表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの時間をもう一度  作者: ゆうき
間章 獣人の約束

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
62/91

第5話 旅のはじまり 中編


 街道へ出てから、二人はしばらく言葉少なに歩いていた。


 朝の山道は涼しく、木々の隙間から差し込む光が、細い道の上へまだらな模様を落としている。足元には夜露が残り、踏むたびに草の匂いが立った。


 里を離れた実感は、すぐには湧かなかった。


 見える景色は、幼い頃から慣れ親しんだ山とよく似ている。


 鳥の声も、風の冷たさも、湿った土の感触も変わらない。


 ただ、振り返っても里の屋根が見えなくなった頃から、周囲の静けさが少し違って感じられた。


 ここには、困った時にすぐ呼べる大人がいない。


 道を間違えても、怪我をしても、二人でどうにかするしかない。


 その事実が、荷袋の重さとは別の重みとなって背中へ乗っていた。


「スイ」


「なに?」


「静かじゃね?」


「山の中なんだから普通でしょ」


「いや、俺たちが」


 スイは前を向いたまま、少しだけ耳を動かした。


「カイが静かだからじゃない?」


「俺のせい?」


「だいたいそう」


「さっきから考え事してた」


「珍しいね」


「失礼だな」


「あはは!」


 いつもの笑い声が聞こえ、カイは少しだけ肩の力を抜いた。


 やはり、こうしてくだらない話をしている方が自分たちらしい。


「何考えてたの?」


「旅に出たんだなって」


「今さら?」


「だって、景色あんま変わんねぇじゃん」


「国境までは和の国の山道だからね。宿場町も、たぶん見慣れた建物が多いと思うよ」


「じゃあ、外国って感じになるのはもっと先か」


「うん。南の宿場町から西へ進めば、少しずつ人の服装や言葉も変わるらしいけど」


「言葉、通じんの?」


「共通語があるから大丈夫。方言はあるみたいだけど」


「方言かぁ」


 カイは顎へ手を当て、少し考える。


「俺たちも外の人から見たら、変な話し方してんのかな」


「してるんじゃない?」


「スイは丁寧に話せば平気そう」


「カイは無理そう」


「何でだよ」


「初対面でも今と同じ感じで話しそうだから」


「立場で話し方変えるの、面倒じゃん」


「偉い人にそれやったら怒られるよ」


「偉いだけで怒る奴とは仲良くなれねぇな」


「そういう問題じゃないって」


 スイはため息をついたが、口元には笑みが残っていた。


 前方の道が緩やかに下り始める。


 山を抜けるにつれ、左右の木々が少なくなり、視界が開けていった。


 遠くには細い川が流れ、その向こうに畑が広がっている。街道沿いには荷車の轍が増え、道端には旅人向けの小さな石碑が立っていた。


 カイは足を止め、石碑へ近付く。


 表面には、この先にある町までの距離と、街道沿いの水場が刻まれていた。


「読める?」


「一応」


「一応って何」


「字は読めるけど、こういう昔の書き方苦手なんだよ」


 カイが目を細めながら石碑へ顔を近付ける。


「南の宿場町まで……二里?」


「三里」


「三か」


「数字から間違えないで」


「削れてんじゃん」


「そこじゃなくて、こっち」


 スイが隣から指を差す。


 カイはしばらく見比べたあと、何事もなかったように立ち上がった。


「まぁ、夕方には着くな」


「最初からそう言ってたよ」


「確認は大事だろ」


「読めてなかったけどね」


 二人は再び歩き始める。


 日が高くなるにつれ、街道を行き交う人の姿も増えていった。


 籠を背負った農夫。


 荷車を引く商人。


 旅装の巡礼者。


 中には、獣人ではない者もいた。


