第3話 成人の儀 前編
十二歳を迎える年の春、和の国には長い雨が降った。
山の雪解け水が川を満たし、竹林の根元には薄い霧がたまる。妖狐の里では田畑の準備が始まり、土と若葉の匂いが朝の空気へ混じっていた。
軒先から落ちる雫を眺めながら、スイリンは短剣を振っていた。
右足を引き、重心を落とす。
相手の攻撃を受けるのではなく、半歩だけ外へ逃がす。空いた脇へ踏み込み、木製の短剣を突き出した。
刃先が、藁を束ねた人形の胸へ触れる。
「背中がお留守だぞ」
背後から声が飛んできた。
振り向くより早く、横腹へ木剣が当たる。
「ぐっ……!」
痛みより先に悔しさが込み上げた。
スイリンは体勢を崩しながらも地面へ手をつき、そのまま足を払う。
木剣を振った少年の身体がわずかに浮いた。
完全には倒せない。
それでも重心を崩すには十分だった。
カイエンが片膝をついた隙に、スイリンは距離を取る。
「今の、当たってたからね」
「俺の方が先」
「致命傷じゃないし」
「脇腹に剣入ってんのに?」
「木剣でしょ」
「本物だったら終わってる」
「私のも本物なら、足切れてるけど」
言ってから、スイリンは一瞬だけ口を閉じた。
また自然に出た。
夢の中で使っていた一人称。
十歳の頃、丘の上で初めて口にして以来、時折こうして「私」がこぼれるようになっていた。
ただ、普段はまだ「ボク」と呼んでいる。
里の家族や友人たちの前では、それが今の自分に一番馴染んでいた。
カイエンも特に指摘しなかった。
以前は面白がって聞き返したこともあったが、今ではどちらで呼んでも気にしていない。
スイリンはスイリンだ。
彼にとっては、それだけだった。
「もう一回」
スイリンが短剣を構え直す。
カイエンは片膝についたまま、自分の腰を押さえた。
「少し休まね?」
「さっき始めたばっかりじゃん」
「朝からずっとだろ」
「途中でご飯食べた」
「それ休憩に入る?」
「入るよ」
「じゃあ俺、もう一回飯食ってくる」
「ただ食べたいだけでしょ」
カイエンは立ち上がり、木剣を肩へ担いだ。
以前より背が伸びている。
十二歳を前にした銀狼の少年は、同じ年頃の子どもよりも身体が大きかった。肩や腕にも少しずつ筋肉がつき、父親から借りた木剣も、もう振り回されることなく扱えている。
対するスイリンは細身だった。
身長はカイエンより頭一つ近く低い。
その代わり、動きは以前よりずっと速くなっていた。正面から打ち合うことは避け、視線や肩の動きから次の攻撃を読み取る。
カイエンの剣は分かりやすい。
威力はある。
技術も決して低くない。
けれど本人は、わざと大きく振ることが多かった。
「ねえ、カイ」
「何だよ」
「また、わざと派手に振ったでしょ」
カイエンの耳がわずかに動く。
「何のこと?」
「分かってるから。普通に振れば、もっと速いじゃん」
「こっちの方が強そうだろ」
「稽古で見栄を張ってどうするの」
「見栄じゃねぇ。格好いい方を選んでるだけ」
「同じじゃん」
スイリンは呆れながら短剣を腰へ戻した。
カイエンが本気で技術を隠しているわけではない。
ただ、彼は勝ち方に少しだけこだわる。
重たい剣を大きく振り抜き、相手を力で押し切る。
周囲から歓声が上がるような、分かりやすい戦い方が好きだった。
細かな駆け引きや、相手の死角へ潜り込む動きもできる。
むしろ、そちらの方が得意なのではないかと思う時さえある。
それでもカイエンは、できる限り正面からぶつかろうとした。
「相手が魔物でも、格好つけるつもり?」
「余裕があるならな」
「余裕がなかったら?」
「真面目にやる」
「最初から真面目にやって」
「俺はいつも真面目だって」
「あはは! それはないよ」
スイリンが笑うと、カイエンもつられるように口元を緩めた。
里の外れにある稽古場には、二人以外の姿はない。
雨は朝のうちに止んでいた。
濡れた木々の葉から、時折大きな雫が落ちる。曇った空の切れ間から淡い光が差し込み、地面に残った水たまりを白く照らしていた。
二人は成人の儀を目前に控えていた。
和の国では、十二歳を迎えた者は里ごとに定められた試練を受ける。
試練を越え、成人の証を得た者は、大人として扱われる。
武器を所有すること。
仕事を選ぶこと。
一人で里の外へ出ること。
酒を飲むこと。
その多くが、成人の儀を境に許されるようになる。
「あと三日か」
カイエンが呟いた。
「何が?」
「成人の儀」
「忘れてたの?」
「忘れるわけねぇだろ。三日前から父ちゃんが同じ話ばっかりするし」
「ちゃんと聞きなよ」
「聞いてる。でも、銀狼の教えだとか、戦士の覚悟だとか、毎回ちょっとずつ長くなってる」
