エピローグ「私を探す旅」中編 新しい家族
執務室の扉を閉じると、廊下には全員が残っていた。
誰も会話をしていない。
サーヤは胸の前で両手を組み、リクは壁際へ立ったまま扉を見つめている。少し離れた窓辺にはゆうきとアムが並び、灰狼傭兵団の三人も、それぞれ静かに待っていた。
扉の音に、全員の視線がアイハナへ集まる。
何を話したのか。
どんな答えを出したのか。
誰もすぐには尋ねなかった。
アイハナは胸へ抱いた木箱へ一度だけ目を落とし、ゆっくりと顔を上げる。
「話してきた。」
声に涙の名残はあったが、先ほどまでの迷いは薄れていた。
サーヤが一歩近づく。
「旦那様は……。」
「大丈夫。」
アイハナは小さく笑う。
「すぐに全部が元通りになったわけじゃないよ。ボクも、まだ父さんを許せない。でも、逃げずに話せた。」
それだけで十分だった。
サーヤは安堵したように息を吐き、目元へ浮かんだ涙を指先で拭った。
「それで。」
アイハナは木箱を抱き直す。
「ボク、旅に出ようと思う。」
言葉は静かだった。
それでも廊下の空気は、はっきりと変わった。
サーヤの手が止まる。
リクも僅かに眉を動かした。
きたまくらたちはすでに予想していたらしく、驚いた様子を見せない。ただ、くららだけは何かを言いたそうに口を開き、それでも今は黙っていた。
「灰狼傭兵団と一緒に行く。」
アイハナは三人へ視線を向ける。
「まだ、ちゃんと仲間にしてもらえるなら。」
きたまくらは腕を組んだまま、少しだけ眉を上げた。
「さっき言っただろ。依頼主じゃなく、仲間として来いって。」
「言われたけど、あの時は返事してなかったから。」
「じゃあ、今聞く。」
きたまくらは一歩前へ出る。
団長としての威圧感ではない。
誰かを迎え入れるための、飾り気のない表情だった。
「アイハナ。灰狼傭兵団と来るか?」
アイハナは迷わなかった。
「うん。」
胸の奥で、二つの人生が同じ答えを返している。
「ボクも一緒に行きたい。」
その瞬間、くららが両手を上げた。
「やったぁ!」
静かだった廊下へ、大きな声が響く。
「これで正式にアイハナっちが仲間だね! 寝不足禁止、食事抜くのも禁止、怪我を黙ってるのも禁止だから!」
「禁止が多くない?」
「ハナっちの頃に守らなかった分も入ってるから。」
「それは……。」
心当たりがあり、アイハナは視線を逸らした。
くららは満足そうに頷く。
「よし。反省してるなら大丈夫。」
「反省したとは言ってないよ。」
「そういうところはハナっちのままだねぇ。」
笑いながら抱きつこうとするくららを、今度は120が襟元を掴んで止めた。
「融合直後です。過度な接触は控えてください。」
「もう平気そうだよ?」
「見た目だけで判断しないでください。」
「120は心配しすぎ。」
「あなたが心配しなさすぎです。」
いつも通りのやり取りだった。
その声を聞きながら、アイハナは胸の奥へ広がる温かさを感じていた。
ハナとして過ごした灰狼傭兵団の時間は、決して長くない。
それでも、この輪の中へ戻ってきたという感覚がある。
同時に、アイとして初めて見る三人の姿もあった。
明るく人懐っこいくらら。
冷静で不器用な120。
誰よりも人を放っておけないきたまくら。
知っている。
けれど、もっと知りたい。
その気持ちは、旅へ出る理由の一つになっていた。
「加入については、団員全員の合意を取ります。」
120が静かに告げる。
「ただし、反対者は出ないでしょう。」
「何で分かるの?」
「あなたがいない間、団員の半数が今後の食料配分を増やす相談をしていました。」
「もうボクが来る前提だったんだ。」
「正確には、団長が勝手に話を進めていました。」
アイハナがきたまくらへ顔を向ける。
「団長。」
「戻ってくると思ってたからな。」
「消えるかもしれなかったのに?」
「帰ってくるって決めてた。」
「誰が?」
「俺が。」
あまりにも堂々とした答えに、アイハナは言葉を失った。
理屈はない。
けれど、その迷いのなさがどこか嬉しかった。
「変なの。」
「よく言われる。」
きたまくらは笑い、アイハナの頭へ手を伸ばしかけた。
しかし途中で止める。
ハナの頃は、突然触れられることを好まなかった。
今も同じか分からず、僅かに迷ったのだろう。
その小さなためらいに気付き、アイハナは自分から半歩近づいた。
「別に、いいよ。」
「何がだ?」
「頭。」
言ってから少し恥ずかしくなり、視線を逸らす。
