第5話 旅のはじまり 前編
夜が明けるよりも早く、カイエンは目を覚ました。
窓の外にはまだ薄い闇が残っている。山の稜線だけがわずかに白み始め、冷たい朝の空気が、閉じた戸の隙間から部屋へ入り込んでいた。
いつもなら、母に起こされるまで布団へ潜っている時間だった。
それでも今朝は、一度目を開けると眠気が戻ってこなかった。
天井を見上げたまま、しばらく耳を澄ませる。
隣の部屋から、食器を重ねる小さな音がした。台所では薪が爆ぜ、母が朝食の支度をしているらしい。外からは、見回りを終えた銀狼たちの足音と、家畜が身じろぎする気配が聞こえてくる。
いつもと変わらない、里の朝だった。
けれど、この部屋で目を覚ますのは、今日が最後になるかもしれない。
その考えが浮かび、カイエンはゆっくりと上体を起こした。
部屋の隅には、昨夜まで何度も詰め直した荷袋が置かれている。
毛布、着替え、干し肉、固焼きのパン、塩、火打ち石、水袋、縄、針と糸。父から譲り受けた小刀と、旅先で困らない程度の硬貨も入っている。
必要な物は、すべてスイリンと確認した。
正確には、スイリンが書いた一覧を見ながら、カイエンが荷物へ放り込んだ。
「……忘れ物、ないよな」
誰に聞かせるでもなく呟き、荷袋へ手を伸ばす。
口を開き、中身を覗く。
上に入っているのは毛布。その下には衣類と食料。脇には折り畳んだ地図が差し込まれている。
問題はなさそうだった。
カイエンは一度頷き、袋を閉じかける。
そこで、枕元に置いたままの木彫りの狼が目に入った。
「あぶね」
小さな狼は、幼い頃にスイリンから渡された物だった。
収穫祭の日、まだ互いのことを何も知らなかった頃に交換した、最初の約束の証。
カイエンは木彫りを手に取り、親指で背中を撫でた。長い間持ち歩いていたせいで、表面は少し滑らかになっている。
なくすわけにはいかない。
荷袋の奥へ入れようとして、少し考えた。
奥へしまえば安全だが、すぐに取り出せない。だからといって外へぶら下げれば、どこかで落とすかもしれなかった。
「どうすっかな」
「朝から何を悩んでるんだ」
戸口から声がして、カイエンは振り返った。
父が腕を組み、呆れたように立っている。すでに身支度を整え、腰には狩り用の刀を差していた。
「起きてたのか」
「今日くらいは、お前より先に起きる」
「いつも起きてるだろ」
「いつもは、お前が遅いだけだ」
父は部屋へ入り、カイエンの手元を見た。
「それか」
「落としたくねぇんだけど、しまうのもなって」
「好きにしろ。旅に正解なんてない」
「父ちゃん、急にそれっぽいこと言うよな」
「お前が今日から旅人になるから、少しは父親らしいことを言っておこうと思ってな」
真面目な顔で言ったあと、父はすぐに鼻で笑った。
カイエンもつられて笑う。
昨夜から、家の中にはどこか落ち着かない空気があった。
母は何度も荷物を確認し、父は普段より口数が少なかった。二人とも旅立ちを止めることはなかったが、寂しくないはずがない。
カイエンにも、それは分かっていた。
分かっているからこそ、湿っぽい別れにはしたくなかった。
「これ、腰に付ける」
カイエンは木彫りへ紐を通し、帯の内側へ結び付けた。
外からは見えないが、手を伸ばせばすぐ触れられる位置だった。
「いいんじゃないか」
「だろ?」
「ただし、旅先でなくして泣くなよ」
「泣かねぇよ」
「昔、木の実を落としただけで大泣きしただろ」
「いつの話だよ」
「五歳だな」
「昔すぎるって」
父は笑いながら、部屋の隅に立てかけてあった剣を取った。
成人の儀を終えてから使っている、やや幅広の片手剣。大人の銀狼たちが使う大剣ほどではないが、十三歳のカイエンには十分に重い。
それを両手で差し出され、カイエンは黙って受け取った。
「刃は昨夜研いでおいた」
「ありがと」
「力任せに振り回すな。足元を見ろ。周りを見ろ。スイリンの声を聞け」
「分かってるって」
「分かっている奴は、野営訓練で獲物を追いかけて約束を破ったりしない」
