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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
間章 獣人の約束

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第1話 和の国 前編


ゆうきがこの世界へ転移する、およそ五百年前。


東の海を越えた先に、獣人たちの国があった。


その国には、世界を隔てるほど高い城壁も、空を覆う巨大な魔法塔もない。代わりに連なる山々が天然の境となり、その谷間や盆地に大小の集落が点在している。


春には山桜が咲き、夏には青々とした稲が風に揺れる。


秋になれば山は赤や黄に染まり、冬には深い雪がすべての音を包み込んだ。


人々はそこを、和の国と呼んでいた。


国内に暮らす者の多くは獣人族だった。


狼や狐、猫、兎。ほかにもさまざまな種族が、それぞれの習慣を残しながら同じ土地で暮らしている。家々は木と土で造られ、軒先には魔物避けの鈴や小さな護符が吊るされていた。


朝になれば炊き上がった米の匂いが漂い、夜になれば酒場や民家から笑い声が漏れる。


魔法と刀。


着物と軽装鎧。


古い習慣を重んじながらも、旅人や異国の品を拒まない。


そんな国の北部に、銀狼の一族が暮らす集落があった。


深い森と険しい山に囲まれた、静かな土地だった。


銀狼は獣人族のなかでも身体能力に優れ、とりわけ嗅覚と聴覚が鋭い。狩人や兵士になる者が多く、幼い頃から山を駆け、武器を扱うことを教えられる。


冬の終わり。


まだ軒先に雪が残る夜、その家に一人の子どもが生まれた。


赤子は産声を上げるより先に、目を開いた。


薄暗い部屋。


揺れる灯火。


見知らぬ女の顔。


木の天井。


何かがおかしい。


そう思った気がした。


けれど、身体は思うように動かない。声を出そうとしても、喉から漏れたのは意味を持たない泣き声だけだった。


「元気な男の子ですよ」


産婆の声が聞こえる。


赤子は腕の中へ抱き上げられた。柔らかな布の感触と、その向こうから伝わる体温に包まれる。


「よかった……本当によかった」


女は涙を浮かべながら、小さな額へ頬を寄せた。


その顔を見た途端、胸の奥で騒いでいた何かが静かになった。


知らない人のはずだった。


知らない場所のはずだった。


それなのに、不思議と怖くはない。


扉の近くには、身体の大きな銀狼の男が立っていた。


落ち着かない様子で何度も手を握り直しながら、赤子の顔を覗き込んでいる。


「……小さいな」


「生まれたばかりなんだから当然でしょう」


「分かっている。だが、本当に小さい」


母親に呆れたように言われ、男は困ったように頭を掻いた。


大きな手が、おそるおそる赤子の頬に触れる。


その指を、赤子は反射的に握った。


男の耳がぴんと立つ。


「俺の指を掴んだぞ」


「それくらいで騒がないでください」


「いや、力が強い。こいつはきっと強い狼になる」


男は嬉しそうに笑った。


その顔を見上げながら、赤子の意識は少しずつ遠のいていく。


眠りへ落ちる直前、頭の中に聞き慣れない音が浮かんだ。


低く唸るような機械の音。


風を切る感覚。


固い地面の上を、何かに乗って走っている。


隣には誰かがいた。


顔は見えない。


ただ、その誰かと笑っていた。


懐かしい。


そう思ったところで、夢は途切れた。


赤子には、カイエンという名が与えられた。


銀狼の一族に古くから伝わる名だった。


家族は親しみを込めて、彼をカイと呼んだ。



銀狼の里から山を二つ越えた先には、妖狐たちの集落がある。


竹林と清流に囲まれたその土地では、銀狼の里よりも魔法が身近に使われていた。


井戸から水を汲み上げる術。


田畑を荒らす獣を遠ざける幻術。


火種を長く保つための小さな結界。


妖狐は身体能力よりも魔力に秀で、身のこなしと感覚にも優れている。商人や術師として国の外へ出る者も多かった。


春の始まり。


里を囲む山桜が、雪の残る枝へ小さな蕾をつけた日のこと。


一人の少女が生まれた。


白銀に近い、淡い緑色の髪。


頭にはまだ小さな狐耳があり、腰には柔らかな尻尾が一本だけ生えていた。


少女は母親の胸に抱かれながら、ぼんやりと目を開く。


見上げた先にあったのは、木目の走る天井だった。


知らない。


けれど、初めて見る気がしない。


小さな胸の奥に、言葉にできない違和感があった。


もっと白くて、平らな天井を見ていた気がする。


光る板。


小さな画面。


そこから聞こえてくる、何人もの声。


笑い声。


自分も笑っていた。


誰かの名前を呼んでいたような気がする。


けれど、思い出そうとした途端、その記憶は薄い霧のように消えてしまった。


「目を開けたわ」


母親の声に、傍らの男が身を乗り出す。


「ああ。ちゃんと見えているのか?」


