エピローグ「私を探す旅」後編 それぞれの旅へ
旅立ちの朝は、思っていたよりも静かに訪れた。
東の空が薄く白み始める頃、伯爵邸の庭には朝露が残り、整えられた花々が冷たい風に小さく揺れていた。まだ街の鐘は鳴っておらず、使用人たちの足音も普段より控えめに聞こえる。
アイハナは、長く使ってきた部屋の中央に立っていた。
寝台は綺麗に整えられ、机の上に積まれていた帳簿もすでに片付けられている。衣装棚には、旅へ持っていかなかった服が以前と変わらず並んでいた。
昨日までと同じ部屋。
けれど、今日ここを出れば、次に戻る時には少し違う景色に見えるのだろう。
アイハナは肩へ鞄を掛けた。
腰にはリクから受け取った細身の剣。その後ろへ、盗賊団の短剣を収めている。
二つの重みが、歩くたびに腰元で僅かに触れ合った。
片方は、守られてきた人生から託されたもの。
もう片方は、失った家族と共に生きた時間を残すもの。
どちらも、今の自分には必要だった。
「忘れ物はございませんか。」
扉の前に立つサーヤが、いつもと変わらない口調で尋ねた。
「たぶん。」
「たぶん、では困ります。」
「昨日、三回も確認したよ。」
「旅立ちの朝にも確認するものです。」
サーヤは部屋へ入り、鞄の留め具を確かめる。外套の紐を整え、腰の小袋へ薬が入っていることまで確認してから、ようやく小さく頷いた。
「問題ございません。」
「やっと合格?」
「最低限でございます。」
普段通りのやり取りだった。
けれど、サーヤの指先は外套の襟元からなかなか離れなかった。
アイハナはその手へ自分の手を重ねる。
「サーヤ。」
「はい。」
「行ってくるね。」
昨日も交わしたはずの言葉。
それでも、旅立ちの朝に口にすると重みが違った。
サーヤは目を伏せ、ゆっくりと手を離した。
「行ってらっしゃいませ。」
笑顔を作ろうとしている。
けれど、その目にはすでに涙が滲んでいた。
「ちゃんと食事をしてください。夜は必ず休んでください。具合が悪い時は隠さず、怪我をなさった場合は――」
「くららにも同じこと言われたよ。」
「では二人分、守ってくださいませ。」
「二人分かぁ。」
今の自分には、少しだけ似合う言い方だった。
アイハナは笑い、もう一度部屋を見渡す。
窓辺の花瓶。
読みかけの本。
幼い頃から使ってきた椅子。
全てを持っていくことはできない。
だからこそ、ここへ残していく。
帰ってきた時、また続きを始められるように。
「この部屋、そのままにしておいてくれる?」
「もちろんでございます。」
「ずっと帰らなかったら?」
「毎日掃除いたします。」
「サーヤが大変だよ。」
「お帰りになれば済むことです。」
少しだけ意地のある返事に、アイハナは口元を緩めた。
「じゃあ、時々帰ってくる。」
「時々ではなく、なるべく頻繁にお願いいたします。」
「努力するよ。」
「そのお言葉は、あまり信用しておりません。」
リクと同じことを言われ、アイハナは困ったように笑った。
サーヤも、今度は自然に笑う。
アイハナは最後に部屋の扉へ手を掛けた。
一度閉じれば、伯爵令嬢アイとして毎日を過ごした時間に区切りがつく。
けれど、終わりではない。
アイの人生は消えず、自分の中にある。
ハナの人生も同じだった。
過去を置いていくのではなく、全部を連れて歩き出す。
アイハナは静かに扉を閉めた。
◇
伯爵邸の正門前には、すでに多くの人が集まっていた。
見送りは身内だけにする予定だった。
大げさな式典も、領民への正式な発表も行わない。融合について事情を知らない者へ、今すぐ全てを説明することはできなかったからだ。
それでも、伯爵令嬢が旅立つという話は、いつの間にか街へ広がっていた。
門の外には商人や職人、近所の子どもたちが並び、手を振っている。
「アイお嬢様!」
「お身体に気を付けて!」
「また祭りには帰ってきてくださいね!」
