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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
間章 獣人の約束

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第6話 忘れていた名前 前編


 冒険者になってから、三か月が過ぎた。


 カイとスイは、まだ南の宿場町を拠点にしていた。


 最初に泊まった《旅籠・朝霧》の二人部屋も、今ではすっかり見慣れたものになっている。窓際には乾燥させている薬草が吊るされ、壁には周辺の地図。寝台の間に置かれた小さな卓には、スイの帳簿と、カイが里から持ち出した木彫りの駒が並んでいた。


 十個も持ってきた駒は、今のところ二個しか使われていない。


 残りは荷袋の底へ押し込まれたままだった。


「これ、やっぱりいらなかったんじゃない?」


 朝食を終えたスイが、卓に残された駒を指先で転がす。


 狼を模した駒は、何度も卓から落とされたせいで片方の耳が少し欠けていた。


「使ってるだろ」


「二個だけね。残り八個は?」


「これから仲間が増える」


「三か月経ったけど、増えてないよ」


「まだ三か月だろ。旅は長いんだから、そのうち使うって」


「使わなかったら、次の町で置いていこうね」


「絶対使う」


 カイは駒を取り上げ、荷袋の中へ戻した。


 その荷袋も、旅立ちの日よりずいぶん軽くなっている。


 使わなかった道具は売り、必要な物だけを選び直した。保存食の量も、歩く距離と町の位置を見て決めるようになった。


 三か月前の二人なら、考えもしなかったことだった。


 冒険者登録の試験は、二人とも問題なく合格した。


 カイは重い木剣を豪快に振り回しながらも、相手の動きをよく見ていると評価された。スイは短剣と基礎魔法を組み合わせ、相手との距離を崩さない堅実な戦い方を見せた。


 二人の連携も、年齢を考えれば十分に高い。


 それでも冒険者としての経験がないため、最初はGランクからの登録となった。


 カイは不満そうにしていたが、依頼を受け始めるとすぐに気にしなくなった。


 街道脇での薬草採取。


 農地を荒らす角兎の追い払い。


 行方不明になった家畜の捜索。


 商人の荷下ろし。


 町の周辺に現れた小型魔物の討伐。


 地味な依頼ばかりだったが、どれも旅を続けるうえでは大切な経験になった。


 依頼人への挨拶。


 報告書の書き方。


 魔物の素材を傷付けずに持ち帰る方法。


 見慣れない植物へ不用意に触れないこと。


 曇り空でも雨具を持つこと。


 そして、カイへ財布を預けないこと。


 最後の一つだけは、最初から分かっていた。


「今日の依頼、何時からだっけ?」


 カイは剣帯を締めながら尋ねた。


「朝の三つ鐘が鳴る前にギルド。依頼主と合流して、そのまま北の森へ向かう」


「依頼主って、ギルドの人だろ?」


「案内役も兼ねてるって。初めてのダンジョンだから、入口までは同行してくれるみたい」


 スイは卓に広げていた紙を折り畳んだ。


 そこには、今回向かう場所について簡単な情報が記されている。


 北の森にある、小規模な洞窟型ダンジョン。


 町から歩いて半日ほど。


 内部で確認されているのは、角兎や洞窟鼠といったGランク相当の魔物が中心。深部には低級のゴブリンが棲み着くこともあるが、定期的に冒険者が調査しているため、大きな群れは存在しないとされていた。


