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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
間章 獣人の約束

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第1話 和の国 後編


「スイリン!」


祭りの喧騒を割るように、聞き慣れた声が飛んできた。


スイリンの狐耳がぴくりと動く。


振り向くと、通りの向こうから母親が駆けてきていた。普段は乱れることのない髪が頬に張り付き、着物の裾を片手で持ち上げている。


その後ろには、銀狼の男女もいた。


「カイエン!」


今度はカイの耳が伏せられた。


先ほどまでの笑顔が、急に引きつる。


「……やば」


「カイのお母さん?」


「たぶん、すげぇ怒ってる時の母ちゃん」


「顔を見れば分かるよ」


「逃げるか?」


「もっと怒られるだけじゃない?」


「それな……」


初めて会ったばかりだというのに、二人の相談は妙に息が合っていた。


逃げ道を探すように周囲を見回している間に、母親たちはすぐそばまで来てしまう。


「スイ!」


呼ばれた直後、スイリンの身体が抱き締められた。


母親の腕は少し震えていた。


強く叱られると思っていたスイリンは、目を瞬かせたまま動けなくなる。頬に触れる母親の髪から、いつも使っている香油の匂いがした。


「どこへ行っていたの。急にいなくなって……何度呼んでも返事がなくて……」


声の端が掠れている。


怒っているのではない。


怖かったのだ。


そのことに気付くと、スイリンの胸の奥に重たいものが落ちた。


「……ごめんなさい」


先ほどまであれほど勢いよく動いていた尻尾が、しゅんと下がる。


「見世物を見ようとして、それで……気付いたら、お母さんがいなくなってた」


「私がいなくなったんじゃありません。あなたが離れたんでしょう」


「うん……」


母親は抱き締める腕を少し緩め、娘の顔を確かめる。怪我がないと分かると、ようやく深く息を吐いた。


隣では、カイエンも母親に両肩を掴まれていた。


「カイ。勝手に離れないと約束しましたね?」


「した」


「そのあと、すぐ離れましたね?」


「……した」


「返事だけは立派ですね」


母親の声は静かだった。


怒鳴られるよりも怖い。


カイエンは助けを求めるように父親を見る。しかし父親は腕を組み、遠くの空へ視線を逸らしていた。


自分も幼い頃に同じことをした覚えがあるせいか、口を挟めないらしい。


「でも、俺の菓子を取ろうとした奴がいてさ。取り返してたら、こいつが――」


カイエンがスイリンを指差す。


そこで母親たちの視線が、初めて二人の間を行き来した。


「この子がどうしたの?」


「助けてくれた」


「助けたっていうか、二人で逃げただけだけどね」


スイリンが口を挟むと、カイエンは不満そうに眉を寄せた。


「最初に出てきただろ」


「カイが頭突きしたから逃げたんじゃん」


「お前がいなかったら、あいつら二人ともぶっ飛ばしてた」


「負けそうだったけど」


「負けねぇよ!」


言い返しながら立ち上がった二人を見て、大人たちはしばらく黙っていた。


たった今まで迷子になっていた子ども同士とは思えない。ずっと以前から知っていたかのように、自然に言葉を交わしている。


スイリンの母親が、娘の耳元へ小さく問いかけた。


「お友達?」


「今会ったばっかり」


「そうなの?」


「うん。でも、なんか前から知ってる気がする」


思ったままを口にすると、母親はわずかに目を細めた。


その言葉を聞いたカイエンも、勢いを失ったように口を閉じる。


彼もまた、同じことを感じていた。


名前を聞いた瞬間からではない。


顔を見た時よりも前。


路地の向こうから声を掛けられた、あの時から。


知らないはずの声が、妙に耳へ馴染んでいた。


「カイも?」


スイリンが尋ねる。


「……まあ、ちょっとだけ」


「ちょっとなんだ」


「お前よりはな」


「ぐぬぬ……なんで張り合うの」


「知らねぇ」


言いながら、二人はまた笑った。


その様子を見ていたカイエンの父親が、堪えきれないように肩を揺らす。


