第11話 アイハナ 前編 触れた手
ハナの指先が、アイの手へ触れた。
ほんの僅かな接触だった。
それなのに、礼拝堂を満たしていた音が一斉に途切れた。
砕けた窓から吹き込んでいた風も、床を揺らしていた振動も、遠くで鳴っていたはずの街の鐘さえ消えたように感じられる。
静寂。
その中心で、二人の手だけが触れ合っていた。
ハナは息を止めた。
逃げようと思えば、まだ間に合う。
指先を離し、立ち上がり、礼拝堂の外へ走ればいい。きたまくらたちは必ず退路を作ってくれる。
十一年間、そうして生きてきた。
危険を感じたら離れる。
奪われる前に拒む。
信じて失うくらいなら、最初から何も持たない。
けれど、触れた指先から伝わってきたのは、奪おうとする力ではなかった。
震え。
アイも怖がっている。
差し伸べた手は温かく、それでも指先には隠しきれないほどの震えがあった。
自分だけではない。
何が起きるか分からないのは、アイも同じだった。
「……怖いの?」
掠れた声で尋ねる。
アイは少しだけ目を伏せた。
「うん。」
迷いのない返事だった。
「怖いよ。消えたくないし、お父さんやサーヤ、リクと離れたくない。今まで生きてきたことが全部なくなるのも嫌。」
それでも、手は引かれない。
「でも、ハナが一人で怖がるのは、もっと嫌。」
ハナの胸が、小さく軋んだ。
そんな言葉を向けられたことはなかった。
助ける。
守る。
可哀想だから。
そういう言葉なら、何度か聞いた。
だが、同じ場所へ立とうとする人はいなかった。
怖いまま、こちらへ手を伸ばしてくる人は。
「……馬鹿。」
声が震える。
「そうかも。」
アイは涙を浮かべたまま、少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、ハナの中で何かが崩れた。
復讐を支えていた怒りではない。
誰にも触れさせないよう固め続けてきた、もっと古い壁だった。
ハナはゆっくりと指を開く。
アイの手を逃がさないように。
確かめるように。
震える指を、その手へ重ねた。
そして、握った。
瞬間。
光が溢れた。
眩しいほど強いものではない。
目を焼くような白でも、闇を祓うような神聖な輝きでもなかった。
朝靄へ差し込む陽射しのような、輪郭の柔らかな光。
淡く、静かで、どこか懐かしい。
その光が二人の繋いだ手から広がり、ゆっくりと身体を包み始めた。
「アイ!」
「ハナ!」
サーヤとくららの声が同時に響く。
リクはアイへ駆け寄ろうとしたが、ゆうきが片腕を伸ばして制した。
「待って。」
「しかし!」
「今は、二人が選んだ。」
ゆうきの声は穏やかだった。
だが、その視線は光の中に立つ二人から離れない。
何が起きるか分からない。
危険がないとも言い切れない。
それでも、ここで外から引き離せば、二人の意思まで奪うことになる。
リクは歯を食いしばるように口を閉じた。
サーヤも胸元で両手を握り、祈るようにアイを見つめている。
きたまくらは一歩だけ前へ出た。
光の向こうにいるハナは、もうこちらを見ていない。
それでも、逃げようとしていないことだけは分かった。
「団長。」
くららの声が震える。
「ハナっち、大丈夫だよね。」
「分からん。」
きたまくらは正直に答えた。
「でも、あいつが決めた。」
だから今は信じる。
団長としてではない。
あの少女の居場所になろうと決めた一人として。
120は何も言わず、二人を包む光を見つめていた。
魔力の流れを読もうとする。
だが、理解できない。
強化でも、弱体化でも、転移でもない。
自分の知るどの能力にも当てはまらなかった。
「数値化できない。」
無意識に漏れた声へ、アムが静かに答える。
「魂だからね。」
アムもまた、光の中へ視線を向けていた。
古い文献の記述。
分かたれた魂。
再会によって失われる均衡。
そして、双方が受け入れた時にのみ始まる融合。
破れていたはずの頁の続きが、目の前で書かれているようだった。
「融合……。」
ゆうきが小さく呟く。
アムは頷く。
「たぶん。でも、誰かが誰かを飲み込むんじゃない。」
光の中に見える二つの輪郭。
