第2話 同じ空を見上げて 後編
家へ戻る頃には、囲炉裏の上で鍋が煮えていた。
味噌と根菜の匂いが玄関まで流れ、冷えた身体を包み込むように広がっている。戸を開けた瞬間、スイリンの腹がまた小さく鳴った。
「ほら、やっぱり減ってた」
後ろから入ってきたカイエンが笑う。
「カイも鳴ってたじゃん」
「俺のは一回だけ」
「回数の問題じゃないでしょ」
二人は雪を払い、並んで囲炉裏の前へ座った。
鍋の中には、大根や里芋、細く切った獣肉が入っている。妖狐の里では冬になるとよく作られる料理で、身体を温める薬草も少量だけ混ぜられていた。
カイエンは湯気を見つめながら鼻を動かす。
「なんか、いつもの味噌汁と匂い違う」
「薬草が入ってるの。苦くないよ」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんなのかよ」
「ボクは好きだけど、カイが好きかは分かんないじゃん」
スイリンの母親が椀を置きながら、小さく笑った。
「苦味はほとんどありませんよ。ただし熱いので、慌てて飲まないように」
「分かった」
元気よく返事をしたカイエンは、直後に椀を持ち上げ、勢いよく口をつけた。
そして無言のまま固まる。
銀狼の耳が、ゆっくりと後ろへ倒れていった。
「熱かったんだ」
スイリンが肩を揺らす。
「……熱くねぇ」
「耳が全部言ってるよ」
「これは雪で冷えただけ」
「さっきから何でも雪のせいにするじゃん」
「あはは」と笑うスイリンの横で、カイエンは今度こそ慎重に椀へ息を吹きかけた。
その様子を見ていた大人たちは、揃って苦笑する。
取引の話はすでに終わっていた。
銀狼の里から運ばれてきた毛皮と薬草は、妖狐の里が用意した傷薬や結界札と交換されることになった。残った荷の確認は翌朝に回し、今夜は久しぶりの客人を迎える形で食卓を囲んでいる。
スイリンの父親は、銀狼の男へ酒を注いだ。
薄い琥珀色の酒が、小さな杯の中で揺れる。
「山葡萄の酒です。少し強いですが」
「ありがたい。雪の中を歩いた後には、何よりの薬だ」
酒の香りに気付いたカイエンが、そちらへ顔を向ける。
「それ、うまいの?」
「子どもが飲むものではない」
父親に即座に返され、カイエンは眉を寄せた。
「少しくらい」
「駄目だ」
「匂いだけなら?」
「好きに嗅げ」
「それ意味ねぇじゃん」
大人たちの笑い声が上がる。
スイリンも酒へ興味を示し、杯を覗き込んだ。
「どんな味?」
「甘さのあとに苦味が残るわね」
母親が答える。
「甘いのに苦いの?」
「果実の味と、酒の味は別ですから」
「変なの」
「大人になると、それが美味しく感じることもあるのよ」
スイリンはよく分からないまま、杯の中を眺めた。
大人たちは一口飲むたび、どこか満足そうな顔をしている。
苦いものを飲んで、なぜそんなに嬉しそうなのか。
子どもの彼女には理解できなかった。
「大人になったら、飲んでみたい」
スイリンが呟くと、カイエンもすぐに頷いた。
「俺も」
「和の国では、十二になって成人の儀を終えた者だけです」
スイリンの父親が釘を刺す。
「あと七年?」
カイエンが指を折る。
「長ぇな」
「でも、一緒に飲めるじゃん」
スイリンは何気なく言った。
カイエンは少しだけ目を丸くし、それから当たり前のように返す。
「じゃあ、成人の儀が終わったら飲もうぜ」
「何を?」
「うまいやつ」
「どんなのか分かんないのに?」
「分かんないから探せばいいだろ」
「大人になるまでに?」
「なったあとでもいい」
また一つ、約束が増える。
大人たちは子どもの会話だと思って聞き流していた。
けれど二人にとっては、十分に大切なことだった。
夢の中の記憶。
