


 風牙狼は二人の会話を気にする様子もなく、泉へ顎を乗せた。


 呼吸は先ほどより落ち着いている。


 カイは少し安心し、干し肉をそのまま置いて立ち上がった。


「帰るか」


「うん。日没までに入口へ戻らないと」


「風牙狼はどうする?」


「ここが棲み処なら、置いていくしかないよ。連れて帰れないでしょ」


「町に入れたら大騒ぎだな」


「ロウさんも困ると思う」


 カイは風牙狼の前へ立った。


「俺たち帰るからな」


 獣は目を開けた。


「ゴブリンがまた来たら、今度は捕まんなよ」


「カイ、言い方」


「心配してんだよ」


 風牙狼の尾が、地面を一度だけ叩いた。


 返事のようにも見える。


 カイは少し笑い、背を向けた。


「行こう、スイ」


「うん」


 二人が石室の入口へ向かう。


 数歩進んだところで、背後から爪が石を掻く音がした。


 振り返ると、風牙狼が立ち上がっている。


 まだ脚は震えていた。


 それでも、ゆっくりとこちらへ歩き始める。


「ついてくる?」


「入口まで送るつもりなのかな」


「それなら助かるな」


「途中で倒れそうなら休ませようね」


 三人ではなく、二人と一匹。


 奇妙な一行は、来た道を戻り始めた。


 ゴブリンたちのいた空洞へ戻る頃には、すでに敵の気配は消えていた。


 逃げた個体が戻ってくる可能性を考え、カイは先頭を歩く。


 スイは中央。


 風牙狼が最後尾をついてくる。


「立場逆じゃね?」


 カイが後ろを見た。


「何が?」


「普通、風牙狼が前の方が安全じゃない?」


「怪我してる相手に戦わせるの?」


「そうじゃなくて、匂いとかで敵に気付けそうだろ」


「それならカイも狼だよ」


「銀狼の獣人と風牙狼じゃ、あっちの方が鼻良さそうじゃん」


 その時、風牙狼が低く唸った。


 カイとスイの足が止まる。


 前方の岩陰。


 微かな物音がする。


「敵?」


 スイが魔力を探る。


「一匹。小さい」


 岩陰から、傷を負った洞窟鼠が姿を見せた。


 最初に戦った個体だろう。


 カイたちを見ると身構えたが、後ろの風牙狼へ気付いた瞬間、身体を翻して逃げていった。


「役に立ったな」


 カイが得意そうに言う。


「カイは何もしてないけどね」


「一緒に来てもらった」


「頼んでないよ」


「結果的に」


「そういうことにしておく」


 落とし穴へ辿り着くと、風牙狼は助走もつけず軽々と飛び越えた。


 怪我をしていても、二人より余裕がある。


「すげぇ」


「カイ、負けてるよ」


「俺だって跳べる」


「さっき滑ってたけど」


「今度は滑らない」


 カイは先に穴を跳び越え、着地と同時に両足で踏ん張った。


 今度は危なげなく止まる。


「見た?」


「見たよ」


「余裕だろ」


「普通に跳んだだけだよ」


「褒めろって」


「はいはい、すごいすごい」


「適当だなぁ」


 スイも縄を使い、無事に穴を越える。


 風牙狼は向こう側で待ち、二人が揃うと再び歩き出した。


 入口へ近付くにつれ、外の光が見えてくる。


 冷たい洞窟の風に、森の匂いが混じり始めた。


「戻ったら、何から報告する?」


 カイが聞く。


「ゴブリンメイジと風牙狼。内部の地形。調査札への登録。それからユニークスキル」


「最後、いらなくない?」


「一番大事かもしれないよ」


「能力が分かっただけで、依頼とは関係ないだろ」


「ダンジョンの中で新しい能力が発現したら、安全のために報告するって講習で習ったよ」


「聞いてなかった」


「知ってた」


「スイ、俺の分も説明して」


「名前も?」


「効果だけ」


「名称欄があったら?」


「空欄」


「駄目って言われるよ」


「じゃあ《仲間がいると強くなる》で」


