第5話 旅のはじまり 後編
ギルドの入口から出てきた受付の女性は、騒ぎの中心へ迷いなく歩み寄った。
「そこまでです」
よく通る声だった。
大柄な冒険者の手が止まる。
胸倉を掴まれていた男は、その隙に逃れようと身体を捩ったが、受付の女性が鋭い視線を向けると、その場で動きを止めた。
「ここは冒険者ギルドの前です。事情も確認せずに私闘を始めるなら、双方とも規則違反として扱います」
「こいつが俺の金を盗んだんだ!」
「だからって、道の真ん中で殴っていい理由にはなりません。まず手を離してください」
大柄な冒険者は納得していない様子だったが、周囲へ集まり始めた視線に気付くと、舌打ちをして男の服から手を離した。
倒れていた男は咳き込みながら首元を押さえる。
その足元には、先ほど落ちた革袋が転がっていた。
受付の女性はすぐには拾わず、二人から距離を取らせる。
「持ち主は、あなたで間違いありませんか?」
「ああ。今朝、依頼の報酬を受け取ったばかりだ」
大柄な冒険者が答える。
「そいつがギルドを出たところでぶつかってきた。その直後に袋が消えてたんだよ。捕まえたら、懐から出てきた」
「違う! 俺は本当に何もしてない!」
痩せた男が必死に声を上げる。
「ぶつかったのは謝る。でも、その袋が俺の服に入ってた理由なんて知らないんだ!」
「そんな話が通るか!」
「静かにしてください」
再び声を荒らげかけた冒険者を、受付の女性が制した。
カイは少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。
宿へ向かう予定だった。
荷物も重い。
足にも疲れが溜まっている。
今の自分たちは町へ着いたばかりで、どちらの事情も知らない。
それでも、立ち去る気にはなれなかった。
隣を見ると、スイは足元の革袋をじっと見つめている。
白銀に近い淡緑色の狐耳が、周囲の音を拾うように小さく動いていた。
「まだ変な感じする?」
カイが声を落として尋ねる。
「うん。袋の中じゃなくて、袋そのものから魔力が流れてる気がする」
「魔道具ってこと?」
「分からない。でも、普通の革袋じゃないと思う」
スイ自身も確信は持てていないらしい。
眉を寄せたまま、自分の感覚を探るように指先を握っている。
里にいた頃から、ときおり魔力の流れを人より細かく感じ取ることがあった。
火を起こす前の魔石。
術を使った直後の地面。
狩人が身体強化を施した時の、空気のわずかな揺らぎ。
けれど、それが何なのかは、本人にも周囲にもまだ分かっていない。
「言う?」
カイが聞く。
スイは少し迷い、受付の女性へ視線を向けた。
「確かじゃないけど、伝えた方がいいと思う」
「じゃあ行こう」
「いきなり割り込まないでね」
「分かってるって」
「今、一歩前に出ようとしてたでしょ」
「気のせい」
「尻尾が動いてた」
「狼の尻尾で気持ち読むのやめろよ」
「分かりやすいんだもん」
カイは自分の尾を一度見てから、仕方なく咳払いをした。
二人で受付の女性へ近付く。
「あの」
声をかけたのはスイだった。
受付の女性が振り返り、二人の旅装へ目を止める。
「どうしました?」
「その袋、少し調べてもらった方がいいかもしれません」
スイは革袋を指差した。
「魔力が流れてるように感じます。中身じゃなくて、袋そのものに」
周囲が静かになる。
大柄な冒険者は怪訝そうな顔をし、痩せた男も戸惑ったように革袋を見下ろした。
「魔力が?」
受付の女性はスイへ問い返した。
「はい。ただ、私もこういう物を見たことがないので、絶対とは言えません」
「魔力感知は使えますか?」
「使える、というほどじゃないです。なんとなく流れが分かる時があるだけで」
