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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
第二章 もうひとりの私へ

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第11話「アイハナ」後編 ひとりの名前


「……ただいま。」


 その一言が礼拝堂へ落ちた後、誰もすぐには動けなかった。


 砕けた窓から差し込む朝の光が、舞い残った埃を静かに照らしている。先ほどまで建物全体を震わせていた力は消え、遠くで鳥が鳴く声さえ聞こえるほど、辺りは穏やかだった。


 少女は祭壇の前に立っていた。


 アイの面影がある。


 ハナの面影もある。


 けれど、どちらか一方ではなかった。


 柔らかな瞳の奥には、長い間一人で生き抜いてきた者の静かな強さが宿っている。立ち姿にも、伯爵令嬢として身につけた品の良さと、危険な場所で培われた隙のなさが自然に混じっていた。


 少女自身も、まだその変化へ慣れていないらしい。


 胸へ添えていた手を離し、自分の指先を確かめるように見つめている。


 そこにあるのは、一つの身体。


 一つの呼吸。


 一つの鼓動。


 それでも胸の中には、二人分の記憶が同じ温度で息づいていた。


 愛された二十四年。


 傷つきながら生きた二十四年。


 どちらも遠い誰かの記憶ではない。


 全部、自分が歩いてきた人生だった。


「お嬢様……。」


 最初に動いたのはサーヤだった。


 一歩を踏み出したものの、途中で足が止まる。


 駆け寄りたい。


 抱き締めたい。


 けれど、目の前にいる少女を以前と同じように呼んでよいのか分からず、震える両手を胸の前で握り締めていた。


 少女はその迷いへ気付く。


 アイとして見れば、幼い頃から何度も見てきた顔だった。嬉しい時ほど涙を堪えようとし、困った時には右手の親指を握る。


 ハナとして見れば、初めて知る女性だった。


 温かな食事を用意し、毎朝髪を整え、何も言わなくても体調の変化へ気付いてくれる人。


 どちらの感情も、自分の中にある。


「サーヤ。」


 名前を呼ぶと、サーヤの肩が大きく揺れた。


 声は以前のアイと全く同じではない。


 少しだけ落ち着きが増し、それでも懐かしい柔らかさが残っていた。


「はい……。」


 返事をした瞬間、涙が頬を伝う。


 少女は一歩ずつ近づいていった。


 身体はまだ重い。


 魂が一つになったばかりで、足元も少し頼りない。それでも、サーヤの前まで歩き、ゆっくりと両腕を広げる。


「ただいま、サーヤ。」


 もう一度告げた言葉に、今度は相手が定まっていた。


 サーヤは堪えきれず、その身体を抱き締めた。


「お帰りなさいませ……。」


 声は涙に崩れていた。


「お嬢様。お帰りなさいませ。」


 何度も繰り返しながら、背中へ腕を回す。


 抱き締められた少女は、一瞬だけ身体を強張らせた。


 ハナの記憶には、これほど無防備に誰かの腕へ身を預けた経験がほとんどない。逃げ道を塞がれることも、背後へ手を回されることも、反射的に警戒する癖が残っている。


 けれど同時に、アイの身体はこの温もりを知っていた。


 幼い頃。


 泣いた夜。


 病に伏せた朝。


 嬉しい出来事があった日。


 何度もこうして抱き締められてきた。


 少女は強張っていた肩から力を抜き、サーヤの背へそっと手を回した。


「心配かけてごめんね。」


「謝らないでください。戻ってきてくださっただけで……それだけで十分です。」


 胸元へ顔を埋めるサーヤの髪を、少女は慣れた手つきで撫でる。


 その仕草には、アイの優しさが残っていた。


 けれど周囲への警戒を完全には解かず、砕けた窓や入口の位置を無意識に確認している視線は、ハナのものだった。


 アムはその様子を見つめながら、小さく息を吐く。


 どちらもいる。


 どちらも消えていない。


 文献へ記されていなかった答えが、目の前に立っていた。


     ◇


 サーヤの腕がようやく緩むと、少女の前へリクが歩み出た。


 いつものように背筋を伸ばしている。


 だが、表情は普段よりずっと硬かった。


 何を言えばいいのか分からないらしい。


 騎士としてなら、主の無事を喜び、忠誠を誓えばいい。


 しかし目の前の少女には、つい先ほどまで敵として警戒していたハナの人生もある。