以前の名で呼ばれるたび、胸の奥が少しだけ揺れた。
その名を嫌いになったわけではない。
アイとして愛されてきたことは、今も大切だった。
アイハナは門の前で立ち止まり、人々へ向かって深く頭を下げる。
「今までありがとう。」
顔を上げ、声を張る。
「ボクは少しの間、この街を離れます。でも、必ずまた帰ってきます。」
ボク、という一人称に、何人かが不思議そうな顔をした。
それでも、目の前の少女が笑えば、領民たちも同じように笑い返した。
詳しい事情は分からなくてもいい。
愛されてきた時間は、その程度で失われるものではなかった。
人混みの中から、小さな少年が駆け出してくる。
礼拝堂からの帰り道で、膝の傷を手当てした子どもだった。
「アイハナお姉ちゃん!」
今の名前を呼ばれ、アイハナは目を丸くした。
「覚えてたの?」
「変わった名前だから!」
「それ、褒めてる?」
「これあげる!」
少年が差し出したのは、小さな白い花だった。
礼拝堂の石段に咲いていた春告げ花。
少し茎が曲がっている。
きっと急いで摘んできたのだろう。
アイハナは膝を折り、両手で受け取った。
「ありがとう。」
「帰ってきたら、また怪我治してね!」
「怪我しないでよ。」
周囲から笑い声が上がる。
少年も笑いながら、人混みの中へ戻っていった。
手の中に残った小さな花を、アイハナは外套の胸元へそっと挿した。
守りたい景色。
ハナだった頃には、憎しみの向こうへ隠れていたもの。
アイだった頃には、守られていることが当たり前すぎて見えなかったもの。
今はどちらも、同じ目で見ることができた。
◇
門の内側には伯爵が立っていた。
領主としての正装ではない。
娘を見送る父親として、簡素な服を身につけている。
アイハナが近づいても、すぐには言葉を掛けなかった。
執務室で話した後、二人の距離はまだ完全には戻っていない。
けれど、以前より遠くなったわけでもなかった。
「準備はできたか。」
「うん。」
「足りない物はないか。」
「みんなに確認されすぎて、たぶん大丈夫。」
「たぶん、か。」
伯爵は小さく苦笑する。
目元には、昨夜ほとんど眠れなかったらしい疲れが残っていた。
「父さん。」
呼ばれた伯爵の表情が、僅かに緩む。
「行ってくる。」
「ああ。」
短い返事。
それだけでは足りない気がして、アイハナは胸元の花へ触れた。
「まだ、全部許せたわけじゃない。」
「分かっている。」
「旅の途中で、もっと憎くなるかもしれない。」
「ああ。」
「でも。」
一度、言葉を切る。
「帰ってきたいとも思ってる。」
伯爵は目を閉じた。
その一言を受け取るように、ゆっくりと息を吐く。
「それだけで十分だ。」
懐から一通の封書を取り出し、アイハナへ差し出す。
「これは?」
「近隣領主と冒険者ギルドへの紹介状だ。必要になった時だけ使いなさい。」
「伯爵令嬢として?」
「アイハナ個人へのものだ。」
封書の表には、アイでもハナでもなく、正式にアイハナの名が記されていた。
その文字を指でなぞる。
父が、自分を一人の新しい人間として受け入れようとしている。
「ありがとう。」
「それから。」
伯爵は少しだけ迷った後、両腕を動かしかけた。
抱き締めてもよいか。
その問いを言葉へできず、途中で止まる。
アイハナはその仕草を見つめた。
アイの中には、父の腕へ飛び込みたい気持ちがある。
ハナの中には、まだ近づくことを拒む感情がある。
どちらかを押し込めれば、きっと後悔する。
だから、今できる距離を選ぶ。
アイハナは父の手を取った。
両手で包むように握る。
「今は、これで。」
伯爵は僅かに目を見開き、それからその手を握り返した。
「ああ。」
温かな手だった。
家族を奪った命令を下した手。
アイを育て、守ってきた手。
二つの意味を同時に持つ手を、アイハナはすぐには離さなかった。
「元気で。」
「お前もな。」
やがて指が離れる。