妻から鋭い視線を向けられると、咳払いをして表情を整えた。


「妖狐の里の方か。祭りの間だけでも、子ども同士で一緒に見て回らせてはどうだ?」


「あなたは何を言っているんです。今しがた二人とも迷子になっていたでしょう」


「もちろん大人がついていく。これだけ気が合うなら、離そうとする方が大変だ」


「それは……そうかもしれませんけど」


カイエンの母親は息子を見る。


カイエンは期待を隠そうともせず、耳を真っ直ぐに立てていた。


隣のスイリンも、母親の袖をそっと掴んでいる。


「一緒に行きたい」


「勝手に離れないと約束できますか?」


「今度はちゃんと守る」


「さっきも似たようなことを言わなかった?」


「今度はカイもいるから」


理由になっているようで、なっていない。


母親は困ったように眉を下げたが、最後には小さく頷いた。


「絶対に、大人の見えるところから離れないこと。それが守れるなら」


「あはは! やった!」


尻尾が大きく揺れ、カイエンも拳を上げる。


「祭り、全部回ろうぜ!」


「全部は無理でしょ。でも団子はもう一回食べたい」


「さっき食ってたじゃん」


「走ったからお腹空いた」


「早すぎるだろ」


二人は大人たちより先に歩き出し、すぐに呼び止められた。


今度こそ離れないように、それぞれ母親と手を繋ぐ。


ただし二人は左右に分かれず、母親たちの間へ並んだ。


歩きながらも話は途切れない。


どこの里から来たのか。


何歳なのか。


何が好きなのか。


カイエンは山を走ることと、父親の剣をこっそり持ち出して怒られた話をした。


スイリンは魔法を使おうとして前髪を焦がした話をする。


「それ、魔法じゃなくて自分に火つけただけじゃん」


「ちゃんと火花は出たから。カイは魔法使えるの?」


「まだ。父ちゃんが、まず身体を鍛えろって」


「魔法使えないんだ」


「お前も使えてねぇだろ!」


「あはは!」


笑い声に押されるように、一行は祭りの通りへ戻っていった。



それから二人は、祭りのほとんどを一緒に過ごした。


旅芸人の短刀を見上げ、異国の商人が持ち込んだ硝子細工に目を輝かせる。射的では二人とも一つも的に当てられず、どちらがより惜しかったかで言い争った。


昼を過ぎる頃には、出会ったばかりとは思えないほど自然に隣を歩いていた。


カイエンが先に走り出せば、スイリンが追いかける。


スイリンが面白そうな露店を見つければ、カイエンの袖を引いた。


大人たちは何度も目を合わせ、そのたびに不思議そうに笑った。


夕方になると、祭りの中央に大きな篝火が焚かれた。


楽師たちが太鼓と笛を奏で、獣人たちが火を囲んで踊り始める。


種族によって踊り方は違う。


狼たちは力強く地面を踏み、狐たちは袖や尾をなびかせながら軽やかに回る。それでも音が重なれば、不思議と一つの輪になった。


スイリンは人の輪を眺めながら、焼き栗の殻を剥いていた。


隣ではカイエンが、串焼きの肉にかぶりついている。


「カイってさ」


「ん?」


「銀狼の里に住んでるんだよね」


「そうだけど」


「遠い?」


「山二つくらい。俺ならすぐ」


「すぐじゃないでしょ」


スイリンは剥いた栗を口へ放り込み、少し考えるように篝火を見た。


今日が終われば、別々の里へ帰る。


当たり前のことだった。


昨日までは互いの存在さえ知らなかったのだから、寂しいと思う理由などないはずだった。


それなのに、胸の奥には小さな穴が開いたような感覚がある。


「また会えるかな」


呟くような声だった。


太鼓の音に紛れ、聞こえなかったかもしれない。


けれどカイエンは肉を噛むのを止め、隣へ顔を向けた。


「会えばいいじゃん」


「里、違うじゃん」


「山越えればいいだろ」


「子どもだけじゃ無理だって言われるよ」


「じゃあ大人になったら行く」


迷いのない返事だった。


スイリンは目を瞬かせる。


カイエンは串に残った最後の肉を食べ、当たり前のように続けた。


「祭りも毎年あるんだろ。来年も来れば会えるし、その前に会いたくなったら父ちゃんに連れてってもらう」


「そんな簡単に言う?」


「難しく考えることか?」


「……カイって、すごいね」


「何が?」


「分かんないけど、すごい」