自信がないことを隠さず答える。
受付の女性は少し考えたあと、革袋へ直接触れず、腰に下げていた細い杖を取り出した。
「念のため確認します。皆さん、少し下がってください」
杖の先端に、小さな光が灯る。
その光が革袋を覆うと、表面に刻まれていた目立たない紋様が浮かび上がった。
細い線が絡み合い、袋の口から底へ続いている。
「……転移紋」
受付の女性の表情が険しくなった。
「簡易型ですが、接触した物をあらかじめ指定した位置へ移す術式です」
「じゃあ、こいつが盗んだんじゃないのか?」
大柄な冒険者が驚いた声を上げる。
「まだ断定はできません。ただし、袋が自動的に移動した可能性はあります」
受付の女性は杖を動かし、術式の流れを辿る。
革袋の紋様から、細い魔力の糸のようなものが伸びていた。
糸は石畳を這い、ギルドの壁際に置かれた荷樽の陰へ続いている。
「そこです」
受付の女性が声を上げた瞬間、樽の陰から一人の小柄な男が飛び出した。
深く帽子を被り、顔の半分を布で隠している。
「待て!」
大柄な冒険者が追おうとする。
だが、小柄な男は通りへ飛び出すと、行き交う人々の間を縫うように走り始めた。
「カイ!」
「それな!」
名前を呼ばれた時には、カイはすでに荷袋を地面へ下ろしていた。
石畳を蹴る。
身体の内側へ魔力を巡らせると、脚へ力が集まった。
男との距離は十歩ほど。
人混みの中では、全力で追えば誰かへぶつかる。
カイはまっすぐ追うのをやめ、通りの端に積まれた木箱へ片足をかけた。
「ちょっと借りる!」
「何を――」
店主の返事を待たず、木箱を踏み台にして跳ぶ。
軒先へ手をかけ、その勢いのまま低い屋根へ身体を引き上げた。
「そこ走るな!」
「あとで謝る!」
屋根瓦の上を駆ける。
足場は滑りやすかったが、森や山を走り回ってきたカイにとって、平らな屋根は難しい場所ではない。
下の通りでは、小柄な男が何度も後ろを振り返っていた。
前ばかり見ている。
頭上にまで意識が向いていない。
カイは男より少し先まで走り、屋根の縁を蹴った。
風が耳を掠める。
男の進路へ飛び降り、両足で石畳を捉えた。
「うおっ!」
突然目の前へ降りてきたカイに驚き、小柄な男が急停止する。
すぐに方向を変えようとしたが、その先には細い路地しかない。
「逃げるってことは、何かやったんだろ?」
「どけ、ガキ!」
「成人してるって、今日何回言わせんだよ」
男が懐へ手を入れる。
カイの目つきが変わった。
冗談めいた表情が消え、身体の重心がわずかに落ちる。
男が取り出したのは、短い刃物だった。
「本気で来るなら、こっちも手加減できねぇぞ」
「脅してるつもりか!」
男が踏み込む。
突き出された刃を、カイは身体を半歩ずらしてかわした。
腕を掴み、勢いを殺さず前へ引く。
男の身体が崩れたところへ足をかけ、そのまま石畳へ押さえ込んだ。
「ぐっ……!」
「俺、剣抜いてないからな。暴れるなら次は痛いぞ」
「離せ!」
「それは無理」
男は身体を捩ったが、銀狼の力には敵わなかった。
やがてスイと受付の女性、それから数人の冒険者が追いついてくる。
スイは息を切らしながら、路地の入口で足を止めた。
「カイ、怪我は?」
「ない」
「相手は?」
「たぶんない」
「たぶんって何」
「ちょっと転がしただけ」
押さえ込まれた男が呻き声を上げる。
スイはそれを見て、目を細めた。
「本当にちょっと?」
「受け身は取ってたぞ」
「取らせたんじゃなくて、勝手に取れたんでしょ」
「同じだろ」
「違うよ」
受付の女性は二人のやり取りを聞きながら、小柄な男の腕へ拘束具をはめた。
「続きはギルドで聞きます。協力していただき、ありがとうございました」
「俺たち、何か悪いことした?」
