第11話「アイハナ」中編 二人分の人生
礼拝堂を満たしていた光が、ゆっくりと形を変え始めた。
これまで二人を包んでいた淡い輝きは、外へ広がるのではなく、中心へ向かって静かに集まっていく。
光の中に見えていた二つの輪郭も、少しずつ重なっていた。
アイ。
ハナ。
それぞれの姿はまだ確かにそこにある。
けれど、境界だけが曖昧になり始めていた。
「……アム。」
ゆうきが小さく呼ぶ。
アムは答えず、光の流れを見つめ続けた。
先ほどまで礼拝堂を揺らしていた荒々しい力は、もう感じられない。
代わりに、深い水の中へ静かに沈んでいくような魔力が広がっている。
穏やかだった。
それでも、決して弱いものではない。
二つの魂が互いを押し退けるのではなく、長い時間を掛けて失われた形を思い出そうとしている。
そんな流れだった。
「二人は、どうなっているんだ。」
きたまくらの声は低い。
焦りを隠そうとしているのが分かる。
アムはすぐには答えなかった。
分からないことを、安心させるためだけに言葉で埋めたくなかった。
「たぶん、互いの記憶を見てる。」
「記憶?」
「自分が生きた二十四年だけじゃなくて、相手が生きてきた時間も。」
くららが胸元へ手を置く。
「それって……全部?」
「全部かどうかは分からない。でも、魂が一つへ戻るなら、どちらかの人生だけを残すことはできないと思う。」
サーヤの表情が僅かに揺れた。
アイの記憶。
幼い頃から共に過ごした時間。
初めて歩いた日も、熱を出した夜も、些細なことで喧嘩した日も。
それが知らない誰かの記憶と混ざってしまう。
そう考えれば、不安がないはずはなかった。
「お嬢様は……お嬢様のまま戻ってこられるのでしょうか。」
震える問いだった。
アムはサーヤを見る。
簡単に大丈夫とは言えない。
戻ってくる者は、今までと全く同じアイではない。
ハナもまた、同じだった。
「アイちゃんだけでは、戻ってこないと思う。」
サーヤの瞳へ涙が滲む。
けれど、アムは続けた。
「ハナちゃんだけでもない。二人が選んだのは、どちらかを消すことじゃないから。」
「では……。」
「二人分を持った、一人として戻ってくる。」
サーヤは光へ視線を戻した。
怖い。
それでも、アイが自分で選んだのなら。
その選択まで否定することはできなかった。
「なら、私は。」
涙を指先で拭い、静かに息を整える。
「お戻りになった方へ、きちんとお仕えします。」
リクが隣で僅かに目を見開く。
「サーヤ。」
「アイお嬢様が大切にされた方です。その方の人生も、もうお嬢様の一部になるのでしょう。」
声はまだ震えている。
けれど、迷いはなかった。
「でしたら、知らないままでいる方が失礼です。」
リクは何も答えなかった。
自分はどうするのか。
アイではない誰かを、同じように守れるのか。
問いは胸の奥へ残った。
けれど、光の中で手を繋いだ二人を見ていると、別人になるという考えだけでは足りない気がした。
アイが消えるのではない。
アイが選んだものを抱えて、先へ進もうとしている。
ならば、騎士としてすべきことは一つだった。
「私も同じです。」
リクは光へ向けて静かに頭を下げた。
「どのようなお姿で戻られても、お守りします。」
◇
白い世界が閉じた後も、アイとハナの意識は消えていなかった。
姿はない。
手もない。
それでも、互いが近くにいることだけは分かる。
言葉にしなくても、感情が伝わってきた。
アイの不安。
ハナの恐怖。
それと同じくらいの、前へ進みたいという意思。
無数の記憶が、二人の間を流れていく。
先ほどまでは一つずつ景色として見えていたものが、今はもっと速く、もっと深く混ざり始めていた。
アイが覚えている、伯爵の大きな手。
ハナが覚えている、欠けた器の感触。
サーヤが髪を結んでくれた朝。
盗賊団の仲間に初めて靴を渡された夜。
リクと剣の稽古をして転んだ痛み。
短剣の握り方を叩き込まれ、指の皮が破れた痛み。
どちらの記憶か、区別はまだできる。
けれど、感じたものはもう分けられなかった。
愛された温かさ。
奪われた悲しみ。
羨ましさ。
罪悪感。
怒り。
安心。
全てが同じ胸の中へ流れ込む。
『苦しい?』
アイの声がする。
『少し。』
ハナが答える。
『私も。』
『離したい?』
『離したくない。』
すぐに返ってきた。
それだけで、ハナの中にあった恐怖が僅かに薄れる。
誰かに必要とされることは、怖い。
失えば、また同じ痛みを知る。
それでも、アイの感情は嘘ではなかった。
自分を哀れんでいるのでもない。
罪滅ぼしのためでもない。
ただ、失いたくないと思っている。
自分がアイを失いたくないと思い始めているように。
『ねえ。』
アイの声が、少しだけ近くなる。
『ハナは、伯爵をどうしたい?』
避けては通れない問いだった。