「虚偽の報告になるんじゃない?」


「意味は合ってる」


「正式名称じゃないでしょ」


 カイは心底嫌そうに耳を伏せた。


「ロウさんだけならまだいいけど、受付に持ってかれるんだろ?」


「たぶん記録されるね」


「一生残る?」


「冒険者登録してる間は残るんじゃないかな」


「もうユニークスキルなしでいい」


「使ってたじゃん」


「あれは身体強化」


「矢を弾く時、急に速くなってたよ」


「気合い」


「ゴブリン三匹まとめて押し退けたのも?」


「銀狼の力」


「肩の傷を掠っただけで済んだのも?」


「運」


「全部通ると思ってる?」


「……無理そう」


「あはは!」


 入口が近付く。


 外ではロウが岩へ腰掛けていた。


 二人の姿に気付くとすぐに立ち上がる。


 安堵した表情が、直後に険しくなった。


 二人の後ろから、巨大な風牙狼が現れたからだ。


 ロウは剣へ手をかける。


「止まれ!」


 風牙狼も足を止め、低く身構えた。


「待って、ロウさん!」


 スイが二者の間へ入る。


「敵じゃありません!」


「風牙狼が敵ではないと、どう判断した?」


「俺たちが助けた」


 カイが答える。


「ゴブリンに捕まって、魔力を吸われてたんだ。鎖を壊して傷を治したら、ここまでついてきた」


「ゴブリン?」


 ロウの目が鋭くなる。


「中にいたのは、何匹だ」


「六匹。普通のが五匹と、ゴブリンメイジが一匹」


「ゴブリンメイジだと?」


「黒い鎖を使ってた。風牙狼から魔力を吸ってたと思う」


 ロウは二人の姿を素早く確認した。


 カイの肩には、影の槍が掠めた傷がある。


 スイの顔にも疲労が出ていた。


「救助信号を使わなかった理由は?」


「倒せると思ったから」


 カイが即答する。


 ロウの眉間へ皺が寄った。


 続けて何か言われる前に、カイは言葉を重ねる。


「戦いたかったからじゃない。数と位置を確認して、無理なら戻るって二人で決めた。風牙狼を助けて、逃げ道を作るところまで。それ以上は追わないって」


 ロウは黙って聞いていた。


「ゴブリンメイジは逃げた。残りも追ってない。調査札には魔力を登録した」


「地図と違う場所は?」


「最初の分岐の先に落とし穴。右の通路から空洞へ続いてました。風牙狼が案内してくれた道から最奥へ行けます」


 今度はスイが説明する。


「ゴブリンメイジの魔力は、事前資料にありませんでした。普通のゴブリンも、職種持ちが混じっています。もう一度、ギルドで調査した方がいいと思います」


 ロウは暫く二人を見つめた。


 やがて剣から手を離す。


「報告は後で詳しく聞く。まず傷を見せろ」


「浅いよ」


「自分で決めるな」


 カイは素直に肩を見せた。


 革鎧が切れ、皮膚が黒く変色している。


 見た目ほど深くはないが、影属性の魔力が残っていた。


 ロウは小袋から薬を出し、傷口へ塗る。


 冷たい痛みが走り、カイの耳が跳ねた。


「痛っ」


「平気なんだろ」


「平気だけど痛いもんは痛い」


「スイは?」


「魔力を使いすぎただけです。傷はありません」


「箱庭、広げすぎた」


 カイが横から言う。


「カイ」


「事実だろ」


「後で自分で言うつもりだったのに」


「隠すなって約束したじゃん」


 スイは少し不満そうに頬を膨らませたが、否定はしなかった。


「箱庭とは何だ?」


 ロウが尋ねる。


 二人の間に、僅かな沈黙が落ちる。


 スイは自分の足元を見てから、静かに答えた。


「私のユニークスキルです。《私の箱庭》」


 ロウは驚いた様子を見せたが、すぐに表情を戻した。


「効果は?」


「一定範囲を自分の領域にします。中にある物や生き物の位置が分かって、味方の傷や魔力の回復も少し早くなるみたいです」


「初めて使ったのか?」