 最初のダンジョンとしては、比較的安全な場所だった。


 依頼内容は、内部の調査と、最奥に設置された調査札への魔力登録。


 討伐が目的ではない。


 道を確認し、必要な判断をしながら戻ってくる。


 新人冒険者がダンジョン探索へ進めるかを確かめる、ギルドの試験も兼ねた依頼だった。


「やっとだなぁ」


 カイが口元を緩める。


「何が?」


「ダンジョンだよ。三か月待った」


「カイが最初の依頼から入りたがってただけで、普通はこのくらい準備するんだって」


「角兎を追いかけるより、絶対面白いだろ」


「角兎に蹴られて転んだ人が言ってもね」


「あれは地面が滑った」


「晴れてたよ」


「石があった」


「避ければよかったじゃん」


「あいつが急に曲がったんだって」


 スイは堪え切れずに笑った。


「あはは! カイ、顔から畑に突っ込んでたよね」


「忘れろって」


「依頼主のおばあちゃん、心配するより先に笑ってた」


「スイもずっと笑ってただろ」


「だって、耳に葉っぱ付いてたし」


「取ってくれればいいじゃん」


「似合ってたから、そのままにした」


「仲間の扱いじゃねぇだろ」


「怪我してないのは分かってたから」


 カイは不満そうに口を尖らせたものの、本気で怒ってはいない。


 荷袋を背負い、腰の剣を軽く叩く。


 この三か月で、武器も変わっていた。


 里から持ってきた片手剣では、カイの力を十分に活かせなかった。討伐した魔物の素材を売り、いくつかの依頼を重ねて金を貯め、町の鍛冶屋から幅広の大剣を買った。


 大人が扱うバスタードソードより少し短く、十三歳の身体に合わせて作られた物だった。


 それでも一般的な剣よりは重い。


 鍛冶屋にはもっと軽い武器を勧められたが、カイは試し振りをした瞬間にこれを選んだ。


 スイは以前と変わらず、二本の短剣を腰へ差している。


 ただし、投擲用の小さな刃と、薬草から作った簡易の傷薬が装備へ加わっていた。


「水袋」


「入れた」


「保存食」


「入れた」


「火打ち石」


「ある」


「縄」


「あるって」


「予備の灯り」


「それもある。スイ、昨日も確認しただろ」


「出発前にも確認するの。ダンジョンの中で忘れたって気付いても遅いから」


「俺は全部覚えてる」


「じゃあ、魔石灯はどこ?」


 カイの手が止まった。


 荷袋の上から何度か触れ、左側の小袋を開く。


 中に入っていたのは干し肉だった。


 反対側を探し、着替えを掻き分ける。


「……どっかにある」


「忘れてるじゃん」


「入れたのは覚えてる」


「場所を覚えてないなら同じだよ」


 スイは自分の荷袋から予備の魔石灯を取り出し、カイへ差し出した。


「二つ持ってきてるから、一つ貸す」


「さすがスイ」


「褒めても駄目。今日の夕食はカイが買うこと」


「魔石灯一個で飯一回?」


「忘れ物への罰」


「持ってはいるって」


「じゃあ見つけて」


 カイはもう一度、自分の荷袋を探った。


 底から、布に包まれた魔石灯が出てくる。


「あった」


「見つかったね」


「夕飯は?」


「自分の分は自分で払って」


「いつもどおりじゃん」


「罰はなしにしてあげる」


「優しいなぁ」


「普通だよ」


 スイは予備の魔石灯をしまい、宿の部屋を見回した。


 窓は閉めた。


 灯りも消してある。


 帳簿と財布は、荷袋の内側へ入れた。


「行こうか」


「おう」


 二人が階段を下りると、宿の主人が厨房から顔を出した。


「今日は例のダンジョンか?」


「うん。夕方までには帰る予定」


 カイが答える。


