第10話「二つの人生」中編 近づく
夕暮れの鐘が鳴り終わっても、アムはしばらく古い頁から目を離せなかった。
窓の外では、昼の名残を引きずるような橙色が屋根の向こうへ沈み始めている。図書室へ差し込んでいた光も少しずつ弱まり、古びた文字の輪郭だけが薄暗さへ溶けていった。
――長く分かたれた魂は、再会によって均衡を失う。
読み違いではない。
何度見直しても、そこには同じ意味が記されている。
アムは頁の端へ指を置いたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「今すぐ、二人を引き合わせた方がいいのかな。」
独り言に近い声だった。
向かいに座っていたゆうきは、しばらく考えてから本を閉じた。
「それは、アムにも分からないんだよね。」
「うん。再会すれば魂が共鳴する。でも、その先に何が起きるかは書かれてない。」
文献には、分かたれた魂が再び惹かれ合うことまでは記されていた。
だが、元へ戻るのか。
そのまま二つの存在として生き続けるのか。
あるいは、片方だけが残るのか。
肝心な部分は、破れた頁と共に失われていた。
「無理に会わせるのも違う気がする。」
アムは本を閉じ、表紙へ手を添えた。
「二人とも、別々に二十四年を生きてきたんだよ。元が同じだったとしても、今の二人まで同じだって決めつけることはできない。」
「そうだね。」
「それに、うちが真実だと思ってるだけで、まだ仮説だから。」
ゆうきは頷き、椅子から立ち上がった。
「だったら、まずは伝え方を考えよう。」
「伯爵に?」
「うん。ハナたちがどこにいるかは分からないけど、アイはここにいる。少なくとも、何も知らないまま危険な目に遭わせるよりはいい。」
アムは少しだけ視線を落とした。
伝える。
その選択には責任が伴う。
もし自分の推測が間違っていれば、アイへ余計な期待を抱かせるかもしれない。
逆に黙っていれば、二人の身体へ何が起きるか分からない。
長く生きてきても、答えが見つからないことはある。
そういう時、アムはいつも一人で抱え込もうとしてきた。
けれど今は、隣にゆうきがいる。
答えを決めてくれるのではなく、迷うことを許してくれる親友が。
「……伯爵さんに話そう。」
顔を上げたアムの声には、まだ僅かな迷いが残っていた。
「ただし、真実だとは言わない。可能性だけを伝える。」
「分かった。」
二人は古書を丁寧に布で包み、図書室を後にした。
◇
伯爵の執務室では、リクが集めた報告を読み上げていた。
「市場周辺で確認された一団は、少なくとも十名以上。複数の場所へ分かれて行動しており、一般の冒険者にしては統率が取れています。」
机へ広げられた街の見取り図には、いくつもの印が付けられている。
商店前。
宿屋の裏手。
北門へ続く通り。
昨日、灰狼傭兵団の者と思われる人物が目撃された場所だった。
「傭兵か。」
「その可能性が高いかと。」
リクは地図の一点へ指を置いた。
「ただし、街へ危害を加えた形跡はありません。情報収集に徹していたようです。」
「令嬢を狙っていた可能性は?」
「否定はできません。」
伯爵は椅子へ深く腰掛け、指先で机を軽く叩いた。
危険人物であるなら捕らえるべきだ。
領主として考えれば、答えは単純だった。
だが、昨日のアイの様子を思い返すたび、その単純な答えへ踏み切れなくなる。
「お父さん。」
扉の外からアイの声が聞こえた。
「入っていい?」
「ああ。」
扉が開き、アイがサーヤを伴って部屋へ入る。
昼間より表情は落ち着いている。
それでも、胸の前で重ねられた指には僅かな力が入っていた。
「話があるの。」
伯爵はリクへ目を向ける。
退出させるべきか迷ったが、アイは小さく首を横へ振った。
「リクにも聞いてほしい。」
部屋の中央まで歩み、父の前へ立つ。
「昨日会った子を探したい。」
言葉はまっすぐだった。
朝には胸の内へあった願いが、ようやく行動へ変わったのだ。
リクの表情が僅かに険しくなる。
「危険です。相手は旦那様へ敵意を持っている可能性があります。」
「分かってる。」
「お分かりなら、なおさら――」
「でも、危険だから知らなくていいとは思えないの。」
アイは声を荒らげなかった。
ただ、目を逸らさずにリクを見る。
「私は守られてきた。お父さんにも、サーヤにも、リクにも。この街の人たちにも。」
言葉を選ぶように、一度息を吸う。
「だからこそ、守られなかった人のことを知らないままでいたくない。」
リクは返す言葉を失った。
アイは優しい。
それは誰もが知っている。
だが、その優しさは決して何も知らない無邪気さではない。
知ろうとする強さを伴っている。
伯爵は娘を静かに見つめた。
「もし、その少女がお前を利用しようとしていたらどうする。」
「それでも、まずは話す。」
「剣を向けられたら。」
「怖いと思う。」
アイは正直に答えた。
「でも、怖いからって、その人の人生まで無かったことにはしたくない。」
執務室へ静寂が落ちる。
窓の外では、夜へ向けて風が少し強くなり始めていた。
伯爵は目を閉じる。
領主として、娘を危険へ近づけることは許せない。
父親としても同じだった。
それでも、この願いを力で止めれば、アイが幼い頃から探し続けてきたものを、自分の手で遠ざけることになる。