魂が一つになっても、過去は消えない。
伯爵が下した命令によって、盗賊団が壊滅した事実も変わらない。
アイの父親。
ハナの家族を奪った領主。
どちらも同じ一人の男だった。
『まだ、許せない。』
ハナは正直に答えた。
『顔を見たら、殺したいと思うかもしれない。』
『うん。』
『でも、お前が悲しむことも分かる。』
それが一番苦しかった。
以前なら、伯爵を殺した後に誰が悲しむかなど考えなかった。
領民。
サーヤ。
リク。
そしてアイ。
今は、その全てが自分の記憶として存在している。
『復讐したい気持ちが消えたわけじゃない。』
『消さなくていいと思う。』
アイの答えに、ハナは驚く。
『いいの?』
『だって、消そうって言われて消せるものじゃないでしょ。』
アイの声は静かだった。
『私がお父さんを大切に思う気持ちも、ハナが家族を奪われて憎む気持ちも、どっちも本当だから。』
『矛盾してる。』
『うん。』
『一つになったら、もっと苦しくなるかもしれない。』
『それでも、一人でどっちかを選ぶよりいい。』
善か悪か。
許すか憎むか。
どちらか一つへ決めなければならないと思っていた。
けれど、人の心はそんなに単純ではない。
愛しながら怒ることもある。
憎みながら、その人が大切にしているものを知ってしまうこともある。
矛盾したまま、生きていくしかないこともある。
『すぐに答えを出さなくてもいいよ。』
『ずっと出なかったら?』
『その時は、ずっと考えよう。』
『一生?』
『私たち、二人分だから。時間もいっぱいあるよ。』
冗談のような言葉だった。
ハナは呆れながらも、僅かに笑った。
『変な理屈。』
『でも、少し楽になったでしょ?』
『少しだけ。』
感情が重なる。
笑った感覚が、どちらのものか分からなくなる。
それでも不快ではなかった。
◇
礼拝堂の外では、風が止んでいた。
光は二人の身体を完全に包み込み、足元には淡い輪が広がっている。
その輪に触れた石片が、小さく浮き上がった。
アイの《共振》。
ハナの《共鳴》。
二つの能力が同時に働いている。
けれど、先ほどのように互いを増幅し、周囲を壊す力ではない。
浮かんだ石片は柔らかな音を鳴らしながら輪の周囲を巡り、やがて元の場所へ静かに降りた。
「制御されている。」
120が目を細める。
「二人は意識を失っているように見えますが、能力は完全に制御下にある。」
「じゃあ、成功してるってこと?」
くららが尋ねる。
「成功の定義が分かりません。」
「また難しいこと言う。」
「ただ。」
120は一度言葉を止めた。
視線は光の中へ向けたまま。
「少なくとも、危険な状態ではない。」
くららの肩から、少しだけ力が抜けた。
「そっか。」
それでも、手はきたまくらの袖から離れない。
きたまくらは気付いていたが、何も言わなかった。
「団長。」
今度は120が呼ぶ。
「何だ。」
「依頼についてです。」
この状況で口にすることではないようにも思えた。
だが、120は先を考える。
戻ってきた時、ハナは以前のハナではない。
依頼主の意思も、目的も変化する可能性が高い。
「融合後、依頼主が一人の人格として成立した場合、契約の継続確認が必要です。」
「そうだな。」
「復讐を望まない可能性もある。」
「ああ。」
「その場合、契約は終了します。」
きたまくらは光の中を見つめたまま、静かに笑った。
「依頼が終わるだけだ。」
くららが顔を上げる。
「それだけ?」
「それ以上、何がある。」
きたまくらは当然のように続ける。
「依頼がなくなっても、あいつがいなくなるわけじゃない。」
120は一瞬だけ黙る。
「……合理的ではありません。」
「知ってる。」
「契約外の人間を団へ加えれば、食料、報酬、編成を見直す必要があります。」
「それも知ってる。」
「団員の合意も必要です。」
「反対する奴がいると思うか?」
野営地でハナへ食事を渡し、怪我をすれば薬を塗り、眠っていなければ見張りを代わってきた団員たち。
答えは考えるまでもなかった。
120は僅かに息を吐く。
「いませんね。」
「なら決まりだ。」
「まだ本人へ確認していません。」
「そこは戻ってきてからだな。」
くららがようやく袖から手を離し、大きく頷いた。
「じゃあ、名前何て呼べばいいんだろ。アイっち? ハナっち? アイハナっち?」
「最後は長い。」
「でも分かりやすいよ。」
普段通りの声が戻り始めている。
その明るさに、周囲の緊張も少しずつ解けていった。
◇
光の中で、アイとハナはさらに深い記憶へ触れていた。
白い天井。
電子音。
誰かの手。
先ほど見えた景色が、今度は少しだけ鮮明になる。
身体が動かない。
声も出せない。
けれど、誰かが近くにいる。
『大丈夫。』
遠くから聞こえる声。
泣いているような。
笑おうとしているような。