カイが屋根の方を見ながら聞く。
「屋根を走った件は、店主へ謝った方がいいでしょうね」
「やっぱり?」
「あとで一緒に行こう」
スイが即座に言う。
「逃げたら?」
「ギルドに名前と顔を覚えられた直後に逃げるの?」
「冗談だって」
カイは立ち上がり、拘束された男を冒険者へ引き渡した。
男の懐からは、革袋と同じ紋様が刻まれた小さな魔石が見つかった。
転移先を指定するための道具らしい。
ギルドへ戻ると、大柄な冒険者と痩せた男がまだ待っていた。
受付の女性が事情を説明する。
小柄な男は、通行人へわざとぶつかり、盗んだ品を別人の懐へ転移させていた。
疑いが別の者へ向いている間に、その場から離れるつもりだったのだろう。
今回、革袋を移された痩せた男は完全に巻き込まれただけだった。
「……悪かった」
大柄な冒険者は、痩せた男へ深く頭を下げた。
「事情も聞かずに決めつけた」
「いや、俺だって自分の服から出てきたら疑うと思う。殴られなくてよかったよ」
「胸倉は掴んだ」
「それくらいなら、もういい」
痩せた男は苦笑し、首元を擦った。
二人の間に少し気まずい空気は残ったものの、殴り合いへ発展せずに済んだ。
カイはその様子を見ながら、腕を組んだ。
「強そうな方が悪いってわけでも、逃げてた方が悪いってわけでもなかったな」
「逃げた人は別にいたけどね」
隣でスイが答える。
「見ただけじゃ分からないこともあるってことか」
「うん。だから、すぐ飛び込まなかったのは正解だったと思う」
「俺、成長してる?」
「少しだけ」
「もっと褒めてもいいぞ」
「屋根走ったから半分」
「助けたのに減点されんの?」
「あはは!」
スイの笑い声に、張り詰めていた空気が少し和らぐ。
受付の女性は二人へ向き直った。
「改めて、お礼を申し上げます。特にあなたの魔力感知がなければ、術式を見落としていた可能性があります」
スイは少し戸惑ったように耳を伏せた。
「でも、私はただ変だと思っただけで」
「それを伝えるのは大切なことです。根拠が不十分だからと黙っていれば、無実の人が罪を被っていたかもしれません」
「……はい」
「今後、正式に訓練すれば、感知能力はさらに伸びるでしょう」
スイは自分の手を見つめた。
自分でもよく分からない感覚。
これまで何度かあった、小さな違和感。
それが役に立った。
その事実が、胸の奥へ静かに残る。
カイが横から顔を覗き込んだ。
「すい、すげぇじゃん」
「近い」
「いや、本当に。俺、袋見ても全然分かんなかったぞ」
「カイは魔力の流れより、逃げる人を追う方が得意だから」
「役割分担ってやつだな」
「そうかもね」
二人の会話を聞いていた受付の女性が、少し笑った。
「冒険者登録をご希望でしたね?」
「あ」
カイの耳が立つ。
「できる?」
「本来なら、今日は受付時間を過ぎるところでした。ただ、事情聴取へ協力していただいたので、仮登録までなら対応できます」
「やる!」
「宿は?」
スイがすぐに聞く。
「仮登録には、どれくらいかかりますか?」
「書類の確認と簡単な説明だけです。長くても半刻ほどでしょう」
スイは外の明るさを確認する。
まだ日暮れまで少し時間がある。
ダンロから教えられた宿も、ここから遠くはない。
「それなら、先に登録しようか」
「やった!」
「ただし、荷物を置いてから依頼を受けるからね」
「今日は受けないってこと?」
「当たり前でしょ。町に着いたばかりだよ」
「簡単なのなら」
「駄目」
「すい」
「駄目」
「はい」
先ほどまで盗人を取り押さえていた勢いはどこへ消えたのか。
カイは素直に頷き、受付の女性から渡された用紙へ向かった。
ギルドの中は、外から見た以上に広かった。