 耳も尾も持たない人間の家族とすれ違った時、カイは思わず振り返った。


「本当に耳ないんだな」


「聞こえるよ」


 スイが小声で注意する。


「いや、分かってるけどさ。里じゃほとんど見ないじゃん」


「外に出れば、人間もエルフもいるって習ったでしょ」


「習ったのと見るのは違う」


「じろじろ見ない」


「見てねぇって」


「見てたよ」


 前を歩いていた人間の子供が、今度は逆にカイたちを振り返った。


 銀狼の耳と妖狐の尾が珍しいらしい。


 目が合うと、子供は慌てて母親の陰へ隠れた。


 カイは一瞬迷ってから、軽く手を振った。


 子供は母親の服を掴んだまま、小さく手を振り返す。


「ほら、向こうも見てる」


「子供だからでしょ」


「俺もまだ子供だろ」


「成人したんじゃなかったの?」


「こういう時だけ大人扱いすんのやめろよ」


「あはは!」


 笑いながら進んでいく。


 やがて、川沿いの開けた場所へ出た。


 道端には大きな柳の木があり、その下に旅人が休めるよう石の腰掛けが並んでいる。近くには水汲み場もあった。


 時刻はまだ昼より少し前だったが、朝から歩き続けていたせいで足に疲れが溜まり始めている。


 スイが柳の木陰を指差した。


「少し休もう」


「まだ歩ける」


「歩けるかどうかじゃなくて、休める時に休むの」


「さっき母ちゃんにも似たようなこと言われた」


「じゃあ聞いて」


「はいはい」


 二人は石の腰掛けへ荷物を下ろした。


 背中から重みが消えた瞬間、カイは思わず大きく息を吐く。


「荷物、重っ」


「出発してから気付いたの?」


「背負ってる時は平気だった」


「今度、いらない物を減らそうね」


「まだ何も使ってないのに?」


「使わないから減らすの」


 スイはそう言いながら、自分の荷袋から水袋を取り出した。


 それから、母たちが持たせてくれた弁当を広げる。


 布包みを開いた途端、焼いた肉と香草の匂いが木陰へ広がった。


「肉だ」


「見れば分かるよ」


「朝も肉食った」


「魚だったでしょ」


「似たようなもんじゃん」


「全然違うよ」


 中には、甘辛く焼いた鶏肉、握り飯、漬物、蒸した芋が詰められていた。


 どちらの弁当も量が多い。


 スイは自分の包みを見て、少し眉を下げた。


「これ、夜の分まであるんじゃない?」


「昼で食えるだろ」


「カイはね」


「スイも食うじゃん」


「食べるけど、今はそこまでお腹空いてない」


「朝、何食った?」


「お味噌汁と魚とご飯と卵焼き」


「俺と同じじゃん」


「里が違うのに似てるね」


「今さらだな」


 二人は握り飯を手に取り、並んで食べ始める。


 川のせせらぎを聞きながら、木陰で食べる弁当は思っていた以上に美味しかった。


 まだ半日も経っていないのに、家の味が少し懐かしく感じられる。


 カイは鶏肉を頬張りながら、向こう岸へ目をやった。


 川面が日差しを反射し、細かな光を揺らしている。


「スイ」


「うん?」


「帰りたくなった?」


 スイはすぐには答えなかった。


 握り飯を一口食べ、ゆっくり飲み込んでから川を見る。


「少しだけ」


「そっか」


「カイは?」


「俺も」


「さっき前だけ見るって顔してたのに」


「前向いてても、帰りたい時はあるだろ」


 スイは小さく笑った。


「そうだね」


 風が吹き、柳の細い枝が揺れる。


「でも、今帰ったら笑われるかな」


「笑われるだろうな」


「ひどい」


「俺も一緒だから大丈夫」


「何が大丈夫なの」


「二人で帰れば、半分ずつ笑われる」


「ならないよ」


「あはは」


 カイは笑いながら、残りの握り飯を口へ放り込んだ。


 湿っぽい気持ちは、笑えば全部消えるわけではない。


 それでも、隣にスイがいるだけで少し軽くなる。


 スイにとっても、きっと同じなのだろう。


