第4話 最初の一杯 後編
成人の祝いから三日後、スイリンは銀狼の里の倉庫で干し肉を数えていた。
板張りの床には、麻袋や木箱が隙間なく並んでいる。天井から吊るされた薬草の束が風に揺れ、乾いた青い匂いを漂わせていた。
目の前の机には、旅に必要な物を書き出した紙が置かれている。
干し肉。
乾燥させた米。
塩。
火打石。
水袋。
薬。
予備の紐。
針と糸。
雨具。
地図。
書き始めた時は十にも満たなかった項目が、父親たちに確認するたび増えていった。紙の下半分には細かな文字が詰まり、書く場所がなくなりつつある。
「二十七、二十八……」
数えた干し肉を隣の籠へ移す。
「二十九……」
背後で紙を擦るような音がした。
スイリンは数えるのを止めず、狐耳だけをそちらへ向ける。
「三十」
音が止まった。
「三十一」
また、かさりと鳴る。
「カイ」
「何だよ」
「今、干し肉取ったでしょ」
「取ってねぇ」
「じゃあ口に入ってるの何?」
スイリンが振り返ると、木箱の陰に座っていたカイエンが頬を膨らませていた。
手には食べかけの干し肉が握られている。
「味の確認」
「数えてる途中なんだけど」
「旅に持っていって不味かったら困るだろ」
「里でいつも食べてるやつじゃん」
「干し具合で変わるかもしれない」
「戻して」
「もう噛んだ」
「じゃあ最初から数え直し」
スイリンは籠の中身をすべて木箱へ戻した。
カイエンが露骨に嫌そうな顔をする。
「そこまでしなくてよくね?」
「一つ少ないまま記録したら、帳簿と合わなくなるでしょ」
「一枚くらい誰も気にしないって」
「旅の途中で食料が一枚足りなくても、同じこと言うつもり?」
「一枚なら言う」
「二枚なら?」
「ちょっと気にする」
「十枚なら?」
「スイが数え間違えたと思う」
「食べた本人が言うことじゃないよ」
スイリンが睨むと、カイエンは残っていた干し肉を口へ押し込み、何事もなかったように帳簿へ視線を落とした。
旅へ向けた準備は、稽古だけではなかった。
両親から与えられた条件の一つは、自分たちだけで必要な物を揃え、管理できるようになることだった。
そのため二人は、銀狼の里と妖狐の里の仕事を手伝い始めた。
狩りで得た肉の解体。
薬草の選別。
薪運び。
畑仕事。
商人へ渡す荷物の確認。
働いた分だけ、少額の賃金も受け取っている。
旅の資金として貯めるため、使い道も帳面へ残さなければならなかった。
最初の月、カイエンは稼いだ金の半分を串焼きと菓子へ使った。
翌日、帳簿を確認した父親から何も言われずに見つめられ、三日ほど目を合わせられなくなった。
それ以降は、買い食いをする前にスイリンへ相談するようになった。
「スイ、これ書いといて」
カイエンが銅貨を一枚、机の上へ置く。
「何のお金?」
「昨日、猟師の爺ちゃんの荷物運んだ分」
「自分で書いてよ。カイの帳面でしょ」
「字が細かくて面倒なんだよ」
「旅に出たら私が毎回書くの?」
「得意な方がやればいいだろ」
「じゃあカイは何をやるの」
「重い物を持つ」
「あと?」
「魔物が出たら戦う」
「ほかは?」
カイエンは黙り込んだ。
スイリンは炭筆を置き、彼の前へ帳面を押し返す。
「二人で補うのと、全部人に任せるのは違うよ。文字は書けるんだから、自分でやって」
「細かいなぁ」
「父さんたちに行動で示すって言ったでしょ」
「それは覚えてる」
「なら書く」
カイエンは渋々炭筆を取った。
文字は読める。
書くこともできる。
ただし急ぐと、本人以外には判別しにくい形になる。
一行を書き終えたところで、スイリンが覗き込んだ。
「これ、荷運びって書いた?」
「そう」
「最後の字、魔物みたいになってるよ」
「読めるならいいだろ」
「私は読めなかった」
「今読んだじゃん」
「前の文字から予想したの」
「なら問題ない」
「あるよ」
スイリンが直すよう促すと、カイエンは椅子へ深く座り、天井を見上げた。
成人したら、もっと自由になると思っていた。
好きな時に里の外へ出て、好きな武器を持ち、大人と同じように酒も飲める。
実際には許されることが増えた分、自分でしなければならないことも増えた。
朝は稽古。
昼は仕事。
夜は読み書きや地図の勉強。
酒は祝いの席以降、一度も飲めていない。
カイエンにとっては、想像していた大人と少し違った。
「旅って、もっと歩いて戦ってればいいと思ってた」
「それだけで生きられたら楽なんだけどね」
