第6話 忘れていた名前 前編
冒険者になってから、三か月が過ぎた。
カイとスイは、まだ南の宿場町を拠点にしていた。
最初に泊まった《旅籠・朝霧》の二人部屋も、今ではすっかり見慣れたものになっている。窓際には乾燥させている薬草が吊るされ、壁には周辺の地図。寝台の間に置かれた小さな卓には、スイの帳簿と、カイが里から持ち出した木彫りの駒が並んでいた。
十個も持ってきた駒は、今のところ二個しか使われていない。
残りは荷袋の底へ押し込まれたままだった。
「これ、やっぱりいらなかったんじゃない?」
朝食を終えたスイが、卓に残された駒を指先で転がす。
狼を模した駒は、何度も卓から落とされたせいで片方の耳が少し欠けていた。
「使ってるだろ」
「二個だけね。残り八個は?」
「これから仲間が増える」
「三か月経ったけど、増えてないよ」
「まだ三か月だろ。旅は長いんだから、そのうち使うって」
「使わなかったら、次の町で置いていこうね」
「絶対使う」
カイは駒を取り上げ、荷袋の中へ戻した。
その荷袋も、旅立ちの日よりずいぶん軽くなっている。
使わなかった道具は売り、必要な物だけを選び直した。保存食の量も、歩く距離と町の位置を見て決めるようになった。
三か月前の二人なら、考えもしなかったことだった。
冒険者登録の試験は、二人とも問題なく合格した。
カイは重い木剣を豪快に振り回しながらも、相手の動きをよく見ていると評価された。スイは短剣と基礎魔法を組み合わせ、相手との距離を崩さない堅実な戦い方を見せた。
二人の連携も、年齢を考えれば十分に高い。
それでも冒険者としての経験がないため、最初はGランクからの登録となった。
カイは不満そうにしていたが、依頼を受け始めるとすぐに気にしなくなった。
街道脇での薬草採取。
農地を荒らす角兎の追い払い。
行方不明になった家畜の捜索。
商人の荷下ろし。
町の周辺に現れた小型魔物の討伐。
地味な依頼ばかりだったが、どれも旅を続けるうえでは大切な経験になった。
依頼人への挨拶。
報告書の書き方。
魔物の素材を傷付けずに持ち帰る方法。
見慣れない植物へ不用意に触れないこと。
曇り空でも雨具を持つこと。
そして、カイへ財布を預けないこと。
最後の一つだけは、最初から分かっていた。
「今日の依頼、何時からだっけ?」
カイは剣帯を締めながら尋ねた。
「朝の三つ鐘が鳴る前にギルド。依頼主と合流して、そのまま北の森へ向かう」
「依頼主って、ギルドの人だろ?」
「案内役も兼ねてるって。初めてのダンジョンだから、入口までは同行してくれるみたい」
スイは卓に広げていた紙を折り畳んだ。
そこには、今回向かう場所について簡単な情報が記されている。
北の森にある、小規模な洞窟型ダンジョン。
町から歩いて半日ほど。
内部で確認されているのは、角兎や洞窟鼠といったGランク相当の魔物が中心。深部には低級のゴブリンが棲み着くこともあるが、定期的に冒険者が調査しているため、大きな群れは存在しないとされていた。
最初のダンジョンとしては、比較的安全な場所だった。
依頼内容は、内部の調査と、最奥に設置された調査札への魔力登録。
討伐が目的ではない。
道を確認し、必要な判断をしながら戻ってくる。
新人冒険者がダンジョン探索へ進めるかを確かめる、ギルドの試験も兼ねた依頼だった。
「やっとだなぁ」
カイが口元を緩める。
「何が?」
「ダンジョンだよ。三か月待った」
「カイが最初の依頼から入りたがってただけで、普通はこのくらい準備するんだって」
「角兎を追いかけるより、絶対面白いだろ」
「角兎に蹴られて転んだ人が言ってもね」
「あれは地面が滑った」
「晴れてたよ」
「石があった」
「避ければよかったじゃん」
「あいつが急に曲がったんだって」
スイは堪え切れずに笑った。
「あはは! カイ、顔から畑に突っ込んでたよね」
「忘れろって」
「依頼主のおばあちゃん、心配するより先に笑ってた」
「スイもずっと笑ってただろ」
「だって、耳に葉っぱ付いてたし」
「取ってくれればいいじゃん」
「似合ってたから、そのままにした」
「仲間の扱いじゃねぇだろ」
「怪我してないのは分かってたから」