誰の声なのかは分からない。
それでも、忘れてはいけない人だった。
次に見えたのは、小さな画面の中に並ぶ色鮮やかな姿。
現実の顔ではない。
それぞれが選んだ姿。
そこでは、距離も年齢も関係なく、同じ時間を過ごしていた。
『アイハナー。』
誰かが呼ぶ。
明るい声。
別の誰かが笑う。
名前。
自分の名前。
アイハナ。
記憶の中の自分は、その呼び声へ楽しそうに返事をしていた。
きたまくら。
くらら。
120。
顔はまだ曖昧だ。
けれど、声や空気が今の三人と重なる。
『みんな……。』
アイとハナの意識が同時に呟く。
だから懐かしかった。
魂が覚えていた。
異なる姿。
異なる人生。
それでも、一緒に過ごした時間までは失われていなかった。
記憶はさらに奥へ進もうとする。
けれど、その先には濃い霧があった。
全てを一度に取り戻すことはできない。
無理に触れようとすると、白い天井と電子音だけが強く浮かび、胸の奥へ鋭い痛みが走る。
『ここは、まだ駄目。』
どちらからともなく、そう感じた。
今は進まなくていい。
失われた記憶は、これから少しずつ取り戻せばいい。
大切なのは、自分たちが誰だったかだけではない。
これから誰として生きるか。
『アイハナ。』
ハナが名前を確かめる。
『うん。』
アイが答える。
『アイでも、ハナでもある。』
『どっちでもない、じゃなくて?』
『どっちでもある。』
その言葉が、胸へ静かに馴染んでいく。
アイの明るさ。
ハナの強さ。
アイの寂しさ。
ハナの優しさ。
分けられていたものが、元の場所へ戻っていく。
どちらかが前へ出るのではない。
互いを押し込めるのでもない。
必要な時には、アイのように笑える。
必要な時には、ハナのように現実を見据えられる。
二つの人生が、一人の中で同時に息をしている。
『戻ろう。』
アイが言う。
『みんな待ってる。』
ハナも同じものを感じていた。
父。
サーヤ。
リク。
きたまくら。
くらら。
120。
ゆうき。
アム。
戻る場所が、一つではない。
それが少し不思議で、温かかった。
『手は?』
ハナが尋ねる。
『もう繋がなくても大丈夫。』
『本当に?』
『だって、もう離れてないから。』
二人の間にあった境界が、最後の光へ溶けていく。
手を離すのではない。
繋いだ手ごと、一つになる。
恐怖はまだ残っている。
それでも、今度は逃げなかった。
アイの記憶も。
ハナの記憶も。
失われた過去も。
まだ見えない未来も。
全てを抱えたまま、二人は同じ方向へ歩き出す。
◇
礼拝堂を包んでいた光が、ゆっくりと収束した。
「消える……。」
サーヤが息を呑む。
光そのものが消えているのではない。
中心に立つ一つの輪郭へ、吸い込まれている。
これまで並んでいた二つの影は、もう見えなかった。
代わりに、一人の少女がそこに立っている。
髪が光の中で揺れる。
顔立ちはまだよく見えない。
けれど、確かに呼吸をしていた。
一度。
ゆっくりと息を吸う。
その胸の動きを確認した瞬間、サーヤの目から涙が溢れた。
「お嬢様……。」
くららも両手で口元を覆う。
きたまくらは前へ出ようとして、踏み止まった。
まだ光は完全に消えていない。
最後まで、本人が戻ってくるのを待つ。
少女の瞼が僅かに動いた。
指先が震える。
足元へ広がっていた光の輪が細くなり、静かな音と共に消えていく。
礼拝堂へ朝の風が戻った。
砕けた窓から入り込んだ風が、少女の髪を優しく揺らす。
ゆっくりと、瞳が開かれた。
その目には、アイの柔らかさがあった。
同時に、ハナの静かな強さも宿っている。
誰も声を掛けられなかった。
何と呼べばいいのか。
誰が戻ってきたのか。
答えを待つように、全員が少女を見つめている。
少女は自分の手へ視線を落とした。
右手を開き、閉じる。
次に胸へ触れる。
そこには一つの鼓動しかない。
けれど、その中には二人分の時間が確かに流れていた。
顔を上げる。
伯爵家の人々。
灰狼傭兵団。
ゆうきとアム。
待っている全員の顔を、一人ずつ見つめていく。
何かを言おうとして、声が出ない。
喉の奥へ、いくつもの感情が詰まっていた。
長い間探していた場所へ、ようやく戻ってきた。
そんな感覚だけがある。
少女は一度だけ息を整えた。
そして、小さく口を開く。
「……ただいま。」
誰へ向けた言葉なのか。
本人にも、まだ分からなかった。
それでも、その場にいた全員へ確かに届いた。
サーヤが泣き崩れ、リクが顔を伏せる。
くららは声を上げて泣き、きたまくらは目元を押さえながら笑った。
120は静かに目を閉じ、ほんの僅かに口元を緩める。
アムは胸の前で手を重ね、ゆうきも隣で穏やかに笑っていた。
朝の光が少女を照らす。
アイでもあり。
ハナでもある。
失われていた一人の少女。
アイハナが、そこに立っていた。