 二人は昼食を食べ終え、水場で水袋を満たした。


 休憩を終えようとした時、街道の向こうから、車輪の軋む音が聞こえてきた。


 見ると、一台の荷車がゆっくりと近付いてくる。


 荷台には木箱や袋が高く積まれ、その横を三人の男たちが歩いていた。先頭にいるのは小柄な獣人の商人で、後ろの二人は護衛らしい。


 荷車の片輪がぬかるみへ沈み、進めなくなっているようだった。


 商人が御者台から降り、何度も荷車を押している。


「押せ! もう少しだ!」


「これ以上は無理だって!」


「荷を減らすしかないぞ!」


 護衛たちの声が街道へ響く。


 カイは立ち上がった。


「手伝うか」


「うん」


 スイも迷わず頷く。


 二人は荷物を背負い直し、荷車へ駆け寄った。


「押せばいい?」


 カイが声をかけると、商人が驚いて振り返る。


「旅の子供か?」


「成人してる」


「その歳で?」


「和の国じゃ十二で成人」


 カイが荷車の横へ回る。


 ぬかるみに沈んだ車輪は、半分ほど泥へ埋まっていた。


 積荷もかなり重そうだ。


「後ろから押せば出ると思う」


「いや、簡単に言うが、この荷車は大人三人でも動かなかったんだぞ」


「やってみれば分かるって」


 カイは荷袋を下ろし、荷車の後ろへ両手を当てた。


 足を踏ん張る。


 息を吸い、身体の内側へ魔力を巡らせた。


 無属性の身体強化。


 さらに足元の地面へ意識を向け、沈み込まないよう土を固める。


 まだ自在に使えるほどではない。


 それでも、一年間の修行で覚えた範囲ならできる。


「スイ、車輪の前の泥どかせる?」


「少しなら」


 スイは短剣を抜き、車輪の前へ溜まった泥を削り始めた。


 護衛の一人が慌てて手伝う。


「せーので押すぞ!」


 商人の声に合わせ、カイが全身へ力を込めた。


「せーの!」


 荷車が軋む。


 車輪は一度空回りしたが、固めた土へ引っかかり、少しだけ前へ動いた。


「もう一回!」


「おお!」


 護衛たちも加わる。


 カイは歯を食いしばり、足の裏で地面を踏み抜くように押した。


 土属性の魔力が一瞬揺らぎ、足元がわずかに沈む。


 それでも力を緩めない。


「うおおおっ!」


 大きな音と共に、車輪がぬかるみから抜けた。


 荷車が勢いよく前へ進み、御者台にいた商人が慌てて手綱を引く。


「止まれ、止まれ!」


 荷車が数歩先で止まる。


 カイはその場に座り込み、泥まみれの手を見た。


「できた」


「できたじゃないよ、急に押すから荷車に轢かれそうになったじゃん」


「スイは横にいただろ」


「護衛の人がだよ」


「悪い!」


 カイが素直に頭を下げると、護衛の男は笑って手を振った。


「いや、助かったよ。すごい力だな、お前」


「銀狼だから」


「それだけじゃないだろ。魔力で地面を固めたな?」


「分かった?」


「俺も少し土魔法を使うからな。まだ荒いが、十三であれだけできれば十分だ」


 褒められ、カイは照れたように鼻の下を擦った。


「まぁな」


「すぐ調子に乗る」


 スイが呟く。


 商人は荷車を安全な場所へ寄せると、二人へ深く頭を下げた。


「本当に助かった。このままだと荷を下ろすしかなかった」


「困ってたなら手伝うじゃん」


 スイが自然に答える。


 商人は目を丸くしたあと、柔らかく笑った。


「ありがたいことだ。君たちはどこへ向かっている?」


「南の宿場町。そこで冒険者登録する」


「なるほど。ちょうど私たちも同じ町へ向かうところだ」


 商人は荷台から小さな布袋を取り出した。


「礼として、少ないが受け取ってくれ」


 中には硬貨が入っているらしく、手渡された時に小さな音がした。


 カイは袋を見て、すぐに商人へ返そうとする。


「別にいいよ。ちょっと押しただけだし」


「だが、働きには対価を払うものだ」