「あなたの顔を見て泣かなければ、見えていないかもしれないわね」


「どういう意味だ」


男が不満そうに眉を寄せる。


少女はその顔をじっと見つめた。


一瞬の静寂の後、声を上げて泣き始める。


「ほら」


「今のは腹が減っただけだ」


「そういうことにしておきましょうか」


母親は小さく笑いながら、少女の背を優しく撫でた。


その温かさに包まれ、泣き声は次第に小さくなる。


「名前は、決めていたものでいいの?」


「ああ。翠のように、強く美しく育ってほしい」


男は娘の淡い緑色の髪を眺め、ゆっくりと名を告げた。


「スイリン」


少女の耳が小さく動いた。


意味を理解したわけではない。


それでも、その響きは胸の奥にすっと馴染んだ。


母親は名前を確かめるように何度か繰り返し、最後に頬を緩めた。


「スイ。あなたの名前よ」


その夜、少女は奇妙な夢を見た。


見たことのない服を着た誰かと、明るい部屋で話している。


自分のものではない姿。


知らない声。


それでも、その人物が自分なのだと分かっていた。


目の前の相手は、楽しそうに笑っていた。


少し軽くて、けれどどこか安心する声。


何を話していたのかは分からない。


夢の中では確かに分かっていたはずなのに、目を覚ました時にはすべて消えていた。


残ったのは、笑い声の温度だけだった。



カイエンは、よく眠る子どもだった。


腹が減れば泣き、抱かれればすぐに眠る。


手のかからない子だと家族には思われていた。


けれど、少し成長して自分で歩けるようになると、その評価は大きく変わった。


目を離せば外へ出る。


柵をよじ登る。


狩人たちの後を勝手についていく。


三歳の頃には、庭へ積まれた薪の山から飛び降り、着地に失敗して頭から雪へ突っ込んだ。


「カイ!」


母親が駆け寄った時、雪の中から顔を出したカイエンは、泣くどころか大声で笑っていた。


「もういっかい!」


「駄目です!」


「なんで?」


「危ないからです!」


「だいじょうぶだった」


「今回はね!」


耳を引っ張られて家へ連れ戻されながらも、カイエンは何度も薪の山を振り返った。


失敗したことよりも、次はどうすればうまく飛べるかを考えている。


怖いという感覚が薄いわけではない。


転べば痛い。


怒られれば少し落ち込む。


けれど、それよりも好奇心の方が勝ってしまう。


父親はそんな息子を眺めて豪快に笑い、母親から睨まれていた。


「お前に似たんです」


「いや、俺はもう少し落ち着いた子どもだった」


「あなたのお母様から、同じ話を何度も聞いていますけど」


「……そうだったか?」


父親が目を逸らすと、カイエンはその足元で笑った。


「とうちゃん、おこられてる」


「カイ、こういう時は黙っているんだ」


「なんで?」


「傷が深くなるからだ」


意味は分からなかったが、父親の表情が妙に真剣だったので、カイエンは素直に頷いた。


それから数秒後、母親に二人まとめて叱られた。



スイリンもまた、よく動く子どもだった。


ただし、カイエンのように高い場所から飛び降りたり、危険な動物へ近づいたりすることは少ない。


周囲をよく見て、できそうなことを選び、それから失敗する。


三歳の頃、母親の真似をして簡単な火の魔法を使おうとした。


見よう見まねで指を立て、竈の薪へ魔力を流す。


小さな火花が散った。


成功したと思った次の瞬間、火花は自分の前髪へ飛び移った。


「熱っ! 熱い熱い!」


慌てて頭を叩き、近くにあった水桶へ顔ごと突っ込む。


騒ぎを聞きつけた母親が駆け込んできた時、スイリンは濡れた髪を額へ張り付けたまま、桶の前に座っていた。


「……何をしているの?」


「火をつけようとした」


「髪に?」


「薪に」


母親は竈と娘の髪を交互に見た。


前髪の先が少し焦げている。


やがて母親は深く息を吐き、娘の前へしゃがみ込んだ。


「魔法は、最初に教わってから使うものです」


「でも、ちょっとできたよ」


「髪が燃えました」


「ぐぬぬ……」


唇を尖らせた娘を見て、母親は叱るべきか笑うべきか迷った。


結局、頭を軽く小突くだけに留める。


その日の夕食で父親に話が伝わると、スイリンは何度も「ちょっとだけ成功した」と訴えた。


誰も認めてはくれなかった。


けれど翌朝、竈の火を見つめる少女の目から興味は消えていなかった。


失敗したなら、次はうまくやればいい。


まだ幼い彼女は、それを言葉にすることはできなかったが、自然とそう考えていた。



二人が初めて顔を合わせたのは、五歳の秋だった。


和の国では年に一度、近隣の里や集落から商人や職人が集まる大きな祭りが開かれる。


収穫を祝い、冬を迎える前に必要な物を交換するための催しだった。


街道沿いの宿場町には色鮮やかな布が掲げられ、焼いた川魚や団子、獣肉の串焼きの匂いが漂う。刀鍛冶の実演や術師による幻術の披露もあり、子どもたちは朝から落ち着かない。