カイは不満そうに口を尖らせたものの、本気で怒ってはいない。
荷袋を背負い、腰の剣を軽く叩く。
この三か月で、武器も変わっていた。
里から持ってきた片手剣では、カイの力を十分に活かせなかった。討伐した魔物の素材を売り、いくつかの依頼を重ねて金を貯め、町の鍛冶屋から幅広の大剣を買った。
大人が扱うバスタードソードより少し短く、十三歳の身体に合わせて作られた物だった。
それでも一般的な剣よりは重い。
鍛冶屋にはもっと軽い武器を勧められたが、カイは試し振りをした瞬間にこれを選んだ。
スイは以前と変わらず、二本の短剣を腰へ差している。
ただし、投擲用の小さな刃と、薬草から作った簡易の傷薬が装備へ加わっていた。
「水袋」
「入れた」
「保存食」
「入れた」
「火打ち石」
「ある」
「縄」
「あるって」
「予備の灯り」
「それもある。スイ、昨日も確認しただろ」
「出発前にも確認するの。ダンジョンの中で忘れたって気付いても遅いから」
「俺は全部覚えてる」
「じゃあ、魔石灯はどこ?」
カイの手が止まった。
荷袋の上から何度か触れ、左側の小袋を開く。
中に入っていたのは干し肉だった。
反対側を探し、着替えを掻き分ける。
「……どっかにある」
「忘れてるじゃん」
「入れたのは覚えてる」
「場所を覚えてないなら同じだよ」
スイは自分の荷袋から予備の魔石灯を取り出し、カイへ差し出した。
「二つ持ってきてるから、一つ貸す」
「さすがスイ」
「褒めても駄目。今日の夕食はカイが買うこと」
「魔石灯一個で飯一回?」
「忘れ物への罰」
「持ってはいるって」
「じゃあ見つけて」
カイはもう一度、自分の荷袋を探った。
底から、布に包まれた魔石灯が出てくる。
「あった」
「見つかったね」
「夕飯は?」
「自分の分は自分で払って」
「いつもどおりじゃん」
「罰はなしにしてあげる」
「優しいなぁ」
「普通だよ」
スイは予備の魔石灯をしまい、宿の部屋を見回した。
窓は閉めた。
灯りも消してある。
帳簿と財布は、荷袋の内側へ入れた。
「行こうか」
「おう」
二人が階段を下りると、宿の主人が厨房から顔を出した。
「今日は例のダンジョンか?」
「うん。夕方までには帰る予定」
カイが答える。
「予定どおりに戻れそうになければ、無理に夜道を歩くな。森の入口に、ギルドが管理してる避難小屋がある」
「分かってる」
「分かってるならいい。初めての場所では、帰る余力を残しておけよ」
カイは一瞬、三か月前なら「大丈夫」とだけ答えていたかもしれないと思った。
今も大丈夫だとは思っている。
自分とスイなら、低級ダンジョンで困ることはない。
それでも、何が起こるか分からないのが外の世界だということも、少しずつ知り始めていた。
「危ないと思ったら戻るよ」
そう答えると、宿の主人は満足そうに頷いた。
「成長したな」
「俺、最初からこんな感じだっただろ」
「最初の日、宿より先にギルドへ走ろうとしてた奴が?」
「……スイが言った?」
「見れば分かった」
「顔に書いてあったんじゃない?」
スイが横から笑う。
「カイって分かりやすいから」
「またそれ言う」
二人は主人へ手を振り、朝の通りへ出た。
空は薄く曇っていた。
雨の気配はないものの、風はいつもより冷たい。
宿場町の朝は早い。
商人たちはすでに荷車を動かし、軒先では店主たちが品を並べている。温かな汁物の匂いが漂い、通りの向こうでは焼き餅を売る声が響いていた。
初めて町へ来た日には、何もかもが珍しくて足を止めていた。
今では人の流れを避けながら歩き、近道もいくつか覚えている。
ただし、屋根の上は使わない。
あの日の店主と顔を合わせるたびに、スイから念を押されていた。
冒険者ギルドへ着くと、受付台の前にはすでに一人の男性が待っていた。
三十代ほどの人間の男。
革鎧の上から深緑色の外套を羽織り、腰には剣と複数の小袋を下げている。
以前、冒険者登録の実技を担当した試験官だった。
「おはようございます、ロウさん」
スイが先に頭を下げる。
「おはよう。時間どおりだな」
ロウは二人を見渡し、装備を確認した。
「カイ、大剣を買ったのか」
「やっとな。前の剣だと軽すぎた」
「武器に振り回されてはいないようだが、洞窟の中では広い場所ばかりじゃないぞ」
