第2話 同じ空を見上げて 前編
次の春が来るよりも早く、二人は再び顔を合わせた。
祭りから三月ほどが過ぎた、雪の深い日のことだった。
妖狐の里へ続く山道は白く埋もれ、竹林の葉にも薄い雪が積もっている。風が吹くたび、枝先から細かな雪がこぼれ、朝の光を受けてきらめいた。
里の入り口に立つ見張り台から、澄んだ鈴の音が聞こえてくる。
一度。
二度。
一定の間隔で、歩みに合わせて近づいてきた。
門番をしていた妖狐の男が目を細める。
雪道の向こうから現れたのは、銀狼の親子だった。
父親の方は、大きな荷を背負っている。厚手の外套には雪が積もり、その後ろを歩く少年は何度も足を取られながら、それでも先へ進もうとしていた。
腰には、小さな狐の鈴が結ばれている。
「妖狐の里へ何用だ」
門番が声を掛けると、銀狼の男は荷を背負い直した。
「薬草と毛皮の取引だ。里長には話を通してある」
「そちらの子は?」
「ついてくると言って聞かなかった」
少年は父親の陰から顔を出すと、門の先を覗き込んだ。
人を探すように耳を動かしている。
その姿を見て、門番は鈴へ目を落とした。
妖狐の里で作られる、子ども用の護符。
銀狼の少年が身につけているのは珍しい。
「誰かに会いに来たのか?」
尋ねられた少年は、少しだけ胸を張った。
「スイ」
名を呼ぶ声に、迷いはなかった。
◇
その頃、スイリンは家の裏庭で木剣を振っていた。
上段から振り下ろし、足を踏み込み、横へ払う。
動きの一つ一つはまだ荒い。
身体も小さく、木剣に振り回されているように見える。それでも、転びそうになるたび足を踏ん張り、何度も同じ動きを繰り返していた。
「十七、十八……十九……!」
最後の一振りで、木剣が地面へ刺さる。
勢いを止めきれず、スイリンもそのまま前へ倒れ込んだ。
雪の積もった地面へ、顔から突っ込む。
「つめたっ!」
慌てて顔を上げると、額から鼻先まで雪が張り付いていた。
軒下で洗濯物を畳んでいた母親が、呆れたようにこちらを見る。
「剣は地面と戦うためのものではありませんよ」
「分かってる。今のはちょっと足が滑っただけ」
「同じところで三回滑っています」
「ぐぬぬ……」
スイリンは袖で顔を拭い、木剣を引き抜いた。
祭りでカイエンと別れてから、剣の稽古を始めていた。
特別な理由があったわけではない。
ただ、次に会った時、何か一つくらい自慢できるものが欲しかった。
魔法はまだうまく使えない。
火花を出せば前髪を焦がし、水を動かせば自分の足元を濡らす。
ならば剣ならどうかと思ったのだ。
妖狐の一族は、魔法や短刀を扱う者が多い。
長い刀よりも、身軽さを活かせる短い刃を好む。
そのため、子ども用の木剣も長さは控えめだった。
それでも今のスイリンには重い。
「もう一回」
「少し休んだらどうです」
「あと十回だけ」
「さっきもあと十回と言っていませんでしたか?」
「今回は本当に最後」
母親は返事をせず、小さく息を吐いた。
娘は一度決めると、なかなかやめない。
諦めが悪いというより、できないまま終わることを嫌う。
失敗した直後は「ぐぬぬ」と悔しがるくせに、少し経つとまた同じことを始める。
見ている方が先に疲れるほどだった。
スイリンが木剣を構え直した時、表の方から声が聞こえた。
誰かが門を叩いている。
続いて、父親の驚いた声が上がる。
「銀狼の里から?」
スイリンの狐耳がぴくりと動いた。
木剣を持ったまま、家の脇から顔を出す。
門の向こうに、大きな銀狼の男がいた。
その隣には、黒に近い灰色の髪を雪で濡らした少年が立っている。
腰の鈴が鳴った。
「カイ!」
スイリンは木剣を放り出し、そのまま駆け出した。
「お、おい!」
父親が止めるより早く、門を開けて外へ飛び出す。
雪の上で足を滑らせ、前へ倒れそうになった。
カイエンが慌てて手を伸ばす。
二人はぶつかり、そのまま雪の中へ転がった。
「いってぇ!」
「カイがちゃんと受け止めないから!」
「受け止めたからこれで済んだんだろ!」
「もっとかっこよくできたでしょ!」
「急に飛んでくる方が悪い!」
言い争いながら顔を上げる。
目が合った途端、どちらからともなく笑い始めた。