カイエンもまた、両親に連れられて祭りへ来ていた。


初めて見る物ばかりだった。


異国から運ばれた果物。


動物の形に削られた木細工。


触れると色を変える魔石。


どれも気になり、少し進むたびに立ち止まる。


「カイ、勝手に離れるなよ」


父親に言われ、素直に返事はした。


「分かった!」


その直後には、向かいの露店へ走っていた。


母親がため息をつく。


「返事だけは良いんです」


「俺が追う」


「あなたも一緒になって遊ばないでくださいね」


「分かっている」


父親が息子を追って人混みへ消えていく。


その少し離れた場所では、スイリンが妖狐の里の者たちと歩いていた。


彼女の手には、甘辛いタレのかかった団子が握られている。


「これ、おいしい!」


「あまり急いで食べると喉に詰まらせるわよ」


母親に注意され、スイリンは頬を膨らませたまま頷いた。


返事をしようとしたが、口が塞がっていた。


その時、通りの向こうで大きな歓声が上がる。


旅芸人が投げ上げた複数の短刀を、魔法で自在に操っていた。


銀色の刃が陽光を反射し、輪を描くように空を回る。


スイリンの狐耳がぴんと立った。


「見たい!」


母親の手を引き、人混みの隙間へ進もうとする。


しかし、小さな身体では前が見えない。


少し横へ移動すれば見えるかもしれない。


そう考えたスイリンは、母親の手を離して人の間を抜けた。


ほんの数歩のつもりだった。


だが祭りの人波は絶えず動いている。


振り返った時には、母親の姿が見えなくなっていた。


「……あれ?」


周囲には知らない大人ばかりがいる。


見慣れた妖狐の耳も、母親の淡い色の着物も見つからない。


スイリンは背伸びをし、何度も人の隙間へ視線を向けた。


「お母さん?」


声は祭りの喧騒に呑まれた。


胸の奥が少しずつ冷たくなる。


泣けば誰かが気付いてくれるかもしれない。


けれど、泣くのはなんとなく悔しかった。


スイリンは唇を結び、まずは人の少ない場所へ移動することにした。


通りを抜け、建物の間にある細い路地へ入る。


祭りの音がわずかに遠ざかった。


そこで、今度は別の声が聞こえた。


「だから、それ俺のだって!」


路地の奥。


銀狼の少年が、二人の年上の子どもと向かい合っていた。


少年の手には、小さな木箱がある。


箱からは甘い香りが漂っていた。


「拾ったなら、先に取った方のものだろ」


「落としただけだ!」


「証拠は?」


年上の少年が笑う。


銀狼の子は悔しそうに牙を見せた。


相手は二人とも自分より大きい。それでも引くつもりはないらしく、木箱を背中へ隠している。


スイリンはしばらく、その様子を眺めていた。


事情はすべて分からない。


けれど、二人が一人を囲んでいるのは気に入らなかった。


「それ、その子のじゃないの?」


声をかけると、三人が一斉に振り向いた。


年上の子どもが眉を寄せる。


「誰だよ、お前」


「通りすがり」


「関係ないだろ」


「二人で一人の物を取ろうとしてるなら、関係あるかも」


スイリンは団子の最後の一つを口へ入れ、空いた串を腰の帯へ差した。


怖くないわけではなかった。


それでも、見て見ぬふりをして立ち去る方が気持ち悪い。


銀狼の少年が目を丸くしている。


年上の一人がスイリンへ歩み寄った。


「狐のくせに、偉そうにすんなよ」


伸びてきた手を、スイリンは半歩下がって避けた。


その足が地面に落ちるより早く、銀狼の少年が間へ飛び込む。


「触んな!」


勢いのまま相手の腹へ頭からぶつかった。


相手は尻餅をつき、もう一人が驚いて動きを止める。


「今だ!」


誰に言ったのかも分からないまま、銀狼の少年はスイリンの手を掴んだ。


