表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの時間をもう一度  作者: ゆうき
間章 獣人の約束

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
56/93

第2話 同じ空を見上げて 後編


家へ戻る頃には、囲炉裏の上で鍋が煮えていた。


味噌と根菜の匂いが玄関まで流れ、冷えた身体を包み込むように広がっている。戸を開けた瞬間、スイリンの腹がまた小さく鳴った。


「ほら、やっぱり減ってた」


後ろから入ってきたカイエンが笑う。


「カイも鳴ってたじゃん」


「俺のは一回だけ」


「回数の問題じゃないでしょ」


二人は雪を払い、並んで囲炉裏の前へ座った。


鍋の中には、大根や里芋、細く切った獣肉が入っている。妖狐の里では冬になるとよく作られる料理で、身体を温める薬草も少量だけ混ぜられていた。


カイエンは湯気を見つめながら鼻を動かす。


「なんか、いつもの味噌汁と匂い違う」


「薬草が入ってるの。苦くないよ」


「本当か?」


「たぶん」


「たぶんなのかよ」


「ボクは好きだけど、カイが好きかは分かんないじゃん」


スイリンの母親が椀を置きながら、小さく笑った。


「苦味はほとんどありませんよ。ただし熱いので、慌てて飲まないように」


「分かった」


元気よく返事をしたカイエンは、直後に椀を持ち上げ、勢いよく口をつけた。


そして無言のまま固まる。


銀狼の耳が、ゆっくりと後ろへ倒れていった。


「熱かったんだ」


スイリンが肩を揺らす。


「……熱くねぇ」


「耳が全部言ってるよ」


「これは雪で冷えただけ」


「さっきから何でも雪のせいにするじゃん」


「あはは」と笑うスイリンの横で、カイエンは今度こそ慎重に椀へ息を吹きかけた。


その様子を見ていた大人たちは、揃って苦笑する。


取引の話はすでに終わっていた。


銀狼の里から運ばれてきた毛皮と薬草は、妖狐の里が用意した傷薬や結界札と交換されることになった。残った荷の確認は翌朝に回し、今夜は久しぶりの客人を迎える形で食卓を囲んでいる。


