表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの時間をもう一度  作者: ゆうき
第二章 もうひとりの私へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/91

エピローグ 私を探す旅 前編 父と娘


 伯爵邸へ続く道は、朝の光に照らされていた。


 石畳の隙間には昨夜の雨が残り、通りを行き交う人々の足元で小さく光っている。市場からは焼きたてのパンの匂いが流れ、遠くでは店を開く商人たちの声が重なっていた。


 アイハナは、その景色をゆっくりと眺めながら歩いていた。


 見慣れている。


 けれど、初めて見るようでもある。


 アイとしては、幼い頃から何度も歩いた道だった。店先へ並ぶ果物の種類も、どの角を曲がれば菓子屋があるのかも知っている。


 一方で、ハナとしては警戒しながら通り抜けた街でもあった。兵士の巡回経路や、屋根へ上がりやすい路地、身を隠せる建物の影が自然と目に入る。


 二つの見方が、同時に胸の中へあった。


 どちらかが邪魔をするわけではない。


 これまで見えなかったものが、少し増えただけだった。


「歩けますか、お嬢様。」


 隣を歩くサーヤが、何度目か分からない問いを口にする。


 アイハナは少しだけ笑った。


「大丈夫。身体はもう平気だよ。それより、サーヤの方が疲れてない?」


「私は何もしておりません。」


「ずっと泣いてた。」


「……あれは疲労には含まれません。」


 言い切ったサーヤの目元は、まだ少し赤い。


 アイハナはそれ以上言わず、歩調だけを僅かに緩めた。


 少し後ろでは、リクが周囲を警戒しながら歩いている。礼拝堂を出てから一度も気を抜いておらず、街の人間が近づくたび、アイハナとの間へ自然に立てる位置を保っていた。


 そのさらに後ろには、ゆうきとアム。


 そして、灰狼傭兵団の三人が続いている。


 くららは何度もこちらへ話しかけようとして、120に止められていた。きたまくらは二人のやり取りを眺めながら、いつものように笑っている。


 賑やかだった。


 それでも、アイハナの胸の奥だけは静かだった。


 伯爵邸の屋根が近づくほど、身体の内側へ重いものが沈んでいく。


 父へ会う。


 アイとしては、帰りたい場所だった。


 ハナとしては、十一年間追い続けた相手がいる場所だった。


 どちらの感情も、本物だった。


「無理に今日話さなくてもいいんだよ。」


 アムが隣へ並び、穏やかに声を掛ける。


「融合したばかりなんだし、少し休んでからでも遅くない。」


 アイハナは前を向いたまま、しばらく考えた。


「ううん。今日話す。」


「決めてる?」


「怖いから。」


 アムが僅かに目を細める。


「時間を置いたら、逃げる理由を探しそうなんだ。ボクの中には、会いたい気持ちと、顔も見たくない気持ちが両方あるから。」


 父へ抱きつきたい。


 剣を向けたい。


 声を聞きたい。


 責めたい。


 矛盾した感情が、同じ胸の中で並んでいる。


「だから、今行く。」


 アイハナは小さく息を吐いた。


「答えを出すためじゃなくて、ちゃんと始めるために。」


 アムはそれ以上止めなかった。


「分かった。」


 短く頷き、少しだけ歩調を落とす。


 答えを押しつけず、隣へいる。


 それが今のアイハナにはありがたかった。


     ◇


 伯爵邸の門前には、数人の兵士が待機していた。


 アイハナの姿を見つけると、誰もが安堵したように表情を緩める。すぐに駆け寄ろうとした者もいたが、その隣に灰狼傭兵団がいることへ気付き、足を止めた。


 リクが一歩前へ出る。


「武器を下ろせ。敵対の意思はない。」


 兵士たちは戸惑いながらも、リクの命令へ従った。


 アイハナは門を見上げる。


 何度もくぐった門だった。


 祭りへ出掛けた日。


 勉強から逃げようとしてサーヤに捕まった日。


 領民の子どもたちと遊び、泥だらけになって帰った日。


 同時に、ハナとして何度も見張った門でもある。


 侵入経路を探し。


 兵士の交代を数え。


 いつか復讐のために越えるつもりだった場所。


 今、そのどちらとも違う理由で門の前へ立っている。


「行こう。」


 自分へ言い聞かせるように呟き、アイハナは一歩を踏み出した。


     ◇


 伯爵は執務室にいた。


 窓の外へ背を向け、机の前に立っている。


 報告を受けたのだろう。


 アイハナたちが部屋へ入っても、驚いた様子は見せなかった。


 ただ、その姿を見た瞬間、張り詰めていた表情が僅かに崩れた。


「アイ……。」


 名前を呼びかけ、途中で止まる。


 目の前にいる少女は、娘の面影を持っている。


 けれど、同じではない。


 伯爵も、そのことを理解していた。


「アイハナ。」


 少女は静かに名乗った。


「今のボクの名前。」


 伯爵はその名を確かめるように、ゆっくりと繰り返した。