スイリンは干し肉を数え直しながら答える。
「ご飯がなくなったら買わないといけないし、買うにはお金がいる。町に入る時に税を取られるところもあるし、野宿できない場所だってあるんだって」
「森で寝ればいいだろ」
「持ち主がいたら怒られるよ」
「森に持ち主なんているのか?」
「いるところもある。勝手に木を切ったら捕まる国もあるって」
「面倒だな」
「知らなかったで済まないこともあるから、覚えろって言われてるんでしょ」
「和の国から出なきゃ、そこまで考えなくていいのに」
カイエンはそう言ってから、机へ頬杖をついた。
旅をやめたいわけではない。
むしろ、知らないことが多いと分かるほど、外へ出たい気持ちは強くなっている。
ただ、行きたいと思うことと、実際に歩き続けることの間には、想像以上に多くの準備が必要だった。
スイリンは最後の干し肉を籠へ移した。
「四十二枚。カイが一枚食べたから、本当は四十三枚」
「そこまで書くのか?」
「書くよ」
「俺が金払えばいいだろ」
「じゃあ帳面に支出として書いて」
「……食べなきゃよかった」
「食べる前に気付こうね」
倉庫の外から、太い笑い声が聞こえた。
戸口にカイエンの父親が立っている。
二人のやり取りをしばらく聞いていたらしい。
「少しは旅人らしくなってきたな」
「干し肉数えただけだぞ」
「その一枚を軽く見る者は、いずれ十枚を失う。食料の不足は、山の中では命に関わる」
父親は倉庫へ入り、スイリンの書いた記録へ目を通す。
数と状態。
保存期間。
傷んでいる物の有無。
必要な内容はすべて記されていた。
「スイリンは問題ない。カイエンは字をもう少し丁寧に書け」
「読めるだろ」
「読ませるために書くものだ。自分だけが分かっても意味がない」
スイリンが得意そうにカイエンを見る。
「ほら」
「スイは言い方が細かいんだよ」
「内容は同じでしょ」
「父ちゃんに言われる方が短い」
「お前が一度で聞けば、スイリンも短く済ませられる」
逃げ道を塞がれ、カイエンは口を閉じた。
父親は満足そうに頷き、今度は倉庫の外を指す。
「確認が終わったなら、午後は山へ行くぞ」
「狩り?」
カイエンの耳が立つ。
「野営の訓練だ。今夜は二人だけで山に泊まれ」
一瞬前まで退屈そうだった表情が、すぐに明るくなる。
「本当に?」
「ただし、指定した範囲から出るな。夕食と寝床は自分たちで用意し、明日の朝までに戻れ。持っていける物は、そこにある箱の中身だけだ」
父親が顎で示した先に、小さな木箱が置かれていた。
中には短い縄、火打石、布、水袋、鉄鍋。
食料らしいものは入っていない。
カイエンは木箱を覗き込み、眉を上げる。
「飯は?」
「自分たちで確保しろ」
「狩っていいのか?」
「指定地の川と森にいるものならな。ただし、食べられるかどうかを判断するのも試験のうちだ」
スイリンは吊るされた薬草へ目を向ける。
「薬も持っていけないの?」
「必要だと思うなら、自分で選んで持っていけ。ただし荷物の重さも考えろ」
「分かりました」
スイリンが答える横で、カイエンはすでに木箱を抱え上げていた。
「行こうぜ」
「まだ必要な物を選んでないよ」
「森にあるだろ」
「雨が降ったら?」
「布がある」
「小さすぎるでしょ。二人分の雨避けにはならないよ」
「木の下にいればいい」
「雷が鳴ったら危ないし、枯れた枝が落ちることもある。寝床だって地面にそのまま寝るつもり?」
カイエンの父親は口を挟まず、二人の様子を見ている。
スイリンは倉庫を見回し、必要な物を一つずつ選んだ。
小さな鉈。
予備の布。
塩。
傷口を洗うための酒精。
虫除けに使う乾燥薬草。
細い糸と針。
「多くね?」
カイエンが言う。
「全部必要だよ」
「持つの俺だろ」
「半分は私が持つ」
「その荷物で動ける?」
「カイほど力はないけど、これくらいなら平気」
スイリンは自分の背負い袋へ道具を詰めた。
重さが偏らないよう位置を変え、背負って歩いてみる。
カイエンはその横で、鉄鍋を木箱から取り出していた。
「これ、いる?」
「いるよ」
「肉なら焼けば食える」
「お湯を沸かせないでしょ」
「川の水、そのまま飲めるだろ」
「上流に動物の死骸があったら?」
カイエンは鉄鍋を見下ろした。
少し考えたあと、黙って背負い袋へ括りつける。
父親が小さく笑った。
「最初の頃よりは、話を聞くようになったな」
「俺も必要だと思ってた」
「今、捨てようとしてたよね」