それでも、触れた温度は掌へ残った。
◇
「アイハナ様。」
リクが一歩前へ出る。
鎧を身につけ、いつもの騎士の姿をしていた。
旅へ同行しないからこそ、最後まで普段通りでいようとしているのだろう。
「剣の状態を最後に確認いたします。」
「昨日も見たよ。」
「旅立ちの朝にも確認するものです。」
「サーヤと同じこと言ってる。」
「必要なことですので。」
アイハナは腰から細身の剣を外し、リクへ渡した。
彼は刃を少しだけ抜き、曇りがないことを確認する。留め具や鞘の傷まで見た後、再び腰へ戻した。
「問題ございません。」
「合格?」
「最低限です。」
「それも同じ。」
サーヤが隣で少しだけ笑う。
リクはいつもの硬い表情を保っていたが、剣から手を離した後も、その指先が僅かに残っていた。
「アイハナ様。」
「うん。」
「旅の途中では、退くべき時に退いてください。」
「分かってる。」
「お一人で全てを抱え込まないでください。」
「それも分かってる。」
「危険な相手を見つけても、先に飛び出さないでください。」
「信用されてないなぁ。」
「アイ様とハナ様、双方の行動記録から判断しております。」
二人分を合わせると、心配される理由が増えていた。
アイハナは苦笑しながら、それでも真剣に頷く。
「気を付けるよ。」
リクも小さく頭を下げる。
「ご無事で。」
「リクも。」
アイハナは少し迷い、手を差し出した。
リクはその手を見てから、騎士としてではなく、一人の親しい相手として握り返す。
「父さんとサーヤをお願い。」
「必ず。」
「自分も大切にしてね。」
その言葉へ、リクはすぐに答えなかった。
命を捨てて守ることを、忠誠と考えてきた男。
アイハナはその考えを知っている。
だからこそ、念を押す。
「ボクが帰ってきた時、みんながいないと困るから。」
「……承知いたしました。」
今度は、昨日より少しだけ柔らかい返事だった。
◇
灰狼傭兵団は、門の外で出発の準備を終えていた。
正式には総勢十三名。
団長、副団長二名、団員十名。
くらら率いる第一部隊と、120率いる第二部隊に分かれた荷車が、街道沿いへ並んでいる。
アイハナが近づくと、団員たちの視線が一斉に集まった。
ハナとして雇った時から知る顔。
融合後に改めて向き合う顔。
全員が最低Cランク相当の実力者であり、危険な依頼をいくつも越えてきた者たちだ。
それなのに、今は妙に落ち着きがない。
誰が最初に声を掛けるか、互いの顔色を窺っているようだった。
「何だ、お前ら。」
きたまくらが呆れたように言う。
「昨日まで普通に話してただろ。」
「いや、団長。」
団員の一人が困ったように頬を掻く。
「ハナと同じように接していいのか、その……。」
「アイハナ。」
少女自身が名前を告げる。
団員たちが黙る。
「ボクは、ハナでもあるよ。だから、今まで通りで大丈夫。」
少し考えてから続ける。
「ただ、アイの記憶もあるから、前より少し話すかもしれない。」
「それは助かる。」
別の団員が即座に答えた。
「ハナの時は返事が短すぎて、怒ってるのか分からなかったからな。」
「怒ってた時もあるよ。」
「やっぱりか。」
小さな笑いが起きる。
張り詰めていた空気が、それだけで少し緩んだ。
第一部隊の団員が、荷車から小さな包みを取り出す。
「これ、ハナがいつも食べてた干し果物。多めに用意した。」
「いつも食べてたわけじゃないよ。」
「くらら副団長が、好きだって。」
アイハナがくららへ顔を向ける。
「言ったの?」
「だって、毎回最後に残った分見てたから。」
「見てただけ。」
「欲しそうだった。」
「……少しだけ。」
素直に認めると、団員たちが笑った。
ハナだった頃なら、恥ずかしさを隠すために黙って背を向けていたかもしれない。
今は、少しだけ頬を熱くしながら包みを受け取る。
「ありがとう。」
その言葉に、団員たちの表情が自然と和らいだ。
