第3話 成人の儀 後編
成人の儀を迎える朝、妖狐の里には薄い霧が降りていた。
夜明け前に降った雨が土の匂いを濃くし、竹林の奥からは水滴の落ちる音が聞こえる。家々の軒先には白い布が掛けられ、成人を迎える子どもの名を書いた木札が並んでいた。
スイリンは鏡の前に座り、母親に髪を整えてもらっていた。
淡い緑色の髪はいつもより丁寧に梳かされ、耳の後ろで小さくまとめられている。身につけているのは、成人の儀のために仕立て直された白と若草色の着物だった。
袖口には、妖狐の里を表す細い蔓草の刺繍が入っている。
普段の動きやすい服とは違い、少し肩が窮屈だった。
「苦しくない?」
母親が帯を締めながら尋ねる。
「大丈夫。ちょっと動きにくいけど」
「今日は走り回る日ではありません」
「試練で走るかもしれないじゃん」
「その時は着替えさせてもらえますよ」
母親はそう言って、最後に帯の形を整えた。
鏡の中に映る自分は、どこか他人のように見えた。
昨日までと顔が変わったわけではない。
耳も尻尾も、淡い髪もそのままだ。
それでも、着物を纏って背筋を伸ばしている姿には、少しだけ知らない少女の面影がある。
夢の中で見た、以前の自分ではない。
今のスイリンが、これからなろうとしている姿だった。
「緊張していますか?」
母親に聞かれ、スイリンは鏡越しに視線を返した。
「少しだけ」
「珍しいですね」
「私だって緊張くらいするよ」
口から出た一人称に、母親の手が止まった。
スイリン自身も気付いていた。
まだ儀式は始まっていない。
自分で決めた境目より、ほんの少し早い。
母親は何かを尋ねるかと思ったが、ただ鏡の中の娘を見つめた。
「その呼び方にするの?」
「……成人の儀が終わったら」
「そう」
驚きも、否定もなかった。
母親は娘の髪へ飾り紐を結び、ゆっくりと手を離す。
「自分で選んだのなら、それでいいと思います」
「変じゃない?」
「少し大人びて聞こえますね。でも、いずれ馴染むでしょう」
スイリンは鏡へ向き直った。
試すように、小さく呟く。
「私」
まだ少し照れくさい。
それでも嫌ではなかった。
母親がその肩へ手を置く。
「呼び方が変わっても、あなたが急に別の人になるわけではありませんよ」
「分かってる」
「なら、大丈夫です」
その言葉に背中を押され、スイリンは立ち上がった。
玄関では父親が待っていた。
普段よりも改まった紺色の着物を身につけている。娘の姿を見ると一瞬だけ目を細め、それから照れ隠しのように咳払いをした。
「よく似合っている」
「ほんと?」
「ああ。少し見ない間に、大きくなったものだ」
「毎日見てるじゃん」
「そういう意味ではない」
父親は困ったように笑い、家の戸を開けた。
朝の冷たい空気が入り込む。
里の中央にある広場へ向かう道には、すでに多くの人が集まっていた。
今年、妖狐の里で成人の儀を受ける者は、スイリンを含めて七人。
皆がそれぞれの家族に連れられ、少し硬い表情で歩いている。
広場の中央には、古い石造りの祭壇が置かれていた。
その奥には里長と、儀式を取り仕切る年長の術師たちが並んでいる。
祭壇の上にあるのは、七つの小さな鈴だった。
どれも形が違う。
銀色のもの。
赤い紐を結ばれたもの。
表面に細かな文字が刻まれたもの。
その鈴が、成人の試練に関わるのだとスイリンはすぐに察した。
里長が杖を地面へつく。
広場の話し声が静まった。
「本日、七名の若者が成人の儀を迎える」
低く穏やかな声が、霧の残る広場へ広がる。
「大人になるとは、すべてを一人でできるようになることではない。自ら選び、その選択に責任を持つことだ。迷うことも、誰かに助けを求めることも恥ではない。ただし、自分の足で進むと決めた道を、他者のせいにしてはならない」
スイリンは静かに耳を傾けた。
父親や母親から似た言葉を聞いたことはある。
けれど、今日の空気の中で聞くと重みが違った。
里長は祭壇の鈴へ手を向けた。
「これより一人ずつ鈴を選び、竹林の奥にある七つの祠へ向かってもらう。どの鈴が、どの祠へ導くかは分からない。道中には幻術が施されている。惑わされず、鈴の音を頼りに祠へ辿り着き、そこに置かれた証を持ち帰ること」