きたまくらは一瞬目を丸くし、それから大きな手をそっと髪へ置いた。
乱暴ではない。
壊れ物へ触れるようでもない。
ただ、帰ってきた仲間を確かめるような手だった。
「よろしくな、アイハナ。」
「うん。」
アイハナは小さく笑った。
「よろしく、団長。」
◇
灰狼傭兵団へ加わることが決まっても、すぐに出立するわけにはいかなかった。
融合による身体への影響。
伯爵領での手続き。
ハナが依頼のため用意した契約や資金の整理。
アイとして担っていた役目の引き継ぎ。
何より、二十四年間暮らした伯爵邸を離れる準備が必要だった。
「三日。」
120は廊下の窓辺で手帳を開き、淡々と告げた。
「最短でも三日は必要です。」
「そんなに?」
くららが不満そうに頬を膨らませる。
「融合直後の体調確認に一日。契約処理と装備の再編に一日。移動準備と団員への説明に一日。むしろ短い方です。」
「明日には行けるかと思ってた。」
「何の準備もせず出発するつもりですか。」
「冒険ってそういう感じじゃない?」
「違います。」
迷いのない否定だった。
ゆうきが小さく笑う。
「僕たちも、出発は合わせた方がよさそうだね。」
アムも頷いた。
「アイハナちゃんの体調も見たいし。ルーメンへの道は逃げないから。」
「ごめん。」
アイハナが謝ると、アムは首を横へ振る。
「謝ることじゃないよ。旅は急ぐ時ばかりじゃないから。」
その言葉には、千年以上を生きてきた者らしい静かな余裕があった。
少し立ち止まること。
別れのために時間を使うこと。
それもまた、旅の一部なのだろう。
「じゃあ三日後。」
きたまくらが全員を見回す。
「灰狼傭兵団は北門から出る。次の依頼はまだ決めてないから、しばらくはアイハナの希望を聞きながら進む。」
「ボクの希望?」
「ああ。自分探しの旅なんだろ。」
父へ言った言葉を、きたまくらは聞いていないはずだった。
けれど、不思議と意図を理解している。
「行きたい場所はあるか?」
問われ、アイハナは考えた。
転生前の記憶は断片しかない。
白い天井。
電子音。
画面の中で交わした言葉。
きたまくらたちと過ごしたはずの時間。
それらを思い出したい気持ちはある。
けれど、今すぐ答えを求めることには、少しだけ怖さもあった。
「まだ分からない。」
「なら、分かるまで適当に歩くか。」
「団長。」
120の低い声が響く。
「冗談だ。」
「あなたの場合、冗談で済まないため指摘しています。」
きたまくらは困ったように頭を掻く。
「じゃあ、最初は近隣の街を回りながら依頼を受ける。それでいいか?」
「うん。」
アイハナは頷いた。
「知らない場所を見たい。」
アイは伯爵領の外をほとんど知らない。
ハナは多くの土地を歩いたが、景色を楽しむ余裕はなかった。
同じ身体の中にある二つの人生は、どちらも本当の意味で旅をしたことがない。
「今までは、行く場所に全部理由があったんだ。」
依頼。
逃亡。
復讐。
領主の娘としての訪問。
「今度は、理由がなくても歩いてみたい。」
小さな街へ立ち寄る。
名前も知らない料理を食べる。
道端の花へ足を止める。
ただ、そこに行ってみたいから進む。
そんな時間を、自分へ与えてみたかった。
きたまくらは嬉しそうに笑った。
「いいな。それなら灰狼向きだ。」
「万能型の傭兵団じゃなかった?」
「寄り道も万能だ。」
「初めて聞きました。」
120の冷たい指摘に、くららが声を上げて笑う。
アイハナもつられるように笑った。
これからの旅がどんなものになるのか、まだ分からない。
それでも、悪いものにはならない気がしていた。
◇
話が一段落すると、サーヤが静かに口を開いた。
「お荷物の整理を始めましょう。」
いつもと変わらない穏やかな声だった。
しかし、指先は僅かに震えている。
「お洋服は旅に向いたものを中心に。薬や日用品も必要でございますね。それから、お嬢様は寒さへあまり強くありませんので、厚手の外套を――」
「サーヤ。」
アイハナが呼ぶと、言葉が止まる。
「部屋で一緒に考えよう。」
「……はい。」
サーヤは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
アイハナはそのまま彼女と共に、自室へ向かった。
◇
部屋は、礼拝堂へ向かう前と何も変わっていなかった。
整えられた寝台。
窓辺に置かれた小さな花瓶。
机の上へ積まれたままの帳簿。