祭りでの再会。
そしていつか一緒に酒を飲むこと。
小さな約束はどれも、まだ遠い未来へ続いている。
食事が終わる頃には、外の雪が再び強くなっていた。
風が戸を揺らし、軒先から雪の塊が落ちる音がする。
カイエンは客間へ移るよう言われたが、なかなか立ち上がろうとしなかった。
スイリンも同じだった。
せっかく会えたのに、眠ってしまえば朝になってしまう。
朝になれば、カイエンは銀狼の里へ帰る。
「寝たくない」
スイリンが囲炉裏の火を見つめながら言う。
「俺も」
「でも、寝ないと怒られる」
「隠れて起きてるか?」
「どこで?」
「さっきの社」
「夜は駄目って言われてるよ。精霊が怒るって」
「本当にいるのか?」
「たぶん」
「たぶんばっかりだな、スイ」
「だって見たことないし」
二人は声を潜めて話していたが、すぐそばにいる母親にはすべて聞こえていた。
「夜の社へ行くのは、精霊より先に私が怒りますよ」
柔らかな声だったが、二人は同時に背筋を伸ばした。
「行かない」
「絶対行かねぇ」
「返事だけは本当に立派ですね」
母親は呆れながらも、少し考える。
それから客間に布団を二組敷いた。
「今日は二人でここを使っていいですよ。ただし、いつまでも話していないで眠ること」
「いいの?」
「騒がなければ」
スイリンの尻尾が大きく揺れる。
カイエンも笑った。
「騒がねぇって」
その約束が守られなかったことは、布団へ入ってすぐに分かった。
◇
灯りを消した客間には、障子越しの雪明かりだけが差し込んでいた。
部屋の中は薄青く、天井の木目がぼんやりと浮かんでいる。
二人は布団を並べ、仰向けに寝ていた。
最初のうちは静かだった。
廊下の向こうから、大人たちがまだ話している声が聞こえる。酒の杯を置く音や、時折上がる笑い声も混じっていた。
「カイ、起きてる?」
スイリンが小声で尋ねる。
「起きてる」
「眠い?」
「ちょっと」
「寝る?」
「スイが寝たら」
「ボクはまだ寝ない」
「じゃあ俺も」
言葉は小さい。
けれど途切れなかった。
祭りで見た物。
里での暮らし。
剣と魔法。
次に会った時に何をするか。
昼間に話したはずのことまで、もう一度繰り返した。
それでも飽きなかった。
「銀狼の里って、どんなところ?」
スイリンが横を向く。
暗闇の中で、カイエンの横顔がわずかに見えた。
「山がもっと険しい。家も少ないし、森の中に狩り場がある」
「妖狐の里と全然違う?」
「竹林はない。あと、お前の里みたいに道が綺麗じゃない」
「カイ、転びそう」
「転ばねぇよ。スイの方が転ぶだろ」
「今日は雪のせい」
「俺と同じこと言ってるじゃん」
スイリンは小さく笑った。
「いつか行ってみたいな」
「来ればいい」
「また簡単に言う」
「父ちゃんに頼めばいいだろ」
「許してくれるかな」
「俺からも言う」
「カイが言ったら、余計に心配されそう」
「なんでだよ」
「一緒に危ないことしそうだから」
「スイが先にするだろ」
「しないよ」
二人とも、自分の言葉を本気で信じていた。
少なくとも、その時までは。
スイリンは天井へ視線を戻した。
昼間に話した、別の人生のことがまた頭に浮かぶ。
「ねぇ」
「ん?」
「前のボクたちも、こんなふうに話してたのかな」
カイエンはすぐには答えなかった。
雪が障子へ当たり、かすかな音を立てる。
「たぶん」
「なんで分かるの?」
「夢で、ずっと話してた気がする」
「何を?」
「分かんねぇ。でも、スイが笑ってた」
その言葉に、スイリンは目を細める。
「ボクも、カイの声は覚えてる気がする」
「どんな声?」
「今とちょっと違う。でも、言ってることは同じ」
「何て?」
「まあ、何とかなるって」