「でも」


 カイは困ったようにスイを見る。


 スイも少し迷ったが、商人の表情を見て、静かに頷いた。


「もらおう。断るのも失礼かもしれない」


「いいの?」


「その代わり、町まで一緒に歩いてもいい?」


 スイの言葉に、商人は嬉しそうに頷いた。


「もちろんだ。こちらとしても、旅の人数が増えるのは心強い」


 こうして二人は、商人一行と共に宿場町を目指すことになった。


 荷車の進む速さは、二人だけで歩くより少し遅い。


 だが、道中で話を聞けるのはありがたかった。


 商人の名はダンロ。


 狸の獣人で、和の国と南方の都市を行き来しながら、布や薬草、工芸品を扱っているという。


 護衛の二人は冒険者で、どちらもDランクだった。


「冒険者登録したら、最初は何するんだ?」


 カイが尋ねると、護衛の一人が腰の剣へ手を置いた。


「まずは講習だな。町によって違うが、依頼の受け方や魔物の危険度、違反した時の罰なんかを教わる」


「すぐ依頼できないの?」


「簡単な採取や雑用ならできる。討伐依頼は、実力を見るために試験がある場合もある」


「面倒だな」


「命がかかるからな」


 もう一人の護衛が苦笑する。


「冒険者は自由に見えるが、好き勝手していいわけじゃない。依頼人を騙したり、町で問題を起こしたりすれば資格を失うこともある」


「カイ、ちゃんと聞いてね」


「聞いてるって」


「顔が面倒って言ってる」


「実際面倒そうだし」


「登録前から規則を嫌がるなよ」


 護衛たちが笑う。


 カイも頭を掻きながら笑った。


「でも、依頼を受ければ金になるんだろ?」


「ああ。宿代も食費も、自分たちで稼がなきゃならない」


「そこが問題だよね」


 スイが少し真剣な顔になる。


 里から持ってきた旅費はある。


 だが、長い旅をするには到底足りない。今後は依頼や仕事を受けながら進まなければならなかった。


「最初は欲張らないことだ」


 ダンロが御者台から振り返る。


「旅立ったばかりの者は、つい大きな依頼へ手を出したがる。だが、実力と旅の経験は別物だ」


「俺たち、野営ならできる」


「一晩か?」


「三日もやった」


「それなら立派だ。しかし、一月続けば話は変わる」


 ダンロの言葉に、二人は黙った。


 たった数日の野営でも、雨や寒さに苦労した。


 食料の配分を間違え、火がつかず、眠れない夜もあった。


 一月。


 それが半年、一年となれば、今までとは比べものにならない。


「旅は、強いだけでは続かない」


 ダンロは前を向いたまま続ける。


「疲れている時に進まない判断ができるか。少ない金で何を買うか。誰を信用し、誰を疑うか。そういう積み重ねの方が大事だ」


 カイは前編の朝、父に言われた言葉を思い出した。


 力だけでは生きられない。


 あの時は分かっているつもりだった。


 けれど、外の人から同じようなことを言われると、少しだけ現実味が増す。


「スイ」


「なに?」


「金の管理、任せた」


「最初からそのつもりだけど」


「俺が持つと使いそう」


「分かってるなら偉いね」


「何に使うと思う?」


「酒と、変な武器と、見たことない食べ物」


「全部必要じゃん」


「ほらね」


 ダンロたちが声を上げて笑う。


 カイは納得できない顔をしたが、反論はしなかった。


 日が傾き始めた頃、街道の先に高い木造の門が見えた。


 門の左右には土壁が続き、その向こうに何十もの屋根が並んでいる。


 通りからは人々の声、荷車の音、家畜の鳴き声が聞こえてきた。


 風に混じり、焼いた魚や味噌、甘い菓子の匂いまで漂ってくる。


 カイは足を速めた。


「町だ!」


「見れば分かるって」


「すげぇ、人多い!」


「走らないで」


「宿取るんだろ? 早く行こうぜ」


「荷車と一緒に来たんだから、勝手に先へ行かない」