二人は路地を駆け出す。


「待て!」


背後から声が飛んできたが、二人とも振り返らなかった。


細い路地を抜け、干された布の下を潜り、積まれた木箱の脇をすり抜ける。


銀狼の少年は速かった。


けれどスイリンも遅くない。


手を引かれながら、隣へ並ぶ。


「そっち!」


スイリンが横道を指す。


「道分かんのか?」


「分かんない!」


「分かんねぇのかよ!」


それでも二人は笑っていた。


追いかけてくる足音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。


宿場町の外れまで走ったところで、二人はようやく足を止める。


古い石垣の前へ座り込み、息を整えた。


「はぁ……はぁ……」


「つかれた……」


銀狼の少年は抱えていた木箱を確かめる。


中身は無事だった。


蓋を開けると、薄い皮で餡を包んだ菓子が二つ入っている。


「それ、そんなに大事だったの?」


スイリンが尋ねると、少年は少しだけ気まずそうに鼻を掻いた。


「母ちゃんに買ってもらったんだ。父ちゃんと半分ずつ食うって約束した」


自分のためではなかったらしい。


スイリンは少年の顔を見つめた。


喧嘩っ早くて、少し無鉄砲。


けれど悪い子ではない。


むしろ、どこか懐かしい。


そう思った瞬間、胸の奥がわずかに震えた。


初めて会ったはずなのに。


声も、笑い方も、走る時の横顔も。


どこかで知っている気がした。


「お前、名前は?」


少年が木箱を閉じながら尋ねた。


「スイリン。みんなからはスイって呼ばれてる」


「俺はカイエン。カイでいい」


「カイ……」


名前を口にした途端、頭の奥で何かが弾けた。


眩しい光。


知らない道。


風を切って走る、鉄でできた乗り物。


隣にいる誰かが、こちらを向いて笑っている。


――カイ。


自分がそう呼んだ。


ほんの一瞬だった。


気付けば、目の前の少年が不思議そうにこちらを見ている。


「どうした?」


「……なんでもない」


スイリンは小さく首を振った。


胸の奥には、まだ奇妙な感覚が残っている。


けれど、今はそれをうまく言葉にできなかった。


「それよりさ」


スイリンは少年が持つ木箱を指差した。


「助けてあげたんだから、一個くらいくれてもよくない?」


「父ちゃんと食うって言っただろ」


「じゃあ半分」


「それだと父ちゃんの分が減る」


「四分の一」


「細かいな」


「助けたのに」


スイリンが頬を膨らませる。


カイエンはしばらく木箱と彼女の顔を見比べた後、諦めたように蓋を開けた。


「一口だけな」


「やった!」


「大きく食うなよ。絶対だぞ」


「分かってるって」


差し出された菓子へ、スイリンは遠慮なくかじりついた。


「おい! でかい!」


「一口って言ったじゃん」


「限度があるだろ!」


「あはは!」


笑い声が、祭りの外れにある静かな道へ響いた。


怒っているはずのカイエンも、すぐに笑い始める。


二人とも、なぜこんなに自然に笑えるのかは分からなかった。


出会ったばかりのはずだった。


それなのに、初めて隣にいる気がしない。


長い間離れていた友人と、ようやく再会したような気さえした。


秋の風が吹き、道端のすすきが揺れる。


遠くでは、二人を探す大人たちの声が聞こえ始めていた。


けれどスイリンは、もう少しだけここにいたいと思った。


この銀狼の少年が誰なのか。


どうして懐かしいのか。


まだ何も分からない。


ただ、その答えはきっと、自分のすぐ近くにある。


そんな気がしていた。

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