新しい家族。
まだその呼び方には慣れない。
けれど、受け入れられていることだけは分かった。
「さて。」
きたまくらが全員の前へ立つ。
「今回の依頼は終了。報酬の精算も済んだ。」
ハナが用意していた契約は、昨日のうちに正式解除されていた。
「そして今日から、アイハナが灰狼傭兵団へ加わる。」
団員たちから拍手が起きる。
くららは誰より大きく手を叩き、120は静かに頷いている。
「役割はまだ決めない。」
きたまくらは続ける。
「能力も戦い方も、本人自身も、これから知っていく途中だ。まずは一緒に旅をして、できることを探す。」
「万能型の団なのに?」
アイハナが尋ねる。
「万能ってのは、最初から何でもできる奴のことじゃない。」
きたまくらは笑う。
「できない時に、皆で何とかする奴らのことだ。」
灰狼傭兵団らしい言葉だった。
アイハナは一度、団員全員を見回す。
「よろしくお願いします。」
少し深く頭を下げる。
「ボクはまだ、アイハナとして何ができるのか分かりません。復讐をやめた後、何をしたいのかも全部は決まってない。」
それでも顔を上げる。
「でも、皆と一緒に探したい。」
誰かが大きく頷く。
誰かが「任せろ」と声を上げる。
くららはすでに泣きそうになっていた。
「アイハナっち、いい挨拶するじゃん……。」
「まだその呼び方なの?」
「候補はいっぱい考えたよ。アイっち、ハナハナ、アイちゃん二号――」
「最後は絶対嫌。」
「じゃあアイハナっちで決まり。」
何も解決していなかった。
120が静かに口を挟む。
「呼称は本人の希望を優先してください。」
「120は何て呼ぶの?」
「アイハナ。」
迷いのない答え。
「そのまま?」
「正式な名前を短縮する必要がありません。」
「面白くない。」
「呼称に面白さは不要です。」
いつもの二人の会話に、団員たちが笑う。
アイハナもその輪の中で笑った。
◇
少し離れた場所では、ゆうきとアムも旅支度を終えていた。
二人の荷物は多くない。
魔法都市ルーメンまでの道中で必要な食料と、野営道具。それから伯爵家で補充した薬品や地図が、二人分の鞄へ収められている。
ぽぽは今も大規模依頼を進めながら、別の経路で仲間を探している。
ゆうきとアムの本来の目的も変わっていなかった。
仲間を探す。
ルーメンへ向かう。
この伯爵領で立ち止まった時間は、予定にはなかったものだ。
けれど、無駄だったとは思わない。
「もう行くの?」
アイハナが二人へ近づく。
「うん。」
ゆうきは街道の分岐へ目を向ける。
「僕たちは東の道からルーメンへ向かう。灰狼傭兵団は北だよね。」
「しばらく北の街を回る予定。」
120が組んだ経路では、近隣の村や街へ立ち寄りながら小規模な依頼を受けることになっている。
行き先を急がず、アイハナが新しい身体と能力へ慣れるための旅でもあった。
「ここでお別れなんだ。」
アイハナは小さく呟いた。
ゆうきとアムが伯爵領へ来なければ、アイとハナが互いの存在へ辿り着くことは、もっと遅れていたかもしれない。
二人は答えを与えたわけではない。
それでも、自分たちで答えを選ぶまで隣へいてくれた。
「寂しい?」
アムが尋ねる。
「少し。」
正直に答える。
「でも、もう会えないわけじゃないよね。」
「もちろん。」
アムは気軽に笑う。
「うちたちも仲間を探してるし、どこかでまた会うよ。」
「アムって、再会に慣れてるね。」
「別れの方が慣れてるだけ。」
口にしてから、アムは僅かに目を伏せた。
長く生きてきた時間。
別れの数。
それを全て説明することはない。
アイハナも深く尋ねなかった。
「じゃあ、今度会う時は、ボクがもっとアイハナらしくなってるかも。」
「今でも十分アイハナちゃんだよ。」
「そうかな。」
「うん。」
アムは少女の胸元へ挿された白い花を見つめる。
「二人分を持ってることだけが、アイハナちゃんじゃない。これから何を選ぶかも、ちゃんと自分になるから。」