「大事なことなんじゃない?」
「スイのところは?」
「うちは、母さんが成人用の着物を直してる。父さんは試練のことを聞いても教えてくれない」
「妖狐の儀って、何するんだ?」
「それが分かったら試練にならないって」
妖狐の里の成人の儀は、毎年内容が少しずつ変わる。
魔法の制御。
山中での薬草採取。
幻術を見破る試験。
かつては、里の外にある祠へ一人で夜を越しに行かされた者もいたという。
ただ、何をさせられるにせよ、命を危険に晒すようなものではない。
子どもが大人として歩み始めるため、自分自身と向き合う時間を与える。
それが妖狐の里における成人の儀だった。
銀狼の里は、もう少し直接的だ。
山の中を走り、獲物を追い、自分の力で里へ帰る。
詳しい内容は年ごとに変わるものの、体力と判断力を試されることが多い。
「カイは大丈夫そうだね」
「まあな」
「迷わなければ」
「まだ言ってんのかよ」
「銀狼は道に迷わないって言って、二人で迷ったじゃん」
「あれは木の位置が変わってた」
「変わってないよ」
「育ったんだって」
「一日で?」
「あの森ならあるかもしれないだろ」
「ないって」
以前と変わらない言い合いだった。
けれど、その奥に少しだけ緊張が混ざっていることを、互いに気付いていた。
成人の儀を受けるのは、怖くない。
試練に失敗することを恐れているわけでもない。
二人が意識しているのは、その先だった。
成人の儀が終わったら、一緒に酒を飲む。
幼い頃から何度も口にしてきた約束だ。
そして、十三歳になったら里を出る。
前の世界で知っていた仲間を探すため。
この世界にある、まだ飲んだことのない酒を探すため。
それはもう、子どもの冗談ではなくなっていた。
両親にも、旅へ出たいという気持ちは少しずつ話している。
当然、すぐには許してもらえなかった。
妖狐の里も、銀狼の里も、十二歳で成人として扱われるとはいえ、すぐに一人前になるわけではない。
外の世界には魔物がいる。
盗賊もいる。
和の国外では、獣人を珍しがる者も、軽んじる者もいる。
二人だけでの旅が危険であることは、本人たちも分かっていた。
だから、成人の儀が終わってすぐには出ない。
一年間。
里の外で生きるために必要な技術を身につけ、資金を貯める。
武器を選び、魔法を学び、旅人として最低限の経験を積む。
十三歳になった時、改めて両親へ旅立ちを願い出る。
それが、話し合いの末に決まったことだった。
「なあ、スイ」
カイエンが空を見上げる。
雨雲は遠ざかり、雲の向こうに青空が覗いていた。
「成人の儀が終わったら、本当に飲むんだよな」
「その話、今日何回目?」
「確認してるだけ」
「飲むよ。約束したじゃん」
「何を飲む?」
「里のお酒でいいんじゃない?」
「最初の一杯だぞ。もっと特別なやつがよくね?」
「特別なやつって?」
「分かんねぇけど、すげぇうまいやつ」
「急に用意できないでしょ」
「父ちゃんの蔵に、ずっと取ってある酒がある」
「勝手に飲んだら怒られるよ」
「だから頼む」
「くれるかな」
「成人祝いなら、いけるだろ」
カイエンは本気で考えているらしい。
スイリンは短剣の柄へ手を置きながら、少し想像した。
大人たちが飲んでいた、琥珀色の酒。
甘いのか。
苦いのか。
夢の中でも、似た色の酒を飲んだ記憶がある。
透明な杯を持ち、誰かと笑っていた。
その相手の中に、カイエンもいた気がする。
「ボク、果実酒がいい」
「甘いやつ?」
「最初から苦いのは嫌」
「子どもだな」
「まだ子どもだけど」
「あと三日で大人だろ」
「カイも甘いお菓子好きじゃん」
「あれは別」
「何が別なの?」
「酒と菓子は違う」
「飲んだことないくせに」
「夢では飲んでた」
「味、覚えてる?」
「……覚えてねぇ」
「じゃあ同じじゃん」
カイエンは不満そうに鼻を鳴らし、木剣を稽古場の端へ立てかけた。
「町まで行けば、いろんな酒があるんだろ」
「あると思うけど、成人の儀の当日に里を出るつもり?」
「翌日でもいい」
「せっかちだなぁ」
スイリンは小さく笑った。
「でも、旅に出たら色々飲めるね」
「だろ?」
「和の国外のお酒も」
「それな!」
カイエンの表情が明るくなる。
前の世界の仲間を探す。
それが旅の一番大きな目的であることは変わらない。
けれど、それだけでは息が詰まる。
見つかる保証はない。
何年かかるかも分からない。
だから二人は、もう一つ目的を決めた。
おいしい酒を探す。
それなら、たとえ仲間への手掛かりが見つからない日でも、旅を続ける理由になる。
町へ着いたら、その土地の酒を飲む。
