第10話「二つの人生」後編 限界
礼拝堂へ差し込む朝の光が、二人の間を静かに照らしていた。
誰も動かない。
アイも、ハナも。
互いの名を呼んだだけで、その先の言葉が見つからなかった。
昨日までは、もう一度会えたら聞きたいことがいくつもあった。
どうして自分を見たのか。
なぜ父を恨んでいるのか。
どこで生まれ、どんなふうに生きてきたのか。
けれど、こうして向かい合うと、どの問いもひどく遠回りに思えた。
ハナはフードの縁へ指を掛け、ゆっくりと後ろへ払った。
黒い髪が肩へ落ちる。
隠されていた顔が朝の光へ晒されると、アイの胸がもう一度大きく震えた。
似ているわけではない。
髪の色も、目つきも、纏っている空気も違う。
それなのに、目を逸らしてはいけない気がした。
「来てくれたんだね。」
アイの声は、僅かに掠れていた。
ハナはすぐには答えない。
入口から祭壇までの距離を確かめるように、礼拝堂の内部へ視線を巡らせる。
剣を抜いていない騎士。
アイの隣へ立つ従者。
少し離れた場所から二人を見守るゆうきとアム。
兵士の姿はない。
窓の外にも、隠れている気配は感じられなかった。
「罠じゃないんだ。」
「うん。」
アイは小さく頷いた。
「ただ、話したかった。」
「私と?」
「ハナと。」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
音ではない。
けれど、ハナには確かに聞こえた気がした。
忘れていたはずの場所から、自分を呼ぶ声。
十一年間、どれだけ耳を澄ませても聞こえなかったものが、今ここで一度だけ響いた。
ハナは無意識に胸元を押さえる。
その動きを見たアイも、同じように手を添えた。
まるで鏡のようだった。
くららが小さく息を呑む。
きたまくらは何も言わないまま、二人から目を離さなかった。
120だけが、視線を礼拝堂の床へ落とす。
石造りの床。
長椅子。
割れた窓枠。
まだ音は保存されていない。
それなのに、僅かな振動が建物全体へ広がっている。
「……始まっている。」
低い声だった。
アムが120へ顔を向ける。
「何が分かるの?」
「床が揺れている。地面ではない。あの二人を中心に、外側へ伝わっている。」
その言葉へ応えるように、祭壇の上へ残されていた小さな燭台が微かに鳴った。
金属同士が触れる、澄んだ音。
アイが息を止める。
《共振》を使ったつもりはない。
魔力も流していない。
「私、何もしてない。」
「ハナもだ。」
120はすぐに答えた。
その視線の先で、ハナの足元に落ちていた小石が小さく跳ねる。
音を保存した覚えもない。
けれど、《共鳴》は確かに反応していた。
自分の意思を無視するように。
アイが一歩、前へ出る。
その瞬間だった。
礼拝堂の窓が一斉に震えた。
割れかけた硝子が甲高い音を立て、長椅子の脚が石床を擦る。祭壇の燭台が倒れ、空だった器が転がって乾いた音を響かせた。
「アイ!」
リクがすぐに前へ出ようとする。
「待って。」
アムの声が制した。
「でも、このままでは――」
「今離した方が危ないかもしれない。」
アムは二人の間へ視線を向けたまま、静かに立ち上がる。
伝承に記されていた。
再会によって、均衡を失う。
目の前の現象は、能力の暴走だけでは説明できない。
「アイちゃん、ハナちゃん。無理に近づかなくていい。まず呼吸を整えて。」
アムの声は落ち着いていた。
だが、その指先には僅かな緊張が滲んでいる。
アイは言われた通り、ゆっくり息を吸った。
胸が痛い。
鋭い痛みではない。
内側から何かに引かれているような、言葉にできない苦しさだった。
ハナも眉を寄せる。
胸の奥で鳴る音が、少しずつ大きくなっている。
逃げろ。
長く染み付いた感覚が、そう告げていた。
未知の現象。
敵地。
周囲には伯爵家の者たち。
離脱するなら今しかない。
それでも足は動かなかった。
目の前の少女から離れた瞬間、もっと大切な何かを失う。
そんな恐怖の方が強かった。
「ハナ。」
きたまくらが背後から呼ぶ。
振り返らなくても分かる。
逃げ道は残してある。
自分が離れると決めれば、三人は必ず守ってくれる。
「無理なら戻れ。」
優しい声だった。
命令ではない。
選択を委ねる言葉。
ハナは目を閉じ、胸を押さえていた手をゆっくりと下ろした。
「……戻らない。」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
「まだ、何も聞いてない。」