「重さを確認してただけ」
言い訳を聞き流し、スイリンは倉庫の戸を閉めた。
◇
指定された野営地は、銀狼の里から歩いて二刻ほどの山中にあった。
道と呼べるものは途中で途切れ、その先は獣道を進む。
木々の隙間から射す光はまだ明るい。
けれど山の夕暮れは早い。寝床と食料を確保するなら、のんびり歩いている時間はなかった。
カイエンは先頭を進みながら、何度も周囲の匂いを確かめていた。
銀狼の鼻は、妖狐よりも遠くの獣を見つけられる。
その代わり、薬草や木の実を見分ける知識はスイリンの方が上だった。
「この辺、兎いる」
カイエンが足を止める。
地面には小さな足跡が残っていた。
糞も新しい。
近くに巣があるらしい。
「先に寝る場所を決めようよ」
スイリンが言う。
「飯の方が先だろ」
「追いかけてるうちに遠くへ行ったら、戻ってくる頃には暗くなるよ」
「すぐ捕まえる」
「その自信、何回外れたか覚えてる?」
「今回は足跡がある」
「前に鹿を追った時もあったよね」
「今は十二だぞ。五歳の時と一緒にするなよ」
カイエンはすでに獣道の奥を見ている。
スイリンは止めようと口を開き、途中で閉じた。
正面から止めても、余計に行きたがる。
それなら役割を決めた方が早い。
「半刻だけね。私はこの近くで寝床を探す。戻れなくなる前に、必ずここへ帰ってきて」
「一人で大丈夫か?」
「里から近いし、魔物避けの札もある。危ないと思ったらすぐに音を出すから」
スイリンは腰へ結んだ小さな笛を見せた。
二人で行動する時、離れた場所から危険を伝えるために用意したものだ。
高い音なら危険。
短く二度なら集合。
長く一度なら、相手の位置を確認したい時。
稽古で何度も使っている。
カイエンは少し迷ったが、頷いた。
「半刻で戻る」
「獲れなくてもね」
「獲るって」
彼は背負い袋をスイリンの足元へ置き、足跡を追って森の奥へ消えていった。
銀狼の姿が見えなくなると、周囲は急に静かになった。
鳥の声。
葉の擦れる音。
小川が流れる音。
一人だからといって、不安になるほどではない。
ただ、いつも隣にいる声がなくなると、山の広さを感じる。
スイリンは辺りを見渡した。
寝床には、水場から近すぎず、風を避けられる場所がいい。
川辺は水を汲みやすいが、夜になると冷える。急な雨で水位が上がる可能性もある。
少し高くなった斜面の途中に、太い木が数本まとまって生えていた。
地面は比較的乾いている。
頭上に枯れ枝もない。
スイリンはそこへ荷物を運び、落ち葉や小石を取り除き始めた。
鉈で細い枝を切り、二本の木の間へ縄を張る。
その上から布を掛ければ、簡単な屋根になる。
だが、布は二人が横になるには小さい。
雨を防ぐなら、さらに葉のついた枝を重ねる必要がある。
作業を始めてしばらくすると、空が少し暗くなった。
雲が山の向こうから流れてきている。
雨の匂いがした。
「やっぱり降りそう」
独り言を漏らし、作業を急ぐ。
布を結び終えたところで、遠くから枝の折れる音が聞こえた。
カイエンかと思い耳を立てる。
足音は一つではない。
低い唸り声が混じっていた。
スイリンはすぐに木の陰へ身を寄せ、腰の短剣へ手を置く。
茂みの向こうから現れたのは、山犬だった。
一匹。
痩せてはいるが、牙を剥き、こちらを警戒している。
魔物ではない。
それでも腹を空かせた野生動物は、十分に危険だった。
スイリンは短剣を抜かない。
刺激せず、ゆっくりと後ろへ下がる。
山犬の視線は、足元に置かれた荷物へ向いていた。
中に食料は入っていない。
けれど鉄鍋や酒精に、里の匂いが残っているのかもしれない。
「そっちに食べる物はないよ」
言葉が通じるわけではない。
それでも落ち着いた声を出しながら、山犬と荷物の間へ身体を入れる。
逃げれば追われる。
戦えば傷つける。
できるなら、そのどちらも避けたい。
山犬が一歩近づいた。
スイリンは空いた手を腰の笛へ伸ばす。
その時、森の奥から短い鳴き声が響いた。
山犬が振り向く。
続いて、何かが茂みを勢いよく抜けてきた。
「スイ、避けろ!」
カイエンだった。
片手には捕まえた兎を持ち、その後ろからもう一匹の山犬が追ってきている。
スイリンは反射的に横へ跳んだ。
最初からいた山犬もカイエンへ向き直る。
二匹の視線が、彼の持つ兎へ集中した。
「なんで連れてきてるの!」
「俺じゃなくて、こいつ狙ってる!」
「同じことでしょ!」