「狭かったら突くか、短く持つ」
「考えているならいい。スイの方は変わらず短剣か」
「はい。投げ刃と薬も持っています」
「魔力感知は?」
「前よりは分かるようになりました。でも、まだ距離があると曖昧です」
盗人が使った革袋の術式を見抜いてから、スイはギルドの職員に魔力感知の基礎を教わっていた。
目を閉じ、周囲へ意識を広げる。
空気の中に漂う魔力と、術を使った者が残した流れを区別する。
まだ完璧ではない。
それでも、数歩先にある魔石や、魔力を持つ生物の大まかな位置なら捉えられるようになっていた。
「中では目や耳だけを頼るな。魔物は物陰だけでなく、天井や地面にも潜む。違和感があれば小さなものでも共有しろ」
「分かりました」
「俺も?」
「特にお前だ」
「俺、結構周り見てるって」
「見ているなら、角兎に蹴られる前に避けられたはずだ」
スイが口元を押さえた。
「それ、ギルドでも知られてるの?」
「依頼報告書に書いてあった」
「誰が書いたんだよ」
「私」
「スイ!」
「事実は書かないと駄目でしょ」
「あはは」と笑うスイを横目に、カイは深くため息をついた。
「絶対いつか見返す」
「何を?」
「角兎を倒す」
「もう依頼終わってるよ」
「次に会ったら」
「追い払いの依頼で倒したら怒られるからね」
「分かってるって」
ロウは二人のやり取りをしばらく眺め、それから小さく笑った。
「緊張はしていないようだな」
「楽しみの方が大きい」
カイは迷わず答えた。
スイも自分の胸元へ手を当てる。
「私は少し緊張してます。でも、行きたいです」
「それくらいがちょうどいい。怖さを忘れた奴から、帰れなくなる」
ロウは受付台へ置かれていた二枚の依頼書を取り、二人へ渡した。
「改めて依頼内容を確認する。北の森にある《風抜けの洞》へ入り、内部の状態を調査。最奥の石室に設置された札へ、二人の魔力を登録すること」
紙の下部には、簡単な地図が描かれている。
入口から最奥までは、順調なら二時間ほど。
ただし内部の通路は魔力の影響で少しずつ形を変えるため、地図と完全には一致しない。
「討伐は必要な場合のみ。魔物を見つけても、避けられるなら避けていい。素材を持ち帰れば買い取りはするが、欲を出して荷物を増やしすぎるな」
「倒せることと、倒す必要があることは違う」
カイが呟く。
ロウがわずかに眉を上げた。
「いい言葉だな」
「里で失敗して覚えた」
「なら、忘れるな」
スイがカイの横顔を見る。
野営訓練で山犬に遭遇した夜。
獲物を捨て、戦わず逃げた。
あの時のカイなら、目の前に魔物がいれば迷わず剣を抜いていたかもしれない。
今も戦いたい気持ちそのものは変わっていない。
けれど、その力をいつ使うべきかは、少しずつ考えるようになっていた。
「ロウさんは、どこまで一緒に来るんですか?」
スイが尋ねる。
「ダンジョンの入口までだ。内部へ入ってからは二人だけで進んでもらう」
「何かあっても助けに来ない?」
カイの問いに、ロウは首を横へ振った。
「救助用の魔道具は持たせる。紐を引けば入口にいる俺へ信号が届くが、内部の位置によっては到着まで時間がかかる」
ロウは赤い魔石の付いた細い筒を取り出した。
「使った時点で依頼は失敗になる。ただし、命より大切な依頼はない。迷ったら使え」
スイが両手で受け取り、荷袋の取り出しやすい場所へ入れる。
「私が持ちます」
「頼む」
「カイに持たせたら、場所を忘れそうなので」
「魔石灯は見つけただろ」
「探してからね」
「まだ言う?」
「今日のことだよ」
必要な説明を終えると、三人は町の北門から外へ出た。
田畑の間を抜け、緩やかな街道を進む。
北の森までは、歩いて二時間ほどだった。
道中、ロウはダンジョンについて話してくれた。
この世界のダンジョンは、自然に生まれた洞窟とは違う。
地中や遺跡に魔力が長く溜まり、周囲の空間そのものが変質することで生まれる。内部では鉱石や薬草が育ち、時には宝箱のような形で魔道具が現れることもある。
その一方で、魔物も集まりやすい。
長く放置すれば内部の魔力が増し、強い個体が生まれる可能性もある。
定期的な調査と間引きは、周辺の町を守るためにも必要だった。