「予定どおりに戻れそうになければ、無理に夜道を歩くな。森の入口に、ギルドが管理してる避難小屋がある」


「分かってる」


「分かってるならいい。初めての場所では、帰る余力を残しておけよ」


 カイは一瞬、三か月前なら「大丈夫」とだけ答えていたかもしれないと思った。


 今も大丈夫だとは思っている。


 自分とスイなら、低級ダンジョンで困ることはない。


 それでも、何が起こるか分からないのが外の世界だということも、少しずつ知り始めていた。


「危ないと思ったら戻るよ」


 そう答えると、宿の主人は満足そうに頷いた。


「成長したな」


「俺、最初からこんな感じだっただろ」


「最初の日、宿より先にギルドへ走ろうとしてた奴が?」


「……スイが言った?」


「見れば分かった」


「顔に書いてあったんじゃない?」


 スイが横から笑う。


「カイって分かりやすいから」


「またそれ言う」


 二人は主人へ手を振り、朝の通りへ出た。


 空は薄く曇っていた。


 雨の気配はないものの、風はいつもより冷たい。


 宿場町の朝は早い。


 商人たちはすでに荷車を動かし、軒先では店主たちが品を並べている。温かな汁物の匂いが漂い、通りの向こうでは焼き餅を売る声が響いていた。


 初めて町へ来た日には、何もかもが珍しくて足を止めていた。


 今では人の流れを避けながら歩き、近道もいくつか覚えている。


 ただし、屋根の上は使わない。


 あの日の店主と顔を合わせるたびに、スイから念を押されていた。


 冒険者ギルドへ着くと、受付台の前にはすでに一人の男性が待っていた。


 三十代ほどの人間の男。


 革鎧の上から深緑色の外套を羽織り、腰には剣と複数の小袋を下げている。


 以前、冒険者登録の実技を担当した試験官だった。


「おはようございます、ロウさん」


 スイが先に頭を下げる。


「おはよう。時間どおりだな」


 ロウは二人を見渡し、装備を確認した。


「カイ、大剣を買ったのか」


「やっとな。前の剣だと軽すぎた」


「武器に振り回されてはいないようだが、洞窟の中では広い場所ばかりじゃないぞ」


「狭かったら突くか、短く持つ」


「考えているならいい。スイの方は変わらず短剣か」


「はい。投げ刃と薬も持っています」


「魔力感知は?」


「前よりは分かるようになりました。でも、まだ距離があると曖昧です」


 盗人が使った革袋の術式を見抜いてから、スイはギルドの職員に魔力感知の基礎を教わっていた。


 目を閉じ、周囲へ意識を広げる。


 空気の中に漂う魔力と、術を使った者が残した流れを区別する。


 まだ完璧ではない。


 それでも、数歩先にある魔石や、魔力を持つ生物の大まかな位置なら捉えられるようになっていた。


「中では目や耳だけを頼るな。魔物は物陰だけでなく、天井や地面にも潜む。違和感があれば小さなものでも共有しろ」


「分かりました」


「俺も?」


「特にお前だ」


「俺、結構周り見てるって」


「見ているなら、角兎に蹴られる前に避けられたはずだ」


 スイが口元を押さえた。


「それ、ギルドでも知られてるの?」


「依頼報告書に書いてあった」


「誰が書いたんだよ」


「私」


「スイ!」


「事実は書かないと駄目でしょ」


「あはは」と笑うスイを横目に、カイは深くため息をついた。


「絶対いつか見返す」


「何を?」


「角兎を倒す」


「もう依頼終わってるよ」


「次に会ったら」


「追い払いの依頼で倒したら怒られるからね」


「分かってるって」


 ロウは二人のやり取りをしばらく眺め、それから小さく笑った。


「緊張はしていないようだな」


「楽しみの方が大きい」