予想していた通り、幻術を用いた試練だった。
妖狐にとって幻術は身近な技だ。
使うだけではなく、見破る力も求められる。
「鈴は、正しい道へ近づくほど澄んだ音を鳴らす。だが、耳に聞こえるものだけを信じてはならない。自分の目で見て、足元を確かめ、進む道を選びなさい」
一人ずつ名が呼ばれ、祭壇の前へ進む。
スイリンの番は四人目だった。
並べられた鈴を見下ろし、少し迷ってから、一番小さなものを手に取った。
飾り気のない、古びた鈴だった。
手の中で転がすと、かすかな音が鳴る。
不思議と懐かしい響きがした。
カイエンに渡した狐の鈴とは違う。
それでも、遠い記憶のどこかで似た音を聞いた気がする。
「決めたか」
里長に問われ、スイリンは頷いた。
「はい」
「では、行きなさい」
七人は別々の入り口から竹林へ入った。
試練の間、家族や里の者がついてくることはない。
ここからは一人だった。
◇
竹林の中は、広場よりも霧が濃かった。
湿った土を踏むたび、草履の裏へ泥が張り付く。
スイリンは着物から動きやすい短衣へ着替え、腰には木製の短剣を一本下げていた。魔物が出るような場所ではないが、危険がまったくないわけではない。
手の中の鈴を鳴らす。
ちりん、と乾いた音が響いた。
正面には三つの道がある。
どれも似たような竹林へ続いていた。
スイリンはすぐには進まず、その場へしゃがみ込む。
地面を見る。
左の道には、誰かが歩いたような跡が残っている。
中央には何もない。
右には折れた竹の葉が落ちていた。
一見すれば、左が正しい道に見える。
けれど、成人の儀でそれほど分かりやすい印を残すとは思えなかった。
鈴を持った手を、それぞれの道へ向ける。
音は変わらない。
「耳だけを信じるな、か」
スイリンは左の道へ足を踏み入れた。
その直後、周囲の景色が揺れる。
竹の幹が歪み、足跡が消えた。
幻術だった。
だが、道そのものが間違っているとは限らない。
幻術は引き返させるためにあるのか。
それとも、間違った道へ誘うためにあるのか。
スイリンは一度目を閉じた。
狐の耳を立て、周囲の音を拾う。
風。
葉から落ちる雫。
遠くを流れる小川。
そして、鈴の音。
ちりん。
わずかに澄んでいる。
「こっちで合ってる」
目を開ける。
見えている景色が歪んでいても、地面の傾きや風の流れまでは隠しきれない。
スイリンは一歩ずつ進んだ。
しばらく歩くと、霧の中に一軒の家が現れた。
見慣れた自分の家だった。
軒先には母親が立っている。
「スイリン、どこへ行くの?」
声まで本物に聞こえた。
「成人の儀」
「もう終わりましたよ。こちらへ戻りなさい」
母親が微笑み、手を伸ばす。
一瞬だけ、足が止まった。
けれどスイリンは、すぐに視線を家の足元へ落とした。
土が濡れていない。
先ほどまで降っていた雨の跡もない。
何より、母親は成人の儀が終わった後なら、きっと先に「おかえり」と言う。
「似てるけど、違うね」
スイリンが呟く。
母親の表情が消えた。
家も、人影も、霧の中へ溶けていく。
その向こうには、細い坂道が続いていた。
鈴を鳴らす。
先ほどより音が澄んでいる。
スイリンは小さく息を吐き、再び歩き始めた。
幻術は、恐怖だけを見せるものではない。
帰りたくなる景色。
信じたくなる言葉。
足を止めたくなる安心。
そうしたものの方が、時に人を深く惑わせる。
坂道を登り切ると、今度は竹林が途切れていた。
目の前に広がっていたのは、和の国にはない街だった。
黒く滑らかな道。
見上げるほど高い建物。
白や青に光る看板。
夢の中で何度も見た、遠い世界。
「……これも幻術?」
スイリンは息を呑んだ。
街を歩く人々には、獣の耳も尻尾もない。
見慣れない服を身につけ、手に小さな板を持っている。
その中から、声が聞こえた。
笑い声。
懐かしい名前。
けれど、はっきりとは聞き取れない。
通りの向こうに、一人の男が立っていた。
今のカイエンよりもずっと大きい。
黒っぽい服。
少し気の抜けた立ち姿。
顔は霧に隠れている。
それでもスイリンには分かった。
「カイ」
男が振り向く。
こちらへ手を上げた。
「遅いぞ、スイ」
声は今より低い。
けれど、確かにカイエンだった。
胸の奥が強く鳴る。