スイリンの父親は、銀狼の男へ酒を注いだ。


薄い琥珀色の酒が、小さな杯の中で揺れる。


「山葡萄の酒です。少し強いですが」


「ありがたい。雪の中を歩いた後には、何よりの薬だ」


酒の香りに気付いたカイエンが、そちらへ顔を向ける。


「それ、うまいの?」


「子どもが飲むものではない」


父親に即座に返され、カイエンは眉を寄せた。


「少しくらい」


「駄目だ」


「匂いだけなら?」


「好きに嗅げ」


「それ意味ねぇじゃん」


大人たちの笑い声が上がる。


スイリンも酒へ興味を示し、杯を覗き込んだ。


「どんな味?」


「甘さのあとに苦味が残るわね」


母親が答える。


「甘いのに苦いの?」


「果実の味と、酒の味は別ですから」


「変なの」


「大人になると、それが美味しく感じることもあるのよ」


スイリンはよく分からないまま、杯の中を眺めた。


大人たちは一口飲むたび、どこか満足そうな顔をしている。


苦いものを飲んで、なぜそんなに嬉しそうなのか。


子どもの彼女には理解できなかった。


「大人になったら、飲んでみたい」


スイリンが呟くと、カイエンもすぐに頷いた。


「俺も」


「和の国では、十二になって成人の儀を終えた者だけです」


スイリンの父親が釘を刺す。


「あと七年?」


カイエンが指を折る。


「長ぇな」


「でも、一緒に飲めるじゃん」


スイリンは何気なく言った。


カイエンは少しだけ目を丸くし、それから当たり前のように返す。


「じゃあ、成人の儀が終わったら飲もうぜ」


「何を?」


「うまいやつ」


「どんなのか分かんないのに?」


「分かんないから探せばいいだろ」


「大人になるまでに?」


「なったあとでもいい」


また一つ、約束が増える。


大人たちは子どもの会話だと思って聞き流していた。


けれど二人にとっては、十分に大切なことだった。


夢の中の記憶。


祭りでの再会。


そしていつか一緒に酒を飲むこと。


小さな約束はどれも、まだ遠い未来へ続いている。


食事が終わる頃には、外の雪が再び強くなっていた。


風が戸を揺らし、軒先から雪の塊が落ちる音がする。


カイエンは客間へ移るよう言われたが、なかなか立ち上がろうとしなかった。


スイリンも同じだった。


せっかく会えたのに、眠ってしまえば朝になってしまう。


朝になれば、カイエンは銀狼の里へ帰る。


「寝たくない」


スイリンが囲炉裏の火を見つめながら言う。


「俺も」


「でも、寝ないと怒られる」


「隠れて起きてるか?」


「どこで?」


「さっきの社」


「夜は駄目って言われてるよ。精霊が怒るって」


「本当にいるのか?」


「たぶん」


「たぶんばっかりだな、スイ」


「だって見たことないし」


二人は声を潜めて話していたが、すぐそばにいる母親にはすべて聞こえていた。


「夜の社へ行くのは、精霊より先に私が怒りますよ」


柔らかな声だったが、二人は同時に背筋を伸ばした。


「行かない」


「絶対行かねぇ」


「返事だけは本当に立派ですね」


母親は呆れながらも、少し考える。


それから客間に布団を二組敷いた。


「今日は二人でここを使っていいですよ。ただし、いつまでも話していないで眠ること」


「いいの?」


「騒がなければ」


スイリンの尻尾が大きく揺れる。


カイエンも笑った。


「騒がねぇって」


その約束が守られなかったことは、布団へ入ってすぐに分かった。



灯りを消した客間には、障子越しの雪明かりだけが差し込んでいた。


部屋の中は薄青く、天井の木目がぼんやりと浮かんでいる。


二人は布団を並べ、仰向けに寝ていた。


最初のうちは静かだった。


廊下の向こうから、大人たちがまだ話している声が聞こえる。酒の杯を置く音や、時折上がる笑い声も混じっていた。


「カイ、起きてる?」


スイリンが小声で尋ねる。


「起きてる」


「眠い?」


「ちょっと」


「寝る?」


「スイが寝たら」


「ボクはまだ寝ない」


「じゃあ俺も」


言葉は小さい。


けれど途切れなかった。


祭りで見た物。


里での暮らし。


剣と魔法。


次に会った時に何をするか。


昼間に話したはずのことまで、もう一度繰り返した。


それでも飽きなかった。


「銀狼の里って、どんなところ?」