正面には長い受付台があり、その奥には職員たちが忙しそうに行き交っている。
壁際には大小さまざまな掲示板が並び、依頼書がびっしりと貼られていた。
魔物の討伐。
薬草の採取。
商人の護衛。
町の外壁修繕。
迷子になった家畜の捜索。
カイは書類を書く前から、掲示板へ視線を奪われている。
「カイ」
「見てるだけ」
「名前を書くのが先」
「どれか一個くらい」
「依頼は明日」
スイに袖を引かれ、カイは渋々受付台の前へ戻った。
用紙には、名前、年齢、種族、得意武器、使用できる魔法などを記入する欄がある。
カイは最初の欄へ筆を置き、少しだけ手を止めた。
「どうしました?」
受付の女性が尋ねる。
「名前、どっちで書けばいい?」
「本名か、普段使用している名前をお書きください。ただし、虚偽の名は認められません」
「本名はカイエン。でも、旅に出てからカイにしようって決めてた」
その言葉に、スイが隣で頷く。
二人は昨夜まで、それぞれの名前について話していた。
カイエンとスイリン。
この世界で家族からもらった、大切な名前。
捨てたいわけではない。
けれど、旅へ出る時には、前の世界で呼ばれていた名前を使おうと決めていた。
昔の自分へ戻るためではない。
今の人生と、前世の記憶を、どちらも抱えて進むために。
「呼び名としてカイを使うのであれば、登録名はカイエン、通称欄にカイと記入できます」
「じゃあ、それで」
カイは本名の欄へカイエンと書き、その横へカイと記した。
書かれた文字を見つめる。
旅へ出た実感が、里を離れた時とは別の形で胸へ落ちた。
ここから先、出会う者たちは自分をカイと呼ぶ。
父や母にもらった名を抱えたまま、前世から続く呼び名で歩いていく。
スイも同じように、スイリンと書いた横へスイと記入した。
「これで、今日から正式にカイとスイだな」
「今までも二人きりの時はそう呼ぶことあったけどね」
「でも、外じゃずっとこっち」
「うん」
スイは自分の名前を見つめ、耳元の鈴へ触れた。
「少し変な感じ」
「嫌?」
「ううん。ちゃんと始まった感じがする」
「それな」
受付の女性は二人のやり取りを急かさず待っていた。
記入を終えると、次は得意武器と魔法だった。
「剣。できれば重いやつ。魔法は土と身体強化」
カイが書く。
スイは短剣と、基礎魔法をいくつか記した。
「特別な能力や、ユニークスキルの自覚はありますか?」
受付の女性に尋ねられ、二人は顔を見合わせた。
「ない」
「私も、まだ分かりません」
「分かりました。ユニークスキルは、本人が能力を自覚するまで発現しない例もあります。旅や戦闘の中で気付くことも珍しくありません」
スイは先ほど感じた魔力の流れを思い返した。
あれがユニークスキルに関係しているのか。
それとも、生まれつき感知が得意なだけなのか。
今はまだ分からない。
カイは特に気にした様子もなく、次の欄へ筆を進めていた。
「ユニークなくても戦えるしな」
「持ってるかもしれないよ」
「変なのじゃなきゃいい」
「変なのって?」
「名前が恥ずかしいやつ」
「能力名なんて、自分で付ける場合もあるんでしょ?」
「だからこそ嫌だろ。自分の心の奥から、すげぇ恥ずかしい名前が勝手に出てきたらどうすんだよ」
スイが少し考えたあと、口元を押さえる。
「《孤高の銀狼》とか?」
「絶対嫌だ」
「《荒野を駆ける銀の牙》」
「やめろ」
「《仲間を守りし――》」
「スイ、楽しんでるだろ」
「あはは!」
受付の女性まで笑いを堪えている。
カイは耳を伏せ、書類へ顔を近付けた。
「普通のでいいんだよ。普通ので」
「ユニークスキルに普通があるのかな」
「力が上がる、とかでいい」
「《すごく力が上がる》」
「適当すぎるだろ」
「普通がいいって言ったじゃん」