 カイは迷わず答えた。


 スイも自分の胸元へ手を当てる。


「私は少し緊張してます。でも、行きたいです」


「それくらいがちょうどいい。怖さを忘れた奴から、帰れなくなる」


 ロウは受付台へ置かれていた二枚の依頼書を取り、二人へ渡した。


「改めて依頼内容を確認する。北の森にある《風抜けの洞》へ入り、内部の状態を調査。最奥の石室に設置された札へ、二人の魔力を登録すること」


 紙の下部には、簡単な地図が描かれている。


 入口から最奥までは、順調なら二時間ほど。


 ただし内部の通路は魔力の影響で少しずつ形を変えるため、地図と完全には一致しない。


「討伐は必要な場合のみ。魔物を見つけても、避けられるなら避けていい。素材を持ち帰れば買い取りはするが、欲を出して荷物を増やしすぎるな」


「倒せることと、倒す必要があることは違う」


 カイが呟く。


 ロウがわずかに眉を上げた。


「いい言葉だな」


「里で失敗して覚えた」


「なら、忘れるな」


 スイがカイの横顔を見る。


 野営訓練で山犬に遭遇した夜。


 獲物を捨て、戦わず逃げた。


 あの時のカイなら、目の前に魔物がいれば迷わず剣を抜いていたかもしれない。


 今も戦いたい気持ちそのものは変わっていない。


 けれど、その力をいつ使うべきかは、少しずつ考えるようになっていた。


「ロウさんは、どこまで一緒に来るんですか?」


 スイが尋ねる。


「ダンジョンの入口までだ。内部へ入ってからは二人だけで進んでもらう」


「何かあっても助けに来ない?」


 カイの問いに、ロウは首を横へ振った。


「救助用の魔道具は持たせる。紐を引けば入口にいる俺へ信号が届くが、内部の位置によっては到着まで時間がかかる」


 ロウは赤い魔石の付いた細い筒を取り出した。


「使った時点で依頼は失敗になる。ただし、命より大切な依頼はない。迷ったら使え」


 スイが両手で受け取り、荷袋の取り出しやすい場所へ入れる。


「私が持ちます」


「頼む」


「カイに持たせたら、場所を忘れそうなので」


「魔石灯は見つけただろ」


「探してからね」


「まだ言う?」


「今日のことだよ」


 必要な説明を終えると、三人は町の北門から外へ出た。


 田畑の間を抜け、緩やかな街道を進む。


 北の森までは、歩いて二時間ほどだった。


 道中、ロウはダンジョンについて話してくれた。


 この世界のダンジョンは、自然に生まれた洞窟とは違う。


 地中や遺跡に魔力が長く溜まり、周囲の空間そのものが変質することで生まれる。内部では鉱石や薬草が育ち、時には宝箱のような形で魔道具が現れることもある。


 その一方で、魔物も集まりやすい。


 長く放置すれば内部の魔力が増し、強い個体が生まれる可能性もある。


 定期的な調査と間引きは、周辺の町を守るためにも必要だった。


「宝箱、本当に出るの?」


 カイが目を輝かせる。


「出ることはある。ただし《風抜けの洞》は何度も探索されている。期待はしない方がいい」


「残ってるかもしれないだろ」


「見つけても、すぐ開けないでね」


 スイが釘を刺す。


「罠があるって話だろ? 分かってる」


「カイは宝箱を見たら忘れそう」


「さすがに忘れねぇよ」


「興奮して走り出したら、後ろから止めるから」


「信用なさすぎない?」


「カイのことを信用してるから言ってるの」


「それ、どういう意味?」


「宝箱を見た時のカイが、我慢できないって信用してる」


「それは信用じゃねぇ」


 ロウが前を歩きながら笑う。


「相棒に性格を理解されているのは悪いことじゃない」


「俺のいいところも理解してほしい」


「分かってるよ」


 スイはすぐに答えた。