「宝箱、本当に出るの?」
カイが目を輝かせる。
「出ることはある。ただし《風抜けの洞》は何度も探索されている。期待はしない方がいい」
「残ってるかもしれないだろ」
「見つけても、すぐ開けないでね」
スイが釘を刺す。
「罠があるって話だろ? 分かってる」
「カイは宝箱を見たら忘れそう」
「さすがに忘れねぇよ」
「興奮して走り出したら、後ろから止めるから」
「信用なさすぎない?」
「カイのことを信用してるから言ってるの」
「それ、どういう意味?」
「宝箱を見た時のカイが、我慢できないって信用してる」
「それは信用じゃねぇ」
ロウが前を歩きながら笑う。
「相棒に性格を理解されているのは悪いことじゃない」
「俺のいいところも理解してほしい」
「分かってるよ」
スイはすぐに答えた。
「カイが前にいると、安心して周りを見られる」
カイの足が一瞬だけ止まりかける。
からかわれると思っていたのか、予想していなかった顔だった。
「……急に真面目なこと言うなよ」
「いいところ言えって言ったじゃん」
「そうだけど」
「照れてる?」
「照れてねぇ」
黒に近い灰色の耳が、わずかに横へ伏せている。
スイはそれを見逃さなかったが、何も言わずに笑った。
代わりに、カイが少しだけ歩調を速める。
「スイも、後ろにいると安心する」
「本当?」
「俺が見てないとこ、ちゃんと見てるから」
「うん」
「だから、今日も頼む」
「任せて」
短い会話だった。
けれど二人の足取りは、先ほどより少しだけ揃っていた。
やがて畑が途切れ、北の森へ入る。
昼前だというのに、木々の下は薄暗い。
湿った落ち葉を踏む音が続き、頭上では枝同士が風に擦れている。
魔物の気配はなかった。
時折、小動物が茂みの中を走り抜けるだけだ。
スイは歩きながら周囲へ意識を広げる。
土の下。
木の陰。
遠くを流れる小川。
いくつもの微かな魔力が、暗闇に浮かぶ灯りのように感じられた。
以前よりも鮮明だった。
「どうだ?」
ロウが尋ねる。
「小さい生き物が何匹かいます。魔物か普通の動物かまでは分かりません。でも、こっちへ近付いてくる感じはないです」
「十分だ。距離と数が分かるだけでも、奇襲を受ける可能性は下がる」
「スイ、便利だな」
「まだ練習中だよ」
「俺も何か感じてみる」
カイは目を閉じ、歩きながら眉間へ力を入れた。
「危ないよ」
「大丈夫」
直後、木の根へ足を引っかける。
「うおっ」
倒れる前に踏み止まったが、スイはすぐ隣で吹き出した。
「あはは! 前見て!」
「今のは根が悪い」
「根は動いてないよ」
「急に出てきた」
「ずっとそこにあったって」
ロウは振り返らずに言った。
「感知が苦手なら、まず目を使え」
「はい」
カイは素直に返事をし、それから小声で付け加える。
「俺、こういうの向いてないかも」
「カイは耳と鼻がいいでしょ。それで十分じゃない?」
「スイみたいに魔力で分かったら格好いい」
「転びながら言ってもね」
「誰にも言うなよ」
「もうロウさんが見てるよ」
「ギルドには報告しないでください」
「必要なら書く」
「必要ないだろ!」
森の奥へ進むにつれ、空気が少しずつ変わっていった。
風が冷たくなり、周囲の音が遠ざかっていく。
虫の声が途切れた。
鳥の羽音も聞こえない。
代わりに、地面の下から低く響くような音が伝わってくる。
カイの耳が立った。
「水?」
「違う」
スイは足を止め、目を閉じる。
「風だと思う。穴の中を通ってる」
ロウが木々の間を指差した。
「あれが《風抜けの洞》だ」
苔むした岩壁の下に、黒い裂け目が開いていた。
人が二人並んで通れるほどの入口。
周囲にはギルドが立てた杭と、立入者を記録するための魔道具が設置されている。
穴の奥から絶えず風が吹き出し、入口付近の草を揺らしていた。
その風が頬へ触れた瞬間、スイの足が止まった。
「……え?」
胸の奥が、強く脈打つ。
ただの風だった。
湿った土と、冷たい石の匂い。
ダンジョンから漏れ出す濃い魔力。
初めて感じるはずのもの。
それなのに、どこか懐かしかった。
暗い画面。
並んで表示された二人の名前。
耳元から聞こえる、誰かの笑い声。
――行く?