その言葉を、アイハナは静かに受け取る。
過去だけで自分を決めなくていい。
光だったことも。
闇だったことも。
愛されたことも。
傷ついたことも。
全部を抱えた上で、これから選ぶものがある。
「アム。」
「何?」
「ありがとう。」
まっすぐ告げる。
「文献を見つけてくれたことも、無理に答えを決めなかったことも。」
アムは少しだけ照れたように髪へ触れた。
「うちは、できることをしただけ。」
「それでも。」
「じゃあ、受け取っておく。」
柔らかな笑顔だった。
ゆうきも一歩近づく。
「アイハナ。」
「うん。」
「復讐をやめたことが、正しい答えだとは思わなくていいからね。」
その言葉に、アイハナは目を瞬いた。
「まだ終わってないと思う。伯爵を許すのか、許さないのか。家族のことをどう受け止めるのか。」
「うん。」
「すぐに綺麗な答えへしなくていい。」
ゆうきの立場は、最後まで変わらなかった。
復讐を否定しない。
けれど、それだけで人生を終えてほしくない。
「旅の途中で、また怒ってもいい。悲しくなってもいい。戻って父親を責めたくなったら、それも自分の気持ちだから。」
アイハナは少しだけ笑った。
「ゆうきって、優しいのに甘くないね。」
「そう?」
「何でも大丈夫って言わないから。」
ゆうきは困ったように頬を掻く。
「分からないことを、大丈夫とは言えないからね。」
「アムと似てる。」
「親友だから。」
自然に返された言葉へ、アムが少し嬉しそうに笑う。
二人の間にあるものは、長い説明を必要としない。
アイハナはその関係を見て、胸の奥へ小さな憧れを感じた。
自分もいつか、灰狼傭兵団の皆とそうなれるだろうか。
言葉を重ねなくても、隣にいることが自然になるような関係へ。
きっと、すぐにはなれない。
だから旅をする。
「また会おう。」
ゆうきが右手を差し出す。
握手。
それを見た瞬間、礼拝堂で差し伸べたアイの右手と、震えながら触れたハナの手を思い出した。
手を取ることは、何かを選ぶことでもある。
アイハナは笑い、その手を握った。
「うん。また会おう。」
《魂の共鳴》を正式に結ぶためのものではない。
ただの握手。
それでも、十分だった。
手を離すと、アムも自分の手を差し出す。
「うちも。仲間外れは嫌だから。」
「そういうところ、少女っぽいね。」
「何か言った?」
「何でもない。」
アイハナは笑いながら、その手も握った。
◇
街の鐘が鳴った。
朝の始まりを告げる音が、伯爵領全体へ広がっていく。
出発の時だった。
ゆうきとアムは、東へ続く街道の前に立つ。
灰狼傭兵団は、北へ向かう道へ隊列を整えた。
二つの道は、城門を出てしばらくは同じ方向へ伸びている。
やがて丘の先で分かれ、それぞれ異なる土地へ続いていく。
「じゃあな。」
きたまくらがゆうきへ片手を上げる。
「またどこかで。」
「うん。灰狼傭兵団の噂を聞くのを楽しみにしてる。」
「悪い噂じゃなきゃいいがな。」
「団長次第です。」
120の言葉に、きたまくらが嫌そうな顔をする。
「俺のせいみたいに言うな。」
「実際、半数はあなたが原因です。」
「半数も?」
「残り半数はくららです。」
「私!?」
「自覚がないのですか。」
出発前だというのに、いつも通りだった。
団員たちが笑い、くららが120へ抗議する。
その賑やかな声の中で、アイハナは最後に城門を振り返った。
伯爵。
サーヤ。
リク。
領民たち。
皆が、まだそこにいる。
アイハナは胸元の花へ触れ、大きく手を振った。
「行ってきます!」
今度は、はっきりと届く声で。
人々も手を振り返す。
「行ってらっしゃい!」
いくつもの声が重なった。
別れの言葉ではない。
帰ってくることを前提とした、旅立ちの言葉。
アイハナは前を向いた。
◇
街道へ出ると、草原を渡る風が頬を撫でた。