痛いところを突かれ、カイエンは視線を逸らした。
「あれは……もう反省した」
「なら忘れるな」
父の声は静かだった。
怒っているわけではない。
だからこそ、言葉が胸へ残った。
山犬に囲まれたあの夜。自分一人なら倒せると思っていた。けれど、スイリンが一緒にいた。戦えば勝てたかもしれない。それでも、怪我をする可能性はあった。
倒せることと、倒す必要があることは違う。
あの日、スイリンが教えてくれたことだった。
「……うん」
カイエンが頷くと、父はそれ以上何も言わなかった。
大きな手が頭へ伸び、黒に近い灰色の髪を乱暴に撫でる。
「帰ってこいよ」
「何年後になるか分かんねぇぞ」
「何年でもいい。生きて帰ってこい」
カイエンは顔を上げた。
父はすでにいつもの表情へ戻っていたが、その目だけは笑っていなかった。
心配を隠している。
それが分かってしまい、胸の奥が少しだけ重くなる。
カイエンはその重さを振り払うように笑った。
「まぁ何とかなるって」
「その言葉を過信するなよ」
「何とかするって意味だから、大丈夫」
「都合のいい解釈だな」
父が肩を竦める。
そこへ、台所から母の声が飛んできた。
「二人とも、話してないで早く食べなさい! スイリンちゃんが来る前に冷めるよ!」
「ほら、怒られた」
「父ちゃんが長話するからだろ」
「お前の準備が遅いからだ」
言い合いながら部屋を出る。
台所には、普段より少し豪華な朝食が並んでいた。
焼いた川魚。根菜の汁物。炊いた雑穀。香草を混ぜた卵焼きまである。
「朝から食い切れねぇって」
「旅に出たら、まともに食べられない日もあるんだから、今のうちに食べなさい」
母はそう言いながら、さらに魚を一尾カイエンの皿へ置いた。
「増えてるじゃん」
「育ち盛りでしょ」
「荷物より腹の方が重くなるって」
「お昼のお弁当もあるからね」
「まだあんの?」
卓の隅には、布に包まれた大きな弁当が二つ置いてあった。
一つはカイエンの分。もう一つはスイリンの分だろう。
「スイリンちゃんは細いから、ちゃんと食べさせないと」
「スイは俺より食う時あるぞ」
「そういうことは本人の前で言わないの」
「なんで?」
「怒られるから」
「事実なのに」
「なおさら怒られるわよ」
母の言葉に父が吹き出す。
カイエンも笑いながら席へ着いた。
いつもの家。
いつもの会話。
魚の焼ける匂いと、湯気の立つ汁物。
この景色も、しばらく見られなくなる。
そう思うと、一口ごとに味が濃く感じられた。
食事を終えた頃には、外がすっかり明るくなっていた。
里の道を行き交う人の声が増え、家の前にも何人かが集まり始めている。見送りに来てくれたのだろう。
カイエンは荷袋を背負い、剣を腰へ下げた。
思っていたより重い。
それでも、足取りは軽かった。
「行ってくる」
玄関で振り返る。
母は笑っていた。
けれど、指先は前掛けの端を強く握っている。
「怪我しないでね」
「それは無理かも」
「そこは大丈夫って言いなさい」
「大怪我はしない」
「同じよ」
「あはは」
「笑い事じゃない」
母が近づき、カイエンの襟元を直す。
もう自分でできる。そう言おうとしたが、口には出さなかった。
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝るのよ。雨の日は無理に歩かない。知らない人に簡単についていかない。お酒は飲みすぎない。スイリンちゃんの言うことを聞く」
「最後だけおかしくね?」
「一番大事よ」
「俺の方が前衛なのに」
「戦うことと、旅をすることは別でしょ」
返す言葉がなかった。
母は満足そうに頷き、最後にカイエンを抱き締めた。
成人の儀を終えたあとも、こうして抱かれると自分がまだ子供なのだと思い知らされる。
少し恥ずかしかった。
それでも、離れようとは思わなかった。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
家を出る。