カイエンは兎を背中へ回し、腰の短剣を抜く。
スイリンも隣へ並んだ。
山犬たちは唸りながら、二人を挟むように左右へ分かれる。
「一匹だと思ってた」
カイエンが小声で言う。
「私の方にもいたから二匹」
「後ろのやつ、追いついてきた」
「それは見れば分かるよ」
「どうする?」
「兎を渡せば、多分追ってこない」
「せっかく捕まえたのに?」
「怪我するよりいいでしょ」
「でも、夕飯なくなるぞ」
「木の実と川魚で何とかする」
「魚、捕れる?」
「カイよりは我慢して待てる」
一匹が低く身を沈めた。
飛びかかる前の動きだった。
話している時間はない。
スイリンは足元の土を蹴り上げた。
山犬が一瞬だけ目を閉じる。
その間に前へ出て、短剣の腹で鼻先を強く打った。
殺すためではない。
驚かせ、距離を取らせるための一撃。
もう一匹がカイエンへ飛びかかった。
カイエンは身体を捻り、牙を避ける。
そのまま首元を蹴り飛ばした。
山犬が地面を転がる。
すぐに起き上がったが、こちらへ近づこうとはしなかった。
「カイ、兎を離して!」
「でも――」
「今は勝つ必要ない!」
スイリンの声に、カイエンは一瞬だけ迷う。
それから舌打ちし、兎を遠くの茂みへ投げた。
山犬たちの耳が動く。
一匹が先に駆け出し、もう一匹もその後を追った。
茂みが揺れ、やがて気配が遠ざかる。
森へ静けさが戻った。
カイエンはしばらく短剣を構えたまま、山犬が消えた方向を見ていた。
「逃げたな」
「夕飯もね」
「獲ったのに」
「山犬を二匹倒して怪我するよりはいいよ」
「倒せたと思う」
「倒せるかどうかじゃなくて、倒す必要があったかでしょ」
スイリンは短剣を鞘へ戻した。
カイエンの腕や足へ傷がないか確認する。
服の袖に泥はついているが、血は出ていない。
「噛まれてない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「避けた」
「ならよかった」
スイリンが息を吐く。
カイエンは彼女の横顔を見て、少しだけ目を伏せた。
「悪かった」
「何が?」
「半刻で戻るって言ったのに、兎追って遠くまで行った」
スイリンは驚いて彼を見る。
カイエンが自分から素直に謝るのは珍しい。
言い過ぎた後や、本当に誰かへ迷惑を掛けた時は謝れる。
けれど大抵は、その前に一つか二つ言い訳を挟む。
今回は、それがなかった。
「どれくらい離れたの?」
「笛が鳴っても聞こえないくらい」
「それは駄目だよ」
「ああ」
「山犬が一匹じゃなくて、もっといたら?」
「戻れなかったかもしれない」
「私の方で何かあっても、カイは気付けなかった」
「分かってる」
カイエンは森の奥を見る。
捕まえた兎を惜しんでいる顔ではなかった。
自分の判断が、相手を一人にしたことを考えている。
スイリンはそれ以上責めなかった。
「次からは、半刻って決めたら戻ってきて」
「獲物がいても?」
「戻って相談する」
「逃げるぞ」
「逃げたら、別のご飯を探せばいいよ」
「腹減るな」
「今夜は魚を捕るから」
「捕れなかったら?」
「木の実」
「少なくね?」
「誰かが干し肉を勝手に食べなければ、一枚くらい持ってこれたかもね」
「まだ言う?」
スイリンは笑い、作りかけの寝床へ戻った。
カイエンも荷物を拾い、黙って後をついてくる。
少し経ってから、彼は布の上に枝を重ね始めた。
「雨降りそうだな」
「だから先に寝床って言ったでしょ」
「それはスイが正しかった」
「あれ、素直」
「俺だって間違えたら認める」
「いつもそれくらい早いと助かるんだけどなぁ」
「毎回間違えてるみたいに言うなよ」
「違うの?」
「半分くらい」
「多いよ」
二人で作れば、寝床はすぐに形になった。
カイエンは太い枝を運び、スイリンは縄で組み上げる。
地面へ厚く葉を敷き、濡れないよう荷物を中央へ寄せた。
終わる頃には、ぽつぽつと雨が落ち始めていた。
急いで火を起こす。
湿気のせいで枯れ草へなかなか火が移らない。
カイエンが何度も火打石を鳴らし、スイリンが身体で風を遮る。
ようやく小さな炎が生まれた時には、二人とも地面へ座り込んでいた。
「火つけるだけで疲れた」
「晴れてる時とは違うね」
「魔法で出せたら楽なのに」
「火属性、ちゃんと習う?」
「俺、土の方が向いてるって言われた」
「私も火はまだ失敗するからなぁ」
「前髪燃やしてたもんな」
「五歳の話でしょ」
「また見たい」
「絶対やらないよ」