途中で読むのを止めた本には、栞が挟まれている。
アイとしては見慣れた部屋。
ハナとしては、一度も入ったことのない場所。
アイハナは扉の前で、少しだけ立ち止まった。
「変な感じ。」
「やはり、記憶が混乱なさっていますか。」
「そうじゃないよ。」
部屋へ入り、机の表面を指でなぞる。
「知ってるのに、初めて見るものが多いんだ。」
引き出しの中身も分かる。
寝台の下へ昔隠した菓子が見つかり、サーヤに怒られたことも覚えている。
けれど、ハナの記憶には、この部屋へ憧れる自分がいた。
雨風をしのげる壁。
柔らかな寝台。
毎日洗われた服。
当たり前に与えられてきたものが、どれだけ恵まれていたのか、今は以前より深く分かる。
アイハナは寝台の端へ腰を下ろした。
サーヤは衣装棚を開き、旅へ持っていく服を選び始める。
「こちらの外套は、多少の雨であれば防げます。それから、靴は新しい物より履き慣れた物の方がよろしいでしょう。」
「サーヤ。」
「はい。」
「寂しい?」
背を向けていたサーヤの動きが止まる。
しばらくしてから、ゆっくりと振り返った。
「寂しくないと申し上げれば、嘘になります。」
無理に隠すことはしなかった。
「幼い頃から、ずっとお側におりました。お嬢様がお目覚めになる前に朝の支度をし、夜はお休みになるまで部屋へ伺う。それが私の日常でした。」
選びかけた服を、丁寧に寝台へ置く。
「その日常がなくなることを、すぐに受け入れられるほど強くはありません。」
アイハナは黙って聞いていた。
「ですが。」
サーヤは小さく笑う。
「お嬢様が初めて、ご自分から行きたい場所を選ばれました。」
伯爵令嬢として与えられた役目ではない。
誰かを助けるためでもない。
父の期待へ応えるためでもない。
自分が何者かを知りたい。
そのための旅。
「お引き止めする方が、きっと後悔いたします。」
「一緒に来たいとは思わない?」
少し意地悪な問いだった。
サーヤは困ったように笑う。
「思います。」
その答えに、アイハナの胸が僅かに痛んだ。
「ですが、私はここへ残ります。」
「どうして?」
「旦那様を一人にはできません。」
伯爵はアイハナを送り出す。
けれど、その心に何も残らないわけではない。
娘を失いかけ。
自分の過去と向き合い。
それでも領主として、この土地を守り続けなければならない。
「それに、伯爵家にはお嬢様がお戻りになれる場所を残す者が必要です。」
サーヤは窓辺へ視線を向ける。
「旅へ出た方が帰ってきた時、以前と全く違う場所になっていては困るでしょう?」
アイハナはすぐに答えられなかった。
帰る場所。
灰狼傭兵団がくれた、新しい居場所。
そして、サーヤが残してくれる、古くからの居場所。
どちらも失わずにいられる。
「ずるいなぁ。」
「何がでしょう。」
「そんなこと言われたら、帰ってくるしかないじゃん。」
「そのつもりで申し上げました。」
サーヤは微笑んだ。
アイハナは立ち上がり、彼女の前まで歩く。
抱き締める直前で、ほんの僅かに躊躇した。
ハナの身体に残る警戒。
けれど、その感覚ごと受け入れ、両腕をサーヤの背へ回した。
「今までありがとう。」
「それは、旅立つ方のお言葉ではございません。」
「じゃあ、これからもよろしく。」
「はい。」
サーヤも強く抱き返す。
「いつでも、お帰りをお待ちしております。」
アイハナは目を閉じた。
この温もりを、もう失ったものとして思い出す必要はない。
離れても、帰ればまた触れられる。
それがどれほど幸せなことなのか、今のボクにはよく分かった。
◇
日が傾く頃。
荷物の整理を一度止め、アイハナは邸の訓練場へ向かった。
そこには、リクが一人で立っていた。
普段通り鎧を身につけ、腰へ剣を下げている。
まるで最初から、アイハナが来ると分かっていたようだった。
「待ってた?」
「いずれ来られると思っておりました。」
「どうして?」
「アイ様は、大切な話をする時ほど訓練場へ来られます。」
アイの癖を知っているからこその答え。
アイハナは苦笑する。
「何でも知られてるね。」
「長くお仕えしておりますので。」
リクは表情を崩さなかった。
けれど、いつもより声が僅かに硬い。
「リクも残るんだよね。」
「はい。」
迷いはなかった。
「旦那様とこの領地をお守りすることが、私の役目です。」
「ボクを守るのは?」
リクの瞳が僅かに揺れる。
「それも、私の役目でございます。」