「カイが前にいると、安心して周りを見られる」


 カイの足が一瞬だけ止まりかける。


 からかわれると思っていたのか、予想していなかった顔だった。


「……急に真面目なこと言うなよ」


「いいところ言えって言ったじゃん」


「そうだけど」


「照れてる?」


「照れてねぇ」


 黒に近い灰色の耳が、わずかに横へ伏せている。


 スイはそれを見逃さなかったが、何も言わずに笑った。


 代わりに、カイが少しだけ歩調を速める。


「スイも、後ろにいると安心する」


「本当?」


「俺が見てないとこ、ちゃんと見てるから」


「うん」


「だから、今日も頼む」


「任せて」


 短い会話だった。


 けれど二人の足取りは、先ほどより少しだけ揃っていた。


 やがて畑が途切れ、北の森へ入る。


 昼前だというのに、木々の下は薄暗い。


 湿った落ち葉を踏む音が続き、頭上では枝同士が風に擦れている。


 魔物の気配はなかった。


 時折、小動物が茂みの中を走り抜けるだけだ。


 スイは歩きながら周囲へ意識を広げる。


 土の下。


 木の陰。


 遠くを流れる小川。


 いくつもの微かな魔力が、暗闇に浮かぶ灯りのように感じられた。


 以前よりも鮮明だった。


「どうだ?」


 ロウが尋ねる。


「小さい生き物が何匹かいます。魔物か普通の動物かまでは分かりません。でも、こっちへ近付いてくる感じはないです」


「十分だ。距離と数が分かるだけでも、奇襲を受ける可能性は下がる」


「スイ、便利だな」


「まだ練習中だよ」


「俺も何か感じてみる」


 カイは目を閉じ、歩きながら眉間へ力を入れた。


「危ないよ」


「大丈夫」


 直後、木の根へ足を引っかける。


「うおっ」


 倒れる前に踏み止まったが、スイはすぐ隣で吹き出した。


「あはは! 前見て!」


「今のは根が悪い」


「根は動いてないよ」


「急に出てきた」


「ずっとそこにあったって」


 ロウは振り返らずに言った。


「感知が苦手なら、まず目を使え」


「はい」


 カイは素直に返事をし、それから小声で付け加える。


「俺、こういうの向いてないかも」


「カイは耳と鼻がいいでしょ。それで十分じゃない?」


「スイみたいに魔力で分かったら格好いい」


「転びながら言ってもね」


「誰にも言うなよ」


「もうロウさんが見てるよ」


「ギルドには報告しないでください」


「必要なら書く」


「必要ないだろ!」


 森の奥へ進むにつれ、空気が少しずつ変わっていった。


 風が冷たくなり、周囲の音が遠ざかっていく。


 虫の声が途切れた。


 鳥の羽音も聞こえない。


 代わりに、地面の下から低く響くような音が伝わってくる。


 カイの耳が立った。


「水?」


「違う」


 スイは足を止め、目を閉じる。


「風だと思う。穴の中を通ってる」


 ロウが木々の間を指差した。


「あれが《風抜けの洞》だ」


 苔むした岩壁の下に、黒い裂け目が開いていた。


 人が二人並んで通れるほどの入口。


 周囲にはギルドが立てた杭と、立入者を記録するための魔道具が設置されている。


 穴の奥から絶えず風が吹き出し、入口付近の草を揺らしていた。


 その風が頬へ触れた瞬間、スイの足が止まった。


「……え?」


 胸の奥が、強く脈打つ。


 ただの風だった。


 湿った土と、冷たい石の匂い。


 ダンジョンから漏れ出す濃い魔力。


 初めて感じるはずのもの。


 それなのに、どこか懐かしかった。


 暗い画面。


 並んで表示された二人の名前。


 耳元から聞こえる、誰かの笑い声。


 ――行く?