「はい。まだ範囲や消費量は分かりません」


「帰ったら測定が必要だな」


 ロウは手帳へ簡単に記録し、次にカイを見た。


「お前も何かある顔をしているな」


「ない」


「あるよ」


「スイ!」


「安全のために報告しないと」


「能力だけでいいだろ」


 ロウの視線が二人の間を往復する。


「名称に問題があるのか?」


「問題しかない」


「いい名前ですよ」


「笑った奴が言うな」


 スイは口元を押さえながらも、肩を震わせていた。


 カイは逃げ場を探すように周囲を見る。


 森。


 洞窟。


 ロウ。


 風牙狼。


 どこにも助けはない。


「……《愛を求める怪獣》」


 消え入りそうな声だった。


「聞こえない」


「聞こえてただろ!」


「正確に記録する必要がある」


 ロウは真顔だった。


 だからこそ、カイの耳がさらに伏せる。


「《愛を求める怪獣》!」


 森の中へ声が響いた。


 少し離れた枝から、鳥が驚いて飛び立つ。


 スイが堪え切れずに笑い出した。


「あはは! カイ、大声で言うから!」


「ロウさんが聞こえないって言うからだろ!」


「すまない。最初から聞こえていた」


「この人まで!」


 ロウの口元が僅かに緩んでいる。


 カイは顔を手で覆った。


「もう帰りたい」


「効果を説明しろ」


「容赦ねぇな……」


 カイは諦め、大まかな効果を伝えた。


 自分が仲間と認めた相手が近くにいるほど、身体能力と魔力が高まる。


 仲間を守ろうとした時は、さらに強い力が出る。


 ただし、正確な上昇量や距離は分からない。


「感情を条件とする強化系か」


 ロウは真面目に手帳へ書き込んでいる。


「名前との整合性もある」


「分析すんなよ」


「正式な記録に必要だ」


「絶対、ギルドで他の奴にも見せるだろ」


「測定担当と受付責任者には共有する」


「最悪だ」


「悪用されないためにも、能力の詳細は一般公開されない。安心しろ」


「名前だけでも恥ずかしいんだよ」


「そのうち二つ名になったりして」


 スイが楽しそうに言う。


「やめろ。絶対やめろ」


「《愛を求めるカイ》」


「怪獣より恥ずかしくなってんじゃん!」


 カイの抗議に、スイがまた笑った。


 ロウも小さく息を漏らし、それから風牙狼へ目を向ける。


 獣は少し離れた木陰に座り、こちらを見ていた。


「こいつは、どうするつもりだ」


「入口まで来たら帰ると思ってた」


 カイが答える。


「でも、まだいるね」


 スイも首を傾げる。


 ロウが一歩近付くと、風牙狼の喉から低い音が漏れた。


 カイやスイへ向けたものより、明らかに強い警戒だった。


「無理に近付かない方がいい」


「分かっている。町へ連れていくことはできないぞ」


「連れてかないよ」


「本当に?」


 スイがカイを見る。


「何で俺に聞くんだよ」


「カイ、気に入ってるでしょ」


「格好いいとは思ってる」


「ついてきたら?」


「森までだろ」


「町の前まで来たら?」


「……考える」


「連れてく気じゃん」


「いや、町は無理なの分かってるって」


 風牙狼が立ち上がった。


 ゆっくりとカイへ近付き、胸元の木彫りへ鼻先を寄せる。


 それから、カイの手へ額を一度だけ押し当てた。


 硬い毛並みの下に、温かな体温がある。


 カイは驚き、すぐには手を動かせなかった。


 やがて恐る恐る、風牙狼の額へ触れる。


「……また会えるか?」


 風牙狼は返事をしない。


 鼻を鳴らし、木々の奥へ顔を向けた。


 数歩進み、振り返る。


 青灰色の目が、カイとスイを静かに見ていた。


「元気でね」


 スイが声をかける。


「今度は捕まんなよ!」


 カイが手を振る。