朝の光が眩しく、カイエンは目を細めた。
里の中央を抜け、門へ向かう。
道の両脇には、顔見知りの里人たちが並んでいた。稽古をつけてくれた狩人。野営の仕方を教えてくれた老人。幼い頃、一緒に山を駆け回った友人たち。
「カイエン、本当に行くのか?」
「昨日も言っただろ」
「外の国には、銀狼よりでかい奴がいるらしいぞ」
「そいつと戦ってくる」
「戦うなって言われたばっかりだろ!」
周囲から笑い声が上がる。
友人の少年が、悔しそうに唇を尖らせた。
「俺も成人したら行くからな」
「来い来い。先に面白い場所見つけとく」
「勝手に全部見つけるなよ」
「早い者勝ちだろ」
「ずるい!」
そんなやり取りをしながら歩いていると、胸の重さが少しずつ薄れていった。
里の門前には、すでに長老と何人かの大人が待っていた。
けれど、肝心のスイリンの姿がない。
カイエンは山道の方を見上げた。
妖狐の里から銀狼の里までは、歩いて半刻ほどかかる。遅れないよう早めに出ると言っていたはずだった。
「遅ぇな」
「女の支度は時間がかかるものだ」
長老が穏やかに言う。
「スイにそういうの関係あるか?」
「本人の前で聞いてみるといい」
「怒られそうだからやめとく」
「少しは学んだようだな」
長老が笑った。
カイエンは門の柱へ背を預ける。
落ち着かず、耳が何度も山道の音を拾った。
鳥の羽音。
風に揺れる葉。
遠くで誰かが荷車を押す音。
その中に、軽い足音が混ざる。
カイエンは顔を上げた。
「カーーーイ!!!」
山道の向こうから、白銀に近い淡緑色の髪が見えた。
スイリンが大きな荷袋を背負い、こちらへ駆けてくる。狐耳が揺れ、一本の尾が慌ただしく左右へ振られていた。
その後ろには、妖狐の里の者たちも続いている。
「遅い」
門前まで来たスイリンへ、カイエンは開口一番そう告げた。
スイリンは膝へ手をつき、息を整えながら顔を上げる。
「遅くないよ。決めた時間ぴったり」
「俺、ずっと待ってた」
「カイが早すぎるんでしょ。昨日まで朝に弱かったくせに」
「今日は特別だからな」
「あはは! 子供みたい」
「同い年だろ」
「そうだった」
スイリンは笑いながら背筋を伸ばした。
旅装はいつもの稽古着より厚く、動きやすさを重視したものだった。腰には短剣が二本差され、肩から小さな薬草袋が下がっている。
背負った荷袋は、カイエンの物より一回り小さい。
「それだけ?」
「必要な物は入ってるよ。カイみたいに、使うか分からない物まで詰めてないから」
「使うって。絶対」
「木彫りの駒を十個も何に使うの?」
「暇な時に遊ぶ」
「二個で足りるじゃん」
「人数増えるかもしれねぇだろ」
「旅立った日にもう仲間を増やす気?」
「多い方が楽しいじゃん」
カイエンが当然のように答えると、スイリンは少し目を丸くした。
それから、困ったように笑う。
「そういうところ、変わらないね」
「変わる必要ある?」
「ないかも」
スイリンの耳元で、小さな鈴が揺れた。
幼い頃、カイエンが渡した狐の鈴。
今も大切に付けている。
カイエンの視線に気付いたのか、スイリンが鈴へ触れた。
「持ってきたよ」
「俺も」
カイエンは帯の内側から木彫りの狼を少しだけ覗かせる。
「なくさないでよ」
「すいこそ」
「私はなくさない」
「俺もなくさねぇ」
「前に財布落としたでしょ」
「あれは落としたんじゃなくて置き忘れた」
「もっと駄目じゃん」
スイリンが呆れたように言い、周囲にいた大人たちが笑う。
妖狐の里から来たスイリンの母が、二人の前へ進み出た。
「朝からいつもどおりね」
「だってカイエンが変なこと言うから」
「すいも結構言ってるだろ」
「私は正しいことしか言ってないよ」
「そういうとこだって」
二人の母親が顔を見合わせ、同時にため息をつく。
「この二人で本当に大丈夫かしら」
「スイリンちゃんがいるから、カイエンは大丈夫よ」
「カイエンがいるから、スイリンも無茶ができるんです」
「俺、信用なくない?」
「私も無茶する前提なんだけど」