どちらも消えていない。
「二人とも、自分から手を離してない。」
◇
アイは、音のない場所に立っていた。
礼拝堂ではない。
伯爵邸でもない。
辺りには何もなく、白い光だけがどこまでも続いている。
手の中には、まだ温もりがあった。
隣を見る。
ハナが立っている。
黒い髪。
鋭い瞳。
けれど、先ほどまでの苦痛は消えていた。
「ここは……。」
ハナが周囲を見回す。
「分からない。」
アイも同じように辺りへ目を向けた。
地面があるのかさえ曖昧なのに、不思議と立っていられる。
寒くもない。
熱くもない。
怖さだけが、少しずつ遠のいていた。
二人の繋いだ手だけが、ここが現実と繋がっていることを教えている。
「手、離す?」
アイが尋ねる。
ハナは一瞬だけ指先へ視線を落とした。
「……離したら、戻れると思う?」
「分からない。」
「またそれ。」
「だって、本当に分からないから。」
困ったように笑うアイを見て、ハナは僅かに息を吐いた。
その表情には、ほんの少しだけ呆れが混じっている。
「怖いのに、よく笑えるね。」
「ハナがいるから。」
「意味が分からない。」
「一人だったら、もっと怖かったと思う。」
その言葉に、ハナは返事をしなかった。
ただ、握っていた手へ僅かに力を込める。
白い空間の向こうで、小さな音がした。
子どもの笑い声。
二人が同時に顔を上げる。
白かった景色へ、色が滲み始める。
青い空。
明るい室内。
窓辺へ置かれた花。
幼いアイが、伯爵の腕の中で笑っていた。
「これは……。」
ハナの声が止まる。
記憶だ。
先ほど礼拝堂で流れ込んできた断片より、ずっと鮮明だった。
伯爵が幼い娘を抱き上げ、慣れない手つきで髪を撫でている。
『アイ。今日は何がしたい?』
『おそと!』
『昨日も外へ行っただろう。』
『きょうも!』
傍らでサーヤが笑い、少し離れた場所ではまだ若いリクが困ったように立っている。
温かな景色。
守られ、愛された時間。
ハナは目を逸らさなかった。
以前なら、胸を焼くような嫉妬だけが浮かんだはずだった。
今も苦しくないわけではない。
自分には与えられなかったもの。
喉から手が出るほど欲しかったもの。
けれど、幼いアイが笑っている姿を見ていると、その幸せを壊したいとは思えなかった。
「……楽しそう。」
ぽつりと漏れた声に、アイが横を見る。
「うん。」
「羨ましい。」
ハナは隠さなかった。
「ずるいって思う。お前は何も失わず、最初から全部持ってた。」
アイは俯きかけたが、手を握ったまま顔を上げた。
「うん。」
「否定しないの。」
「私が愛されてきたのは、本当だから。」
その言葉に、言い訳はなかった。
「ハナが羨ましいって思うことも、ずるいって思うことも、私には止められない。」
アイは自分の幼い姿を見つめる。
「でも、私もずっと寂しかった。」
景色が変わる。
祭りの人混み。
色鮮やかな飾り。
屋台から漂う甘い香り。
幼いアイは伯爵と手を繋ぎながら、何度も後ろを振り返っている。
『誰かいるのか?』
『ううん。』
『何か欲しい物でも見つけた?』
『違うの。』
首を横へ振りながら、それでも視線は人混みを探し続ける。
『誰かが、いる気がするの。』
幼い声が、二人の間へ残った。
ハナは何も言えなかった。
幸せだった。
それでも、欠けていた。
愛されていても埋まらない場所があった。
その空白が自分だったのだとしたら。
「私は、全部持ってたわけじゃないよ。」
アイは静かに言った。
「でも、それを理由にハナと同じだけ苦しかったなんて言うつもりもない。」
ハナの人生は、もっと過酷だった。
同じ魂だからといって、痛みまで同じ重さになるわけではない。
「違う人生だもんね。」
その一言に、ハナはゆっくりと頷いた。
「……うん。」
白い景色が再び揺れる。
今度は夜だった。
雨。
泥。
裸足で走る幼いハナ。
後ろから怒鳴り声が追いかけてくる。
転び、膝を擦りむき、それでも立ち上がる。
アイの手が震えた。
ハナは視線を逸らさない。
これは自分の人生だ。
隠したくても、もう隠せない。
幼いハナは森の中で力尽き、倒れ込んだ。