雨は次第に強くなった。
葉を重ねた屋根が、細かな音を立てる。
隙間から落ちる雫を器で受け、火へ入らないよう位置を変えた。
夕食は、川で捕まえた小さな魚が二匹。
木の実と、食べられる野草。
鉄鍋で煮ただけの薄い汁物。
塩を少し入れると、それらしい味になった。
カイエンは椀の中を覗き込み、沈んだ魚を箸で持ち上げる。
「小さいな」
「一匹ずつあるだけいいでしょ」
「肉食いたかった」
「山犬が食べてるよ」
「今頃うまそうに食ってるんだろうな」
「追いかけないでね」
「行かねぇよ」
口では不満を言いながら、カイエンは汁を残さず飲んだ。
温かいものが腹へ入ると、ようやく身体の力が抜ける。
火の向こうで、雨に濡れた森が暗く沈んでいた。
里の灯りは見えない。
人の声もしない。
二人だけで過ごす最初の夜だった。
幼い頃にも一緒に泊まったことはある。
けれど、あの時は隣の部屋に両親がいた。
何かあれば呼べた。
今夜は違う。
寝床も。
火も。
食事も。
明日の朝まで、自分たちで守らなければならない。
「静かだね」
スイリンが火へ枝を足す。
「雨の音すごいけど」
「それ以外が」
「里より獣の匂いはする」
カイエンは鼻を動かし、暗い森へ目を向ける。
「近くにはいない。山犬も戻ってきてない」
「そう」
スイリンは膝を抱え、火を見つめた。
炎は小さい。
それでも濡れた夜の中では、十分に明るく感じる。
「旅に出たら、こういう夜が増えるんだね」
「もっと遠いところでな」
「里へ帰ろうと思っても、すぐには戻れない場所」
「怖い?」
カイエンが聞いた。
スイリンはすぐに否定しなかった。
雨音に耳を傾けながら、自分の中にある感覚を確かめる。
「少し」
「俺も」
意外な答えだった。
スイリンが顔を上げると、カイエンは火へ視線を落としたまま続ける。
「外へ行くのは楽しみだけど、父ちゃんたちがいないのは、たぶん変な感じする」
「カイもそう思うんだ」
「思うだろ。生まれてからずっと里にいたんだから」
「平気そうにしてるから」
「平気なふりはできる」
カイエンは枝で火をつつく。
火の粉が一つ、暗闇へ舞って消えた。
「でも、スイがいるなら何とかなるとは思ってる」
「それ、甘えてない?」
「違う。俺もスイが困った時に何とかするから」
「今日、山犬連れてきたけど」
「それはもう謝っただろ」
「あはは! 分かってるよ」
スイリンは肩の力を抜き、笑った。
二人で補う。
一人ではできないことを、相手にすべて預けるのではなく。
自分にできることを増やしながら、それでも足りないところでは手を借りる。
父親たちが言っていた意味を、少しだけ理解できた気がした。
「私、薬と地図をもっと覚える」
「じゃあ俺は狩りと戦い」
「帳簿も」
「それはスイが得意だろ」
「自分の分は自分で書く」
「……あと、帳簿」
「料理も覚えてね」
「焼くのはできる」
「煮るのも」
「火に鍋置くだけじゃね?」
「今日、水の量を間違えてたでしょ」
「あれは魚が小さかったから多く見えた」
「関係ないよ」
雨の夜に、二人の声が続く。
旅へ出るまでに覚えることは、まだ多い。
一年という時間は、長いようで短い。
けれど、今夜のような失敗を一つずつ重ねていけば、少なくとも何が足りないのかは分かる。
それでいい。
最初から何でもできる必要はない。
できなかったことを、そのままにしなければ。
「来年の今頃は、どこにいるかな」
スイリンが呟く。
「和の国の外じゃね?」
「そんなに早く出られる?」
「道が分かれば」
「港まで行くのにも結構かかるよ」
「じゃあ港」
「船に乗ってるかも」
「酒あるかな」
「港町ならありそう」
「魚もうまそうだな」
「カイ、食べることばっかり」
「旅の楽しみだろ」
「否定はしないけど」
スイリンは火の向こうへ手を伸ばす。
昔、約束をする時に何度も差し出した小指ではない。
開いた手のひらだった。
カイエンがそこを見る。
「何?」
「一年後、本当に出ようね」
「そのために今ここにいるんだろ」
「分かってる。でも、言っておきたくなった」
カイエンは少し笑い、自分の手を重ねた。
握手というより、互いの手のひらを軽く打ち合わせるような形だった。
「出るよ」
「絶対?」
「絶対」
「途中で面倒にならない?」
「なるかもしれない」
「なるんだ」
「でもやめない。面倒でも進む」
「カイらしいね」
「スイもだろ」
スイリンは自分の手を引き、火へ向き直る。