――行く行く。どうせなら奥まで。
知らないはずの声。
けれど、それが自分とカイの声だと、スイには分かった。
「スイ?」
カイが振り返る。
その瞬間、カイの視界にも別の景色が重なった。
洞窟の入口ではない。
手のひらに収まる小さな画面。
そこに映る、作り物の迷宮。
誰かが失敗し、誰かが笑う。
聞き慣れた声が重なり合い、胸の奥へ沈んでいた何かを揺らした。
『怪獣、先に行きすぎ!』
『大丈夫だって。何とかなる何とかなる』
『それで何回失敗したと思ってるの?』
『失敗だらけだからさ。今さら怖いもんなんかねぇよ』
自分の声だった。
カイエンとして生まれるより前。
まだ銀狼の耳も尾も持っていなかった頃。
怪獣と呼ばれていた、自分の声。
「……怪獣」
カイの唇から、名前が零れる。
スイが目を見開いた。
忘れていたわけではない。
夢の中で何度も触れていた。
けれど今、ぼやけていた輪郭が急に形を持ち始める。
夜の街。
風を切って走るバイク。
画面越しに集まった仲間たち。
何でもない話で笑った時間。
アム。
ゆうき。
ぽぽ。
グレイ。
さわら。
あすか。
そして、隣にいた怪獣。
「カイ……私」
スイが耳元の鈴へ触れる。
前の世界で呼ばれていた自分の名前。
黒葉翠。
スイ。
ただの呼び名ではない。
自分が生きていた証だった。
カイも帯の内側へ手を伸ばし、木彫りの狼を握った。
過去の記憶と、今の人生。
どちらかが消えることはなかった。
父の大きな手。
母の料理。
銀狼の里で過ごした十三年。
それらと並ぶように、前世の記憶が一つずつ戻ってくる。
「思い出した?」
スイの声が震えていた。
「ああ。全部じゃないけど……分かる」
カイは自分の胸元を押さえる。
「俺、怪獣だった」
「うん」
「スイは、黒葉翠」
「うん。私だよ」
互いの顔は、前世と同じではない。
それでも、笑い方も、言葉の癖も、立ち方も変わっていなかった。
ずっと隣にいた。
知らないまま、もう一度出会い直していた。
カイはしばらく何も言えなかった。
やがて息を吐き、困ったように笑う。
「何だよ。最初からずっと、スイだったんじゃん」
「カイもね」
「あの収穫祭で会った時、もっと早く気付けたかもな」
「子供だったし、記憶も夢みたいだったから仕方ないよ」
「でも、また会えてた」
「うん」
スイの目元が少しだけ滲む。
けれど涙は落ちなかった。
代わりに、いつものように笑う。
「あはは! 今さら思い出すの、遅すぎない?」
「それな。三か月も普通に旅してたぞ」
「前世でも一緒に遊んで、今世でも幼馴染って、どれだけ腐れ縁なの」
「いいじゃん。二回分遊べる」
「二回じゃ終わらないかもしれないよ」
「それなら、そのたび探す」
カイは迷わず言った。
「何回離れても、また見つければいいだろ」
スイはしばらくカイを見つめていた。
それから、小さく頷く。
「うん。約束ね」
「また増えたな」
「大事なやつだから」
「なら覚えとく」
二人の様子を見守っていたロウは、事情を尋ねなかった。
ただ、入口から少し離れた場所に立ち、静かに待っている。
何かを思い出したのだろうとは分かっても、それが転生前の記憶だとまでは知らない。
カイは一度深く息を吸った。
ダンジョンから吹く風が、髪と耳を揺らす。
先ほどまでとは違って見えた。
初めて立つ場所でありながら、自分たちの人生が再び繋がった場所でもある。
「行けるか?」
ロウが尋ねる。
カイとスイは顔を見合わせた。
戻ってきた記憶は、まだ完全ではない。
突然押し寄せたものに、心が追いついていない部分もある。
それでも、ここで立ち止まる理由にはならなかった。
「行ける」
カイが答える。