気に入ったものは記録する。
いつか仲間と再会できた時、皆で飲める一番の酒を選ぶ。
まだ酒の味すら知らない二人が決めた、少しおかしな旅の目標だった。
「成人の儀、落ちるなよ」
カイエンが言う。
「そっちこそ」
「俺は余裕」
「さっき緊張してたじゃん」
「してねぇ」
「耳、ずっと動いてるよ」
カイエンは反射的に頭へ手を伸ばした。
スイリンが吹き出す。
「あはは! 引っかかった!」
「お前な……!」
カイエンが木剣を取る。
スイリンはすぐに短剣を構えた。
先ほどまで少しだけ重くなっていた空気が、いつもの調子へ戻る。
二人は大切なことを話す時ほど、最後には笑った。
不安がないわけではない。
怖くないわけでもない。
けれど、それを何度も言葉にして膨らませるより、今できることをする。
カイエンは自然とそう考える。
スイリンは、そんな彼の隣にいると少しだけ肩の力を抜くことができた。
「今度こそ本気でやる」
カイエンが低く構える。
先ほどまでの大振りではない。
木剣を身体の近くに置き、踏み込むための力を足へ溜めている。
スイリンは目を細めた。
「最初からそれでやってよ」
「格好いい方も必要だろ」
「負けてたら格好悪いよ」
「だから今度は勝つ」
雨上がりの風が吹いた。
濡れた草が揺れ、葉に残っていた雫が二人の間へ落ちる。
雫が地面へ触れるより先に、カイエンが動いた。
速い。
今までのような大きな予備動作はない。
一歩で距離を詰め、木剣を斜めに振り下ろす。
スイリンは刃筋を見て、右へ逃げた。
その先へ、カイエンの足が伸びてくる。
読まれていた。
スイリンは地面を蹴り、後方へ跳ぶ。
木剣が服の端を掠めた。
着地と同時に、短剣を投げるような動作を見せる。
カイエンの視線が一瞬だけ刃へ向いた。
その隙に踏み込み、左手の短剣を彼の喉元へ突きつける。
だが、届かない。
カイエンは首を傾けて避けながら、木剣の柄でスイリンの手首を押さえた。
「捕まえた」
「まだ!」
スイリンは押さえられていない右手を離し、木製の短剣を地面へ落とす。
武器を捨てた。
そう見せた瞬間、空いた手でカイエンの袖を掴む。
身体を沈め、勢いを利用して前へ引く。
カイエンの重心が崩れた。
二人はもつれ合うように地面へ倒れ込む。
ぬかるんだ土が跳ね、服へ張り付いた。
「うわっ!」
「重い!」
「スイが引っ張ったんだろ!」
「カイが乗ってるから!」
「お前も俺の腕掴んでる!」
勝負はつかなかった。
二人は泥の中でしばらく言い合い、やがてどちらからともなく笑い始めた。
「母さんに怒られる……」
スイリンが自分の服を見下ろす。
膝も袖も泥だらけだった。
「俺も」
「カイは今日、うちに泊まらないでしょ」
「父ちゃんが迎えに来るまでに乾かせばいい」
「三日かかるよ」
「じゃあ、まあ何とかなるって」
その言葉を聞き、スイリンは一瞬だけ動きを止めた。
夢の中で何度も聞いた言葉。
今のカイエンが、何も意識せず口にする言葉。
以前の彼も、同じように笑っていた。
失敗をなかったことにはしない。
けれど、失敗した場所に座り込み続けることもしない。
それがカイエンという人なのだと、今のスイリンには分かっていた。
「それ、便利な言葉だよね」
「本当に何とかなるからな」
「ならなかったら?」
「二人で何とかする」
カイエンは泥のついた手を差し出した。
スイリンは一度その手を見てから、自分の手を重ねる。
「服、余計に汚れた」
「もう同じだろ」
「手まで汚れたじゃん」
「今さらだって」
引き起こされ、二人は立ち上がった。
成人の儀まで、あと三日。
子どもとして過ごす時間は、少しずつ終わりへ近づいている。
けれどスイリンは、大人になったからといって急に何かが変わるとは思っていなかった。
背が伸びるわけでもない。
魔法が強くなるわけでもない。
迷わなくなるわけでもない。
それでも、一つだけ決めていることがあった。
成人の証を受け取ったら。
カイエンと杯を交わしたら。
その時から、自分を「私」と呼ぶ。
夢の中にいた、以前の自分へ戻るためではない。
今の人生を捨てるためでもない。
スイリンとして育った十二年と、微かに残る遠い記憶。
その両方を抱えて歩き始めるために、自分で選ぶ。
まだ誰にも話していない。
カイエンにも。
けれど彼なら、きっと驚いた後に言うだろう。
スイはスイだろ、と。
スイリンは汚れた手を握り、わずかに笑った。
山の向こうには、まだ見たことのない世界が広がっている。
そこへ向かう前に、まずは自分たちの里で大人になる。
夢の続きを探す旅は、もう遠い未来の話ではなくなっていた。