 ――行く行く。どうせなら奥まで。


 知らないはずの声。


 けれど、それが自分とカイの声だと、スイには分かった。


「スイ?」


 カイが振り返る。


 その瞬間、カイの視界にも別の景色が重なった。


 洞窟の入口ではない。


 手のひらに収まる小さな画面。


 そこに映る、作り物の迷宮。


 誰かが失敗し、誰かが笑う。


 聞き慣れた声が重なり合い、胸の奥へ沈んでいた何かを揺らした。


『怪獣、先に行きすぎ!』


『大丈夫だって。何とかなる何とかなる』


『それで何回失敗したと思ってるの?』


『失敗だらけだからさ。今さら怖いもんなんかねぇよ』


 自分の声だった。


 カイエンとして生まれるより前。


 まだ銀狼の耳も尾も持っていなかった頃。


 怪獣と呼ばれていた、自分の声。


「……怪獣」


 カイの唇から、名前が零れる。


 スイが目を見開いた。


 忘れていたわけではない。


 夢の中で何度も触れていた。


 けれど今、ぼやけていた輪郭が急に形を持ち始める。


 夜の街。


 風を切って走るバイク。


 画面越しに集まった仲間たち。


 何でもない話で笑った時間。


 アム。


 ゆうき。


 ぽぽ。


 グレイ。


 さわら。


 あすか。


 そして、隣にいた怪獣。


「カイ……私」


 スイが耳元の鈴へ触れる。


 前の世界で呼ばれていた自分の名前。


 黒葉翠。


 スイ。


 ただの呼び名ではない。


 自分が生きていた証だった。


 カイも帯の内側へ手を伸ばし、木彫りの狼を握った。


 過去の記憶と、今の人生。


 どちらかが消えることはなかった。


 父の大きな手。


 母の料理。


 銀狼の里で過ごした十三年。


 それらと並ぶように、前世の記憶が一つずつ戻ってくる。


「思い出した?」


 スイの声が震えていた。


「ああ。全部じゃないけど……分かる」


 カイは自分の胸元を押さえる。


「俺、怪獣だった」


「うん」


「スイは、黒葉翠」


「うん。私だよ」


 互いの顔は、前世と同じではない。


 それでも、笑い方も、言葉の癖も、立ち方も変わっていなかった。


 ずっと隣にいた。


 知らないまま、もう一度出会い直していた。


 カイはしばらく何も言えなかった。


 やがて息を吐き、困ったように笑う。


「何だよ。最初からずっと、スイだったんじゃん」


「カイもね」


「あの収穫祭で会った時、もっと早く気付けたかもな」


「子供だったし、記憶も夢みたいだったから仕方ないよ」


「でも、また会えてた」


「うん」


 スイの目元が少しだけ滲む。


 けれど涙は落ちなかった。


 代わりに、いつものように笑う。


「あはは! 今さら思い出すの、遅すぎない?」


「それな。三か月も普通に旅してたぞ」


「前世でも一緒に遊んで、今世でも幼馴染って、どれだけ腐れ縁なの」


「いいじゃん。二回分遊べる」


「二回じゃ終わらないかもしれないよ」


「それなら、そのたび探す」


 カイは迷わず言った。


「何回離れても、また見つければいいだろ」


 スイはしばらくカイを見つめていた。


 それから、小さく頷く。


「うん。約束ね」


「また増えたな」


「大事なやつだから」


「なら覚えとく」


 二人の様子を見守っていたロウは、事情を尋ねなかった。


 ただ、入口から少し離れた場所に立ち、静かに待っている。


 何かを思い出したのだろうとは分かっても、それが転生前の記憶だとまでは知らない。


 カイは一度深く息を吸った。


 ダンジョンから吹く風が、髪と耳を揺らす。


 先ほどまでとは違って見えた。


 初めて立つ場所でありながら、自分たちの人生が再び繋がった場所でもある。


「行けるか?」


 ロウが尋ねる。


 カイとスイは顔を見合わせた。


 戻ってきた記憶は、まだ完全ではない。


 突然押し寄せたものに、心が追いついていない部分もある。


 それでも、ここで立ち止まる理由にはならなかった。


「行ける」


 カイが答える。