アイの瞳が僅かに揺れる。
「私も。」
同じように手を下ろし、まっすぐハナを見る。
「ハナがどうやって生きてきたのか、まだ何も知らない。」
その言葉に、胸の痛みとは別のものが込み上げた。
怒り。
悲しみ。
羨ましさ。
アイは愛されて育った。
家族がいて、守ってくれる人がいて、街の誰からも笑顔を向けられていた。
自分にはなかったものを、全て持っている。
その事実だけを見れば、憎む理由は十分だった。
けれど、目の前のアイは何も知らなかった。
盗賊団が討伐されたことも。
その中に、自分がいたことも。
十一年間、復讐だけを支えに生きてきたことも。
「知らなくていい。」
ハナの声が硬くなる。
「知ったところで、何も変わらない。」
「それは、ハナが決めることじゃない。」
アイの返事は静かだった。
けれど、その奥には揺らがない芯がある。
「私が知りたいの。」
ハナの指が僅かに震える。
「何のために。」
「分からない。」
アイは正直に答えた。
「許してほしいわけじゃない。私のお父さんがしたことを、正しかったって言いたいわけでもない。」
朝の光の中で、アイは一度だけ目を伏せる。
「ただ、ハナの痛みを知らないまま、何も無かったみたいに生きるのは嫌なの。」
ハナは唇を噛んだ。
そんな言葉を求めていたわけではない。
謝罪が欲しかったわけでも、理解されたかったわけでもない。
伯爵を殺せば終わる。
そう思っていた。
終わらせるために、ここまで生きてきた。
それなのに、アイの言葉がその終わりを曖昧にする。
「家族だった。」
声が零れた。
誰も口を挟まない。
「盗賊だった。人から奪った。きっと、恨まれてた。」
胸の奥で何かが軋む。
「でも、私には家族だった。」
言葉にするたび、失った人たちの顔が浮かぶ。
鍋を囲んだ夜。
怪我をした自分へ薬を塗ってくれた手。
眠れない夜に、朝までくだらない話をしてくれた声。
「お前の父親が、全部奪った。」
リクの身体が僅かに動いた。
だが、アイは逃げなかった。
「うん。」
小さな返事だった。
否定しない。
言い訳もしない。
そのことが、ハナにはかえって苦しかった。
「領民を守るためだったって、分かってる。」
声が震える。
「討伐されても仕方なかったって、頭では分かってる。でも、それで私の家族が帰ってくるわけじゃない。」
「うん。」
「正しかったからって、私が悲しんじゃいけないわけじゃない。」
「うん。」
同じ返事を繰り返すたび、アイの目へ涙が滲んでいく。
それでも視線は逸らさなかった。
「私、ハナに許してほしいなんて言えない。」
その一言で、ハナの呼吸が止まる。
「でも、知りたい。ハナが大切にしてた人たちのことも、どんなふうに笑ってたのかも。」
「……どうして。」
ようやく絞り出した声は、幼い子どものようだった。
「どうして、そこまで。」
アイ自身にも、完全な答えは分からない。
けれど、胸の奥では確かなものがあった。
「ハナだから。」
その瞬間。
礼拝堂を包んでいた振動が、急激に強くなった。
石床へ細い亀裂が走り、長椅子が大きく揺れる。窓へ残っていた硝子が一斉に砕け、朝の光の中へ細かな破片が舞った。
「伏せろ!」
きたまくらが叫ぶ。
ゆうきは咄嗟に無属性の障壁を展開し、飛び散った破片を受け止めた。リクはサーヤを庇い、くららも身を低くして周囲を確認する。
120だけは二人を見たまま動かなかった。
「距離ではない。」
振動へ耐えながら、低く呟く。
「言葉に反応している。」
ハナの《共鳴》が、礼拝堂へ残された音を無差別に引き出していた。
かつてここで交わされた祈り。
旅人の足音。
子どもの笑い声。
別れを惜しむ泣き声。
何十年、何百年という時間の中で石壁へ染み込んだ音が、次々に解き放たれていく。
声が重なる。
誰のものとも分からない言葉が、礼拝堂を埋め尽くす。
同時に、アイの《共振》がその全てを揺らしていた。
保存された音。
石。
木。
硝子。
建物そのものが、二人の間で共鳴している。
「アム!」
ゆうきが振り返る。
アムはすでに動いていた。
指先へ魔力を集め、礼拝堂全体を包むように結界を展開する。外へ振動と音が漏れれば、周囲の建物まで巻き込む可能性がある。
「うちが抑える! ゆうきは皆を守って!」
「分かった!」
無属性の障壁が広がり、崩れ落ちた石片を受け止める。
きたまくらはハナへ駆け寄ろうとしたが、120が腕を掴んだ。
「待ってください。」
「このままにできるか!」
「今入れば、私たちまで現象へ巻き込まれる。それに――」