カイエンは黙った。
それから小さく笑う。
「俺、そんなこと言いそう?」
「言いそう」
「じゃあ、俺だな」
「そんな決め方でいいの?」
「他に分かんねぇし」
不思議なくらい、その答えで納得できた。
細かな記憶は残っていない。
顔も、名前も、暮らしていた場所も分からない。
けれど一緒にいる時の感覚だけは、今と変わらない。
隣にいても緊張しない。
沈黙が苦しくない。
言い合っても、本気で嫌いにはならない。
それだけで十分なのかもしれない。
「夢、見たら覚えとこうね」
「おう」
「明日起きたら、話す」
「忘れてたら?」
「カイが思い出させて」
「俺も忘れてたら?」
「一緒に思い出す」
スイリンはそう言って、目を閉じた。
暗闇の中で、指先が布団の外へ出る。
少し離れたところから、カイエンの手が伸びてきた。
小指だけが触れる。
昼間の約束を確かめるように、二人は短く指を絡めた。
言葉はもういらなかった。
やがてスイリンの呼吸がゆっくりと整い始める。
カイエンもそれを確かめてから目を閉じた。
二人は同じ夜に、よく似た夢を見た。
◇
雨の降る街だった。
黒く滑らかな地面へ、無数の光が映っている。
魔法の灯りとは違う。
もっと冷たく、白く、青い光。
遠くでは低い音が響き、鉄でできた乗り物が次々と通り過ぎていく。
スイリンは、そこに立っていた。
けれど身体が違う。
狐の耳も尻尾もない。
手は今より大きく、身につけている服も見たことがなかった。
雨粒が透明な板を打っている。
目の前には誰かがいた。
背の高い男。
銀狼の耳はなく、髪の色も今とは違う。
それでも、カイだと分かった。
理由はない。
魂の奥が、そう告げていた。
男は何かを笑いながら話している。
声は雨音に遮られ、ほとんど聞き取れない。
ただ、最後の一言だけが耳に残った。
――失敗だらけだからさ、今さら一つ増えても変わんねぇって。
それを聞いた自分が、呆れたように笑う。
――それ、反省してない人の言い方じゃん。
男が肩を揺らした。
――反省はしてる。引きずってないだけ。
その表情はぼやけていた。
けれど、声に込められた温度ははっきりと分かる。
強がっている。
本当は何かを気にしている。
それを隠すように笑っていた。
夢の中の自分は、それ以上踏み込まなかった。
ただ隣に立ち、雨の向こうを一緒に見ていた。
場面が変わる。
今度は夜の道。
二つの乗り物が並び、風の中を走っている。
自分の身体は軽く、胸の奥まで風が入り込んでくるようだった。
カイが前を走り、時折こちらを振り返る。
危ないと怒った気がする。
もっと前を見ろと叫んだ気もする。
それでも、楽しかった。
どこへ向かっているのかも分からないのに。
隣に同じ相手がいる。
それだけで、道の先が怖くなかった。
◇
「スイ、起きろ」
肩を揺らされ、スイリンは目を開けた。
障子の向こうはまだ薄暗い。
朝になり始めたばかりらしい。
すぐそばに、カイエンの顔があった。
「近い」
「呼んでも起きねぇから」
「もうちょっと寝る」
「夢、見たんだろ」
その一言で、眠気が消えた。
スイリンは布団から身体を起こす。
「カイも?」
「ああ」
二人は声を落とし、向かい合った。
まだ大人たちは眠っている。
廊下も静かだった。
「雨の街だった」
スイリンが先に言う。
カイエンの耳が立つ。
「俺も」
「カイが何か言ってた」
「失敗が増えても変わらないとか?」
「それ!」
思わず声が大きくなり、二人は同時に口を押さえた。
廊下の向こうで物音がしたが、誰かが起きる気配はない。
スイリンはさらに声を潜める。
「同じ夢だったんだ」
「たぶんな」
「たぶんじゃないよ。言葉まで同じだった」