会いたかった。
ずっと思い出したかった。
夢の中でしか見られなかった景色が、今は目の前にある。
一歩踏み出せば、もっと近くで顔を見られるかもしれない。
名前も。
過ごしていた場所も。
失ったものを、すべて思い出せるかもしれない。
スイリンの足が、自然と前へ出た。
その時、手の中の鈴が鳴った。
濁った音だった。
スイリンは立ち止まる。
男は変わらず手を差し出している。
「どうした?」
「……カイなら、そんなふうに待たない」
男の首が僅かに傾く。
「何を言ってるんだ?」
「私が遅かったら、迎えに来る。たぶん文句を言いながら」
その瞬間、自分が「私」と口にしたことには気付かなかった。
それほど自然だった。
「それに、今のカイを置いていけない」
目の前にいるのが、以前の世界のカイエンだったとしても。
今この世界で生きている彼とは違う。
銀狼として生まれ。
父親と母親に育てられ。
失敗を笑いながら、隣で同じ道を歩いてきた。
スイリンが探したいのは、過去だけではない。
今のカイエンと一緒に、過去の続きを見つけたいのだ。
「思い出したい。でも、ここじゃない」
スイリンは男から視線を外し、鈴を強く握った。
街の景色に亀裂が入る。
高い建物が崩れるように消え、光る看板も、人々の姿も霧へ戻っていく。
最後に残った男は、少しだけ笑ったように見えた。
それが幻術によるものだったのか。
本当に残っていた記憶なのか。
スイリンには分からなかった。
景色が完全に消えると、その先に小さな祠が現れた。
古びた木の扉。
軒下には、鈴と同じ形の印が刻まれている。
スイリンはゆっくりと近づき、扉を開いた。
中に置かれていたのは、小さな銀の簪だった。
葉を模した飾りがついている。
成人の証。
スイリンがそれを手に取ると、鈴が一度だけ澄んだ音を鳴らした。
竹林に漂っていた霧が、少しずつ薄れていく。
試練は終わった。
◇
広場へ戻った時、すでに日は高く昇っていた。
七人のうち、スイリンは五番目だった。
先に戻っていた者たちは家族に囲まれ、安堵した表情を浮かべている。
母親は娘の姿を見つけても、すぐには駆け寄ってこなかった。
儀式がすべて終わるまでは、試練を受けた者を子どものように迎えない。
それも成人の儀の習わしだった。
スイリンは祭壇の前へ進み、銀の簪を里長へ差し出した。
「自分の道を選べたか」
問われ、スイリンは少しだけ考えた。
幻術の中で見た、遠い世界。
以前の自分。
以前のカイエン。
それを選ばなかったからといって、過去を捨てたわけではない。
ただ、戻るのではなく。
今の自分として、いつか辿り着くことを選んだ。
「はい」
はっきりと答える。
里長は頷き、簪をスイリンの髪へ挿した。
「本日より、あなたを妖狐の里の一人の成人として認める。選んだ道を歩み、迷った時には、自分が何を大切にしたかったのかを思い出しなさい」
「ありがとうございます」
スイリンは深く頭を下げた。
立ち上がると、広場の外で待っていた両親と目が合う。
母親は泣いてはいなかった。
けれど、目元が少しだけ赤い。
父親はいつもより背筋を伸ばし、静かに頷いていた。
スイリンは二人の前まで歩いていく。
母親が口を開く。
「おかえりなさい」
やはり最初の言葉は、それだった。
スイリンは笑う。
「ただいま」
「無事でよかった」
母親の手が伸びかけ、途中で止まる。
もう子どものように抱き締めてよいのか迷ったらしい。
スイリンは自分から一歩近づき、その胸へ額を預けた。
「大人になっても、これくらいはいいでしょ」
「ええ。もちろんです」
今度こそ、母親の腕が背中へ回る。
父親も隣に立ち、娘の頭を一度だけ撫でた。
「よく戻った」
「うん」
「何を見た?」
「それは、あとで話す」
スイリンは両親から離れ、改めて二人を見る。
胸の奥で決めていた言葉を、今度は意識して口にした。
「今日から、私は自分のことを『私』って呼ぶことにする」
父親が目を瞬かせる。
母親は、朝に聞いていたため穏やかに笑った。
「そうか」
父親は少しだけ寂しそうに、それでも嬉しそうに頷いた。
「似合っていると思う」
「まだちょっと慣れないけどね」
「すぐに慣れるでしょう」