スイリンが横を向く。


暗闇の中で、カイエンの横顔がわずかに見えた。


「山がもっと険しい。家も少ないし、森の中に狩り場がある」


「妖狐の里と全然違う?」


「竹林はない。あと、お前の里みたいに道が綺麗じゃない」


「カイ、転びそう」


「転ばねぇよ。スイの方が転ぶだろ」


「今日は雪のせい」


「俺と同じこと言ってるじゃん」


スイリンは小さく笑った。


「いつか行ってみたいな」


「来ればいい」


「また簡単に言う」


「父ちゃんに頼めばいいだろ」


「許してくれるかな」


「俺からも言う」


「カイが言ったら、余計に心配されそう」


「なんでだよ」


「一緒に危ないことしそうだから」


「スイが先にするだろ」


「しないよ」


二人とも、自分の言葉を本気で信じていた。


少なくとも、その時までは。


スイリンは天井へ視線を戻した。


昼間に話した、別の人生のことがまた頭に浮かぶ。


「ねぇ」


「ん?」


「前のボクたちも、こんなふうに話してたのかな」


カイエンはすぐには答えなかった。


雪が障子へ当たり、かすかな音を立てる。


「たぶん」


「なんで分かるの?」


「夢で、ずっと話してた気がする」


「何を?」


「分かんねぇ。でも、スイが笑ってた」


その言葉に、スイリンは目を細める。


「ボクも、カイの声は覚えてる気がする」


「どんな声?」


「今とちょっと違う。でも、言ってることは同じ」


「何て?」


「まあ、何とかなるって」


カイエンは黙った。


それから小さく笑う。


「俺、そんなこと言いそう?」


「言いそう」


「じゃあ、俺だな」


「そんな決め方でいいの?」


「他に分かんねぇし」


不思議なくらい、その答えで納得できた。


細かな記憶は残っていない。


顔も、名前も、暮らしていた場所も分からない。


けれど一緒にいる時の感覚だけは、今と変わらない。


隣にいても緊張しない。


沈黙が苦しくない。


言い合っても、本気で嫌いにはならない。


それだけで十分なのかもしれない。


「夢、見たら覚えとこうね」


「おう」


「明日起きたら、話す」


「忘れてたら?」


「カイが思い出させて」


「俺も忘れてたら?」


「一緒に思い出す」


スイリンはそう言って、目を閉じた。


暗闇の中で、指先が布団の外へ出る。


少し離れたところから、カイエンの手が伸びてきた。


小指だけが触れる。


昼間の約束を確かめるように、二人は短く指を絡めた。


言葉はもういらなかった。


やがてスイリンの呼吸がゆっくりと整い始める。


カイエンもそれを確かめてから目を閉じた。


二人は同じ夜に、よく似た夢を見た。



雨の降る街だった。


黒く滑らかな地面へ、無数の光が映っている。


魔法の灯りとは違う。


もっと冷たく、白く、青い光。


遠くでは低い音が響き、鉄でできた乗り物が次々と通り過ぎていく。


スイリンは、そこに立っていた。


けれど身体が違う。


狐の耳も尻尾もない。


手は今より大きく、身につけている服も見たことがなかった。


雨粒が透明な板を打っている。


目の前には誰かがいた。


背の高い男。


銀狼の耳はなく、髪の色も今とは違う。


それでも、カイだと分かった。


理由はない。


魂の奥が、そう告げていた。


男は何かを笑いながら話している。


声は雨音に遮られ、ほとんど聞き取れない。


ただ、最後の一言だけが耳に残った。


――失敗だらけだからさ、今さら一つ増えても変わんねぇって。


それを聞いた自分が、呆れたように笑う。


――それ、反省してない人の言い方じゃん。


男が肩を揺らした。


――反省はしてる。引きずってないだけ。


その表情はぼやけていた。


けれど、声に込められた温度ははっきりと分かる。


強がっている。


本当は何かを気にしている。


それを隠すように笑っていた。


夢の中の自分は、それ以上踏み込まなかった。


ただ隣に立ち、雨の向こうを一緒に見ていた。


場面が変わる。


今度は夜の道。


二つの乗り物が並び、風の中を走っている。


自分の身体は軽く、胸の奥まで風が入り込んでくるようだった。


カイが前を走り、時折こちらを振り返る。


危ないと怒った気がする。