言葉の途中で、ハナが膝をついた。
「っ……!」
激しい頭痛。
頭蓋の内側へ直接、何かを流し込まれているようだった。
視界が白く染まり、目の前の礼拝堂が別の景色へ変わる。
明るい部屋。
柔らかな寝台。
窓辺で笑うサーヤ。
剣の稽古へ付き合うリク。
父親に抱き上げられた幼い少女。
知らないはずの記憶。
自分が生きたことのない二十四年。
「やめ……。」
頭を押さえ、必死に拒もうとする。
けれど、記憶は止まらなかった。
祭りの人混みで誰かを探す感覚。
毎年祝われる誕生日。
領民から向けられる笑顔。
愛されているのに、どこか足りない。
ずっと誰かを待っていた。
その寂しさまで、自分の中へ流れ込んでくる。
「ハナ……?」
アイもまた、膝をついていた。
視界へ飛び込んできたのは、暖かな伯爵邸とは正反対の景色だった。
薄暗い部屋。
怒鳴り声。
腕を掴まれる痛み。
裸足で夜道を走る幼い少女。
空腹で倒れた先に差し出された、欠けた木の器。
湯気の立つスープ。
『食え。話はそれからだ。』
粗野な声。
けれど、その声には初めて知る温もりがあった。
盗賊団。
家族。
笑い声。
そして、炎。
兵士。
血。
返事をしなくなった人たち。
十三歳の少女が一人で立ち尽くし、何もかも失った夜。
「……いや。」
涙が溢れた。
アイは胸を押さえ、息を吸おうとする。
苦しい。
悲しい。
それでも目を逸らせない。
これはハナの人生だ。
十一年間、誰にも渡さず抱えてきた痛み。
「こんな……。」
知らなかった。
簡単に知りたいと言ってしまった。
その言葉がどれだけ重いものだったのか、今ようやく分かった。
「ごめん……。」
謝罪が自然に零れる。
けれど、ハナは首を横へ振った。
「謝らないで。」
互いの声が、重なって聞こえた。
「これは、お前のせいじゃない。」
ハナは苦痛に顔を歪めながら、それでもアイへ視線を向ける。
アイが家族に愛されたことは罪ではない。
幸せに育ったことも。
何も知らなかったことも。
頭ではずっと分かっていた。
認めれば、復讐だけで生きてきた自分が崩れる気がして、見ないふりをしていただけだ。
「でも……。」
アイの声は震えていた。
「ハナは、ずっと一人で……。」
「一人じゃなかった。」
盗賊団がいた。
灰狼傭兵団がいる。
自分の人生には確かに、何もなかったわけではない。
「苦しかったけど、それだけじゃない。」
その言葉と共に、今度は別の記憶がアイへ流れ込む。
盗賊団の仲間と笑った日。
初めて短剣を持たせてもらった時。
失敗して怒られた夜。
みんなで分けた小さな菓子。
大切だった。
確かに幸せだった。
その人生を、悲劇だけで塗り潰してほしくなかった。
アイは涙を拭うこともできず、何度も頷いた。
「うん。」
声が上手く出ない。
「ちゃんと、あったんだね。」
ハナの中に。
愛された記憶が。
幸せだった時間が。
その事実に触れた瞬間、今までよりも強い痛みが二人を襲った。
「っ……!」
アイが倒れかける。
ハナも片手を床へつき、辛うじて身体を支える。
空気そのものが震え始めた。
アムの結界へ細かな亀裂が走る。
「これ以上は抑えきれない!」
額へ汗を浮かべながら、アムが叫ぶ。
結界を維持するだけなら難しくない。
だが、内側で起きているのは魔力の暴走ではない。
魂そのものが互いを求め、その余波が現実へ漏れ出している。
外側から押さえ込めば、二人の身体だけへ負担が集中する。
「解除した方がいいのか?」
ゆうきが障壁を維持したまま尋ねる。
「駄目。全部外へ流したら、街まで届くかもしれない。」
「なら、どうすれば。」
アムは答えられない。
文献には、再会によって均衡を失うとしか書かれていなかった。
どう止めるのか。
どう救うのか。
その答えは残されていない。
だからこそ、二人を見る。
流れ込む記憶に苦しみながらも、互いから目を逸らしていない。
拒絶していない。
むしろ、少しずつ距離を縮めようとしている。
「……違う。」
アムは息を呑んだ。
止めるものではない。
二つに分かれた魂は、長い時間を経てようやく互いへ辿り着いた。
今起きているのは暴走ではなく、限界まで引き離されていた魂が元へ戻ろうとする反応。
「アム?」
ゆうきが呼ぶ。
アムは二人を見つめたまま、静かに呟いた。
「……もう限界なんだ。」
「何が?」
「二人の魂が。」
声は震えていた。
「これ以上、離れたままではいられない。魂が一つへ戻ろうとしてる。」