「名前まで普通にしろとは言ってねぇ」
「難しいね」
「俺のユニークなのに、スイが悩むなよ」
書類を提出すると、受付の女性は内容を確認し、二枚の薄い木札を用意した。
表面には二人の名前と、冒険者ギルドの紋章が刻まれている。
「こちらが仮登録証です。明日の講習と簡易試験を終えれば、正式登録となります」
「ランクは?」
「初登録者は原則Gランクからです。ただし試験結果によっては、Fランクから開始する場合もあります」
「俺ら、もっと上でもいけると思う」
「実力があっても、依頼の経験がなければ上位からは始められません」
「ちぇっ」
「カイ」
「分かってるって。地道にやる」
不満そうではあったが、カイは木札を大切そうに受け取った。
スイも自分の札を両手で持ち、刻まれた文字を指先でなぞる。
「明日は朝の鐘が二度鳴るまでに来てください。講習のあと、町の外にある訓練場で実技を行います」
「何やるの?」
「基本的な戦闘能力、魔法の扱い、安全確認です。二人一組で登録するなら、連携も見ます」
カイとスイは同時に顔を上げた。
「二人一組でいいの?」
「固定の隊として登録できます。今後、別行動をする場合は変更も可能です」
「二人で」
スイが答える。
カイも迷わず頷いた。
「最初からそのつもり」
「では、隊の名前は決まっていますか?」
二人は同時に黙った。
「隊の名前?」
「小規模な組でも、呼称を登録しておくと依頼の管理がしやすくなります。今すぐでなくても構いません」
カイはスイを見る。
スイもカイを見る。
「考えてなかった」
「私も」
「何かある?」
「カイが決めたら、絶対変なのになりそう」
「スイが決めたら、可愛すぎるのになりそう」
「私、そこまで可愛い名前にしないよ」
「《狐と狼のお酒探し隊》とか」
「それはカイでしょ」
「分かりやすいじゃん」
「依頼人が不安になるよ」
受付の女性は微笑みながら、書類へ未定と記した。
「名前は正式登録までに考えておいてください」
「絶対いる?」
「必須ではありません」
「じゃあ、なしで」
「逃げた」
スイが呟く。
「恥ずかしい名前になるよりいい」
「ユニークスキルの話、まだ引きずってるの?」
「忘れてたのに思い出させんなよ」
仮登録を終え、二人はギルドを出た。
外は夕暮れへ近付き、通りの提灯へ少しずつ火が灯り始めていた。
昼間とは違う香りが漂っている。
煮込み料理。
焼いた川魚。
甘い醤油のような匂い。
そして、どこかの酒場から流れてくる酒の香り。
カイの耳がぴくりと動く。
「酒」
「宿」
「匂いだけ」
「宿へ行けば飲めるって、ダンロさんが言ってたでしょ」
「じゃあ早く行こう」
「さっきまでギルドから離れなかったのに」
「予定は変わるもんだろ」
「欲望に正直すぎるよ」
その前に、カイは屋根を踏み台にした店へ戻った。
店主は最初こそ腕を組み、険しい顔をしていたが、事情を説明すると大きなため息をついた。
「瓦は割れてない。今回はいい」
「本当?」
「ただし次からは道を走れ。屋根は道じゃない」
「近道だったんだけど」
「カイ」
「すみませんでした」
スイに名前を呼ばれ、カイはすぐに頭を下げた。
店主は呆れたように笑い、小さな焼き餅を二つ包んで渡してくれた。
「盗人を捕まえた礼だ。歩きながら食え」
「いいの?」
「その代わり、次に屋根へ上がったら金を取る」
「じゃあ走らなければ上がっていい?」
「そういう意味じゃない!」
店主の怒鳴り声を背に、二人は笑いながら通りを離れた。
教えられた《旅籠・朝霧》は、中央通りから少し外れた場所にあった。
二階建ての木造建築で、軒先には朝靄を描いた青い暖簾が揺れている。
中へ入ると、出汁と炊き立ての米の匂いが二人を迎えた。