「あはは!」
「ははっ!」
三月ぶりの再会だった。
けれど二人にとっては、何年も離れていたようにも、昨日別れたばかりのようにも感じられた。
カイエンの父親が頭を掻く。
「会いたいと言っていた割には、ずいぶんな挨拶だな」
スイリンの父親も、雪まみれの二人を見下ろして苦笑した。
「祭りの時から、ずっとこんな調子だったそうです」
「うちでも、あの狐の子は剣を使えるのかだの、魔法は得意なのかだの、そればかり聞かれた」
「うちの娘も似たようなものです。銀狼はどのくらい速いのか、山二つとはどれほど遠いのかと、毎日のように」
大人たちが話している間に、二人は立ち上がった。
スイリンがカイエンの腰へ目を向ける。
鈴はまだそこにあった。
雪で濡れてはいたが、紐も切れずに残っている。
「まだつけてるんだ」
「なくすなって言ったの、お前だろ」
「走る時うるさいって言ってたじゃん」
「慣れた」
カイエンは鈴を指で軽く弾いた。
澄んだ音が鳴る。
「これが鳴ると、お前がうるさく笑ってるの思い出す」
「それ褒めてる?」
「半分くらい」
「半分なんだ」
スイリンは不満そうに頬を膨らませたが、尻尾は嬉しそうに揺れていた。
「スイも持ってるか?」
「もちろん」
首元へ手を入れ、紐に通した木彫りを引っ張り出す。
狼の牙を模した飾りは、毎日触っていたせいか、以前より表面が滑らかになっていた。
カイエンはそれを見て満足そうに頷く。
「ちゃんと持ってたな」
「なくすわけないじゃん」
「スイって、わりと物なくしそうだけど」
「カイに言われたくない」
「俺はなくさねぇよ」
「祭りでお菓子取られそうになってたじゃん」
「あれは落としただけだって!」
二人の声が雪の中へ響く。
家の前でいつまでも話し続けそうだったため、母親が間へ入った。
「まずは中へ入りなさい。二人とも風邪を引きますよ」
「カイ、家入っていいの?」
「取引の間だけだぞ」
銀狼の父親が答える。
カイエンはそれだけで十分だったらしく、雪を払いながら門をくぐった。
◇
囲炉裏の火が、ぱちぱちと音を立てていた。
カイエンは厚手の外套を脱ぎ、火の近くへ座っている。
冷え切っていた耳や尻尾が温まり、徐々に力を取り戻していく。
スイリンはその向かいに座り、祭り以降に起きたことを途切れることなく話していた。
「それでね、火の魔法はちょっとだけできるようになったんだよ。前みたいに髪も燃やしてないし、水も前より動かせるようになった。剣も練習してるんだけど、さっきのはたまたま転んだだけだから」
「全部失敗してる話じゃん」
「ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたから言ってんだろ」
「カイは何かできるようになったの?」
「山で鹿を追えるようになった」
「捕まえたの?」
「途中まで追った」
「逃げられてるじゃん」
「でも父ちゃんより先に見つけた」
「それはすごいかも」
素直に褒められ、カイエンは少しだけ得意そうな顔をした。
「あと、剣もやってる」
「ほんとに?」
「ああ。父ちゃんのやつより小さいけど、ちゃんと鉄の剣」
「ずるい。ボクなんて木剣なのに」
「当たり前だろ。お前、さっき地面に刺してたじゃん」
「見てたの?」
「家の前に来た時」
「ぐぬぬ……」
スイリンは湯呑みを両手で持ち、悔しそうに口を尖らせた。
中身は薄く煮出した茶だった。
少し苦い。
けれど大人と同じ器で出されるのが嬉しくて、飲みにくそうな顔を隠しながら口をつける。
カイエンは一口飲んで、すぐに眉を寄せた。
「苦い」
「子どもだね」
「お前も変な顔してただろ」
「してないけど」
「耳が伏せてた」
スイリンは慌てて頭へ手を当てる。
妖狐の耳は感情が出やすい。
自分では隠せているつもりでも、驚いたり嫌がったりするとすぐに動いてしまう。
「カイの耳も分かりやすいよ」
「俺のは分かりにくい」
「さっき褒めたら立ってた」
「立ってねぇ」
「立ってたって」
二人は湯呑みを置き、互いの耳を見ながら言い合う。
囲炉裏を挟んだところで、父親たちは毛皮と薬草の取引について話していた。