スイリンは髪の簪へ触れた。
これで、自分は大人になった。
急に強くなったわけでも、迷わなくなったわけでもない。
ただ、自分で選んだことを口にし、その先へ進む権利を得た。
それで十分だった。
◇
同じ日の夕方。
銀狼の里から、低い角笛の音が山々へ響いた。
カイエンもまた、成人の儀を終えていた。
早朝に里を出て、山中に放たれた標を探し、自力で帰還する試練だった。
ただ獲物を追うだけではない。
途中には獣避けの罠や、判断を誤れば遠回りになる分岐が用意されている。
カイエンは最初こそ勢いよく山へ入り、途中で二度ほど道を外れた。
本人は後に「迷ってはいない」と主張したが、帰還した時には髪に枝葉が絡み、片方の草履を失っていた。
それでも、持ち帰った標は傷一つない。
途中で足を痛めた同年代の少年を背負い、共に里へ戻ってきた。
一人で戻ることだけが試練ではない。
銀狼にとって強さとは、共に走る者を置いていかないことでもある。
里長はその行動を認め、カイエンへ一本の短い剣を授けた。
成人した者が最初に持つ、銀狼の里の正式な武器だった。
「重い?」
母親に尋ねられ、カイエンは腰の剣を軽く持ち上げる。
「ちょうどいい」
「無理をしていませんか?」
「してねぇって」
「帰ってきた時、片足で跳ねていたでしょう」
「あれは草履がなかったから」
「どうして草履をなくすんです」
「山が持ってった」
父親が横で吹き出した。
「山のせいにするな。お前が崖を滑り降りたからだろう」
「近道だった」
「結果的に遠回りになったがな」
「戻ってきたからいいだろ」
母親は呆れながらも、息子の肩へ手を置いた。
「成人、おめでとう」
カイエンは少し照れくさそうに顔を逸らす。
「おう」
「今夜は祝いの席だ。蔵の酒を一本出す」
父親の言葉に、カイエンの耳が勢いよく立った。
「取ってあったやつ?」
「お前が何度も狙っていたものだ」
「狙ってねぇ。気になってただけ」
「同じようなものだ」
「スイの分もある?」
カイエンが真っ先に尋ねた。
父親は分かっていたように頷く。
「妖狐の里にも使いを出してある。向こうの儀式が終わっていれば、今夜こちらへ来るそうだ」
カイエンの表情が明るくなる。
「じゃあ、飲めるな」
「成人したばかりなのだから、最初は一杯だけだ」
「分かってる」
「お前の『分かってる』ほど信用できない言葉もないが」
「今日は本当に分かってるって」
父親と母親が顔を見合わせる。
そのやり取りの向こうで、山道から小さな鈴の音が聞こえてきた。
ちりん。
ちりん。
カイエンが振り向く。
夕日に染まった道を、妖狐の一行が歩いてくる。
その先頭近くに、白と若草色の着物を着た少女がいた。
髪には銀の簪。
首元には、今も狼の牙を模した木彫りが下がっている。
スイリンはカイエンを見つけると、足を速めた。
だが、以前のようにそのまま飛びついてはこない。
数歩手前で立ち止まり、少し得意そうに胸を張った。
「カイ。成人、おめでとう」
「スイもな」
カイエンは彼女の姿を上から下まで眺める。
「なんか、いつもと違う」
「成人の着物だからね」
「それもだけど」
「何?」
スイリンはわざと少し間を置いた。
それから、笑って告げる。
「今日から、私は『私』って言うことにしたの」
カイエンは一度目を瞬かせた。
「へえ」
「それだけ?」
「何て言えばいいんだよ」
「似合ってるとか、大人っぽいとかあるでしょ」
「まだ聞き慣れねぇ」
「ぐぬぬ……」
「でも、まあ」
カイエンは腰の鈴へ手を置き、少し笑った。
「スイはスイだろ」
予想していた通りの言葉だった。
スイリンも笑う。
「あはは! やっぱり言った」
「何が?」
「こっちの話」
「変なやつ」
「カイに言われたくない」
二人は並んで里の中へ歩き出した。
広場には祝いの席が用意されている。
大人たちの笑い声。
焼いた肉と炊きたての米の匂い。
そして中央の卓には、一本の酒瓶と、二つの小さな杯が置かれていた。
幼い頃から何度も話してきた、その日がようやく来た。
大人になったら、一緒に酒を飲む。
約束は、もう少しで果たされる。
夕暮れの空の下。
二人の腰で、狐の鈴と銀狼の剣が、歩みに合わせて小さな音を立てていた。