宿の主人は、ダンロから受け取った木札を見ると目を細めた。
「ダンロさんの紹介か。なら、少し安くしておくよ」
「二人部屋ある?」
「ああ。寝台が二つの部屋でいいか?」
「一部屋でいいよな」
カイがスイを見る。
「うん。別々にしたら高くなるし」
「そういうことなら、夕食と朝食込みでこの値段だ」
主人が示した額を見て、カイはすぐにスイへ視線を向けた。
「どう?」
「予算の範囲内。三日くらいなら大丈夫」
「三日もいる?」
「登録して、最初の依頼を探して、必要な物も買うでしょ。予定どおり進めば二日で出てもいいけど」
「じゃあ二日分」
「余裕を持って三日」
「金もったいなくない?」
「二日で出るなら、残りは返してもらえるって」
宿の主人が補足する。
「じゃあ三日」
「決断早いね」
「損しないならいい」
支払いはスイが行った。
出発前に決めたとおり、財布と帳簿は彼女が管理している。
カイが持てば、必要かどうかも考えずに使う可能性が高い。
本人もそれを認めていた。
部屋へ案内されると、二人は同時に荷袋を床へ下ろした。
どさりと重い音が響く。
「あー……軽い」
カイはそのまま寝台へ倒れ込んだ。
柔らかな布団が身体を受け止める。
里の家ほど落ち着く匂いではないが、一日中歩いた後には十分だった。
「靴脱いでから寝て」
「寝てない。休んでる」
「同じでしょ」
「違うって」
「夕食まで寝たら起こさないよ」
カイはすぐに身体を起こした。
「それは困る」
「じゃあ荷物を片付けて」
「あとで」
「今」
「スイ、旅初日くらい休もうぜ」
「旅初日だから片付けるの。何がどこにあるか分からなくなったら困るでしょ」
「全部袋の中」
「分かりやすくしたつもり?」
スイは自分の荷袋を開き、着替え、薬、食料、道具を手際よく分けていく。
カイは寝台へ座ったまま眺めていたが、やがて諦めて自分の袋を開いた。
「木の駒、どこ置く?」
「持ってきたの?」
「十個」
「知ってたけど、改めて聞くと多いね」
「人が増えても遊べる」
「まだ言ってる」
「絶対使うって」
「一回でも使ったら認めるよ」
「じゃあ今日やろう」
「二人で十個使うの?」
「役を増やせばいい」
「面倒そう」
荷物の整理が終わる頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。
階下から宿の主人が夕食を知らせる声が聞こえる。
二人は顔を見合わせ、すぐに部屋を出た。
食堂には十人ほどの宿泊客がいた。
旅商人。
巡礼者。
武器を壁へ立てかけた冒険者。
さまざまな者たちが、それぞれの卓で食事を取っている。
カイとスイは窓際の小さな卓へ座った。
運ばれてきたのは、鶏肉と根菜を煮込んだ鍋、焼き魚、白い米、それから香の物だった。
「美味そう」
「里の料理と少し似てるね」
「酒は?」
「すぐ聞く」
給仕の女性へ尋ねると、若い客向けの薄い果実酒があるという。
和の国では十二歳の成人の儀を終えれば、酒を口にすることを禁じられてはいない。
ただし、十三歳の二人へ強い酒を出すつもりはないらしい。
「薄いやつでいい?」
スイが確認する。
「最初はな。宿の主人に追い出されたくねぇし」
「そこはちゃんと考えるんだ」
「明日、試験だろ。酔ってたら動けねぇ」
「カイでも分かるんだね」
「俺を何だと思ってる?」
「勢いで生きてる銀狼」
「だいたい合ってる」
果実酒が小さな杯で運ばれてくる。
淡い黄金色。
甘い香りがあり、成人祝いで飲んだ山葡萄酒よりも軽そうだった。
カイは杯を持ち上げる。
「じゃあ」
スイも同じように杯を持つ。
旅立ちの朝から、まだ一日しか経っていない。
それでも、いくつものことがあった。
里を離れた。