 剣を向けかけた相手。


 伯爵を殺そうとしていた者。


 そして今は、自分が守ってきたアイと同じ身体でこちらを見つめている。


 リクは膝をついた。


「アイ様。」


 口にしてから、僅かに迷いが生じる。


 少女はその迷いへ気付き、困ったように笑った。


「その呼び方でも、ちゃんと分かるよ。」


「ですが……。」


「アイも、ボクだから。」


 自然に零れた一人称へ、本人が少しだけ目を瞬いた。


 アイの頃は「私」。


 ハナも「私」。


 それなのに、今は別の言葉が口から出た。


 転生前の記憶。


 アイハナだった頃の自分。


 失われていた輪郭が、少しずつ言葉にも表れ始めている。


「ボク……。」


 確かめるように呟き、少女は少し笑った。


「何だか、こっちの方がしっくりくる。」


 リクは顔を上げる。


「では、何とお呼びすればよろしいのでしょうか。」


 少女はすぐには答えなかった。


 アイ。


 その名は父がくれた大切な名前だ。


 ハナ。


 家族を失った後も、自分を支え続けてきた名前。


 どちらも捨てたくない。


 どちらかだけを選ぶ必要もない。


「アイハナ。」


 静かに告げる。


「これからは、アイハナって呼んで。」


 リクはその名を胸へ刻むように、一度だけ目を閉じた。


「承知いたしました。アイハナ様。」


「様はそのままなんだ。」


「私の主であることに変わりはございません。」


 迷いのない返事だった。


 アイハナは少し驚き、それから頬を緩める。


「ありがとう、リク。」


 その笑顔を見て、リクの表情も僅かに和らいだ。


 次の瞬間、アイハナの視線が彼の腰の剣へ移る。


 ハナの記憶が、リクという騎士を別の角度から見ていた。


 足運び。


 重心。


 剣の長さ。


 先ほど礼拝堂へ入った時から、抜かずにこちらを制圧できる位置を保ち続けていた。


「リクって、思ってたより強いんだね。」


「……はい?」


「今まで稽古してた時は手加減されてたから、分からなかった。」


 アイの記憶とハナの観察が一つになり、初めて気付けたことだった。


 リクは少し困ったように視線を逸らす。


「令嬢様へ本気の剣を向けるわけにはまいりません。」


「今度、ちゃんと戦ってみたい。」


「お断りします。」


「即答なんだ。」


 アイハナが笑う。


 その明るさに、サーヤも涙を拭いながら笑みを浮かべた。


 以前のアイと同じではない。


 それでも、確かにそこには知っている温かさがあった。


     ◇


「ハナっち!」


 我慢の限界を迎えたくららが、勢いよく駆け寄ってきた。


「ちょっと待って、まだ身体が――」


 120が止めるより早く、くららはアイハナへ抱きついていた。


「よかったぁ……!」


 大きな声が礼拝堂へ響く。


 アイハナは今度こそ反射的に身体を強張らせた。


 真正面から抱きつかれ、身動きが取れない。


 ハナとしてなら、即座に相手の腕を外して距離を取るところだった。


 けれど、くららが泣きながら肩へ顔を埋めていることが分かり、上げかけた手を静かに下ろした。


「くらら、苦しい。」


「ごめん。でも今だけ。ハナっちがいなくなったかと思ったんだから。」


 離す気はないらしい。


 アイハナは困ったようにきたまくらへ助けを求める視線を向ける。


 団長は腕を組み、笑っていた。


「諦めろ。今止めても聞かん。」


「団長、見てないで助けて。」


「元気そうで安心した。」


「そういう話じゃない。」


 ハナの少し鋭い口調。


 そこへアイの親しみやすさが混ざり、以前より感情が表へ出ている。


 きたまくらはその姿を見つめ、胸の奥へ広がる安堵を隠すように鼻の下を擦った。


「それで。」


 ゆっくりとアイハナの前へ立つ。


「お前は、ハナなのか。アイなのか。」


 問い掛けは単純だった。


 けれど、この場にいる全員が知りたかったことでもある。


 くららがようやく腕を緩める。


 アイハナは二人の顔を順に見た。


「どっちも。」


 胸へ手を添える。


「アイが見てきたものも、ハナが生きてきたことも、全部ボクの中にある。」


「混乱しないのか?」


「してるよ。」


 正直に答えた。


「サーヤを見れば、ずっと一緒にいたって思う。同時に、初めて会った人だとも思う。団長たちも同じ。依頼をしてから一緒にいた記憶もあるし、もっと昔から知ってた気もする。」