その言葉を、ハナもアイも聞いていた。
一つへ戻る。
その意味を理解するには、痛みが強すぎた。
だが、恐怖だけは鮮明だった。
「戻ったら……。」
ハナが掠れた声を漏らす。
「私は、消えるの?」
礼拝堂の空気が一瞬だけ止まったように感じられた。
誰も簡単には答えられない。
アムにも分からない。
文献には、その先が残されていなかった。
「分からない。」
だから、正直に答えた。
「アイちゃんが消えるのか、ハナちゃんが消えるのか。二人とも残るのか……うちにも分からない。」
ハナの瞳へ恐怖が浮かぶ。
死ぬことは怖くなかった。
復讐のためなら、いつ命を失ってもいいと思っていた。
けれど今は違う。
灰狼傭兵団と過ごした時間。
きたまくらの言葉。
くららの笑顔。
120の不器用な優しさ。
ようやく、この先にも何かがあるかもしれないと思い始めた。
その瞬間に消えるかもしれないと言われて、怖くないはずがなかった。
アイも同じだった。
父。
サーヤ。
リク。
領民たち。
愛してくれた人々を忘れたくない。
自分がいなくなることも怖い。
けれど。
目の前で震えているハナを見た時、その恐怖より先に思った。
このまま一人で苦しませたくない。
アイは床へ手をつき、ゆっくりと身体を起こす。
「お嬢様!」
サーヤが駆け寄ろうとする。
だが、アイは小さく首を横へ振った。
「大丈夫。」
大丈夫ではない。
足へ力が入らず、視界も滲んでいる。
それでも立ち上がる。
一歩。
胸を引き裂くような痛みが走る。
もう一歩。
足元の石が震え、細かな欠片が跳ねる。
ハナはその姿を見つめていた。
「来ないで。」
拒む声には力がなかった。
「何が起きるか分からない。」
「うん。」
「お前も消えるかもしれない。」
「怖いよ。」
アイは素直に答えた。
涙を流しながら、それでも少しだけ笑う。
「すごく怖い。」
また一歩、近づく。
「でも、ハナをここへ置いて逃げる方が嫌。」
胸の痛みが増す。
互いの記憶がさらに流れ込む。
アイの中へ、十三歳のハナが復讐を誓った夜が。
ハナの中へ、幼いアイが祭りの人混みで誰かを探し続けた記憶が。
二人とも、ずっと探していた。
名前も顔も知らない半分を。
別々の場所で。
別々の人生を生きながら。
「私は、ハナの人生を奪いたくない。」
アイは震える声で続ける。
「私の人生も、無かったことにしたくない。」
ハナの目前まで来ると、ゆっくり膝をついた。
「だから、どっちかが消えるんじゃなくて……一緒に残る方法を探したい。」
「そんなこと、できるか分からない。」
「分からないね。」
アイは否定しなかった。
「でも、初めから諦めるのは嫌。」
ハナは目を伏せる。
自分とは違う。
何もかも持っているから、そんなことが言えるのだと思っていた。
けれど今は、アイの恐怖も流れ込んできている。
消えたくない。
家族と離れたくない。
それでも、自分へ手を伸ばそうとしている。
それは恵まれているからではない。
アイ自身が選んだ強さだった。
「ハナ。」
名前を呼ぶ。
責めるためでも、救うためでもない。
ただ、ここにいることを確かめるように。
アイは右手をゆっくりと差し伸べた。
白い指先が震えている。
恐怖を隠せてはいない。
それでも、手は引かれなかった。
「一緒に、知ろう。」
短い言葉だった。
何が起きるのか。
自分たちが何者なのか。
二つの人生が、これからどうなるのか。
まだ何も分からない。
だからこそ、一人ではなく二人で向き合いたい。
ハナは差し伸べられた右手を見つめた。
十一年前。
炎の中で伸ばしても、誰にも届かなかった手。
盗賊団のみんなを救えなかった手。
復讐のために短剣を握り続けた手。
その指が、小さく震える。
手を取れば、戻れない。
復讐だけを見ていた頃の自分には、もう戻れない。
何かを失うかもしれない。
それでも。
目の前の手は、自分を消すためではなく、一緒に残るために差し伸べられている。
ハナは震える右手を、ゆっくりと持ち上げた。
まだ、触れない。
あと少し。
指先が届くほど近くにあるのに、その僅かな距離だけが、二十四年分の人生よりも遠く感じられた。
アイは急かさなかった。
ただ、手を差し伸べたまま待っている。
礼拝堂を揺らしていた音が、少しずつ遠のいていく。
まるで世界そのものが、ハナの選択を静かに待っているようだった。
黒い瞳が、アイの手からその顔へ向けられる。
涙で濡れた瞳が、真っ直ぐ自分を見ていた。
ハナの指先が、もう一度震えた。
そして――。




