エピローグ 私を探す旅 前編 父と娘
伯爵邸へ続く道は、朝の光に照らされていた。
石畳の隙間には昨夜の雨が残り、通りを行き交う人々の足元で小さく光っている。市場からは焼きたてのパンの匂いが流れ、遠くでは店を開く商人たちの声が重なっていた。
アイハナは、その景色をゆっくりと眺めながら歩いていた。
見慣れている。
けれど、初めて見るようでもある。
アイとしては、幼い頃から何度も歩いた道だった。店先へ並ぶ果物の種類も、どの角を曲がれば菓子屋があるのかも知っている。
一方で、ハナとしては警戒しながら通り抜けた街でもあった。兵士の巡回経路や、屋根へ上がりやすい路地、身を隠せる建物の影が自然と目に入る。
二つの見方が、同時に胸の中へあった。
どちらかが邪魔をするわけではない。
これまで見えなかったものが、少し増えただけだった。
「歩けますか、お嬢様。」
隣を歩くサーヤが、何度目か分からない問いを口にする。
アイハナは少しだけ笑った。
「大丈夫。身体はもう平気だよ。それより、サーヤの方が疲れてない?」
「私は何もしておりません。」
「ずっと泣いてた。」
「……あれは疲労には含まれません。」
言い切ったサーヤの目元は、まだ少し赤い。
アイハナはそれ以上言わず、歩調だけを僅かに緩めた。
少し後ろでは、リクが周囲を警戒しながら歩いている。礼拝堂を出てから一度も気を抜いておらず、街の人間が近づくたび、アイハナとの間へ自然に立てる位置を保っていた。
そのさらに後ろには、ゆうきとアム。
そして、灰狼傭兵団の三人が続いている。
くららは何度もこちらへ話しかけようとして、120に止められていた。きたまくらは二人のやり取りを眺めながら、いつものように笑っている。
賑やかだった。
それでも、アイハナの胸の奥だけは静かだった。
伯爵邸の屋根が近づくほど、身体の内側へ重いものが沈んでいく。
父へ会う。
アイとしては、帰りたい場所だった。
ハナとしては、十一年間追い続けた相手がいる場所だった。
どちらの感情も、本物だった。
「無理に今日話さなくてもいいんだよ。」
アムが隣へ並び、穏やかに声を掛ける。
「融合したばかりなんだし、少し休んでからでも遅くない。」
アイハナは前を向いたまま、しばらく考えた。
「ううん。今日話す。」
「決めてる?」
「怖いから。」
アムが僅かに目を細める。
「時間を置いたら、逃げる理由を探しそうなんだ。ボクの中には、会いたい気持ちと、顔も見たくない気持ちが両方あるから。」
父へ抱きつきたい。
剣を向けたい。
声を聞きたい。
責めたい。
矛盾した感情が、同じ胸の中で並んでいる。
「だから、今行く。」
アイハナは小さく息を吐いた。
「答えを出すためじゃなくて、ちゃんと始めるために。」
アムはそれ以上止めなかった。
「分かった。」
短く頷き、少しだけ歩調を落とす。
答えを押しつけず、隣へいる。
それが今のアイハナにはありがたかった。
◇
伯爵邸の門前には、数人の兵士が待機していた。
アイハナの姿を見つけると、誰もが安堵したように表情を緩める。すぐに駆け寄ろうとした者もいたが、その隣に灰狼傭兵団がいることへ気付き、足を止めた。
リクが一歩前へ出る。
「武器を下ろせ。敵対の意思はない。」
兵士たちは戸惑いながらも、リクの命令へ従った。
アイハナは門を見上げる。
何度もくぐった門だった。
祭りへ出掛けた日。
勉強から逃げようとしてサーヤに捕まった日。
領民の子どもたちと遊び、泥だらけになって帰った日。
同時に、ハナとして何度も見張った門でもある。
侵入経路を探し。
兵士の交代を数え。
いつか復讐のために越えるつもりだった場所。
今、そのどちらとも違う理由で門の前へ立っている。
「行こう。」
自分へ言い聞かせるように呟き、アイハナは一歩を踏み出した。
◇
伯爵は執務室にいた。
窓の外へ背を向け、机の前に立っている。
報告を受けたのだろう。
アイハナたちが部屋へ入っても、驚いた様子は見せなかった。
ただ、その姿を見た瞬間、張り詰めていた表情が僅かに崩れた。
「アイ……。」
名前を呼びかけ、途中で止まる。
目の前にいる少女は、娘の面影を持っている。
けれど、同じではない。
伯爵も、そのことを理解していた。
「アイハナ。」
少女は静かに名乗った。
「今のボクの名前。」
伯爵はその名を確かめるように、ゆっくりと繰り返した。
「アイハナ。」
声が僅かに掠れている。
駆け寄りたいのだろう。
それでも、父はその場から動かなかった。