次に目を覚ました時、目の前には欠けた器があった。
湯気の立つ薄いスープ。
『食えるか?』
粗野な男の声。
警戒するハナへ、男は器を地面へ置いた。
『取らねぇよ。腹減ってるなら食え。話はそれからだ。』
少し離れた場所から、別の男が笑う。
『怖がらせんなよ。顔が怖ぇんだよ、お前は。』
『元からだ。』
『自覚あんのか。』
笑い声。
ハナは器へ手を伸ばす。
温かな湯気が顔へ触れた瞬間、幼い少女の瞳から涙が落ちた。
アイも涙を流していた。
だが、可哀想とは言わなかった。
「温かかった?」
代わりに、そう尋ねた。
ハナは少し驚いたようにアイを見る。
「……うん。」
「美味しかった?」
「薄かった。」
思い出すように、僅かに口元を緩める。
「でも、今まで食べた中で一番美味しかった。」
アイも泣きながら笑った。
「そっか。」
それだけだった。
哀れむのではなく、ハナが大切にしていたものを、そのまま受け取ろうとする言葉。
景色が次々と流れていく。
盗賊団の仲間に短剣を教わるハナ。
失敗して笑われ、怒って背を向ける少女。
誕生日も知らないハナのために、全員が勝手に日を決め、小さな菓子を分け合った夜。
酒に酔った男が、音程の外れた歌を歌っていた。
『今日からお前の生まれた日は今日だ!』
『勝手に決めないで。』
『じゃあ別の日にするか?』
『……今日でいい。』
渋々答えたハナの口元は、隠しきれないほど緩んでいる。
「笑ってる。」
アイが言う。
「笑うこともある。」
「今より素直そう。」
「うるさい。」
ハナは少しだけ睨んだ。
けれど、手は離さない。
記憶の中の幸せを、誰かと一緒に見ている。
それが不思議だった。
これまでは、思い出せば失った日の痛みまで蘇った。
だから楽しかった時間ほど、心の奥へ押し込めていた。
今は違う。
アイが隣にいる。
笑っていた自分を、否定せず見てくれている。
やがて景色は炎へ変わった。
笑い声が消える。
剣戟。
怒号。
倒れていく仲間。
十三歳のハナが、崩れた小屋の陰で息を潜めている。
助けに行きたい。
けれど、動けば見つかる。
声を出せば殺される。
目の前で家族が失われていく中、何もできなかった。
『逃げろ!』
最後に聞こえた声。
誰のものだったのか、今も分からない。
ハナは走った。
炎へ背を向けて。
振り返らずに。
逃げ延びた先で、一人になった。
白い空間へ戻っても、ハナは俯いたままだった。
「私だけ、生きた。」
声が掠れる。
「みんな死んだのに。」
アイは手を強く握った。
「逃げろって言われたんだよね。」
「……うん。」
「なら、みんなはハナに生きてほしかったんじゃないかな。」
「分からない。」
ハナは首を横へ振る。
「逃げるしかなかっただけかもしれない。私が邪魔だっただけかもしれない。」
「ハナ。」
アイの声が、少しだけ強くなる。
「さっき、私に人生を勝手に決めるなって言ったよね。」
ハナが顔を上げる。
「みんなが何を思ってたか、ハナが全部決めるのも違うと思う。」
「……。」
「少なくとも、最後に逃げろって言った人は、ハナが生きる道を残した。」
アイは涙を拭わなかった。
「復讐だけのためじゃなく、生きてほしかった可能性だってあるよ。」
その言葉は、ハナが最も見ないようにしてきたものだった。
復讐を捨てれば、家族を裏切る。
そう思わなければ、十一年間を歩けなかった。
けれど。
家族が本当に望んでいたのは、自分が憎しみの中で死ぬことだったのか。
答えはない。
もう誰にも聞けない。
だからこそ、復讐だけを答えにしてきた。
「私、どうしたらいいんだろう。」
初めて、誰にも聞かれない場所で本音が零れた。
きたまくらへ迷いを口にした時より、もっと幼く、弱い声だった。
「分からないよ。」
アイは答えを与えなかった。
「でも、一緒に考えることはできる。」
ハナは目を閉じる。
握った手の温もりが、胸の奥まで届いていた。
復讐をやめるとも、伯爵を許すとも、まだ言えない。
それでも、一人で答えを決めなくていい。
そのことだけは、少しずつ受け入れられた。
◇