もっと前を見ろと叫んだ気もする。


それでも、楽しかった。


どこへ向かっているのかも分からないのに。


隣に同じ相手がいる。


それだけで、道の先が怖くなかった。



「スイ、起きろ」


肩を揺らされ、スイリンは目を開けた。


障子の向こうはまだ薄暗い。


朝になり始めたばかりらしい。


すぐそばに、カイエンの顔があった。


「近い」


「呼んでも起きねぇから」


「もうちょっと寝る」


「夢、見たんだろ」


その一言で、眠気が消えた。


スイリンは布団から身体を起こす。


「カイも?」


「ああ」


二人は声を落とし、向かい合った。


まだ大人たちは眠っている。


廊下も静かだった。


「雨の街だった」


スイリンが先に言う。


カイエンの耳が立つ。


「俺も」


「カイが何か言ってた」


「失敗が増えても変わらないとか?」


「それ!」


思わず声が大きくなり、二人は同時に口を押さえた。


廊下の向こうで物音がしたが、誰かが起きる気配はない。


スイリンはさらに声を潜める。


「同じ夢だったんだ」


「たぶんな」


「たぶんじゃないよ。言葉まで同じだった」


カイエンは少しだけ困った顔をした。


夢の中で自分が話していたことを、どう受け止めればいいのか分からないらしい。


「俺、前も失敗してたのか」


「失敗だらけって言ってた」


「なんか嫌だな」


「でも、笑ってたよ」


「笑ってたならいいか」


「よくないでしょ」


そう言いながらも、スイリンも笑っていた。


カイエンは布団の脇へ置かれていた小さな包みを取った。


昨日、父親から紙と炭筆を借りていたらしい。


「書くんだろ」


「何を?」


「夢。忘れないように」


「あ」


昼間に決めた約束を思い出し、スイリンは急いで紙を広げた。


まだ二人とも字はうまくない。


覚えている言葉を一つずつ書き、絵も混ぜた。


雨。


知らない街。


鉄の乗り物。


白や青の灯り。


そして、今とは違う姿の二人。


カイエンが乗り物の絵を描くと、細長い箱のような形になった。


「こんなんじゃないよ」


「だいたい合ってるだろ」


「もっと丸いところあったじゃん」


「どこに?」


「前の方」


「覚えてねぇ」


スイリンが横から描き足すと、今度は魚のような形になった。


「スイの方が変じゃん」


「カイよりまし」


「どこが?」


「ここ」


「そこ何だよ」


「たぶん、座るところ」


二人で描き直しているうちに、紙は黒い線だらけになった。


それでも、最後まで捨てなかった。


夢が本当にあった証拠。


同じ景色を見た証拠。


それを二人だけの記録として残した。


「これ、どこに置く?」


カイエンが尋ねる。


「ボクが持ってる」


「なくすなよ」


「なくさないって」


「祭りの時も言ったけど、スイは何かなくしそう」


「じゃあ、カイが持つ?」


「雪の中走ったら濡れる」


「やっぱりボクが持つ」


紙は折り畳まれ、スイリンの木箱へ仕舞われた。


そこにはカイエンからもらった木彫りを入れていた時期もあった。


今は首へ下げているため、空いていた場所へ最初の記録が収まる。


その日から、二人は夢を見るたびに書き残すようになった。



雪が解け、春が来た。


妖狐の里の山桜が開き、竹林を渡る風が柔らかくなる。


カイエンが次に里を訪れたのは、春の終わりだった。


今度は父親の取引についてきたのではない。


妖狐の里から銀狼の里へ薬を運ぶ者たちに同行し、途中でスイリンの家へ立ち寄った。


その次は夏。


スイリンの家族が銀狼の里を訪れた。


約束通り、彼女は初めてカイエンの暮らす土地を見た。


急な山道。


深い森。


走ることを前提に造られた、広い稽古場。


妖狐の里とは違う物ばかりだった。


カイエンは得意そうに里を案内し、途中で獣道へ入り、二人揃って迷った。


「狼は道に迷わないって言ってたじゃん!」


「ここ、いつもの道と木が違う!」


「木が勝手に動くわけないでしょ!」


「森だから変わることもある!」


「ないよ!」


結局、日が暮れる前に猟師へ見つかり、二人まとめて叱られた。


それから秋が来て、再び祭りで会った。


最初に出会った路地へ行き、あの日のことを思い出しながら菓子を分けた。