「私も」


 スイも続ける。


 ロウは二人の目を確かめ、入口横の魔道具へ手を置いた。


「なら、ここから先は二人で進め。帰還の期限は日没まで。無理だと思ったら、救助信号を使うこと」


「分かった」


「必ず二人で戻ってこい」


 その言葉に、スイが先に頷いた。


「はい」


 カイは背中の大剣へ触れ、暗い洞窟の奥を見る。


「二人で帰る。約束してるからな」


 二人は魔石灯へ魔力を流した。


 淡い光が灯り、入口の闇を押し退ける。


 カイが一歩先へ出る。


 スイはその半歩後ろへ続いた。


 濡れた石を踏む音が、洞窟の奥へ反響する。


 外から吹き込んでいた風は、内部へ進むにつれて複雑に流れ始めた。


 右。


 左。


 天井の隙間。


 いくつもの細い通路を抜けた風が、誰かの声のように重なっている。


 カイは腰の大剣を抜いた。


 重い刃が、魔石灯の光を鈍く返す。


「スイ、後ろ頼む」


「任せて。カイも先に行きすぎないでよ」


「分かってるって」


「前世でも同じこと言ってた気がする」


「思い出したばっかりなのに、もうそこ掘り返す?」


「あはは!」


 スイの笑い声が洞窟へ広がる。


 直後、奥の暗闇から甲高い鳴き声が返ってきた。


 二人の表情が同時に変わる。


 カイが剣を構え、スイは短剣を抜いた。


 魔石灯の届かない暗闇の中で、複数の赤い目が開く。


「三匹」


 スイが低く告げる。


「洞窟鼠だと思う。左右に一匹ずつ、正面に一匹」


「避けられる?」


「通路が狭い。向こうもこっちに気付いてる」


「じゃあ、やるしかないな」


 カイは一歩前へ出る。


 洞窟鼠が地面を蹴った。


 大型犬ほどの身体が、暗闇から一斉に飛び出してくる。


 正面の一匹へ向け、カイは大剣を横薙ぎに振った。


 狭い通路。


 刃を最後まで振り抜けば、壁へぶつかる。


 途中で手首を返し、剣の腹を鼠の頭部へ叩き付けた。


 鈍い音が響き、魔物の身体が壁際へ転がる。


 左右から二匹。


「カイ、右!」


 スイの声が飛ぶ。


 右から迫る牙を、カイは剣の柄で受け止めた。


 もう一匹が、その死角から脚へ噛みつこうとする。


 スイが踏み込んだ。


 短剣を投げるのではなく、魔物の鼻先へ石を蹴り上げる。


 洞窟鼠が反射的に顔を背けた一瞬、カイは右の一匹を蹴り飛ばし、身体を回した。


 大剣の切っ先が、低い軌道で走る。


 脚へ迫っていた洞窟鼠の肩を切り裂いた。


 魔物が悲鳴を上げ、後退する。


「追わないで!」


「分かってる!」


 カイは深追いせず、スイの前へ戻った。


 傷を負った洞窟鼠は暗闇へ逃げようとしている。


 残った一匹も立ち上がり、低く唸った。


 戦いを続けるか。


 逃げるか。


 魔物たちも迷っているように見えた。


 カイは剣を構えたまま動かない。


 仕留めようと思えば、できる。


 それでも依頼の目的は討伐ではなかった。


 洞窟鼠が後退する。


 カイも距離を詰めなかった。


 やがて三匹の気配は、通路の奥へ消えていった。


「行った?」


 カイが尋ねる。


 スイは目を閉じ、魔力の流れを探る。


「うん。離れていってる」


「なら、先へ進めるな」


 大剣に付いた血を拭いながら、カイは息を吐いた。


 戦闘そのものは短かった。


 苦戦したわけでもない。


 それなのに、身体の奥が妙に熱い。


 魔力を使った時とは違う。


 胸の内側で、何かが目を覚まそうとしている。


「カイ?」


 スイが心配そうに顔を覗き込む。


「何か変だ」


「怪我した?」


「違う。力が……さっきより身体に入りやすい」


 手を握る。


 筋肉が軋むほど力を込めたわけではない。


 それでも、いつもより指先が強く感じられた。


 戦いの最中、スイの声を聞いた瞬間からだ。


 彼女が後ろにいる。


 守るべき仲間がいる。


 その意識が、身体の内側に眠っていた力を引き出した。


 そして、その感覚と共に、一つの名前が頭へ浮かんでいる。