「アイハナ。」


 声が僅かに掠れている。


 駆け寄りたいのだろう。


 それでも、父はその場から動かなかった。


 ハナの存在を知った今、以前と同じように娘として抱き締めてよいのか分からない。


 その迷いが、アイハナには痛いほど伝わってきた。


「二人で話したい。」


 アイハナが言う。


 サーヤとリクが顔を見合わせる。


 きたまくらも何も言わず、部屋の外へ視線を向けた。


「分かった。俺たちは外にいる。」


「危険があれば呼べ。」


 リクの言葉に、アイハナは小さく頷く。


「うん。」


 一人ずつ部屋を出ていく。


 最後にアムが扉の前で立ち止まり、アイハナへ静かに目を向けた。


 何も言わない。


 それでも、無理をしなくていいという意思だけが伝わってきた。


 扉が閉まる。


 広い執務室に、伯爵とアイハナだけが残された。


     ◇


 しばらく、どちらも言葉を発さなかった。


 机の上では、途中まで読まれていた書類が開かれている。窓から入った風がその端を揺らし、紙が擦れる小さな音だけが続いていた。


 アイハナは父を見つめる。


 アイの記憶では、見慣れた顔だ。


 疲れている時には左の眉が少し下がる。


 難しい話をする前には、指先で机の端を触る。


 自分を叱る時も、声を荒らげることはなかった。


 ハナの記憶では、憎み続けた相手だ。


 顔を知らなかった頃から、何度も殺す場面を想像してきた。


 剣を突き立てる。


 命乞いをさせる。


 家族を奪われた痛みを思い知らせる。


 そのためだけに生きてきた。


 今、目の前にいる。


 手を伸ばせば届く距離に。


 けれど、短剣へ手が動くことはなかった。


「父さん。」


 アイの感情が先に呼んだ。


 伯爵の瞳が揺れる。


 次の瞬間、胸の奥から別の声が湧き上がった。


「……あなたが、ボクの家族を殺した。」


 同じ口から出た二つの言葉。


 伯爵は目を逸らさなかった。


「ああ。」


 否定しない。


 言い訳もしない。


「私が命じた。」


 その答えを、ハナは十一年間待っていた。


 逃げるな。


 正しかったと言うな。


 仕方がなかったで終わらせるな。


 何度も心の中で叫んできた。


「盗賊団は領民を襲っていた。」


 伯爵は静かに続ける。


「商人の荷を奪い、抵抗した者を傷つけた。放置すれば、さらに犠牲が増えていた。」


「分かってる。」


 アイハナの声は低かった。


「全部分かってる。討伐されても仕方がなかった。領主なら、同じ命令を出す人もいると思う。」


 理解できる。


 だからこそ苦しい。


「でも、ボクには家族だった。」


 指先が震える。


「悪いことをしてた。誰かを傷つけてた。それでも、ボクが初めて温かいご飯を食べた場所だった。」


 伯爵は黙って聞いていた。


「初めて名前を呼ばれた。初めて帰ってこいって言われた。初めて、生きててもいいと思えた。」


 言葉にするたび、記憶が蘇る。


 欠けた器。


 薄いスープ。


 笑い声。


 煙の匂い。


 そして、炎。


「あなたは領民を守った。」


 喉の奥が狭くなる。


「でも、その正しさでボクの家族は死んだ。」


「ああ。」


「後悔してないの?」


 問いは鋭かった。


 伯爵はすぐに答えなかった。


 窓の外へ一度だけ視線を向け、静かに息を吸う。


「討伐を命じたことそのものは、後悔していない。」


 アイハナの胸へ怒りが浮かぶ。


 指先が強く握られた。


 けれど、伯爵は続けた。


「領民を守るために必要だったと、今も思っている。」


 逃げずに言い切る。


「だが。」


 その声が僅かに震えた。


「その向こう側に、お前がいたことを知らなかった。」


 伯爵は机の横へ置かれていた木箱を手に取った。


 ゆっくりと蓋を開ける。


 中には、古びた短剣が一本だけ納められていた。


 柄には、見覚えのある傷がある。


 アイハナの呼吸が止まった。


「……それ。」


「討伐現場に残されていた。」


 盗賊団の一人が使っていた短剣。


 誰のものだったか、記憶を辿る。


 いつも焚き火の前で刃を研いでいた男。


 口数は少なく、褒める代わりに頭を乱暴に撫でた人。


 ハナへ初めて短剣を教えた人。


「どうして持ってるの。」


「捨てられなかった。」


 伯爵は短剣を見つめた。


「現場で見た時、丁寧に手入れされていることが分かった。盗賊の武器として処分すべきだったが……誰かが大切にしていた物だと思った。」


「今さら。」


 声が震える。


「そんな物を残して、何になるの。」


「何にもならない。」


 伯爵は静かに答えた。


「死者は戻らない。お前が失ったものも戻らない。」


「なら。」


「それでも、忘れたふりをしたくなかった。」


 木箱を机の上へ置く。


「私は領主として命令を下した。だが、その命令で命を失った者を、数だけで終わらせてよいとは思えなかった。」