 転生前の記憶は、まだ完全には戻っていない。


 声。


 雰囲気。


 共に過ごした時間。


 断片だけが今の三人と重なっている。


「でも、不思議と嫌じゃない。」


 自分の胸の中へ耳を澄ませるように目を閉じる。


「二人で考えてる感じじゃなくて、二人分知ってる一人になった感じ。」


 きたまくらは静かに頷いた。


「そうか。」


 それ以上、何者なのかを決めようとはしなかった。


 アイハナがそう感じているなら、それでいい。


「依頼のことだけど。」


 アイハナの方から切り出す。


 表情から笑みが消えた。


「伯爵への復讐は、今すぐ続けられない。」


 灰狼傭兵団の三人は黙って聞く。


「許したわけじゃない。」


 声は落ち着いていた。


 けれど、その奥にはハナが抱えてきた怒りが確かに残っている。


「家族を奪われたことも、十一年間憎んできたことも消えてない。でも、アイとして知ってる父の姿も、もう無視できない。」


 善政を敷いてきた領主。


 娘を愛した父親。


 家族を奪った命令者。


 全部、同じ伯爵だ。


「今のまま会ったら、何を言うか分からない。許せないって思うかもしれないし、顔を見たら殺したくなるかもしれない。」


 サーヤとリクの表情が僅かに硬くなる。


 けれど、アイハナは逃げずに続けた。


「それでも、殺したら終わりだって、もう思えない。」


 復讐を果たした先に空虚しかない可能性を、以前のハナも薄々理解していた。


 今は、その先で悲しむ人々の記憶まで自分の中にある。


「だから、依頼はここで止めたい。」


 きたまくらは迷わず答えた。


「分かった。」


「そんな簡単に?」


「依頼主が止めるって言ったんだ。俺たちが続ける理由はない。」


「報酬は……。」


「契約分は後で話す。今はいい。」


 アイハナは口を閉じた。


 復讐のために雇った傭兵。


 本来なら、契約が終われば関係も終わる。


 それなのに、きたまくらは自分が次にどうするのかを問い詰めようとしない。


 くららも、120も離れていく様子を見せなかった。


「依頼、終わったよ。」


 アイハナが確認するように言う。


「ああ。」


「じゃあ、ボクはもう依頼主じゃない。」


「ああ。」


「それでも、ここにいていいの?」


 声が僅かに弱くなる。


 ハナがずっと聞けなかった問い。


 契約がなくても。


 復讐という目的がなくても。


 自分はこの人たちの隣にいてよいのか。


 きたまくらは少しだけ眉を寄せた。


「お前、俺たちが依頼だから飯食わせて、寝てないのを心配して、怪我を見てたと思ってたのか?」


「……少し。」


「失礼な奴だな。」


 困ったように笑い、アイハナの頭へ手を置く。


 ハナなら警戒したかもしれない。


 アイなら素直に受け入れただろう。


 アイハナは一瞬だけ目を丸くし、そのまま動かなかった。


「依頼主じゃなく、仲間として来い。」


 きたまくらの手は大きく、温かかった。


「復讐以外に何をしたいか分からないなら、旅しながら探せばいい。俺たちは元々、そういう面倒な依頼も得意だからな。」


「それ、依頼じゃないよ。」


「じゃあ団長命令だ。」


「ボクは団員じゃない。」


「今からなればいい。」


 あまりにも当然のように言われ、アイハナは返事を失った。


 くららが隣で大きく頷く。


「賛成! これからはアイハナっちだね。ちょっと長いけど可愛い。」


「本当にそれで呼ぶの?」


「嫌?」


「……まだ分からない。」


「じゃあ、もっと考える。」


 すでにいくつもの候補を思い浮かべている顔だった。