褒められた本人はよく分かっていないようだった。


スイリンはその横顔を見つめ、それから小さく笑う。


「じゃあ、約束ね」


「おう」


「忘れないでよ」


「忘れねぇって」


カイエンが小指を差し出した。


その仕草を見た瞬間、スイリンの胸が強く鳴った。


和の国にも、指を絡めて約束する習慣はある。


けれど今、目の前の仕草に感じた懐かしさは、それだけではなかった。


もっと遠い場所で。


違う姿をして。


同じように笑いながら、何度も約束を交わしたことがある。


そんな感覚が、指先から流れ込んできた。


スイリンも小指を伸ばす。


二人の指が触れた。


一瞬だけ、周囲の音が遠ざかる。


白い光。


夜の道。


風の中を並んで走る、二つの影。


顔は見えない。


けれど、隣にいるのはカイだと思った。


理由は分からない。


ただ、そう知っていた。


「スイ?」


呼ばれ、景色が消える。


目の前には篝火があり、太鼓と笛の音が戻っていた。


カイエンが不思議そうにこちらを見ている。


「また変な顔してる」


「変な顔って何」


「なんか、ぼーっとしてた」


「カイのせいかも」


「なんで俺のせいなんだよ」


「分かんない」


「分かんねぇのかよ」


二人は指を離した。


けれど、指先にはしばらく温かさが残っていた。



翌朝。


祭りを終えた者たちは、それぞれの里へ戻る支度を始めていた。


宿場町の門前には荷車が並び、商人たちが残った品を縄で括っている。昨夜まで灯っていた提灯は外され、通りには祭りの後特有の静けさが漂っていた。


スイリンは妖狐の里へ向かう一行の中にいた。


少し離れたところでは、カイエンも銀狼の両親と荷物をまとめている。


二人は朝から何度も互いを見ていた。


話したいことは、昨日のうちにほとんど話したはずだった。


それでも、別れ際になると何か言い残したような気がする。


「カイ」


スイリンが呼ぶと、少年はすぐに駆けてきた。


「来年も来るよね?」


「来る。絶対」


「途中で忘れない?」


「だから忘れねぇって。スイこそ忘れんなよ」


「忘れないよ」


昨日と同じ言葉を繰り返す。


それだけで少し安心できた。


カイエンは腰に下げていた小さな袋を探り、中から木彫りの飾りを取り出した。


狼の牙を模した、簡素なものだった。


「これやる」


「いいの?」


「父ちゃんに作ってもらった。俺、もう一個あるし」


「じゃあ、もらう」


スイリンは両手で受け取った。


使い込まれた木の表面は滑らかで、カイエンの体温がわずかに残っている。


「なくすなよ」


「なくさないって。カイも何か欲しい?」


「別にいい」


「それじゃ不公平じゃん」


スイリンは自分の持ち物を探したが、渡せそうなものは少なかった。


腰帯に差していた、小さな狐の鈴が目に入る。


魔物避けの術が込められた、子ども用の護符だった。母親から持たされていたものだが、効力は弱く、今では飾りに近い。


「これ」


鈴を外し、カイエンへ差し出す。


「音が鳴るじゃん」


「鈴だからね」


「走る時うるさそう」


「じゃあ返して」


「いらないとは言ってないだろ」


カイエンは慌てて鈴を握り込み、腰の紐へ結び付けた。


身体を動かすと、澄んだ音が小さく鳴る。


気に入ったのか、何度か自分で腰を揺らして確かめていた。


「似合ってるよ」


「本当か?」


「ちょっと可愛い」


「外す」


「あはは! 冗談だって!」


スイリンが笑うと、カイエンも不満そうにしながら口元を緩めた。


出発を告げる声が響く。


妖狐の一行が、山へ続く道へ動き始めた。


「じゃあな、スイ!」


「またね、カイ!」


何度も振り返りながら手を振る。


距離が離れ、やがて互いの姿は人と荷車に隠れて見えなくなった。


スイリンは前へ向き直り、手の中の木彫りを強く握る。


寂しさはあった。


けれど、それ以上に次に会う日のことを考えていた。


来年の祭り。


それより前に会えるかもしれない。


会ったら、今度は何をして遊ぼう。


魔法を少し使えるようになって、カイを驚かせるのもいい。


思い浮かべているうちに、自然と足取りが軽くなった。


隣を歩く母親が、娘の横顔を見下ろす。


「ずいぶん仲良くなったのね」