不満を漏らしながらも、二人の口元には笑みがあった。
やがて、銀狼の長老と妖狐の長が並んで立つ。
ざわめいていた里人たちが静かになった。
朝の風が門を抜け、木々の葉を揺らす。
「カイエン。スイリン」
銀狼の長老が名を呼んだ。
二人は並び、姿勢を正す。
「成人の儀を終え、お前たちは自らの足で進む道を選んだ。里に残ることも、外へ出ることも、どちらが正しいわけではない」
長老の目が、二人をゆっくりと見渡す。
「外の世界は広い。ここでは常識だったものが通じぬこともある。力で解決できぬ問題もあれば、言葉が届かぬ相手もいるだろう」
カイエンは黙って聞いていた。
その隣では、スイリンの尾がわずかに緊張している。
「それでも、自分たちで選んだ道ならば、最後まで互いを見失うな」
妖狐の長が言葉を引き継ぐ。
「相手が間違えた時は止めること。自分が間違えた時は認めること。二人で進むというのは、ただ同じ道を歩くことではありません」
スイリンが静かに頷いた。
「はい」
「分かった」
カイエンも答える。
長老は少しだけ眉を上げた。
「返事だけは昔から立派だな」
「今度はちゃんとするって」
「今度と言う者は、また失敗する」
「失敗しない奴なんていないだろ」
一瞬、周囲が静かになる。
カイエンは、何かまずいことを言ったかと首を傾げた。
やがて長老が小さく笑った。
「そうだな。ならば、失敗から目を逸らすな」
「うん」
「そして、生きて帰れ」
短い言葉だった。
それだけで、場の空気が少し変わる。
旅立ちを喜びながらも、誰もが二人の無事を願っている。
カイエンは里人たちの顔を一人ずつ見た。
母も父も、友人たちも笑っている。
その笑顔の奥にあるものを、今のカイエンは昔より少しだけ理解できた。
寂しさ。
心配。
それでも送り出そうとする覚悟。
胸の奥が熱くなる。
湿っぽいのは苦手だった。
泣くつもりもない。
けれど、何も感じないふりをするのも違う気がした。
「行ってきます」
カイエンは頭を下げた。
いつもの軽い言い方ではなく、できるだけ真っ直ぐに。
隣でスイリンも深く頭を下げる。
「行ってきます。必ず、二人で帰ってきます」
母たちが目元を拭う。
誰かが「元気でな」と声を上げた。
それをきっかけに、あちこちから言葉が飛んでくる。
「困ったら手紙を寄越せ!」
「怪我したら無理せず帰れよ!」
「外の酒が美味かったら持って帰ってこい!」
「それ、絶対だからな!」
酒の話になると、カイエンはすぐに顔を上げた。
「任せろ! 一番美味いの見つけてくる!」
「目的変わってるじゃん」
スイリンが肘で脇腹をつつく。
「仲間も探すって」
「酒が先に聞こえたよ」
「どっちも大事だろ」
「同じくらい?」
「……仲間が少し上」
「今、迷ったでしょ」
「あはは!」
「笑って誤魔化した」
スイリンもつられて笑う。
涙を堪えていた里人たちの表情も、その笑いにつられて緩んだ。
二人は門の外へ足を踏み出した。
一歩。
ただそれだけだった。
見慣れた土の道が、急に知らない道へ変わったように感じる。
銀狼の里と妖狐の里を結ぶ山道は何度も歩いてきた。社へ向かう道も、狩り場へ続く獣道も知っている。
だが、その先にある国境へ向かう街道を、二人だけで歩くのは初めてだった。
カイエンは振り返りそうになり、どうにか前を向いた。
振り返ってはいけないわけではない。
それでも今振り返れば、足が止まりそうな気がした。
隣を見る。
スイリンも真っ直ぐ前を見ていた。
耳だけが後ろから聞こえる声を追っている。
「スイ」
「なに?」
「怖い?」
歩きながら尋ねる。
スイリンは少し考え、正直に答えた。
「怖いよ」
「そっか」
「カイは?」
「俺も怖い」
「意外」
「俺を何だと思ってんだよ」
「考える前に動く銀狼」
「間違ってないけどさ」
カイエンが笑うと、スイリンも小さく笑った。
「でも、怖いだけじゃない」
「うん」
「楽しみの方が、ちょっとだけ大きい」
「それな!」