知らない商人を助けた。
初めて宿場町へ入り、盗人を捕まえ、冒険者の仮登録まで済ませた。
長いようで、あっという間の一日だった。
「旅立ちと、冒険者になった記念」
カイが言う。
「まだ仮登録だけどね」
「細かいことはいいんだよ」
「明日落ちたらどうするの?」
「落ちねぇって」
「その自信、どこから来るの」
「俺とスイだぞ?」
何の根拠にもなっていない。
けれど、カイが当然のように言うと、本当に大丈夫な気がしてくる。
スイは小さく笑った。
「あはは! まあ、何とかなるか」
「それな!」
二人の杯が触れ、小さな音を立てた。
「乾杯」
「乾杯」
果実酒を口にする。
甘さのあとに、わずかな酸味が広がった。
山葡萄酒ほど喉は熱くならない。
「飲みやすい」
「これなら、すいでも何杯かいけそう」
「カイより飲めるかもしれないよ」
「それはない」
「成人祝いで先に顔赤くなってたじゃん」
「あれは火の近くだったから」
「外でも赤かったよ」
「月が赤かった」
「自分の顔に月の色は映らないでしょ」
「細かいなぁ」
カイは鍋の肉を口へ運び、誤魔化すように頬張った。
スイも笑いながら米を食べる。
旅の食事は、もっと寂しいものになると思っていた。
干し肉と硬いパンを齧り、火のそばで眠る。
そんな日も、これからいくらでもあるだろう。
けれど今夜は、温かな料理と小さな杯がある。
隣には、幼い頃から一緒に歩いてきた相手がいる。
それだけで、知らない町の宿も少しだけ自分たちの居場所に思えた。
「スイ」
「なに?」
「今日、楽しかった?」
唐突な問いに、スイは箸を止めた。
「疲れたけど、楽しかったよ」
「俺も」
「盗人を追いかけたのが?」
「それも。町も、人も、ギルドも。知らないことばっかだった」
「まだ一日目だよ」
「これが毎日続くんだろ?」
「毎日事件が起きたら困るけど」
「でも、何かはある」
カイは杯を揺らし、黄金色の酒が光を反すのを見つめた。
「里にいたら知らなかったことに、これから毎日会えるんだよな」
「うん」
「だったら、やっぱ出てきてよかった」
迷いのない声だった。
スイはカイの横顔を見る。
朝、里を離れた時には不安があった。
帰りたい気持ちも少しだけあった。
今も、家族の顔を思い出せば寂しい。
それでも、後悔はしていなかった。
「私も、出てきてよかった」
「だろ?」
「でも、まだ始まったばっかりだからね。明日からちゃんと稼がないと」
「現実的だな」
「お金がなくなったら、酒も飲めないよ」
「よし。稼ごう」
「仲間を探すより反応早くない?」
「仲間を探すにも金がいるだろ」
「そういうことにしておく」
食事を終え、二人は部屋へ戻った。
窓を少し開けると、夜の町の音が入ってくる。
酒場から聞こえる笑い声。
どこかで鳴る弦楽器。
通りを歩く人々の足音。
里の夜とは違い、町は暗くなっても眠らないらしい。
カイは窓枠へ肘をつき、外を眺めた。
「明日、正式に冒険者か」
「講習と試験に受かればね」
「受かるって」
「油断しないでよ」
「スイがいるから大丈夫」
「私に全部任せる気?」
「違う。俺が前を見る。スイが後ろを見る」
スイは少しだけ目を瞬いた。
カイは街の灯りを見つめたまま続ける。
「俺が勢いで行きすぎたら止めて。スイが考えすぎて動けなくなったら、俺が引っ張る。そうやってやってきただろ」
「……うん」
「だから、大丈夫」
昔なら、ただ勢いだけで言っていたかもしれない。
けれど今の言葉には、野営訓練での失敗も、今日立ち止まって様子を見た経験も含まれている。
カイなりに、自分一人では足りないことを理解し始めている。
スイは窓辺へ並び、同じ景色を見た。
「じゃあ、約束」
「また増えるの?」
「大事なやつ」