 120は腕を組み、静かにアイハナを見る。


「団へ加わるなら、役割を決める必要があります。」


「120は反対じゃないの?」


「反対する理由がありません。」


 淡々と答える。


「《共振》と《共鳴》が統合された後の能力も確認が必要です。潜入、探索、撹乱の適性は高い。戦闘経験と領地運営の知識もある。戦力として有用です。」


「そういう言い方しかできないの?」


 くららが呆れた声を出す。


 120は一瞬だけ黙った。


 それから、ほんの僅かに視線を逸らす。


「……戻ってきて、良かったと思っています。」


 短い言葉だった。


 その一言を口にするために、どれだけ言葉を選んだのか、今のアイハナには分かる。


 ハナの記憶では、120はいつも事実だけを伝えていた。


 アイの感覚では、その不器用な言葉の奥まで自然に汲み取れた。


「ありがとう、120。」


 真っ直ぐ返すと、120は僅かに目を細めた。


「今後は無謀な単独行動を控えてください。」


「それは努力する。」


「努力では困ります。」


 いつもの調子へ戻った会話に、きたまくらとくららが笑う。


 アイハナも、少し遅れて笑った。


 その輪の中にいることが、不思議ではなくなっていた。


     ◇


 ゆうきは少し離れた場所から、その様子を見守っていた。


 アイハナの誕生。


 失われていた自分との再会。


 自分がアムへ辿り着いた時とは違う。


 ゆうきとアムは、離れていても別々の人間だった。


 アイとハナは、別々の人間として生きながら、元は一つだった。


 同じ再会でも、その形は全く異なる。


「良かったね。」


 隣へ立つアムへ声を掛ける。


「うん。」


 アムは穏やかに笑った。


 けれど、その瞳には僅かな疲れが滲んでいる。


 結界を維持しながら、二人の魂の変化を追い続けていた。長命者としての知識があっても、初めて目にする現象へ向き合う緊張は小さくない。


「少し座る?」


「大丈夫。」


 そう答えたものの、アムは近くの長椅子へ腰を下ろした。


 ゆうきも隣へ座る。


 朝の光が、砕けた窓から二人の足元へ伸びていた。


「アムが本を見つけなかったら、どうなってたんだろう。」


「分からない。」


 アムは正直に答える。


「でも、最後に決めたのはボクじゃないよ。あの二人自身。」


 文献は可能性を示しただけだった。


 魂が戻ろうとしていることを伝えた。


 けれど手を差し伸べたのはアイであり、その手を取ったのはハナだ。


「二人とも、強かった。」


「怖かったと思うけどね。」


「怖いから強いんだよ。」


 アムの言葉に、ゆうきは小さく笑う。


「アムも同じだった?」


「何が?」


「再会した時。」


 問い掛けの意味を理解し、アムは少しだけ目を伏せた。


「怖かったよ。」


 百年以上ではない。


 千年以上。


 懐かしい名前を、懐かしい相手が覚えていないかもしれない。


 気付いてもらえないかもしれない。


 自分だけが待ち続けていたのかもしれない。


 そんな恐怖は、今でも記憶へ残っている。


「でも、あの子たちはもっと大変。」


 アムはアイハナへ視線を向ける。


「再会した相手が、自分自身だったんだから。」


 ゆうきも同じ方向を見る。


 くららに何かを言われ、アイハナが困ったように笑っている。


 その表情には、まだ少しぎこちなさがある。


 けれど、一人になったことで二人の面影が薄れたのではない。


 むしろ、以前よりはっきり見えるようになった。


「これからだね。」