 アイハナは短剣から目を離せない。


 怒りが消えたわけではない。


 許せるわけでもない。


 それでも、伯爵が何も感じていなかったわけではないと知ってしまった。


「謝って。」


 気付けば、言葉が零れていた。


 伯爵はゆっくりと顔を上げる。


「領主としてじゃない。」


 アイハナは震える声で続ける。


「正しかったかどうかも、今は聞いてない。」


 涙が頬を伝う。


「家族を失った一人の子どもに、謝って。」


 伯爵は動かなかった。


 長い沈黙の後、机の前から離れる。


 アイハナの前まで歩き、ゆっくりと膝をついた。


 領主ではなく。


 父親でもなく。


 一人の人間として、同じ高さまで視線を下げる。


「すまなかった。」


 低い声だった。


「私の命令で、お前の大切な人たちを奪った。」


 頭を下げる。


「許してほしいとは言わない。」


 アイハナの涙が止まらない。


「許されるとも思っていない。」


 それでも伯爵は言葉を続けた。


「ただ、逃げずに受け止める。お前が私を憎むことも、責めることも。」


 その姿を見て、胸の中で二つの感情がぶつかる。


 父へ頭を上げてほしい。


 もっと苦しめばいい。


 抱き締めたい。


 触れられたくない。


 答えは一つにならない。


「ボクは……。」


 声が上手く出なかった。


「まだ許せない。」


「ああ。」


「父さんって呼びたい。でも、あなたを憎んでる。」


「ああ。」


「殺したいって思ってた。今も、消えたわけじゃない。」


「それでもいい。」


 伯爵は頭を上げなかった。


「お前が抱えてきたものを、私の都合で消させるつもりはない。」


 アイハナは両手を握ったまま、しばらく立ち尽くしていた。


 許すことはできない。


 少なくとも、今は。


 けれど、殺すこともできない。


 アイの父親だからではない。


 目の前の人間が、自分のしたことから逃げていないと分かってしまったから。


「頭、上げて。」


 伯爵がゆっくりと顔を上げる。


 その目にも涙が浮かんでいた。


 アイハナはその場へ膝をついた。


 同じ高さで父を見る。


「今すぐ、前みたいには戻れない。」


「分かっている。」


「ボクも、自分がどうしたいのか分からない。」


「ああ。」


「だから、少し離れたい。」


 伯爵の表情が僅かに揺れる。


「この領地を出る。」


 口にすると、不思議と胸の奥が静かになった。


「逃げるためじゃない。」


 アイハナは涙を拭い、まっすぐ父を見る。


「ボクが誰なのか、自分で知りたい。」


 アイとして生きてきた場所。


 ハナとして生き延びてきた時間。


 転生前の記憶。


 まだ知らない自分が、あまりにも多い。


「灰狼傭兵団と一緒に行く。」


 伯爵は目を閉じた。


 娘を手元へ置いておきたい。


 危険な旅へ出したくない。


 その思いは、父親として当然だった。


 けれど、今のアイハナを屋敷へ閉じ込めれば、再びどちらかの人生を押し込めることになる。


「そうか。」


 短い返事だった。


「止めないの?」


「止めたい。」


 伯爵は正直に答えた。


「だが、お前はもう、自分の足で進む道を選んだ。」


 少しだけ寂しそうに笑う。


「父親の我が儘で、それを奪うわけにはいかない。」


 アイハナの胸が強く締め付けられる。


 父を憎んでいる。


 それでも、この人に愛されてきたことも否定できない。


「お前はアイでもあり、ハナでもある。」


 伯爵は静かに言った。


「そして今日からは、アイハナとして生きなさい。」


 机の上の短剣を木箱ごと差し出す。


「これは、お前が持つべきだ。」


 アイハナは両手で受け取った。


 木箱は見た目より重かった。


 武器の重さではない。


 二つの人生を繋ぐものの重さだった。


「父さん。」


 呼び方が自然と口から出た。


 伯爵の瞳が揺れる。


「許したわけじゃないから。」


「ああ。」


「でも、帰ってきてもいい?」


 問い掛けた声は、少しだけ幼かった。


 伯爵は泣きそうな顔で笑う。


「ここは、いつでもお前の家だ。」


 その言葉を聞いた瞬間、アイハナは俯いた。


 涙が木箱の蓋へ落ち、小さな染みを作る。


 帰る場所は、一つではない。


 伯爵家。


 灰狼傭兵団。


 これから歩く旅路。


 どれも自分の人生になっていく。


 アイハナは木箱を胸へ抱き、ゆっくりと立ち上がった。


「行ってくるね。」


「ああ。」


 伯爵も立ち上がる。


「行っておいで。」


 二人は抱き合わなかった。


 まだ、その距離まで戻るには時間が必要だった。


 それでも、部屋を出る前にアイハナが振り返ると、父は同じ場所に立ったまま見送っていた。


 その姿を胸へ残し、アイハナは扉を開いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