カイエンは少しだけ困った顔をした。
夢の中で自分が話していたことを、どう受け止めればいいのか分からないらしい。
「俺、前も失敗してたのか」
「失敗だらけって言ってた」
「なんか嫌だな」
「でも、笑ってたよ」
「笑ってたならいいか」
「よくないでしょ」
そう言いながらも、スイリンも笑っていた。
カイエンは布団の脇へ置かれていた小さな包みを取った。
昨日、父親から紙と炭筆を借りていたらしい。
「書くんだろ」
「何を?」
「夢。忘れないように」
「あ」
昼間に決めた約束を思い出し、スイリンは急いで紙を広げた。
まだ二人とも字はうまくない。
覚えている言葉を一つずつ書き、絵も混ぜた。
雨。
知らない街。
鉄の乗り物。
白や青の灯り。
そして、今とは違う姿の二人。
カイエンが乗り物の絵を描くと、細長い箱のような形になった。
「こんなんじゃないよ」
「だいたい合ってるだろ」
「もっと丸いところあったじゃん」
「どこに?」
「前の方」
「覚えてねぇ」
スイリンが横から描き足すと、今度は魚のような形になった。
「スイの方が変じゃん」
「カイよりまし」
「どこが?」
「ここ」
「そこ何だよ」
「たぶん、座るところ」
二人で描き直しているうちに、紙は黒い線だらけになった。
それでも、最後まで捨てなかった。
夢が本当にあった証拠。
同じ景色を見た証拠。
それを二人だけの記録として残した。
「これ、どこに置く?」
カイエンが尋ねる。
「ボクが持ってる」
「なくすなよ」
「なくさないって」
「祭りの時も言ったけど、スイは何かなくしそう」
「じゃあ、カイが持つ?」
「雪の中走ったら濡れる」
「やっぱりボクが持つ」
紙は折り畳まれ、スイリンの木箱へ仕舞われた。
そこにはカイエンからもらった木彫りを入れていた時期もあった。
今は首へ下げているため、空いていた場所へ最初の記録が収まる。
その日から、二人は夢を見るたびに書き残すようになった。
◇
雪が解け、春が来た。
妖狐の里の山桜が開き、竹林を渡る風が柔らかくなる。
カイエンが次に里を訪れたのは、春の終わりだった。
今度は父親の取引についてきたのではない。
妖狐の里から銀狼の里へ薬を運ぶ者たちに同行し、途中でスイリンの家へ立ち寄った。
その次は夏。
スイリンの家族が銀狼の里を訪れた。
約束通り、彼女は初めてカイエンの暮らす土地を見た。
急な山道。
深い森。
走ることを前提に造られた、広い稽古場。
妖狐の里とは違う物ばかりだった。
カイエンは得意そうに里を案内し、途中で獣道へ入り、二人揃って迷った。
「狼は道に迷わないって言ってたじゃん!」
「ここ、いつもの道と木が違う!」
「木が勝手に動くわけないでしょ!」
「森だから変わることもある!」
「ないよ!」
結局、日が暮れる前に猟師へ見つかり、二人まとめて叱られた。
それから秋が来て、再び祭りで会った。
最初に出会った路地へ行き、あの日のことを思い出しながら菓子を分けた。
今度は最初から二つ買った。
それでもカイエンの方が大きく食べたと、スイリンが怒った。
季節は何度も巡った。
六歳。
七歳。
八歳。
二人は少しずつ背が伸び、できることも増えていった。
スイリンは短剣の扱いを学び始めた。
妖狐の身軽さを活かし、相手の攻撃を避けながら懐へ入る戦い方だった。
まだ本物の刃は持たされず、木製の短剣を両手に稽古する。
動きは軽い。
周囲をよく見て、相手が動く前に距離を取る。
ただし、少し調子に乗ると足元への注意が疎かになり、よく転んだ。
カイエンは銀狼の戦士たちに混じり、剣の基礎を学んだ。
一つ一つの動きを覚えるのは早かった。
身体も強く、同じ年頃の子どもより大きな剣を振ることができる。