今度は最初から二つ買った。


それでもカイエンの方が大きく食べたと、スイリンが怒った。


季節は何度も巡った。


六歳。


七歳。


八歳。


二人は少しずつ背が伸び、できることも増えていった。


スイリンは短剣の扱いを学び始めた。


妖狐の身軽さを活かし、相手の攻撃を避けながら懐へ入る戦い方だった。


まだ本物の刃は持たされず、木製の短剣を両手に稽古する。


動きは軽い。


周囲をよく見て、相手が動く前に距離を取る。


ただし、少し調子に乗ると足元への注意が疎かになり、よく転んだ。


カイエンは銀狼の戦士たちに混じり、剣の基礎を学んだ。


一つ一つの動きを覚えるのは早かった。


身体も強く、同じ年頃の子どもより大きな剣を振ることができる。


だが本人は基本の型を繰り返すことを退屈がり、途中で勝手な動きを加えては叱られていた。


「ちゃんと振ればもっと強いのに」


九歳の春、二人で稽古をした後、スイリンは地面へ座りながら言った。


カイエンは肩へ木剣を担いでいる。


「当たれば同じだろ」


「当たらなかったじゃん」


「スイが逃げるから」


「避けるのも戦いでしょ」


「正面から来いよ」


「嫌だよ。カイの方が力強いし」


「ずるい」


「考えて戦ってるって言って」


スイリンは得意そうに笑う。


カイエンは不満そうだったが、反論はできなかった。


稽古ではスイリンの方が先に一本を取っていた。


力でぶつかればカイエンが勝つ。


しかしスイリンは正面から受けず、相手の視線や足の動きを見ていた。


カイエンが大きく踏み込んだ瞬間、横へ回り込み、背中へ木剣を当てた。


勝負が終わった後になって、カイエンは何度も「あれはずるい」と言った。


「冒険者になったら、魔物にも正面から来いって言うの?」


「言っても来ねぇだろ」


「じゃあ一緒じゃん」


「魔物と俺は違う」


「カイの戦い方、ちょっと魔物っぽかったよ」


「どういう意味だよ」


「あはは!」


スイリンは立ち上がり、服についた土を払った。


「もう一回やる?」


「今度は負けねぇ」


「さっきも言ってた」


「次は違う」


「何が違うの?」


「今考える」


「考えてから言ってよ」


言い合いながら、二人は再び構えた。


勝ち負けよりも、こうして向かい合う時間が楽しかった。


互いに遠慮をしない。


できていないことは、できていないと言う。


失敗すれば笑う。


けれど、本当に悔しがっている時だけは、すぐに笑わなかった。


カイエンが稽古で年上の少年に負け、森の奥で一人になっていた時。


スイリンは余計な励ましをしなかった。


隣へ座り、彼が話し始めるまで木の葉を眺めていた。


スイリンが魔法の制御に失敗し、同じ里の子どもから笑われた時。


カイエンは「気にするな」とは言わなかった。


代わりに彼女の前へ座り、自分も同じ魔法へ挑戦して、もっと派手に失敗した。


土を動かすつもりが地面へ手を埋め、抜けなくなった。


「何してるの?」


目を赤くしていたスイリンが、呆れたように言う。


「失敗」


「見れば分かるよ」


「スイよりでかい失敗した」


「張り合うところじゃないでしょ」


「でも、ちょっと笑ったじゃん」


スイリンは唇を結んだ。


笑わないようにしたが、カイエンが地面から腕を抜こうとするたび、肩が揺れた。


最後には二人で笑った。


そんな時間が、少しずつ積み重なっていった。



十歳を迎えた頃、夢の記録は木箱一つでは収まらなくなっていた。


二人が同時に見る夢もあれば、片方だけが見るものもある。


白い天井。


小さな画面。


見知らぬ服。


鉄の乗り物。


夜の店。


透明な杯に注がれた、琥珀色の酒。


大勢の声が聞こえる場所。


誰かを名前で呼び、笑っていた記憶。


ただし、名前だけはほとんど思い出せなかった。


自分たちが以前、何と呼ばれていたのか。


周りにいた人々が誰だったのか。


そこだけが霧に覆われている。


「絶対、他にも誰かいたよね」


夏の夜。


二人は妖狐の里の外れにある丘で、夢の記録を広げていた。


紙の上には、何度も同じ印が描かれている。


小さな四角。


その中に、人の顔のようなもの。


周囲には、別の四角がいくつも並んでいた。


「声はたくさんした」


カイエンが答える。