妖狐の里では、冬の薬を作るために銀狼の山で採れる薬草を必要としている。
銀狼の里では、妖狐が作る傷薬や結界札が重宝されていた。
元々、二つの里の間には細い交流があった。
だが距離もあり、頻繁に行き来するほどではない。
今回はカイエンが何度も頼み込み、父親が取引の時期を少し早めたのだった。
「泊まっていかれるのでしょう?」
スイリンの母親が尋ねる。
「雪が強くなる前に戻りたいが、今日中に山を一つ越えるのは厳しい。迷惑でなければ、一晩頼みたい」
「客間を使ってください。どうせこの子たちも、今日だけでは話し足りないでしょうし」
母親が二人を見る。
スイリンとカイエンは、同時に耳を立てた。
「泊まるの?」
「いいのか?」
「大人しくできるなら」
スイリンはすぐにカイエンを見る。
カイエンも彼女を見る。
「大人しくできる?」
「スイ次第」
「なんでボク次第なの」
「お前が先に何かするだろ」
「カイの方がするじゃん」
「二人ともです」
母親の声に、二人は揃って口を閉じた。
それでも数秒後には、顔を見合わせて笑っていた。
◇
昼を過ぎる頃、雪は弱くなった。
空はまだ厚い雲に覆われていたが、風は止み、外へ出られないほどではない。
取引の話が続く間、二人は里の中で遊ぶことを許された。
ただし遠くへ行かないこと。
川へ近づかないこと。
夕方までには戻ること。
三つの約束を聞かされ、二人は揃って頷いた。
「守れますね?」
「守る!」
「おう!」
母親は返事だけでは信用できないのか、しばらく二人を見つめていた。
「今度こそ、本当に守るんですよ」
「今度は大丈夫」
スイリンが胸を張る。
カイエンも隣で頷いた。
数分後、二人は里の裏手にある斜面を駆け上がっていた。
遠くへは行っていない。
川にも近づいていない。
夕方にもなっていない。
今のところは、すべて守っていた。
「カイ、遅い!」
「雪の上は慣れてるからって調子乗んなよ!」
「銀狼なのに雪道で負けるの?」
「里の道知らねぇだけだ!」
スイリンは笑いながら斜面を駆ける。
淡い緑色の髪と尻尾が白い景色の中で揺れる。
カイエンもすぐに速度を上げた。
銀狼の脚力は、平地ならスイリンより上だった。
しかし雪の下には石や木の根が隠れている。道を知るスイリンは迷いなく進み、カイエンは何度か足を取られた。
「待てって!」
「追いついたら待つ!」
「それ待ってねぇだろ!」
斜面を登り切ると、小さな社があった。
里を守る精霊を祀る、古い建物だった。
積もった雪の下から朱色の柱が覗き、軒先には氷柱が下がっている。
スイリンは社の裏へ回り、大きな岩の前で足を止めた。
「ここ、ボクの秘密の場所」
「里から見えてたけど」
「場所が秘密なんじゃなくて、ここに来るのが秘密なの」
「それ、母ちゃんたちに来るなって言われてる場所じゃねぇの?」
「危ないことしなければ大丈夫」
「言われてるんだな」
カイエンは呆れたように笑い、岩の上へ登った。
そこからは、妖狐の里を見渡すことができた。
雪をかぶった家々。
細く立ち上る煙。
竹林の向こうを流れる川。
さらに遠くには山々が連なり、その先に銀狼の里がある。
「俺の里、あっち」
カイエンが北西を指す。
「山二つ越えたところ」
「ほんとに遠いね」
「俺がもう少し大きくなったら、一人でも来れる」
「大人に怒られるよ」
「見つからなきゃいい」
「それで迷ったらどうするの」
「勘で行く」
「絶対迷うじゃん」
「狼は道に迷わねぇ」
「カイは迷いそう」
「なんでだよ」
スイリンは笑いながら、岩の端へ腰を下ろした。
カイエンも隣へ座る。
祭りの日と同じように、二人の肩が並んだ。
しばらくは里を眺めていた。
話すことはたくさんあったはずなのに、不思議と沈黙は苦にならない。
風が止み、雪が落ちる小さな音だけが聞こえた。
「ねぇ、カイ」
「ん?」
「祭りの時に話した、変な感じ。まだある?」
カイエンは少し考えた。
何のことか聞き返す必要はなかった。
出会ったばかりなのに、以前から知っているような感覚。
名前を呼んだ時に浮かぶ、知らない景色。
二人だけが抱えている違和感だった。
「ある」
「どんなの?」