だが本人は基本の型を繰り返すことを退屈がり、途中で勝手な動きを加えては叱られていた。
「ちゃんと振ればもっと強いのに」
九歳の春、二人で稽古をした後、スイリンは地面へ座りながら言った。
カイエンは肩へ木剣を担いでいる。
「当たれば同じだろ」
「当たらなかったじゃん」
「スイが逃げるから」
「避けるのも戦いでしょ」
「正面から来いよ」
「嫌だよ。カイの方が力強いし」
「ずるい」
「考えて戦ってるって言って」
スイリンは得意そうに笑う。
カイエンは不満そうだったが、反論はできなかった。
稽古ではスイリンの方が先に一本を取っていた。
力でぶつかればカイエンが勝つ。
しかしスイリンは正面から受けず、相手の視線や足の動きを見ていた。
カイエンが大きく踏み込んだ瞬間、横へ回り込み、背中へ木剣を当てた。
勝負が終わった後になって、カイエンは何度も「あれはずるい」と言った。
「冒険者になったら、魔物にも正面から来いって言うの?」
「言っても来ねぇだろ」
「じゃあ一緒じゃん」
「魔物と俺は違う」
「カイの戦い方、ちょっと魔物っぽかったよ」
「どういう意味だよ」
「あはは!」
スイリンは立ち上がり、服についた土を払った。
「もう一回やる?」
「今度は負けねぇ」
「さっきも言ってた」
「次は違う」
「何が違うの?」
「今考える」
「考えてから言ってよ」
言い合いながら、二人は再び構えた。
勝ち負けよりも、こうして向かい合う時間が楽しかった。
互いに遠慮をしない。
できていないことは、できていないと言う。
失敗すれば笑う。
けれど、本当に悔しがっている時だけは、すぐに笑わなかった。
カイエンが稽古で年上の少年に負け、森の奥で一人になっていた時。
スイリンは余計な励ましをしなかった。
隣へ座り、彼が話し始めるまで木の葉を眺めていた。
スイリンが魔法の制御に失敗し、同じ里の子どもから笑われた時。
カイエンは「気にするな」とは言わなかった。
代わりに彼女の前へ座り、自分も同じ魔法へ挑戦して、もっと派手に失敗した。
土を動かすつもりが地面へ手を埋め、抜けなくなった。
「何してるの?」
目を赤くしていたスイリンが、呆れたように言う。
「失敗」
「見れば分かるよ」
「スイよりでかい失敗した」
「張り合うところじゃないでしょ」
「でも、ちょっと笑ったじゃん」
スイリンは唇を結んだ。
笑わないようにしたが、カイエンが地面から腕を抜こうとするたび、肩が揺れた。
最後には二人で笑った。
そんな時間が、少しずつ積み重なっていった。
◇
十歳を迎えた頃、夢の記録は木箱一つでは収まらなくなっていた。
二人が同時に見る夢もあれば、片方だけが見るものもある。
白い天井。
小さな画面。
見知らぬ服。
鉄の乗り物。
夜の店。
透明な杯に注がれた、琥珀色の酒。
大勢の声が聞こえる場所。
誰かを名前で呼び、笑っていた記憶。
ただし、名前だけはほとんど思い出せなかった。
自分たちが以前、何と呼ばれていたのか。
周りにいた人々が誰だったのか。
そこだけが霧に覆われている。
「絶対、他にも誰かいたよね」
夏の夜。
二人は妖狐の里の外れにある丘で、夢の記録を広げていた。
紙の上には、何度も同じ印が描かれている。
小さな四角。
その中に、人の顔のようなもの。
周囲には、別の四角がいくつも並んでいた。
「声はたくさんした」
カイエンが答える。
「でも、同じ場所にはいなかった気がする」
「離れてたのに話してた?」
「小さい板から」
「やっぱり魔道具みたいなものかな」
「この世界にも、遠話の魔道具はあるだろ」
「貴族とか大きな商会しか持ってないけどね」
スイリンは紙の上を指でなぞった。