朝露に濡れた草が陽光を反射し、遠くの山々は淡い霞の向こうに見えている。
灰狼傭兵団は、きたまくらを先頭に進んでいた。
第一部隊と第二部隊が荷車を挟み、周囲を警戒しながら歩く。
アイハナは、くららと120の間にいた。
「何でボク、ここなの?」
「最初だから幹部の近く。」
くららが答える。
「体調変わったらすぐ分かるし。」
「護衛対象ではありません。」
120が訂正する。
「新加入者の能力と行動傾向を観察するためです。」
「それ、監視って言わない?」
「必要な観察です。」
「監視だよね。」
「呼び方は任せます。」
くららがくすくす笑う。
「二人、もう仲良しじゃん。」
「どこを見てそう思ったの?」
「会話が続いてる。」
ハナだった頃なら、120の言葉へ短く返して終わっていた。
今は、アイの人懐っこさも混ざり、自然とやり取りが増えている。
「ねぇ、アイハナっち。」
「その呼び方は決定なの?」
「旅で最初に何したい?」
問い掛けられ、アイハナは歩きながら考えた。
大きな目的はない。
仲間を探すゆうきたちとは違い、倒すべき敵も、必ず辿り着くべき場所も決まっていない。
だからこそ、何を選んでもいい。
「美味しいものを食べたい。」
最初に浮かんだ答えを、そのまま口にした。
くららが嬉しそうに目を輝かせる。
「いいね! 北の街に有名な煮込み料理があるよ。」
「依頼より先に食事の話をしないでください。」
「旅は食事が大事だよ。」
「否定はしませんが、優先順位があります。」
「アイハナっちもそう思うよね?」
「ボクは、ちゃんと食べるように二人から言われてるから。」
「二人?」
「サーヤとくらら。」
120が僅かに眉を寄せる。
「私も以前、栄養状態について指摘しました。」
「じゃあ三人。」
「団長も言ってたよ。」
「四人かぁ。」
自分がどれだけ心配されていたのかを知り、アイハナは少しだけ肩を落とした。
「そんなに食べてなかった?」
「ハナっちの頃はね。」
くららは明るく答える。
「これからは、いっぱい食べていっぱい寝て、いっぱい笑おう。」
簡単な言葉だった。
けれど、ハナとして生きた十一年間にはほとんどなかったものばかりだ。
アイとしては当たり前だった時間。
今度は、誰かに与えられるだけではなく、自分で選び取っていく。
「うん。」
アイハナは頷いた。
「そうしたい。」
◇
丘の上へ差しかかったところで、道が二つに分かれていた。
東は魔法都市ルーメンへ。
北は幾つかの村と街を抜け、その先の山岳地帯へ続く。
ゆうきとアムは分岐の前で足を止めた。
灰狼傭兵団も隊列を止める。
ここで、本当に別々の道へ進む。
「じゃあ、今度こそ。」
ゆうきが笑う。
「また会おう。」
「うん。」
アイハナも笑った。
長い別れの言葉は必要なかった。
いつ、どこで会えるかは分からない。
それでも再会できると、今は信じられる。
アムが片手を振る。
「無理しすぎないでね。」
「アムも。」
「うちは大丈夫。」
「その言い方、あんまり信用できない。」
ゆうきが隣で小さく笑う。
「僕もそう思う。」
「二人とも何なの?」
アムは少し不満そうに頬を膨らませた。
その表情を見て、アイハナも笑う。
「じゃあね、ゆうき。アム。」
「またね、アイハナ。」
二人は東の道へ歩き出す。
ゆうきの隣を、アムが軽い足取りで進んでいく。
しばらくしてアムが何かを言い、ゆうきが笑った。
その声は風に流され、すぐに聞こえなくなった。
アイハナは二人の背中が小さくなるまで見送った。
「行くぞ。」
きたまくらの声が前から届く。
「うん!」
振り返り、北の道へ足を向ける。
灰狼傭兵団が再び歩き始める。
十三人だった隊列へ、一人が加わった。
十四人分の足音が、朝の街道へ重なっていく。
◇
しばらく歩くと、伯爵領の城壁は丘の向こうへ隠れた。
もう振り返っても見えない。
けれど、不思議と不安はなかった。