「でも、同じ場所にはいなかった気がする」


「離れてたのに話してた?」


「小さい板から」


「やっぱり魔道具みたいなものかな」


「この世界にも、遠話の魔道具はあるだろ」


「貴族とか大きな商会しか持ってないけどね」


スイリンは紙の上を指でなぞった。


夢の中では、それを誰もが当たり前のように使っていた。


特別な道具ではなかった。


朝も、夜も。


どこにいても、誰かの声へ繋がることができた。


「楽しかったんだろうな」


カイエンが呟く。


「うん」


「会いたいか?」


何気ない問いだった。


スイリンはすぐに答えなかった。


夢の中にいた人々。


顔も名前も覚えていない。


それでも声を思い出すと、胸の奥に温かさが広がる。


同時に、少しだけ痛くなる。


「会いたい」


スイリンは紙を見つめたまま答えた。


「覚えてないのに、変かな」


「変じゃねぇよ」


「カイも?」


「ああ」


カイエンは草の上へ仰向けになる。


満天の星が、彼の目に映っていた。


「俺たちがここにいるなら、他の奴らもいるかもしれない」


「この世界に?」


「たぶん」


「どこにいるか分からないよ」


「探せばいい」


また、簡単に言う。


けれど今度は、スイリンも笑わなかった。


彼の言葉の向こうへ、本当に道が続いている気がした。


和の国の外。


海の向こう。


二人がまだ見たことのない場所。


そこに、前の世界で笑い合った誰かがいるかもしれない。


「どうやって探すの?」


「旅する」


「子どもだけじゃ無理だよ」


「大人になったら」


「十二歳?」


「成人の儀が終わったら、俺たちは大人だろ」


「すぐ旅に出るの?」


「すぐじゃなくてもいい。でも、いつかは行きたい」


カイエンは星空へ手を伸ばした。


指の隙間から、幾つもの光がこぼれる。


「俺、この国の外も見てみたい。夢に出てくる場所と似たものが、どこかにあるかもしれないし」


スイリンも隣へ寝転んだ。


草の匂い。


夏の夜風。


遠くで鳴く虫の声。


今いる世界も好きだった。


家族がいる。


里の人々がいる。


毎日過ごす家がある。


それでも、胸の奥には別の場所へ繋がる感覚が残っている。


それを見ないふりはできなかった。


「私も行きたい」


小さな声だった。


スイリンは自分の言葉に気付き、少しだけ目を瞬かせる。


普段なら「ボク」と言うはずだった。


けれど、なぜかその時だけは、別の言葉が自然に出た。


夢の中の自分が使っていた一人称。


「今、私って言った?」


カイエンが横を向く。


「……言った」


「前のスイも、そう言ってたのか?」


「たぶん」


スイリンは夜空を見上げたまま、もう一度だけ口にする。


「私」


不思議と馴染んだ。


けれど、まだ今の自分には少しだけ大人びて聞こえる。


「変?」


「別に。スイはスイだろ」


カイエンはそれ以上気にしなかった。


スイリンもすぐには変えなかった。


まだ里で過ごす自分は「ボク」でいい。


いつか成人の儀を終え、本当に旅へ出る時。


その時は、夢の中の自分が使っていた言葉を選ぶのも悪くない。


そう思った。


「成人の儀が終わったら」


スイリンは小指を伸ばした。


「お酒を飲む」


「おう」


「それから、いつか一緒に旅に出る」


「前の仲間を探す」


「美味しいお酒も探す」


「それは絶対だな」


カイエンが小指を絡める。


二人は星空の下で、新しい約束を交わした。


まだ二年先の成人の儀。


さらにその先の旅。


子どもが描いた、輪郭の曖昧な未来だった。


それでも二人は、本気で信じていた。


一緒なら、どこへでも行ける。


失敗しても、迷っても。


きっと隣で笑っていられる。


同じ空の下にいる誰かを探しながら。


まだ知らない道を、どこまでも歩いていける。


夏の風が丘を渡り、広げた記録の紙を揺らした。


二人は慌てて押さえ、そのまま顔を見合わせて笑う。


遠く離れたどこかで、同じ星空を見上げている者がいることを、この時の二人はまだ知らなかった。


ただ胸の奥に残る懐かしさだけを頼りに、いつか始まる旅の形を、少しずつ思い描き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