勢いよく同意すると、スイリンの尾が一度大きく揺れた。
「見たことない街がある。食べたことない料理がある。知らない酒もあるし、もしかしたら、本当にみんながいるかもしれない」
「アムも、ゆうきも」
「他のみんなも」
二人の夢に現れる、遠い世界の記憶。
雨に濡れた黒い道。
空へ伸びる建物。
手のひらに収まる、小さく光る板。
名前を呼び合い、何でもない話で笑った人たち。
すべてを鮮明に思い出せるわけではない。
けれど、大切だったことだけは分かっている。
この世界のどこかに、同じように生まれ変わった仲間がいるかもしれない。
根拠はなかった。
それでも二人にとっては、旅へ出るには十分な理由だった。
「最初は南の宿場町だっけ」
カイエンが尋ねる。
「うん。街道をまっすぐ進めば、夕方までには着くはず。そこで一泊して、明日、冒険者登録をする」
「今日やらないの?」
「着く時間によるかな。登録には説明もあるらしいし、慌てなくていいでしょ」
「今日できるなら今日やろうぜ」
「まず宿を取る。次に荷物を置く。それから時間を確認する」
「先に冒険者登録」
「宿」
「登録」
「宿」
二人は歩きながら睨み合う。
数秒後、カイエンが先に目を逸らした。
「……宿でいい」
「よろしい」
「なんでそんな偉そうなんだよ」
「旅の準備役だから」
「俺は?」
「荷物持ち」
「戦闘担当だろ!」
「あはは! それも」
スイリンの笑い声が山道へ響く。
カイエンは不満そうに口を尖らせたが、すぐに笑った。
里から離れるにつれ、見送りの声は少しずつ小さくなっていく。
やがて風と鳥の声しか聞こえなくなった頃、二人は同時に立ち止まった。
道の先には、見晴らしのいい小高い丘があった。
そこから先は緩やかな下り坂となり、遠くまで続く街道が見渡せる。
山の向こうには、まだ知らない土地が広がっていた。
カイエンは荷袋の肩紐を直す。
「ここからだな」
「うん」
スイリンも隣へ並んだ。
朝日が昇り、二人の影を長く道へ伸ばしている。
「約束、覚えてる?」
スイリンが聞く。
「どれ?」
「多すぎるんだけど」
「また会おうってやつ。仲間を探すやつ。美味い酒を探すやつ。勝手に一人で行かないやつ」
「最後のは絶対守ってね」
「分かってる」
「本当に?」
「今度こそ」
「それ、信用できない言い方」
スイリンは呆れながらも、右手を差し出した。
幼い頃、社で何度も交わした約束。
カイエンはその手を見てから、自分の右手を重ねた。
「怖くても行く」
「仲間を見つける」
「美味い酒も探す」
「二人で帰ってくる」
最後の言葉は、スイリンが付け加えた。
カイエンは一瞬だけ目を丸くし、それから強く頷いた。
「ああ。二人で帰る」
握った手を離す。
もう、後ろを振り返る必要はなかった。
「じゃあ行くか」
「うん」
「まずは宿場町!」
「道はこっちね」
「分かってるって」
「そっちは獣道だよ」
歩き出そうとしたカイエンの腕を、スイリンがすぐに掴んだ。
「……近道じゃね?」
「旅立って最初の曲がり角で迷う人、初めて見た」
「迷ってねぇよ。道を選んでただけ」
「地図にない道を選ばないで」
「面白そうだったのに」
「先が崖かもしれないでしょ」
「その時は戻ればいい」
「無駄に疲れるじゃん」
「旅ってそういうもんじゃね?」
「違うよ」
スイリンはカイエンの腕を引いたまま、正しい街道へ歩き出す。
カイエンは少しだけ名残惜しそうに獣道を振り返り、それから素直に隣へ並んだ。
「まぁ何とかなるって」
「私がいるからね」
「それな!」
朝の光の中、二人の笑い声が遠ざかっていく。
幼い頃に交わした約束を胸に、銀狼と妖狐は初めて故郷の外へ踏み出した。
この先で何に出会い、何を失い、どれほど遠くまで歩くことになるのか。
今の二人は、まだ知らない。
それでも足取りは軽かった。
知らない世界は、不安よりもずっと広い。
そして、その広い世界のどこかで、もう一度会いたい人たちが待っている。
二人は並んだまま、南へ続く街道を歩いていった。