「うん」


「昨日会ったばかりでしょう?」


「そうなんだけど……」


スイリンは手の中の木彫りへ目を落とした。


「ずっと前から知ってるみたいだった」


母親はすぐには答えなかった。


山道へ吹く秋の風が、娘の淡い緑色の髪を揺らす。


「縁というものは、いつ始まったのか分からないことがあります」


「えん?」


「誰かと誰かを結ぶ、不思議な繋がりのことです。出会った瞬間に結ばれることもあれば、生まれるより前から続いていることもあると言われています」


「生まれる前から?」


「昔からあるお話ですよ」


母親は穏やかに笑い、それ以上は説明しなかった。


スイリンも深くは尋ねない。


ただ、その言葉だけが胸に残った。


生まれる前から続いている繋がり。


そんなものが本当にあるのなら。


カイとの間にある懐かしさにも、いつか名前をつけられるのかもしれない。



銀狼の里へ向かう道でも、似たような会話が交わされていた。


「なあ、父ちゃん」


「どうした」


「初めて会った奴なのに、前から知ってる気がすることってあるか?」


父親は歩みを緩めた。


カイエンの腰では、狐の鈴が歩調に合わせて鳴っている。


「惚れたのか?」


「違う」


「そうか?」


「そういうんじゃねぇって。なんか……前にも一緒に遊んでた気がするんだよ」


「夢で会ったんじゃないか?」


「分かんねぇ」


カイエンは首を傾げる。


昨夜から、妙な夢の断片が頭に残っていた。


知らない世界。


今とは違う身体。


石よりも滑らかな道を、鉄の乗り物で走っている。


隣にも同じ乗り物があり、そこに誰かがいた。


顔は覆われていた。


声も風に消えていた。


それなのに、あれはスイだった気がする。


「分からないことは、無理に今決めなくていい」


父親は前を向いたまま言った。


「また会うのだろう?」


「おう」


「なら、何度も会って話せばいい。分からなかったことも、そのうち分かるかもしれん」


「そういうもんか?」


「そういうものだ。少なくとも、考えているだけよりはいい」


カイエンはしばらく黙り、それから笑った。


「それな!」


「……今の言葉はどこで覚えた?」


父親が不思議そうに見る。


カイエン自身も足を止めた。


「どこだろ」


考えてみても思い出せない。


けれど、口に馴染んでいた。


何度も使っていたような気がする。


「まあ、いいか」


「いいのか?」


「分かんないなら仕方ねぇじゃん」


再び歩き出す。


腰の鈴が鳴るたび、昨日の笑い声が蘇った。


また会えばいい。


父親の言う通りだった。


分からないことがあるなら、隣で一緒に考えればいい。


カイエンは振り返り、すでに見えなくなった宿場町の方角を眺めた。


山の向こうには、妖狐の里がある。


そのさらに向こうには、自分たちがまだ知らない国や街が広がっている。


今の彼には、それを知る由もなかった。


これから何度もスイリンと山を駆け、喧嘩をし、失敗しては笑うことを。


二人が同じ夢の断片を集め、やがて自分たちの過去へ辿り着くことを。


そしていつの日か、同じ境遇を持つ誰かを探すため、二人だけでこの国を旅立つことを。


ただ一つだけ。


カイエンは、もう知っていた。


あの妖狐の少女とは、きっと長い付き合いになる。


理由などない。


それでも、なぜか疑う気にはならなかった。


秋の山道へ、澄んだ鈴の音が響く。


その音は遠く離れた妖狐の里へは届かない。


けれど同じ頃、スイリンもまた、手の中の木彫りを眺めながら笑っていた。


二人の記憶は、まだ深い霧の中にある。


名前も、姿も、交わした言葉も。


ほとんどが失われたままだった。


それでも、忘れきれなかったものがある。


声を聞けば笑えること。


隣を走れば安心すること。


別れ際に、また会いたいと思えること。


記憶よりも深い場所に残ったそれだけが、二つの人生を静かに繋いでいた。


五百年後に始まる再会の物語を、まだ誰も知らない時代。


和の国の山々に、二人の幼い足音が刻まれた。


それは世界を越えて続く旅の、ほんの最初の一歩だった。

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