「うん。」


 魂が一つになって終わりではない。


 むしろここから、自分として生きる人生が始まる。


     ◇


 礼拝堂の外へ出ると、朝の空はすっかり明るくなっていた。


 古い石段の隙間から、小さな白い花が咲いている。


 アイハナは足を止め、その花を見下ろした。


 アイの記憶では、何度も見たことがある花だった。


 ハナの記憶では、名前も知らなかった。


「それ、春告げ花です。」


 サーヤが隣へ立つ。


「厳しい冬が終わる頃、最初に咲く花でございます。」


「知ってる。」


 答えた後、アイハナは少しだけ首を傾げた。


「ううん。知らなかったとも言えるのかな。」


 サーヤも一瞬迷い、それから穏やかに笑う。


「では、改めて覚えてくださいませ。」


「うん。」


 しゃがみ込み、花へ触れないよう指先を近づける。


 小さな花弁が朝風に揺れた。


 今までなら、ただ綺麗だと思っていた。


 今は、森の中で名前も知らず通り過ぎた花々の記憶もある。


 同じ景色が、二つの見方で胸へ入ってくる。


 世界が以前より少しだけ広く見えた。


「身体はどう?」


 アムが近づき、隣へしゃがむ。


「変な感じ。」


「痛みは?」


「もうない。でも、考えようとすると二つの答えが出てくる時がある。」


「例えば?」


「今すぐ伯爵邸へ帰りたいって思う。同時に、森の野営地へ戻りたいとも思う。」


 どちらも自分の帰る場所だった。


 片方を選ぶだけで、もう片方を置いていくような寂しさがある。


 アムは少し考える。


「両方行けばいいんじゃない?」


「そんな簡単でいいの?」


「簡単じゃないからって、難しく考える必要もないよ。」


 長く生きてきた者らしい、力の抜けた答えだった。


「今日は伯爵邸へ帰る。落ち着いたら灰狼傭兵団の野営地へ行く。どっちも大切なら、どっちも大切にすればいい。」


 アイハナは花を見つめながら、その言葉を胸へ落とす。


 どちらかだけ選ばなくていい。


 アイか、ハナか。


 伯爵家か、灰狼傭兵団か。


 愛か、憎しみか。


 今すぐ一つに決めなくてもいい。


「アムネジアさんって、思ったより適当だね。」


「アムでいいよ。」


「え?」


「ゆうきの友達なら、うちともこれから関わるだろうし。」


 アムは気軽に笑う。


「それに、長い名前で呼ばれるのあんまり好きじゃないんだ。」


「二つ名も?」


「それはもっと嫌。」


 即答だった。


 アイハナは思わず笑う。


「分かった。アム。」


「うん。」


 その呼び方に、アムの表情が少しだけ柔らかくなった。


 ゆうきも近くまで歩いてくる。


「体調が落ち着いたら、伯爵に話さないとね。」


 アイハナの笑みが静かに消えた。


「……うん。」


 避けられない。


 父として愛している。


 同時に、家族を奪った人間として憎んでいる。


 どちらの感情も、自分の中にある。


「怖い?」


「怖い。」


 今度は迷わず認めた。


「何を言うか、自分でも分からない。」


「それでいいと思う。」


 ゆうきは穏やかに答える。


「うまく話す必要はないよ。許すかどうかも、今決めなくていい。」


「ゆうきは、復讐をやめた方がいいって思わないの?」


「思わない。」


 即座に否定した。


「失った人にしか分からない痛みがある。外からやめろって言うのは簡単だから。」


 一度言葉を切り、アイハナを見る。


「でも、復讐だけで人生が終わってほしくないとは思ってた。」


 その願いは、ずっと変わっていない。


「今は?」


「今も同じ。」