ハナの存在を知った今、以前と同じように娘として抱き締めてよいのか分からない。
その迷いが、アイハナには痛いほど伝わってきた。
「二人で話したい。」
アイハナが言う。
サーヤとリクが顔を見合わせる。
きたまくらも何も言わず、部屋の外へ視線を向けた。
「分かった。俺たちは外にいる。」
「危険があれば呼べ。」
リクの言葉に、アイハナは小さく頷く。
「うん。」
一人ずつ部屋を出ていく。
最後にアムが扉の前で立ち止まり、アイハナへ静かに目を向けた。
何も言わない。
それでも、無理をしなくていいという意思だけが伝わってきた。
扉が閉まる。
広い執務室に、伯爵とアイハナだけが残された。
◇
しばらく、どちらも言葉を発さなかった。
机の上では、途中まで読まれていた書類が開かれている。窓から入った風がその端を揺らし、紙が擦れる小さな音だけが続いていた。
アイハナは父を見つめる。
アイの記憶では、見慣れた顔だ。
疲れている時には左の眉が少し下がる。
難しい話をする前には、指先で机の端を触る。
自分を叱る時も、声を荒らげることはなかった。
ハナの記憶では、憎み続けた相手だ。
顔を知らなかった頃から、何度も殺す場面を想像してきた。
剣を突き立てる。
命乞いをさせる。
家族を奪われた痛みを思い知らせる。
そのためだけに生きてきた。
今、目の前にいる。
手を伸ばせば届く距離に。
けれど、短剣へ手が動くことはなかった。
「父さん。」
アイの感情が先に呼んだ。
伯爵の瞳が揺れる。
次の瞬間、胸の奥から別の声が湧き上がった。
「……あなたが、ボクの家族を殺した。」
同じ口から出た二つの言葉。
伯爵は目を逸らさなかった。
「ああ。」
否定しない。
言い訳もしない。
「私が命じた。」
その答えを、ハナは十一年間待っていた。
逃げるな。
正しかったと言うな。
仕方がなかったで終わらせるな。
何度も心の中で叫んできた。
「盗賊団は領民を襲っていた。」
伯爵は静かに続ける。
「商人の荷を奪い、抵抗した者を傷つけた。放置すれば、さらに犠牲が増えていた。」
「分かってる。」
アイハナの声は低かった。
「全部分かってる。討伐されても仕方がなかった。領主なら、同じ命令を出す人もいると思う。」
理解できる。
だからこそ苦しい。
「でも、ボクには家族だった。」
指先が震える。
「悪いことをしてた。誰かを傷つけてた。それでも、ボクが初めて温かいご飯を食べた場所だった。」
伯爵は黙って聞いていた。
「初めて名前を呼ばれた。初めて帰ってこいって言われた。初めて、生きててもいいと思えた。」
言葉にするたび、記憶が蘇る。
欠けた器。
薄いスープ。
笑い声。
煙の匂い。
そして、炎。
「あなたは領民を守った。」
喉の奥が狭くなる。
「でも、その正しさでボクの家族は死んだ。」
「ああ。」
「後悔してないの?」
問いは鋭かった。
伯爵はすぐに答えなかった。
窓の外へ一度だけ視線を向け、静かに息を吸う。
「討伐を命じたことそのものは、後悔していない。」
アイハナの胸へ怒りが浮かぶ。
指先が強く握られた。
けれど、伯爵は続けた。
「領民を守るために必要だったと、今も思っている。」
逃げずに言い切る。
「だが。」
その声が僅かに震えた。
「その向こう側に、お前がいたことを知らなかった。」
伯爵は机の横へ置かれていた木箱を手に取った。
ゆっくりと蓋を開ける。
中には、古びた短剣が一本だけ納められていた。
柄には、見覚えのある傷がある。
アイハナの呼吸が止まった。
「……それ。」
「討伐現場に残されていた。」
盗賊団の一人が使っていた短剣。
誰のものだったか、記憶を辿る。
いつも焚き火の前で刃を研いでいた男。
口数は少なく、褒める代わりに頭を乱暴に撫でた人。
ハナへ初めて短剣を教えた人。
「どうして持ってるの。」
「捨てられなかった。」
伯爵は短剣を見つめた。
「現場で見た時、丁寧に手入れされていることが分かった。盗賊の武器として処分すべきだったが……誰かが大切にしていた物だと思った。」
「今さら。」
声が震える。
「そんな物を残して、何になるの。」
「何にもならない。」
伯爵は静かに答えた。
「死者は戻らない。お前が失ったものも戻らない。」
「なら。」
「それでも、忘れたふりをしたくなかった。」
木箱を机の上へ置く。
「私は領主として命令を下した。だが、その命令で命を失った者を、数だけで終わらせてよいとは思えなかった。」
アイハナは短剣から目を離せない。