「私も」
スイも続ける。
ロウは二人の目を確かめ、入口横の魔道具へ手を置いた。
「なら、ここから先は二人で進め。帰還の期限は日没まで。無理だと思ったら、救助信号を使うこと」
「分かった」
「必ず二人で戻ってこい」
その言葉に、スイが先に頷いた。
「はい」
カイは背中の大剣へ触れ、暗い洞窟の奥を見る。
「二人で帰る。約束してるからな」
二人は魔石灯へ魔力を流した。
淡い光が灯り、入口の闇を押し退ける。
カイが一歩先へ出る。
スイはその半歩後ろへ続いた。
濡れた石を踏む音が、洞窟の奥へ反響する。
外から吹き込んでいた風は、内部へ進むにつれて複雑に流れ始めた。
右。
左。
天井の隙間。
いくつもの細い通路を抜けた風が、誰かの声のように重なっている。
カイは腰の大剣を抜いた。
重い刃が、魔石灯の光を鈍く返す。
「スイ、後ろ頼む」
「任せて。カイも先に行きすぎないでよ」
「分かってるって」
「前世でも同じこと言ってた気がする」
「思い出したばっかりなのに、もうそこ掘り返す?」
「あはは!」
スイの笑い声が洞窟へ広がる。
直後、奥の暗闇から甲高い鳴き声が返ってきた。
二人の表情が同時に変わる。
カイが剣を構え、スイは短剣を抜いた。
魔石灯の届かない暗闇の中で、複数の赤い目が開く。
「三匹」
スイが低く告げる。
「洞窟鼠だと思う。左右に一匹ずつ、正面に一匹」
「避けられる?」
「通路が狭い。向こうもこっちに気付いてる」
「じゃあ、やるしかないな」
カイは一歩前へ出る。
洞窟鼠が地面を蹴った。
大型犬ほどの身体が、暗闇から一斉に飛び出してくる。
正面の一匹へ向け、カイは大剣を横薙ぎに振った。
狭い通路。
刃を最後まで振り抜けば、壁へぶつかる。
途中で手首を返し、剣の腹を鼠の頭部へ叩き付けた。
鈍い音が響き、魔物の身体が壁際へ転がる。
左右から二匹。
「カイ、右!」
スイの声が飛ぶ。
右から迫る牙を、カイは剣の柄で受け止めた。
もう一匹が、その死角から脚へ噛みつこうとする。
スイが踏み込んだ。
短剣を投げるのではなく、魔物の鼻先へ石を蹴り上げる。
洞窟鼠が反射的に顔を背けた一瞬、カイは右の一匹を蹴り飛ばし、身体を回した。
大剣の切っ先が、低い軌道で走る。
脚へ迫っていた洞窟鼠の肩を切り裂いた。
魔物が悲鳴を上げ、後退する。
「追わないで!」
「分かってる!」
カイは深追いせず、スイの前へ戻った。
傷を負った洞窟鼠は暗闇へ逃げようとしている。
残った一匹も立ち上がり、低く唸った。
戦いを続けるか。
逃げるか。
魔物たちも迷っているように見えた。
カイは剣を構えたまま動かない。
仕留めようと思えば、できる。
それでも依頼の目的は討伐ではなかった。
洞窟鼠が後退する。
カイも距離を詰めなかった。
やがて三匹の気配は、通路の奥へ消えていった。
「行った?」
カイが尋ねる。
スイは目を閉じ、魔力の流れを探る。
「うん。離れていってる」
「なら、先へ進めるな」
大剣に付いた血を拭いながら、カイは息を吐いた。
戦闘そのものは短かった。
苦戦したわけでもない。
それなのに、身体の奥が妙に熱い。
魔力を使った時とは違う。
胸の内側で、何かが目を覚まそうとしている。
「カイ?」
スイが心配そうに顔を覗き込む。
「何か変だ」
「怪我した?」
「違う。力が……さっきより身体に入りやすい」
手を握る。
筋肉が軋むほど力を込めたわけではない。
それでも、いつもより指先が強く感じられた。
戦いの最中、スイの声を聞いた瞬間からだ。
彼女が後ろにいる。
守るべき仲間がいる。
その意識が、身体の内側に眠っていた力を引き出した。
そして、その感覚と共に、一つの名前が頭へ浮かんでいる。