礼拝堂では、二人を包む光が少しずつ強くなっていた。
静かな輝きは天井近くまで広がり、砕けた窓から差し込む朝日と重なっている。
誰も声を上げなかった。
今は、待つことしかできない。
サーヤは胸元で握った手を震わせていた。
光の中へアイの姿は見える。
目を閉じ、ハナと手を握ったまま動かない。
呼吸はしている。
それでも、今までとは違う存在になってしまうかもしれないという恐怖が消えなかった。
「お嬢様……。」
小さな声に、リクが僅かに顔を向ける。
彼も同じだった。
剣を振るう相手がいるなら守れる。
敵がいるなら前へ立てる。
だが、今起きていることには剣も盾も届かない。
「サーヤ。」
「はい。」
「アイ様は戻る。」
断言する声には、自分へ言い聞かせる響きがあった。
「必ず。」
サーヤは涙を堪えながら頷いた。
少し離れた場所では、くららがきたまくらの袖を握っていた。
普段なら誰かを励ます側へ回る少女が、今は言葉を失っている。
「団長。」
「ん?」
「ハナっち、帰ってくるよね。」
きたまくらは光の中を見つめた。
分からないとは、もう言わなかった。
「ああ。」
低く、はっきりと答える。
「帰ってくる。」
ハナが帰る場所は、もうある。
依頼主としてではない。
復讐を終えた後に何者になっても。
あの少女が戻りたいと思える場所を、灰狼傭兵団は残している。
120は腕を組み、黙っていた。
平静に見える。
だが、右手の指先だけが僅かに動き続けている。
何かを計算しようとしている時の癖だった。
「120。」
くららが呼ぶ。
「何ですか。」
「難しいこと考えなくていいよ。」
「考えていません。」
「嘘。」
120は僅かに眉を寄せた。
「……帰還後に必要な対応を考えています。」
「まだ帰ってきてないのに?」
「帰ってくる前提で考えるのが合理的です。」
言葉はいつも通りだった。
けれど、くららは小さく笑った。
「そっか。」
「何ですか。」
「何でもない。」
そのやり取りを聞きながら、きたまくらも僅かに口元を緩めた。
誰も、消える前提では考えていない。
それだけでよかった。
アムは光の変化を見つめ続けていた。
先ほどまで不安定だった魂の波が、少しずつ一つの流れへ変わり始めている。
二つがぶつかっているのではない。
混ざり合っている。
それも、一方が他方を飲み込む形ではなく、互いの輪郭を残したまま。
「大丈夫かもしれない。」
小さく漏れた声を、ゆうきが聞き取った。
「分かるの?」
「さっきまで、二つの音が喧嘩してた。」
アムは胸元へ手を添える。
「今は違う。同じ音になろうとしてる。」
ゆうきは光の中へ目を向けた。
「二人とも残る?」
「たぶん。」
まだ断言はできない。
それでも、アムの表情には先ほどまでなかった安堵が滲んでいた。
「二人が、互いの人生を拒んでないから。」
◇
白い空間の中で、アイとハナは再び歩き始めていた。
誰かに促されたわけではない。
前へ道が現れたわけでもない。
それでも、手を繋いだまま進めば、次の記憶へ辿り着けることが分かっていた。
景色は途切れながら続いていく。
アイがサーヤと初めて菓子を作った日。
塩と砂糖を間違え、リクだけが無言で最後まで食べたこと。
ハナが初めて潜入へ成功し、盗賊団の仲間から大げさに褒められた夜。
失敗も。
恥ずかしかったことも。
今まで誰にも話さなかった小さな秘密も。
隠すことができない代わりに、拒まれることもなかった。
「リク、優しいね。」
ハナが言う。
「うん。でも時々、過保護。」
「それはお前が危なっかしいからじゃない。」
「ハナに言われたくないなぁ。」
「私は自分でどうにかできる。」
「昨日、判断失ってたって120さんに言われてたよね。」
「……見てたの。」
「流れてきた。」
アイが少し笑う。
ハナは不満そうに眉を寄せたが、すぐに力を抜いた。
「120は、言い方がきつい。」
「でも、心配してた。」
「分かってる。」
その答えは思ったよりも早かった。
ハナ自身、もう気付いている。
120が自分を危険から遠ざけようとしていたこと。
くららが何も聞かず隣へ座ってくれたこと。