「うん。私も」
その夜、雨は明け方まで降り続いた。
屋根の隙間から何度か水が落ち、二人は眠りかけるたび位置を変えた。
一度、火が消えそうになった。
カイエンが起きて薪を足し、スイリンが濡れた枝を乾かした。
眠れたのは、合わせても数刻ほどだった。
それでも朝になり、雲の切れ間から光が差し込んだ時、二人は自分たちの作った寝床の下で目を覚ました。
荷物は濡れていない。
火も僅かに熾火が残っている。
怪我もない。
空腹ではあったが、歩いて帰れるだけの力は残っていた。
「帰ったら飯」
カイエンが立ち上がりながら言う。
「最初の言葉がそれ?」
「朝飯抜きだぞ」
「木の実残ってるよ」
「肉がいい」
「昨日食べられなかったもんね」
「山犬よりでかいの食う」
「張り合わなくていいでしょ」
寝床を解体し、使った場所を元の状態へ戻す。
火へ水をかけ、灰の中に熱が残っていないか確認する。
自分たちがいた跡を、できる限り残さない。
それも旅人として教えられたことだった。
里へ戻る道は、昨日より短く感じた。
途中、カイエンが獣道へ入りそうになり、スイリンが袖を掴んだ。
「何かいた」
「戻るのが先」
「見るだけ」
「昨日の今日だよ」
「……分かった」
素直に道へ戻ったことに、スイリンは少し驚いた。
「本当に分かったんだ」
「俺だって成長する」
「一日で?」
「木だって一日で育つ」
「またそれ言ってる」
山を下りると、里の入り口に二人の父親が立っていた。
迎えに来ることは聞いていなかった。
おそらく朝になっても姿が見えなければ、探しに入るつもりだったのだろう。
カイエンの父親は、二人の荷物と服の汚れを見てから尋ねた。
「何があった」
「山犬が二匹」
カイエンが答える。
「追われたのか?」
「俺が獲った兎を狙われた」
「それで?」
「兎を渡して逃がした」
父親の視線が僅かに変わる。
「倒そうとは思わなかったのか」
「倒せるとは思った。でも、怪我するかもしれなかったし、倒す必要もなかった」
カイエンは一度スイリンを見る。
「最初は兎を渡したくなかったけど、スイに言われて離した」
父親はすぐに褒めなかった。
「約束した範囲は守ったか」
カイエンの耳が下がる。
「……半刻で戻る約束を破った。兎を追って、笛が聞こえないところまで行った」
「なぜ戻った」
「山犬に追われたから」
「追われなければ?」
カイエンは少し黙った。
「もっと追ってたかもしれない」
父親は深く息を吐いた。
怒鳴りはしなかった。
その代わり、息子の目を真っ直ぐに見る。
「獲物を逃すことより、仲間との約束を失う方が重い。お前が戻らない間、スイリンに何かあればどうした」
「分かってる。次はしない」
「言葉だけでは信用しない」
「行動で見せる」
成人の祝いの夜と同じ言葉だった。
ただし、今度のカイエンは笑っていない。
父親はしばらく黙り、それから頷いた。
「忘れるな」
スイリンの父親は、娘が書き残していた簡単な野営記録を受け取った。
場所。
天候。
使用した道具。
確保した食料。
遭遇した動物。
失敗したこと。
次に改善すること。
濡れた紙には、少し歪んだ文字が並んでいた。
「寝床は二人で作ったのか」
「はい。最初は私一人で始めたけど、カイが戻ってから補強しました」
「雨漏りは?」
「少ししました。布の角度が足りなかったのと、葉の重ね方が浅かったです」
「火は維持できたか」
「一度消えそうになりました。乾いた薪を屋根の下に残してなかったから、次は先に分けておきます」
父親は記録から顔を上げる。
「よく書けている」
「本当?」
「ああ。失敗を隠していないのもいい」
スイリンは安堵したように息を吐いた。
その隣で、カイエンの父親が腕を組む。
「今回は合格とは言えんな」
カイエンの耳がさらに下がる。
「ただし、失敗した後の判断は悪くなかった。次は同じことをするな」
「おう」
「返事」
「はい」
父親たちは先に歩き出した。
完全に認められたわけではない。
けれど、やり直す機会は与えられている。
カイエンは少しだけ肩を落としていたが、すぐに隣のスイリンを見る。
「次は兎、最初に仕留める」
「そこじゃないよ」
「半刻で戻ってから相談する」
「それならいいけど」
「二人で追えば早いだろ」
「寝床を作ってからね」
「腹減るぞ」
「木の実を先に集める」
「肉がいい」
「じゃあ罠を覚えようよ。追いかけなくても捕まえられるし」