怒りが消えたわけではない。
許せるわけでもない。
それでも、伯爵が何も感じていなかったわけではないと知ってしまった。
「謝って。」
気付けば、言葉が零れていた。
伯爵はゆっくりと顔を上げる。
「領主としてじゃない。」
アイハナは震える声で続ける。
「正しかったかどうかも、今は聞いてない。」
涙が頬を伝う。
「家族を失った一人の子どもに、謝って。」
伯爵は動かなかった。
長い沈黙の後、机の前から離れる。
アイハナの前まで歩き、ゆっくりと膝をついた。
領主ではなく。
父親でもなく。
一人の人間として、同じ高さまで視線を下げる。
「すまなかった。」
低い声だった。
「私の命令で、お前の大切な人たちを奪った。」
頭を下げる。
「許してほしいとは言わない。」
アイハナの涙が止まらない。
「許されるとも思っていない。」
それでも伯爵は言葉を続けた。
「ただ、逃げずに受け止める。お前が私を憎むことも、責めることも。」
その姿を見て、胸の中で二つの感情がぶつかる。
父へ頭を上げてほしい。
もっと苦しめばいい。
抱き締めたい。
触れられたくない。
答えは一つにならない。
「ボクは……。」
声が上手く出なかった。
「まだ許せない。」
「ああ。」
「父さんって呼びたい。でも、あなたを憎んでる。」
「ああ。」
「殺したいって思ってた。今も、消えたわけじゃない。」
「それでもいい。」
伯爵は頭を上げなかった。
「お前が抱えてきたものを、私の都合で消させるつもりはない。」
アイハナは両手を握ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
許すことはできない。
少なくとも、今は。
けれど、殺すこともできない。
アイの父親だからではない。
目の前の人間が、自分のしたことから逃げていないと分かってしまったから。
「頭、上げて。」
伯爵がゆっくりと顔を上げる。
その目にも涙が浮かんでいた。
アイハナはその場へ膝をついた。
同じ高さで父を見る。
「今すぐ、前みたいには戻れない。」
「分かっている。」
「ボクも、自分がどうしたいのか分からない。」
「ああ。」
「だから、少し離れたい。」
伯爵の表情が僅かに揺れる。
「この領地を出る。」
口にすると、不思議と胸の奥が静かになった。
「逃げるためじゃない。」
アイハナは涙を拭い、まっすぐ父を見る。
「ボクが誰なのか、自分で知りたい。」
アイとして生きてきた場所。
ハナとして生き延びてきた時間。
転生前の記憶。
まだ知らない自分が、あまりにも多い。
「灰狼傭兵団と一緒に行く。」
伯爵は目を閉じた。
娘を手元へ置いておきたい。
危険な旅へ出したくない。
その思いは、父親として当然だった。
けれど、今のアイハナを屋敷へ閉じ込めれば、再びどちらかの人生を押し込めることになる。
「そうか。」
短い返事だった。
「止めないの?」
「止めたい。」
伯爵は正直に答えた。
「だが、お前はもう、自分の足で進む道を選んだ。」
少しだけ寂しそうに笑う。
「父親の我が儘で、それを奪うわけにはいかない。」
アイハナの胸が強く締め付けられる。
父を憎んでいる。
それでも、この人に愛されてきたことも否定できない。
「お前はアイでもあり、ハナでもある。」
伯爵は静かに言った。
「そして今日からは、アイハナとして生きなさい。」
机の上の短剣を木箱ごと差し出す。
「これは、お前が持つべきだ。」
アイハナは両手で受け取った。
木箱は見た目より重かった。
武器の重さではない。
二つの人生を繋ぐものの重さだった。
「父さん。」
呼び方が自然と口から出た。
伯爵の瞳が揺れる。
「許したわけじゃないから。」
「ああ。」
「でも、帰ってきてもいい?」
問い掛けた声は、少しだけ幼かった。
伯爵は泣きそうな顔で笑う。
「ここは、いつでもお前の家だ。」
その言葉を聞いた瞬間、アイハナは俯いた。
涙が木箱の蓋へ落ち、小さな染みを作る。
帰る場所は、一つではない。
伯爵家。
灰狼傭兵団。
これから歩く旅路。
どれも自分の人生になっていく。
アイハナは木箱を胸へ抱き、ゆっくりと立ち上がった。
「行ってくるね。」
「ああ。」
伯爵も立ち上がる。
「行っておいで。」
二人は抱き合わなかった。
まだ、その距離まで戻るには時間が必要だった。
それでも、部屋を出る前にアイハナが振り返ると、父は同じ場所に立ったまま見送っていた。
その姿を胸へ残し、アイハナは扉を開いた。