きたまくらが復讐の先まで考えてくれていたこと。
「灰狼傭兵団のこと、好きなんだね。」
「……仲間だと思ってる。」
少し間を置いた。
「向こうがどう思ってるかは知らないけど。」
「たぶん、家族だと思ってるよ。」
「どうして分かるの。」
「私も、みんなを見たから。」
きたまくらたちがハナへ向ける視線。
心配。
信頼。
そして、理由の分からない懐かしさ。
アイの中へも、それは記憶として流れ込んでいた。
「ハナが帰るのを待ってる。」
その言葉に、ハナの足が止まる。
帰る。
自分へ向けられたことのない言葉ではない。
盗賊団にいた頃は、何度も聞いた。
けれど家族を失ってから、自分には戻る場所などないと思っていた。
「……帰ってもいいのかな。」
「いいと思う。」
「依頼は終わるかもしれない。」
「関係ないよ。」
「何でお前が決めるの。」
「見れば分かるもん。」
アイは少し得意げに言った。
「きたまくらさん、絶対『依頼主じゃなくても来い』って言う顔してた。」
想像できてしまい、ハナは小さく息を漏らした。
笑いに近い音だった。
「……似てる。」
「誰に?」
「昔の家族に。」
少し乱暴で、不器用で、理屈より先に手を差し伸べるところが。
同じではない。
代わりでもない。
それでも、新しい家族になれるのかもしれない。
その可能性を認めた瞬間、白い空間の奥で何かが光った。
アイとハナは同時に顔を上げる。
これまで見てきた記憶とは違う。
どちらの二十四年にも存在しない景色だった。
白い天井。
一定の間隔で聞こえる、小さな電子音。
ぼやけた視界。
指先へ触れる誰かの手。
二人は足を止めた。
「これ……。」
アイの声が震える。
「私の記憶じゃない。」
「私にもない。」
それでも、知っている。
見覚えがある。
思い出そうとすると、胸の奥がひどく痛む。
白い天井の向こうから、誰かが名前を呼んでいた。
音は遠く、言葉までは聞き取れない。
けれど、その声を知っている。
大切だった。
失いたくなかった。
その感情だけが、強く残っている。
視界が変わる。
小さな画面。
笑い声。
色とりどりの姿。
遠く離れていても、同じ時間を過ごしていた人たち。
誰かが冗談を言い。
誰かが笑い。
誰かが静かに話を聞いている。
名前までは戻らない。
顔も輪郭だけ。
けれど、胸の奥にあった懐かしさの正体が少しずつ形を持ち始める。
「私たち……。」
アイが呟く。
「知ってた。」
ハナが続ける。
きたまくら。
くらら。
120。
理由の分からなかった懐かしさ。
向こうも、自分たちの魂へ惹かれていた。
転生前。
一人だった頃。
同じ時間を過ごした人たち。
全てはまだ戻らない。
記憶は霧の中にある。
それでも、繋がりだけは消えていなかった。
そして。
自分たちもまた、元は一人だった。
アイでもない。
ハナでもない。
けれど、二人のどちらでもある誰か。
その名前が、記憶の奥からゆっくり浮かび上がる。
「……アイハナ。」
二人の声が重なった。
それは新しく作った名前ではない。
ずっと前から知っていた。
失われていた、自分の名前。
白い空間が大きく揺れる。
周囲へ散らばっていた二人の記憶が、無数の光となって舞い上がった。
愛された二十四年。
傷ついた二十四年。
笑った日。
泣いた夜。
手に入れたもの。
失ったもの。
どちらも偽物ではない。
どちらかを捨てる必要もない。
アイはハナを見る。
ハナもアイを見ていた。
「消えたくない。」
アイが言う。
「私も。」
ハナが答える。
「ハナのこと、なくしたくない。」
「お前の人生も。」
繋いだ手へ、互いに力を込める。
「じゃあ、一緒に行こう。」
「どこへ。」
「分からない。」
「またそれ。」
「でも、今度は二人分あるよ。」
アイは笑った。
ハナも、ほんの少しだけ笑う。
「……そうだね。」
二人の輪郭が、静かな光へ溶け始める。
恐怖は消えていない。
けれど、一人ではない。
どちらかが終わるのではなく、二人で先へ進む。
その意思だけは同じだった。
光の中で、二つの声が最後に重なる。
「行こう。」
白い世界が、静かに閉じた。