帰る場所が消えたわけではないと知っているからだ。
道端には、名前の知らない小さな花が咲いていた。
以前のハナなら、足を止めなかった。
以前のアイなら、誰かへ名前を尋ねたかもしれない。
アイハナは隊列から少しだけ外れ、花の前へしゃがみ込んだ。
「アイハナ。」
120がすぐに呼ぶ。
「隊列から離れないでください。」
「すぐ戻るよ。」
花へ触れず、ただ形を眺める。
青紫の小さな花弁。
風が吹くたび、細い茎が折れそうなほど揺れている。
それでも、地面へ根を張り、静かに咲いていた。
「その花、何ていうの?」
くららが隣へしゃがむ。
「知らない。」
「120は?」
「植物の専門家ではありません。」
「団長。」
「俺に聞くな。」
誰も知らなかった。
アイハナは少し考え、それから立ち上がる。
「じゃあ、次の街で調べよう。」
「そんなことでいいの?」
くららが尋ねる。
「うん。」
知らないことを知る。
行ったことのない場所へ行く。
これまで見過ごしてきたものへ、少しだけ足を止める。
自分探しの旅は、きっと大げさな答えばかりを求めるものではない。
こうした小さな疑問を一つずつ拾いながら、少しずつ自分を増やしていくものなのだろう。
アイハナは再び隊列へ戻る。
「今度は勝手に離れないでください。」
120が言う。
「分かった。」
「返事が軽いです。」
「でも、ちゃんと戻ったよ。」
「結果ではなく、行動前に共有することが重要です。」
「はーい。」
「返事を伸ばさない。」
くららが笑い、きたまくらも前を歩きながら肩を揺らしている。
その声に混ざりながら、アイハナは空を見上げた。
雲一つない青空。
同じ空の下を、ゆうきとアムも歩いている。
伯爵領では、父とサーヤとリクがいつもの一日を始めている。
失った家族の記憶も、自分の中で静かに息づいている。
どの時間も、もう置き去りにはしない。
光だった自分も。
闇だった自分も。
愛された人生も。
傷ついた人生も。
二つの人生は、一人の少女の中で同じ未来へ続いている。
「団長。」
「何だ?」
「次の街まで、どのくらい?」
「夕方には着く。」
「煮込み料理、間に合うかな。」
「そこが最初の心配か。」
「大事でしょ。」
くららがすぐに味方する。
「ほら、アイハナっちも分かってる。」
「食べ物で意気投合しないでください。」
120の呆れた声。
そのやり取りへ、アイハナは声を上げて笑った。
以前のアイより、少し落ち着いた笑い方。
以前のハナより、ずっと素直な笑い方。
まだ、自分でも知らない笑い方だった。
だからこそ、これから覚えていけばいい。
誰かに決められた名前ではなく。
失ったものだけに縛られた人生でもなく。
アイでもあり、ハナでもある。
そして、それだけでは終わらない一人として。
アイハナは仲間たちと共に、北へ続く道を歩いていく。
足元の草が風に揺れ、十四人分の影が街道の先へ長く伸びていた。
反対側の道では、ゆうきとアムが魔法都市ルーメンを目指している。
二つの旅路は別々の方向へ続いている。
けれど、同じ空の下にある。
いつか再び交わる日まで。
それぞれが、自分の時間を生きていく。
アイハナは胸元の春告げ花へそっと触れた。
小さな花は、朝の風の中でも散ることなく揺れていた。
その白い花弁を守るように手を添え、前を歩く仲間たちの背中を追う。
今度は、誰かを探すためではない。
自分がどんな景色を好きになり、誰と笑い、何を守りたいと思うのか。
それを知るための旅だった。
答えは、まだどこにもない。
だからこそ、歩いていける。
「待って、ボクも行く!」
少し開いた距離を埋めるため、アイハナは地面を蹴った。
くららが振り返り、笑いながら手を振る。
きたまくらは歩調を僅かに緩め、120も何も言わず隣の位置を空けた。
アイハナはそこへ並ぶ。
朝の光の中、灰狼傭兵団の足音は途切れることなく北へ続いていった。