「聞く」
「勝手に一人で先へ行かない。危ない時は隠さない。どっちかが無理だと思ったら、一度止まる」
カイは少し考えた。
「分かった。でも、止まるかどうかは話して決める」
「うん」
「あと、酒を見つけたら二人で飲む」
「それも入れるの?」
「一番大事」
「仲間より?」
「同じくらい」
「朝より下がってるじゃん」
「違うって。仲間を見つけたら、一緒に飲めるだろ」
スイは呆れたように笑った。
「あはは! じゃあ、それも約束」
二人は拳を軽く合わせた。
幼い頃のように手を握るのではなく、これから共に旅をする相棒として。
「ところで、初めての依頼は何がいい?」
カイが聞く。
「明日、掲示板を見てから決める」
「魔物討伐」
「採取」
「討伐」
「採取」
「スイ、俺たち戦えるぞ」
「戦えることと、最初から危ない依頼を受けることは別でしょ」
「簡単な魔物なら」
「まずは町の外と、ギルドの仕組みを知る方が先」
「じゃあ、採取の途中で魔物が出たら倒す」
「出ない方がいいよ」
「出た方が面白い」
「依頼は遊びじゃないんだから」
「分かってるって」
「今日それ、何回聞いたかな」
「数えるのやめろって」
二人の声が、夜の部屋へ重なる。
やがてスイは帳簿を開き、今日使った金額を書き始めた。
宿代。
食事代。
果実酒。
店主からもらった焼き餅は無料。
荷車を助けた礼として受け取った金は収入。
カイは寝台へ横になりながら、その様子を眺めていた。
「それ、毎日やるの?」
「毎日やるよ」
「大変じゃね?」
「後で分からなくなる方が大変」
「俺には無理だな」
「知ってる」
「じゃあ任せた」
「その代わり、明日の朝はカイが水袋を確認して」
「それだけ?」
「武器の手入れと、朝食後の荷物確認も」
「増えた」
「役割分担でしょ」
「はいはい」
返事をしながら、カイの瞼は少しずつ重くなっていく。
一日中歩き、荷車を押し、町で盗人を追いかけた。
身体強化を使った疲れも、今になって出てきたらしい。
「カイ、寝るなら毛布かけて」
「まだ寝ない」
「もう目閉じてるよ」
「考え事」
「何を?」
「明日の……依頼」
「依頼は明日決めるって言ったでしょ」
「ダンジョン……行きたい」
「まだ早いよ」
「いつか」
「うん。いつかね」
スイは帳簿へ最後の数字を書き込み、顔を上げた。
カイはすでに寝息を立てていた。
「早いなぁ」
呆れながら立ち上がり、寝台の脇に置かれた毛布をカイへかける。
無防備な寝顔は、里にいた頃と何も変わらない。
旅へ出ても、町で盗人を捕まえても、眠ればただの十三歳の少年だった。
スイは灯りを一つ消し、もう一方の寝台へ腰を下ろした。
窓の外に広がる、知らない町。
その向こうに続く、さらに知らない世界。
いつかダンジョンへ入る日も来る。
危険な魔物と戦い、今まで知らなかった自分の力へ気付く日も来るかもしれない。
そして、散らばった前世の記憶が、もう一度一つへ繋がる時も。
それがいつになるのか、今のスイには分からない。
ただ、不思議と怖くはなかった。
隣の寝台から聞こえる寝息に耳を澄ませる。
カイがいる。
明日も、一緒に歩く。
その事実だけで、知らない場所にも眠れる気がした。
「おやすみ、カイ」
返事はない。
代わりに、カイの尾が毛布の下で一度だけ動いた。
聞こえていたのかもしれない。
スイは小さく笑い、残っていた灯りを消した。
旅立ちの一日は、こうして静かに終わった。
翌朝、二人は冒険者として最初の一歩を踏み出す。
まだ知らない依頼。
まだ見ぬ道。
そしていつか、二人の記憶と力を目覚めさせることになる、最初のダンジョンへ向かって。
今はただ、夜の町を渡る風だけが、閉じた窓を微かに鳴らしていた。