「それな!」
失敗の翌日には、次の方法を考えている。
カイエンのそういうところを、スイリンは嫌いではなかった。
引きずらなさすぎて、反省しているのか不安になることもある。
けれど彼は、必要なことだけは意外と忘れない。
きっと次の野営では、決めた時間に戻る。
その次は、別の失敗をするのだろう。
自分も同じだ。
まだ知らないことが多い。
できないことも多い。
だから一年を使う。
失敗を重ね、自分たちなりの歩き方を見つけていく。
◇
季節が巡った。
春の終わりには、二人だけで里と里の間を往復する許可を得た。
夏には商人の護衛へ同行し、初めて獣人だけではない町を歩いた。
秋には山中で三日間の野営を行い、冬には雪の中で食料を確保する方法を学んだ。
その間にも、何度も失敗した。
カイエンは川を渡る途中で足を滑らせ、背負い袋ごと水へ落ちた。
防水のために包んでいた火打石だけは無事だったが、着替えはすべて濡れた。
スイリンは地図を読み違え、予定より一つ手前の村へ着いた。
間違いに気付かないまま宿を探し、村人から目的地の名を聞かれてようやく分かった。
二人で作った料理を焦がし、干し肉を野鼠に齧られ、雨具を木の枝へ引っ掛けて破いた。
そのたびに記録を残した。
どうして失敗したのか。
何が足りなかったのか。
次はどうするのか。
最初は面倒がっていたカイエンも、やがて自分から帳面を開くようになった。
文字は相変わらず大きく、少し傾いている。
それでも、他人が読める程度には整っていた。
稽古も続けた。
スイリンは二本の短剣を使うようになり、相手の正面に留まらない戦い方を磨いた。
カイエンは、成人の儀で与えられた剣から、より長く重い武器へ持ち替えた。
銀狼の力を活かせる、幅広の剣。
まだ正式な愛剣ではない。
それでも、後に大剣を選ぶきっかけとなる一本だった。
魔法では、カイエンが土属性と身体強化に適性を見せた。
足元を固め、踏み込みの力を増す。
腕や背へ魔力を巡らせ、重たい剣を振るう。
派手な魔法ではない。
けれど彼の戦い方にはよく合っていた。
スイリンは広く浅く魔法を学んだ。
火。
風。
わずかな治癒。
特に得意と呼べる属性は、まだ見つからない。
一方で、自分と周囲の魔力の流れには敏感だった。
カイエンが強化魔法を使うと、その魔力がどこへ集中しているのか、何となく分かる。
疲れている時。
集中が乱れた時。
本人より先に気付くこともあった。
「カイ、右足に力入りすぎ」
「分かるのか?」
「さっきから魔力が偏ってる。もう一回やったら足を痛めるよ」
「まだ動ける」
「動けるのと、続けていいのは違うでしょ」
「あと一回」
「休んでから」
「一回だけ」
「駄目」
そう言って止めた直後、カイエンが座り込むこともあった。
スイリン自身にも、それがどうして分かるのかは説明できない。
ただ、近くにいる仲間の状態を感じ取る感覚は、少しずつ強くなっていた。
まだ能力と呼べるほど明確ではない。
本人も、周囲も、その萌芽には気付いていなかった。
やがて冬が終わる。
二人が十三歳を迎える年の春。
旅立ちの日は、すでに決まっていた。
山桜が散り、街道の雪が完全に解ける頃。
妖狐と銀狼、二つの里の者たちが集まり、二人を見送る。
約束した一年は、もう終わろうとしていた。
旅の荷物は揃っている。
資金も、当初の目標を上回った。
地図には最初に向かう町までの道が記されている。
二人はまだ、どこに仲間がいるのか知らない。
手掛かりもない。
それでも、立ち止まる理由にはならなかった。
前の世界から残った声を探しに行く。
知らない土地を歩き、知らない人と出会う。
そして、その土地で一番おいしい酒を飲む。
いつか皆と再会した時、旅の話をしながら杯を交わすために。
出発を数日後に控えた夜。
スイリンは自室の床へ、これまで書き残した夢の記録を広げていた。
紙は何十枚にも増えている。
白い部屋。
光る小さな画面。
雨の街。
鉄の乗り物。
大勢の笑い声。
そこに書かれた名前は、ほとんど読めない。
思い出しかけては消えた音を、無理に文字へしたものばかりだった。
それでも、捨てることはできなかった。
旅へすべて持っていくには多すぎる。
スイリンは一枚ずつ見返し、その中から最初の記録を選んだ。
雪の日。
カイエンと同じ夢を見た翌朝、二人で描いたもの。
雨の街と、不格好な鉄の乗り物。
紙の端には、幼い文字で短い言葉が書かれている。