「両方はできないよ。」
「承知しております。」
そのことが、一番苦しいのだろう。
アイハナが旅へ出れば、側にいて守ることはできない。
それでも、伯爵領を離れるわけにはいかない。
「だからこそ、お願いがございます。」
リクは腰の剣を外し、鞘ごと両手で差し出した。
「これは?」
「私が若い頃に使っていた剣です。」
現在使っているものより細身で、旅にも向いている。
丁寧に手入れされており、古い品でありながら刃こぼれ一つない。
「アイ様へ差し上げるには重すぎました。しかし、今のアイハナ様であれば扱えるでしょう。」
ハナが身につけた戦闘技術。
アイがリクとの稽古で学んだ基礎。
二つがあれば、この剣を使うこともできる。
「ボク、短剣も持ってるよ。」
「剣は一つだけで戦うものではございません。」
リクらしい答えだった。
「危険が迫った時、私が代わりに剣を抜くことはできません。ですから、せめてこれをお持ちください。」
アイハナは両手で剣を受け取った。
鞘越しにも、長く使われてきた道具の重みが伝わる。
「ありがとう。」
「礼には及びません。」
「でも、リクが大事にしてた剣でしょ?」
「だからこそ、お渡しするのです。」
短い言葉だった。
アイハナは剣を腰へ当て、長さを確かめる。
少し重い。
それでも、馴染まないほどではない。
「旅から帰ってきたら、今度は本気で稽古してね。」
「お断りします。」
「また即答。」
「旅から戻られた時には、さらに危険な戦い方を覚えていそうですので。」
「それは褒めてる?」
「心配しております。」
真顔で返され、アイハナは笑った。
「じゃあ、心配させないように頑張るよ。」
「それは信用できません。」
「ひどい。」
「これまでの実績から判断しております。」
アイの危なっかしさ。
ハナの無謀な単独行動。
どちらの記憶を見ても、リクの評価は間違っていなかった。
「……気をつける。」
今度は少しだけ真剣に答える。
リクも静かに頷いた。
「必ず、お戻りください。」
「うん。」
「何年掛かっても構いません。」
「何年も帰らない予定じゃないよ。」
「アイハナ様の予定は信用できませんので。」
先ほどと同じような言葉。
けれど、その奥にある不安は隠せていなかった。
アイハナは剣を抱えたまま、少しだけ距離を縮める。
「リク。」
「はい。」
「ボクがいない間、父さんをお願い。」
主から騎士へ。
娘から、父を支えてきた男へ。
その願いを、リクは深く受け止めた。
「この命に代えても。」
「命は代えないで。」
アイハナはすぐに言い返した。
「父さんも、サーヤも、リクも。ボクが帰ってきた時にいなかったら困る。」
リクは一瞬目を見開いた後、静かに頭を下げる。
「承知いたしました。」
訓練場へ夕方の風が吹き込む。
剣を振るう音も、兵士たちの声もない。
ただ、二人の間へ残る言葉だけが、静かにその場へ刻まれていった。
◇
夜。
アイハナは自室の窓を開け、伯爵領の街を眺めていた。
街灯が石畳へ並び、家々の窓から温かな光が漏れている。
この景色を、アイは守りたいと思っていた。
ハナは憎いと思っていた。
今は、そのどちらでもある。
だからこそ、離れて見る必要があるのかもしれない。
机の上には、二つの武器が置かれている。
伯爵から受け取った、盗賊団の短剣。
リクから託された、細身の剣。
異なる人生から渡された二つの武器。
アイハナは窓を閉じ、短剣を手に取った。
柄の傷へ指を這わせる。
懐かしい。
悲しい。
それでも、以前のように怒りだけではなかった。
「見てて。」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
「ボク、もう少し生きてみるから。」
盗賊団のみんなへ。
あるいは、過去の自分へ。
返事はない。
けれど、短剣は手の中で静かな重みを返してくれた。
それだけで十分だった。
荷物を詰めた鞄を寝台の隣へ置く。
明日ではない。
あと二日。
それでも旅立ちは、もう遠い未来ではなかった。
アイハナは灯りを消し、寝台へ横になる。
柔らかな布団。
窓の向こうから聞こえる、遠い鐘。
明日も、この部屋で目を覚ます。
けれど、その次の朝には、違う景色が待っている。
胸の中に、不安がある。
同じくらい、楽しみもあった。
アイハナは目を閉じる。
二人分の記憶を抱いた意識は、今夜初めて、一つの夢へ静かに沈んでいった。