 聞いたことのないはずの言葉。


 けれど、自分のものだと分かる名前。


「……うわ」


 カイの顔が引きつった。


「どうしたの?」


「最悪だ」


「何が?」


「たぶん、ユニークスキル」


 スイの狐耳が立つ。


「自覚したの?」


「名前まで分かった」


「何て名前?」


 カイは答えなかった。


 視線を逸らし、剣を鞘へ戻す。


「先行こうぜ」


「待って。何て名前?」


「別にいいだろ」


「よくないよ。能力を知っておかないと危ないでしょ」


「効果は何となく分かる」


「じゃあ、名前も教えて」


「嫌だ」


「何で?」


「恥ずかしいから」


 スイが一瞬黙る。


 それから、以前に交わした会話を思い出したように、口元をゆっくりと緩めた。


「まさか、本当に恥ずかしい名前だったの?」


「笑うから言わねぇ」


「笑わないよ」


「絶対笑う」


「笑わないって」


「目が笑ってる」


「まだ笑ってないよ」


「まだって言っただろ」


 カイは耳を伏せたまま、しばらく抵抗した。


 だが、スイは一歩も引かない。


 諦めたカイが、誰にも聞かれたくないような小声で呟く。


「……《愛を求める怪獣》」


 洞窟の中に沈黙が落ちた。


 スイは唇を強く結んだ。


 頬がわずかに震えている。


「笑ってるだろ」


「笑ってない」


「こっち見ろ」


「無理」


「完全に笑ってんじゃん!」


「あははは!」


 堪え切れなくなったスイの笑い声が、洞窟の奥まで響いた。


「だって、怪獣が愛を求めるって……カイに合いすぎてる!」


「だから嫌なんだよ! もっと普通の名前でよかっただろ!」


「《すごく力が上がる》よりいいじゃん」


「そっちの方がマシ!」


「嘘でしょ」


「少なくとも人に言える!」


「あはは! 私は今の方が好きだよ」


「俺は嫌だ」


 カイは本気で困った顔をしながら、再び前を向いた。


 その耳は、洞窟の暗さでも分かるほど赤くなっていた。


 けれど、胸の奥に宿った力は消えていない。


 スイが近くにいる。


 その存在を意識するほど、身体へ魔力が巡っていく。


 自分が仲間と認めた者を想う気持ち。


 それが強さへ変わる能力。


 名前はどうしようもなく恥ずかしい。


 それでも、この力がスイを守るためにあるのだとすれば、嫌いにはなれなかった。


 少し後ろを歩いていたスイが、不意に足を止める。


「……カイ」


 先ほどまで笑っていた声が変わった。


 カイはすぐに振り返る。


 スイは自分の胸元へ手を当てていた。


 彼女の足元から、淡い光が波紋のように広がっている。


 狭い洞窟の床を撫で、壁を伝い、二人を包む。


 暖かい。


 魔石灯とは違う柔らかな光。


 カイの腕に残っていた小さな擦り傷が、ゆっくりと塞がり始めた。


「スイ、それ……」


「私にも、分かる」


 スイは広がる光を見つめながら、静かに息を吸った。


 誰かを守りたい。


 大切な者を、自分の手が届く場所から失いたくない。


 前世の記憶と共に戻ってきた感情が、今世で積み重ねた想いと重なっていく。


「《私の箱庭》」


 その名を口にした瞬間、光の領域がわずかに強くなった。


 カイの身体へ流れる魔力が整い、先ほど戦闘で消耗した分が少しずつ戻っていく。


 スイ自身の呼吸も、次第に落ち着いていった。


「これが、私のユニークスキル」


 カイは自分の腕を見下ろした。


「ずるくない?」


「何が?」


「スイのは格好いいじゃん」


「そうかな?」


「俺は《愛を求める怪獣》だぞ」


「いい名前だと思うよ」


「笑った奴が言うな」


「あはは!」


 光に包まれた洞窟へ、また二人の声が重なる。


 忘れていた記憶。


 自分たちの本当の呼び名。


 そして、まだ知らなかった力。


 初めてのダンジョンは、入口からそれほど離れていない場所で、二人の人生を大きく動かし始めていた。

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