「夢を見る」
カイエンは自分の膝へ肘を置いた。
「前にも話した、鉄の乗り物。あれに乗ってる夢」
「馬車じゃないんだよね?」
「ああ。馬がいないのに動く。すげぇ速くて、音もうるさい」
「ボクも見たことある」
スイリンは空を見上げる。
厚い雲の向こうに、白い太陽がぼんやりと見えていた。
「ボクはね、明るい部屋にいる夢。手の中に小さい板みたいなのを持ってて、そこから誰かの声がするの」
「人が入ってんのか?」
「違うと思う。でも、話はできる」
「魔道具?」
「この国のとは全然違う」
記憶は曖昧だった。
夢から目覚めるたび、細かな部分は消えてしまう。
それでも、懐かしさだけは残る。
知らない道具。
知らない服。
知らない街。
そこにいた自分は今とは違う姿だった。
けれど、自分だった。
「カイも、その夢の中にいる気がする」
スイリンが言うと、カイエンは驚いた様子を見せなかった。
代わりに、小さく頷く。
「俺も。隣を走ってるやつが、たぶんスイ」
「顔、見える?」
「見えねぇ。頭に変なの被ってる」
「変なの?」
「硬そうなやつ。顔まで隠れてる」
「ボクも被ってる?」
「たぶん」
「似合ってた?」
「分かんねぇよ」
「そこは似合ってたって言うところじゃん」
「見えてねぇのに言えるか」
スイリンは唇を尖らせる。
けれど、そのやり取りさえ懐かしい気がした。
以前も同じように、どうでもいいことで言い合っていた。
そんな感覚がある。
「これってさ」
スイリンは膝の上で指を組んだ。
「ボクたち、前にも生きてたってことなのかな」
言葉にすると、急に現実味が増した。
生まれる前に、別の場所で生きていた。
それは和の国にも伝わる昔話に似ている。
死んだ者の魂が再びこの世へ生まれる、輪廻の話。
けれど、それを自分たちのこととして考えると、妙な怖さがあった。
今の家族は本当の家族ではないのか。
今の自分は、以前の誰かの続きでしかないのか。
答えのない疑問が胸の中へ広がる。
カイエンも同じことを考えたのか、しばらく黙っていた。
やがて彼は、雪の上へ手を伸ばす。
掌で掬い、丸く固めた。
「前にも生きてたとしてさ」
「うん」
「今の俺がいなくなるわけじゃないだろ」
カイエンは作った雪玉を空へ放り上げ、受け止める。
「俺はカイエンで、父ちゃんと母ちゃんの子ども。それで、前にも誰かだったかもしれない。それだけじゃね?」
「簡単に言うね」
「難しくしても分かんねぇし」
「それはそうだけど」
「スイだってスイだろ。前の名前が違っても、今はスイ。それでいいじゃん」
雪玉が高く上がる。
受け止めようとしたカイエンの手を外れ、頭へ落ちた。
「冷たっ!」
スイリンは思わず吹き出した。
「あはは! かっこつけたのに!」
「今のは風のせい」
「風、吹いてないよ」
「じゃあ雪のせい」
「自分で投げたんじゃん」
笑いながら、スイリンは肩の力を抜いた。
胸の奥にあった怖さが、少しだけ薄れている。
カイエンの言葉に明確な根拠はない。
けれど、彼がそう言うなら大丈夫な気がした。
今の自分も、夢の中の自分も。
どちらかを消す必要はない。
どちらも自分の中にある。
「じゃあさ」
スイリンは木彫りの飾りを服の上から握った。
「一緒に思い出そうよ」
「何を?」
「前のボクたちのこと。カイも同じ夢を見てるなら、二人で話せば分かることがあるかもしれない」
「分かったらどうする?」
「分かってから考える」
「それ、俺と同じじゃん」
「カイよりちゃんと考えてるし」
「本当か?」
「本当」
スイリンは小指を差し出した。
祭りの日と同じ仕草だった。
「誰にも言わない。二人だけで確かめる」
カイエンはその指を見つめる。
「父ちゃんと母ちゃんにも?」
「今は言わない。変な心配させるかもしれないから」
「まあ、信じてもらえないかもな」
「それに、ボクたちもまだよく分かってないし」
「分かった」
カイエンも小指を伸ばす。
二人の指が絡んだ。
「約束」
「おう」
触れた瞬間、また一つの景色が浮かぶ。
夜。
無数の灯り。
風を切る音。
並んで走る二つの影。
今度は、微かに声が聞こえた。
――次、どこ行く?