夢の中では、それを誰もが当たり前のように使っていた。
特別な道具ではなかった。
朝も、夜も。
どこにいても、誰かの声へ繋がることができた。
「楽しかったんだろうな」
カイエンが呟く。
「うん」
「会いたいか?」
何気ない問いだった。
スイリンはすぐに答えなかった。
夢の中にいた人々。
顔も名前も覚えていない。
それでも声を思い出すと、胸の奥に温かさが広がる。
同時に、少しだけ痛くなる。
「会いたい」
スイリンは紙を見つめたまま答えた。
「覚えてないのに、変かな」
「変じゃねぇよ」
「カイも?」
「ああ」
カイエンは草の上へ仰向けになる。
満天の星が、彼の目に映っていた。
「俺たちがここにいるなら、他の奴らもいるかもしれない」
「この世界に?」
「たぶん」
「どこにいるか分からないよ」
「探せばいい」
また、簡単に言う。
けれど今度は、スイリンも笑わなかった。
彼の言葉の向こうへ、本当に道が続いている気がした。
和の国の外。
海の向こう。
二人がまだ見たことのない場所。
そこに、前の世界で笑い合った誰かがいるかもしれない。
「どうやって探すの?」
「旅する」
「子どもだけじゃ無理だよ」
「大人になったら」
「十二歳?」
「成人の儀が終わったら、俺たちは大人だろ」
「すぐ旅に出るの?」
「すぐじゃなくてもいい。でも、いつかは行きたい」
カイエンは星空へ手を伸ばした。
指の隙間から、幾つもの光がこぼれる。
「俺、この国の外も見てみたい。夢に出てくる場所と似たものが、どこかにあるかもしれないし」
スイリンも隣へ寝転んだ。
草の匂い。
夏の夜風。
遠くで鳴く虫の声。
今いる世界も好きだった。
家族がいる。
里の人々がいる。
毎日過ごす家がある。
それでも、胸の奥には別の場所へ繋がる感覚が残っている。
それを見ないふりはできなかった。
「私も行きたい」
小さな声だった。
スイリンは自分の言葉に気付き、少しだけ目を瞬かせる。
普段なら「ボク」と言うはずだった。
けれど、なぜかその時だけは、別の言葉が自然に出た。
夢の中の自分が使っていた一人称。
「今、私って言った?」
カイエンが横を向く。
「……言った」
「前のスイも、そう言ってたのか?」
「たぶん」
スイリンは夜空を見上げたまま、もう一度だけ口にする。
「私」
不思議と馴染んだ。
けれど、まだ今の自分には少しだけ大人びて聞こえる。
「変?」
「別に。スイはスイだろ」
カイエンはそれ以上気にしなかった。
スイリンもすぐには変えなかった。
まだ里で過ごす自分は「ボク」でいい。
いつか成人の儀を終え、本当に旅へ出る時。
その時は、夢の中の自分が使っていた言葉を選ぶのも悪くない。
そう思った。
「成人の儀が終わったら」
スイリンは小指を伸ばした。
「お酒を飲む」
「おう」
「それから、いつか一緒に旅に出る」
「前の仲間を探す」
「美味しいお酒も探す」
「それは絶対だな」
カイエンが小指を絡める。
二人は星空の下で、新しい約束を交わした。
まだ二年先の成人の儀。
さらにその先の旅。
子どもが描いた、輪郭の曖昧な未来だった。
それでも二人は、本気で信じていた。
一緒なら、どこへでも行ける。
失敗しても、迷っても。
きっと隣で笑っていられる。
同じ空の下にいる誰かを探しながら。
まだ知らない道を、どこまでも歩いていける。
夏の風が丘を渡り、広げた記録の紙を揺らした。
二人は慌てて押さえ、そのまま顔を見合わせて笑う。
遠く離れたどこかで、同じ星空を見上げている者がいることを、この時の二人はまだ知らなかった。
ただ胸の奥に残る懐かしさだけを頼りに、いつか始まる旅の形を、少しずつ思い描き始めていた。