 スイに荷袋の紐を掴まれ、カイは前のめりになったまま止まる。


「首締まるって」


「止まらないからでしょ」


 宿場町の門前には、旅人や商人の列ができていた。


 門番が一人ずつ行き先や荷物を確認し、通行札を渡している。


 二人もダンロたちと並び、順番を待った。


「初めてか?」


 門番がカイとスイを見て尋ねる。


「分かる?」


「顔に書いてある」


「どこに?」


「そういうところだ」


 門番は苦笑しながら、二人の旅証を確認した。


 和の国の里から発行されたものだ。


「十三歳で二人旅とは珍しいな」


「成人してる」


「分かってる。だが、外じゃ子供扱いされることも多い。気をつけろ」


「俺ら、そんな弱そうに見える?」


「弱いかどうかじゃない。若い奴は騙しやすいと思う者がいる」


 門番の目が少しだけ鋭くなる。


「特に金と宿、それから酒だ」


「酒?」


「酔わせて金を取る店もある」


「最低だな」


「そう思うなら、知らない店へ簡単に入るな」


「分かった」


 カイの返事を聞き、門番は今度はスイを見た。


「そっちの嬢ちゃんがしっかりしてそうだな」


「私も初めてなので、気を付けます」


「カイを見張っておけ」


「はい」


「即答すんなよ」


 門番は笑いながら、二人へ通行札を渡した。


 門をくぐった瞬間、町の喧騒が一気に押し寄せてきた。


 街道沿いには商店や宿が並び、軒先には色とりどりの布や提灯が吊るされている。魚を焼く屋台、団子を売る店、旅道具を並べた露店。


 獣人だけではない。


 人間。


 小柄な種族。


 長い耳を持つ者。


 見たことのない服装の旅人。


 さまざまな人が行き交い、いくつもの言葉と匂いが混ざっていた。


「すげぇ」


 カイは立ち止まったまま、右を見て左を見る。


「里の祭りより人いる」


「毎日こんな感じなのかな」


「見ろ、あれ何だ?」


「どれ?」


「あの丸い食い物」


「焼き餅じゃない?」


「色が赤い」


「辛い味噌が塗ってあるんじゃないかな」


「食おうぜ」


「先に宿」


「一個だけ」


「宿」


「スイ、旅は遊び心が必要だろ」


「それ、朝も聞いた」


 スイがカイの腕を引く。


 だが、今度は彼女自身も露店や建物へ視線を奪われていた。


 初めて見る町。


 知らない人々。


 里の外へ出たのだという実感が、ようやく二人の胸へ届き始める。


 ダンロは荷車を止め、二人へ振り返った。


「私はこの先の商会へ荷を届ける。君たちは、まず宿だったな」


「うん」


「なら、中央通りを少し進んだ右手に《旅籠・朝霧》という宿がある。値段も良心的で、食事も悪くない」


「酒は?」


「カイ」


 スイが低い声で名前を呼ぶ。


 ダンロは声を上げて笑った。


「酒もある。ただし、飲みすぎるなよ」


「分かってるって」


「その返事をする者ほど信用できない」


「今日、同じようなこと何回言われた?」


「五回くらい」


「数えてたの?」


「うん」


 スイが真顔で頷く。


 カイは少し傷付いたような顔をした。


 ダンロは懐から一枚の木札を取り出し、二人へ渡した。


「宿の主人にこれを見せれば、少し安くしてくれるだろう」


「いいの?」


「荷車を助けてもらった礼だ。金も渡したが、あれだけでは足りん」


「十分だったのに」


「では、いつか君たちが誰かに返してやればいい」


 スイリンは木札を両手で受け取った。


「ありがとう」


「ありがとうございます」


 カイエンも少し遅れて頭を下げる。


「冒険者登録を終えたら、商会へ顔を出してくれ。町の近くでできる簡単な仕事なら紹介できるかもしれない」


「本当?」


「ああ。旅立ち初日に出会ったのも何かの縁だ」


 ダンロはそう言うと、荷車へ乗り直した。