 風牙狼は尾を一度だけ揺らし、森の奥へ走り出した。


 怪我の影響で速さは落ちていたが、足取りは確かだった。


 灰色の姿は木々の間へ溶け、やがて気配も遠ざかっていく。


「行ったね」


「ああ」


 カイは風牙狼が消えた場所を見つめていた。


 手のひらには、まだ毛並みの感触が残っている。


「寂しい?」


「ちょっと」


「また会えるかもしれないよ」


「そうだな」


 カイは帯の内側にある木彫りの狼へ触れた。


 幼い頃にスイから受け取った約束の証。


 同じ狼でも、今の風牙狼とはまるで違う。


 それでも、どこかで繋がっているように思えた。


「帰るぞ」


 ロウが言った。


「日が落ちる前に町へ戻る。歩きながら、内部の状況を詳しく聞かせてもらう」


「酒は?」


 カイが尋ねる。


「帰還後は報告と治療が先だ」


「終わったら?」


「好きにしろ。ただし一杯までだ」


「二杯」


「一杯」


「初ダンジョン攻略したんだぞ?」


「傷を負い、想定外の敵と遭遇した直後だ」


「じゃあ薄いやつ二杯」


「カイ」


 スイが呆れた声で名前を呼ぶ。


「何だよ。スイも飲むだろ?」


「飲むけど、一杯でいいよ」


「裏切ったな」


「怪我人に合わせてるの」


「これくらい平気だって」


「さっき薬塗られて痛がってたじゃん」


「あれは薬が痛かった」


 言い合いながら森を戻る。


 行きには三人だった道。


 帰りも人数は同じだったが、二人の内側には朝までなかったものが増えていた。


 途切れていた人生の続き。


 遠い場所で待っているかもしれない仲間たちの名前。


 そして、自分たちの想いを形にした力。


 どれも、まだ完全には扱えない。


 記憶には抜け落ちた部分があり、ユニークスキルの性質も分からないことばかりだった。


 それでも、進む先は見えている。


「スイ」


「なに?」


「仲間、絶対いるぞ」


「どうして?」


「俺たちがこうやって会えたんだ。みんなも、どっかで生きてる」


 根拠はない。


 けれど、カイの声には迷いがなかった。


 スイは少しだけ目を細め、前を向く。


「うん。いるよ」


「見つけような」


「もちろん」


「全員見つけたら、すげぇ酒開けよう」


「また酒の話?」


「再会祝いだぞ。必要だろ」


「何年後になるか分からないよ」


「何年でもいい。見つけるまで旅すればいいじゃん」


 木々の隙間から、傾き始めた光が差し込む。


 行きよりも長く伸びた三人の影が、落ち葉の上で揺れていた。


 カイは肩の傷を庇いながらも、足を止めない。


 スイも疲れていたが、その隣を同じ速さで歩いている。


 遠く離れた仲間たちが、どこにいるのかは分からない。


 同じ時代にいるのか。


 同じ姿で生きているのか。


 自分たちのことを覚えているのか。


 何一つ確かなことはなかった。


 それでも、二人はもう知っている。


 一度離れても、再び出会えることを。


「カイ、夕飯どうする?」


「肉」


「昨日も肉だったよ」


「ダンジョン攻略したから、今日はいいだろ」


「理由になってないよ」


「酒に合う」


「一杯だけね」


「二杯」


「一杯」


「じゃあ大きい杯で一杯」


「駄目」


「あはは!」


 二人の声が、夕暮れの森へ溶けていく。


 初めてのダンジョンで手に入れたものは、宝箱でも高価な魔道具でもなかった。


 それよりもずっと昔から持っていたものを、二人はようやく両手で抱え直した。


 忘れないためではない。


 これから先へ持っていくために。


 カイとスイは並んで歩く。


 まだ見ぬ仲間と、まだ知らない世界へ続く道を。

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