誰の声かは分からない。
それでも一人ではなかった。
隣には誰かがいた。
答える声に、笑いが混じっていた。
――どこでもいいんじゃね。走れれば。
景色はすぐに消えた。
スイリンは絡めた指を見つめる。
カイエンも、何かを感じたらしい。
「今……」
「見えた?」
「ああ」
二人は顔を見合わせた。
同じものを見たのかは、まだ分からない。
それでも、同じ瞬間に何かを思い出した。
偶然ではない。
少なくともスイリンには、そう思えた。
「やっぱり、カイだったんだ」
「何が?」
「夢の中で一緒にいたの」
「まだ決まってねぇだろ」
「カイもそう思ってるくせに」
カイエンは答えず、顔を逸らした。
だが耳は少しだけ立っている。
スイリンはそれを見て、楽しそうに笑った。
二人の秘密が、その日ひとつ増えた。
出会う前の記憶。
別の世界。
今とは違う姿。
それを知ることが、何へ繋がるのかは分からない。
ただ、二人でなら怖くない。
同じ夢を見て。
同じ違和感を抱いて。
分からないことを、分からないまま一緒に追いかけられる。
スイリンは、絡めた指を離した。
「今日から、覚えてる夢は全部話すこと」
「会えない時はどうすんだよ」
「次に会った時にまとめて」
「忘れるかもしれない」
「じゃあ書く」
「字、ちゃんと書けるのか?」
「カイよりは書ける」
「俺だって書けるし」
「昨日の稽古の日記、なんて書いた?」
「……剣を振った」
「それだけ?」
「あと、疲れた」
「それ日記じゃなくて感想じゃん」
「同じだろ」
「全然違うよ」
二人の声が、静かな社の裏へ響く。
雪雲の切れ間から、淡い光が差し込んだ。
白い景色の中で、二人の影が隣り合う。
この時の約束を、二人はまだ軽く考えていた。
夢を忘れないため。
自分たちが何者なのかを確かめるため。
それだけの約束。
けれど、記憶の断片を言葉にし、互いに重ねていくうちに、二人は少しずつ遠い世界の輪郭を取り戻していくことになる。
そしていつか。
自分たち以外にも、同じ空を知る者がいるのではないかと考え始める。
その最初の種は、この雪の日に生まれた。
「帰ろうか」
スイリンが立ち上がる。
「まだ夕方じゃねぇだろ」
「お腹空いた」
「さっき菓子食ってたじゃん」
「走ったし、いっぱい話したから」
「話すと腹減るのか?」
「減るよ」
「初めて聞いた」
「カイも減ってるでしょ」
言われた途端、カイエンの腹が小さく鳴った。
スイリンが肩を揺らす。
「あはは! ほら!」
「今のは違う」
「何が違うの?」
「……雪のせい」
「また雪のせいにしてる」
二人は岩から飛び降りた。
来た道を戻る足跡が、雪の上へ並んで刻まれていく。
片方は軽く、もう片方は少し深い。
歩幅も、足の形も違う。
それでも進む方向は同じだった。