 二人は道の端へ寄り、荷車が人混みの向こうへ消えていくまで見送った。


「いい人だったね」


「うん」


「外にも親切な人、いるんだね」


「当たり前だろ」


「門番さんに騙されるって言われたばっかりじゃん」


「悪い奴もいる。いい奴もいる。それでいいんじゃね?」


 カイは荷袋を背負い直し、宿のある方角を見る。


「全員疑ってたら、仲間なんか見つけられねぇし」


 スイは少し目を細めた。


 慎重でいることは大事だ。


 けれど、疑うことばかり覚えたくはない。


 困っている時に手を差し出し、差し出された手を受け取る。


 その積み重ねの先に、きっと出会いがある。


「そうだね」


「だろ?」


「でも、宿はちゃんと確認してから入るよ」


「まだ疑うの?」


「それとこれは別」


「あはは! スイらしいな」


「笑わない」


 二人は並んで中央通りを歩き始めた。


 町の奥には、冒険者ギルドの看板も見えている。


 剣と盾を重ねた意匠。


 その建物の前を、武器を持った冒険者たちが出入りしていた。


 カイの視線は、自然とそちらへ向かう。


「登録、今日できるんじゃね?」


「まず宿」


「見るだけ」


「荷物を置いてから」


「入口まで」


「駄目」


「スイ」


「駄目」


 スイは前を向いたまま、きっぱりと言った。


 カイは名残惜しそうにギルドを振り返る。


 その時だった。


 建物の扉が勢いよく開き、中から一人の男が転がるように飛び出してきた。


「危ない!」


 スイの声に、カイが反応する。


 男は石畳へ倒れ込み、そのすぐ後を追って、大柄な冒険者が外へ出てきた。


「逃げられると思うなよ!」


 通りの空気が、一瞬で変わる。


 周囲の人々が足を止め、店先の者たちが不安そうに様子を窺う。


 倒れた男は顔を上げ、必死に後ずさった。


「違う、俺は盗ってない!」


「だったら、その懐の物は何だ!」


 大柄な冒険者が男の胸倉を掴む。


 その懐から、小さな革袋が石畳へ落ちた。


 硬貨の音が響く。


 カイの足が止まった。


「行くの?」


 スイが隣で小さく尋ねる。


 大柄な冒険者の方が強い。


 倒れた男が嘘をついている可能性もある。


 事情も分からない。


 今の二人は、町へ着いたばかりの旅人だ。


 関わらずに宿へ向かうこともできる。


 カイは少しだけ眉を寄せた。


「分かんねぇ」


 即座に飛び込まなかったことに、スイは何も言わなかった。


 山犬の時とは違う。


 倒せるかどうかではない。


 何が起きているのかを見極める必要がある。


 カイは周囲へ目を向けた。


 革袋。


 怒る冒険者。


 怯える男。


 そして、ギルドの入口から様子を見ている受付らしき女性。


 次の瞬間、スイの耳がわずかに動いた。


「……カイ」


「どうした?」


「あの人、嘘ついてないかも」


「分かるの?」


「分からない。でも」


 スイは革袋を見つめる。


「落ちた時、変な音がした」


「金の音じゃなくて?」


「うん。中に何か、魔力が流れてる」


 本人にもまだ正体の分からない感覚。


 旅立ち前から少しずつ芽生えていた、魔力の流れを捉える力。


 その感覚が、革袋の中にある違和感を知らせていた。


 カイはスイの表情を見る。


「調べる?」


「うん。ただ、いきなり割って入るのは危ない」


「じゃあ、ギルドの人呼ぶか」


 カイは建物の入口へ目を向ける。


 受付の女性も事態へ気付いていたらしく、すでにこちらへ向かっていた。


 二人はその場で立ち止まり、騒ぎの行方を見守る。


 宿へ向かうはずだった足は、まだ動かなかった。


 旅立ち初日の町で、二人は早くも、自分たちの知らない揉め事へ足を踏み入れようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