聞いたことのないはずの言葉。
けれど、自分のものだと分かる名前。
「……うわ」
カイの顔が引きつった。
「どうしたの?」
「最悪だ」
「何が?」
「たぶん、ユニークスキル」
スイの狐耳が立つ。
「自覚したの?」
「名前まで分かった」
「何て名前?」
カイは答えなかった。
視線を逸らし、剣を鞘へ戻す。
「先行こうぜ」
「待って。何て名前?」
「別にいいだろ」
「よくないよ。能力を知っておかないと危ないでしょ」
「効果は何となく分かる」
「じゃあ、名前も教えて」
「嫌だ」
「何で?」
「恥ずかしいから」
スイが一瞬黙る。
それから、以前に交わした会話を思い出したように、口元をゆっくりと緩めた。
「まさか、本当に恥ずかしい名前だったの?」
「笑うから言わねぇ」
「笑わないよ」
「絶対笑う」
「笑わないって」
「目が笑ってる」
「まだ笑ってないよ」
「まだって言っただろ」
カイは耳を伏せたまま、しばらく抵抗した。
だが、スイは一歩も引かない。
諦めたカイが、誰にも聞かれたくないような小声で呟く。
「……《愛を求める怪獣》」
洞窟の中に沈黙が落ちた。
スイは唇を強く結んだ。
頬がわずかに震えている。
「笑ってるだろ」
「笑ってない」
「こっち見ろ」
「無理」
「完全に笑ってんじゃん!」
「あははは!」
堪え切れなくなったスイの笑い声が、洞窟の奥まで響いた。
「だって、怪獣が愛を求めるって……カイに合いすぎてる!」
「だから嫌なんだよ! もっと普通の名前でよかっただろ!」
「《すごく力が上がる》よりいいじゃん」
「そっちの方がマシ!」
「嘘でしょ」
「少なくとも人に言える!」
「あはは! 私は今の方が好きだよ」
「俺は嫌だ」
カイは本気で困った顔をしながら、再び前を向いた。
その耳は、洞窟の暗さでも分かるほど赤くなっていた。
けれど、胸の奥に宿った力は消えていない。
スイが近くにいる。
その存在を意識するほど、身体へ魔力が巡っていく。
自分が仲間と認めた者を想う気持ち。
それが強さへ変わる能力。
名前はどうしようもなく恥ずかしい。
それでも、この力がスイを守るためにあるのだとすれば、嫌いにはなれなかった。
少し後ろを歩いていたスイが、不意に足を止める。
「……カイ」
先ほどまで笑っていた声が変わった。
カイはすぐに振り返る。
スイは自分の胸元へ手を当てていた。
彼女の足元から、淡い光が波紋のように広がっている。
狭い洞窟の床を撫で、壁を伝い、二人を包む。
暖かい。
魔石灯とは違う柔らかな光。
カイの腕に残っていた小さな擦り傷が、ゆっくりと塞がり始めた。
「スイ、それ……」
「私にも、分かる」
スイは広がる光を見つめながら、静かに息を吸った。
誰かを守りたい。
大切な者を、自分の手が届く場所から失いたくない。
前世の記憶と共に戻ってきた感情が、今世で積み重ねた想いと重なっていく。
「《私の箱庭》」
その名を口にした瞬間、光の領域がわずかに強くなった。
カイの身体へ流れる魔力が整い、先ほど戦闘で消耗した分が少しずつ戻っていく。
スイ自身の呼吸も、次第に落ち着いていった。
「これが、私のユニークスキル」
カイは自分の腕を見下ろした。
「ずるくない?」
「何が?」
「スイのは格好いいじゃん」
「そうかな?」
「俺は《愛を求める怪獣》だぞ」
「いい名前だと思うよ」
「笑った奴が言うな」
「あはは!」
光に包まれた洞窟へ、また二人の声が重なる。
忘れていた記憶。
自分たちの本当の呼び名。
そして、まだ知らなかった力。
初めてのダンジョンは、入口からそれほど離れていない場所で、二人の人生を大きく動かし始めていた。