一緒に思い出す。
スイリンはその紙を丁寧に折り、旅の帳面へ挟んだ。
残りは木箱へ戻す。
家に置いていく。
帰ってくる理由を、一つ残しておくために。
窓の外から、小さな鈴の音がした。
スイリンが顔を上げる。
庭先にカイエンが立っていた。
腰には、幼い頃にもらった狐の鈴が今も結ばれている。
「こんな時間にどうしたの?」
窓を開けると、春の夜気が入り込んだ。
「寝れねぇ」
「緊張してる?」
「してない」
「耳が立ってるよ」
「夜の音を聞いてるだけ」
変わらない言い訳に、スイリンは笑う。
「私も、少し寝られなかった」
「じゃあ外行こうぜ」
「どこへ?」
「社」
雪の日に、二人だけの秘密を決めた場所。
スイリンは少し迷い、上着を羽織った。
成人した今なら、夜の社へ行くこと自体は禁止されていない。
ただし、母親へ何も言わずに出れば怒られる。
枕元へ行き先を書いた紙を置き、静かに庭へ下りた。
二人で歩く夜道は、幼い頃より短く感じた。
身体が大きくなり、歩幅が広がったせいだけではない。
何度も通った道だからだ。
社の裏にある岩へ登る。
そこから見える里は、昔とほとんど変わっていなかった。
家々の灯り。
細い煙。
竹林を流れる夜風。
遠くには、銀狼の里へ続く山が黒く重なっている。
「最初にここ来た時、雪だったね」
スイリンが言う。
「俺が頭に雪玉落とした時」
「格好つけたのに失敗したやつ」
「風のせいだって」
「風、なかったよ」
「覚えてるのかよ」
「あはは! 忘れないよ」
カイエンは岩へ腰を下ろし、夜空を見上げる。
「本当に出るんだな」
「うん」
「明後日」
「うん」
「やめたいって思ってない?」
スイリンは隣へ座った。
少し考えてから答える。
「怖いとは思ってる」
「やめたいのとは違う?」
「違う。怖くても行きたい」
「俺も」
二人の肩が、軽く触れる。
幼い頃と同じ距離だった。
「仲間、見つかるかな」
スイリンが呟く。
「見つける」
「世界は広いよ」
「俺たち二人も同じ国に生まれたんだぞ。他の奴もいるって」
「根拠になってるような、なってないような」
「いると思った方が楽しいだろ」
「それな、って言えばいい?」
カイエンが笑う。
「それな!」
夜風が二人の髪を揺らした。
スイリンは胸元の木彫りへ触れる。
カイエンは腰の鈴へ手を置く。
出会った日に交換した、小さな印。
旅へ出る二人にとって、特別な力を持つ物ではない。
魔物を倒すことも。
傷を治すことも。
道を示すこともできない。
それでも、互いを見失わないためには十分だった。
「最初はどこ行く?」
カイエンが尋ねる。
「南の宿場町。そこで冒険者組合に登録して、海沿いの街へ向かう」
「酒は?」
「宿場町で探す」
「それな」
「でも、一杯だけだからね」
「成人してるんだから、もっと飲んでもいいだろ」
「旅の初日に二日酔いになったら置いていくよ」
「ならねぇよ」
「最初の一杯で耳伏せてたのに?」
「慣れた」
「一回しか飲んでないでしょ」
「気持ちの問題」
変わらない掛け合いが、夜の社へ響く。
二人はしばらく笑い、その後は何も話さず里を眺めた。
離れることになる家。
両親。
稽古場。
何度も走った道。
全部を目に焼きつけようとしているわけではない。
忘れるつもりがないからこそ、静かに見ていられた。
やがてカイエンが立ち上がる。
「帰るか」
「うん」
岩から下りる前に、スイリンは夜空を一度だけ見上げた。
同じ空の下に、誰かがいる。
名前を思い出せない仲間。
まだ会ったことのない人々。
これから歩く場所。
そのすべてが、暗い空の向こうに広がっている。
「カイ」
「ん?」
「旅に出ても、勝手に遠くまで行かないでね」
「まだ山犬のこと言ってる?」
「ずっと言うよ」
「もうしないって」
「本当に?」
「行く時はスイも連れてく」
「そういう意味じゃないんだけど」
「あはは」と笑いながら、二人は社を後にした。
並んだ足音が、夜の道を里へ戻っていく。
子どもの頃から何度も歩いた帰り道。
けれど、次にここを歩く時は。
きっと旅から帰ってきた時だった。
最初の一杯から始まった一年は、失敗ばかりだった。
泥にまみれ。
道を間違え。
食料を失い。
何度も叱られた。
それでも二人は、自分たちの足で里の外へ進む準備を終えた。
残されたのは、別れの朝だけ。
そしてその先には、二人がまだ知らない世界が待っていた。