 ゆうきは灰狼傭兵団の三人へ視線を向ける。


「ただ、終わった後に一人じゃないことは分かった。」


 きたまくらたち。


 伯爵家。


 そして、自分たち。


 アイハナには、もう複数の居場所がある。


「だから、ゆっくり決めればいい。」


 アイハナは小さく頷いた。


「ありがとう。」


     ◇


 帰路へつく前、アイハナは一度だけ礼拝堂を振り返った。


 割れた窓。


 亀裂の走った床。


 倒れたままの燭台。


 融合の跡は、建物のあちこちへ残っている。


「修理代、高そうだね。」


 アイの感覚が先に出た言葉だった。


 伯爵家の財政を考える癖。


「最初に気にするのがそこなのか。」


 きたまくらが呆れる。


「だって、壊したのボクだし。」


「半分は古かったせいだ。」


 120が壁の亀裂を確認しながら言う。


「全額を負担する必要はありません。」


「請求の話じゃなくない?」


 くららが笑う。


 何気ない会話が、朝の静かな道へ続いていく。


 アイハナはその中心を歩いていた。


 左にはサーヤとリク。


 右にはきたまくら、くらら、120。


 少し後ろにはゆうきとアム。


 どちらへ寄ればいいのか分からず、自然と真ん中を歩いている。


 それが今の自分らしい気がした。


 街へ近づくにつれ、人の声が聞こえ始める。


 市場の準備をする商人。


 走り回る子ども。


 焼き始めたパンの匂い。


 アイとして、何度も見てきた景色。


 ハナとして、警戒しながら歩いた景色。


 今はどちらでもない見え方をしていた。


 子どもが一人、道端の石へつまずき転んだ。


 アイハナは考えるより先に駆け寄る。


「大丈夫?」


 膝を擦りむいた少年が、涙を堪えながら頷く。


 その怪我を見て、アイの記憶はサーヤに手当てをしてもらった日を思い出す。


 ハナの記憶は、薬草もなく布を巻いただけで歩いた夜を思い出す。


 腰の小袋から布と薬を取り出し、手早く傷へ当てた。


「少し染みるよ。」


「……お姉ちゃん、誰?」


 少年の問いに、アイハナの手が一瞬だけ止まった。


 昨日までなら、アイと答えた。


 ハナなら、名前を教えず立ち去ったかもしれない。


 今は違う。


「アイハナ。」


 自分の名前を口にする。


 まだ少しだけ慣れない響き。


 それでも、胸の中へ確かに馴染んでいた。


「覚えにくい?」


 少年は首を横へ振った。


「変わった名前。」


「うん。うちもそう思う。」


 立ち上がった少年は、小さく礼を言って走っていく。


 その背中を見送りながら、アイハナは自分の指先へ目を落とした。


 人を助けたいと思う優しさ。


 迷わず手当てできる生存の知識。


 二人分あったからこそ、今できたことだった。


 どちらかが消えたのではない。


 失われた半分を取り戻した。


 その実感が、ようやく胸の奥へ静かに広がっていく。


 伯爵邸の屋根が遠くに見え始めた。


 門の向こうには、まだ向き合えていない父がいる。


 何を話すのか。


 何を聞くのか。


 答えは決まっていない。


 けれど、もう逃げるつもりはなかった。


 アイハナは一度立ち止まり、両側へ続く人々の顔を見る。


「行こう。」


 誰かに促される前に、自分から歩き出す。


 朝の光が石畳へ伸び、いくつもの影を一つの道へ重ねていた。


 二つの人生を抱いた少女は、自分の名前で初めての一歩を踏み出した。


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