「……分かった。」
低い声が静かに響く。
「ただし条件がある。」
アイの表情が僅かに明るくなる。
「単独では動かない。リクとサーヤを伴うこと。ゆうき殿とアムネジア殿にも同行を頼む。」
「うん。」
「相手が危険な行動を取った場合、私は領主として対処する。」
一瞬だけ、アイの瞳が揺れた。
それでも、ゆっくりと頷く。
「それでいい。」
伯爵はリクへ目を向けた。
「少女を探せ。捕縛ではない。接触を目的とする。」
「……承知しました。」
納得したわけではない。
それでもリクは一礼した。
自分の役目は、アイを止めることではなく、守ることだ。
ならば、たとえ敵の前へ進むことになっても、その隣へ立つしかない。
「それと。」
伯爵が言葉を続けようとした時、扉が叩かれた。
「伯爵さん。うちです。」
アムの声だった。
◇
机の上へ置かれた古書を前に、部屋の空気は先ほどまでとは違う緊張へ包まれていた。
アムは文献の内容を一つずつ説明した。
魂が極限の衝撃によって分かたれること。
それぞれ別の人生を歩む可能性があること。
再会すれば、互いを求めて共鳴すること。
ただし、あくまで古い伝承であり、確証はないこと。
「アイとハナが元は一人だった……。」
アイは椅子へ座ったまま、呆然と呟いた。
驚いているはずなのに、完全には否定できない。
むしろ、胸の奥にあった欠落が初めて言葉になったような感覚があった。
「まだ決まったわけじゃないよ。」
アムは向かいへ座り、慎重に言葉を重ねる。
「似た現象が起きているだけかもしれない。だから、うちも断言はできない。」
「でも。」
アイは胸へ手を添える。
「もし本当なら……私はずっと、あの子を探してたのかな。」
誰かが足りない。
忘れている誰かがいる。
幼い頃から抱えてきた感覚。
その空白の向こうに、黒髪の少女が立っている。
「それは、アイちゃん自身が確かめるしかないと思う。」
アムは答えを与えなかった。
「元々同じ魂だったとしても、今の二人は二十四年を別々に生きてきた。どっちかが偽物ってことにはならないから。」
アイはゆっくりと顔を上げる。
その言葉が、何より胸へ残った。
ハナの人生も本物。
自分の人生も本物。
どちらかを否定しなくていい。
「会って、話したい。」
先ほどより静かな声だった。
「その上で、あの子が何を選ぶのか知りたい。」
アムは小さく頷く。
「うん。」
伯爵は黙ったまま古書を見つめていた。
もし、この話が真実なら。
自分が討伐した盗賊団の生き残りは、娘の失われた半身だったことになる。
領主として下した判断が、知らぬ間に娘自身を傷つけていた。
そこまで考えたところで、指先へ力が入る。
だが、後悔だけで過去は変わらない。
ならば今できることは、逃げずに向き合うことだけだった。
「リク。」
「はい。」
「夜のうちに捜索態勢を整えろ。ただし兵を大きく動かすな。相手を刺激する。」
「少人数で?」
「ああ。こちらが捕らえるつもりではないと示す必要がある。」
リクは一礼し、部屋を出ていく。
その背中を見送りながら、ゆうきは窓の外へ視線を向けた。
街灯が一つずつ灯り始めている。
「向こうも、同じことを考えてるかもしれない。」
その言葉に、全員の視線が集まった。
「ハナも、アイに会おうとしてるかもしれないってこと?」
アイの問いに、ゆうきは頷く。
「昨日、あの場で立ち止まったのはアイだけじゃなかった。ハナも同じだったから。」
復讐を否定することはできない。
失った者にしか分からない痛みがある。
それでも、ハナが今も復讐だけを見ているなら、昨日あの場で剣を止めることはなかったはずだ。
「だから、無理に探し回るより、相手が動きやすい場所を作った方がいいかもしれない。」
「場所?」
「人が多すぎず、兵士に囲まれないところ。」
伯爵は少し考え、街の地図を広げた。
「西区画の古い礼拝堂。」
今は使われていない小さな建物だった。
市場からも近く、裏手には森へ抜ける道がある。
「かつて旅人が祈りに使っていた場所だ。周囲に民家も少ない。」
アムは地図へ目を落とす。
「そこで待つ?」
「相手がこちらを探しているなら、目に入る形で情報を流す。」
伯爵はアイへ視線を向ける。
「お前が明日の朝、礼拝堂へ行くと。」
「罠だと思われないかな。」
「だから兵は置かない。」
リクとサーヤ。
ゆうきとアム。
それだけなら、警戒されても逃げ道は残せる。
アイは地図の礼拝堂を見つめ、静かに頷いた。
◇
同じ夜。
灰狼傭兵団の野営地では、120が作戦の変更を正式に伝えていた。
「伯爵邸への侵入は延期する。」
広げられた地図を囲み、きたまくら、くらら、ハナが耳を傾ける。
「街へ入る人数も絞る。第一部隊から二名、第二部隊から二名を外周へ配置。私たち三人とハナで接触する。」
「正面から会いに行くの?」
くららが問い掛ける。
「相手が接触の意思を見せればな。」
「見せなかったら?」
「情報を集める。」
120は市場周辺へ印を付けた。
「伯爵令嬢がハナを探しているなら、必ず何らかの動きが出る。使用人、兵士、商人。情報は人を通じて流れる。」
きたまくらは地図を眺めながら顎へ手を当てる。
「向こうもこっちを警戒してる。大人数で動けば逃げられるな。」
「だから少人数です。」
「ハナは?」
きたまくらが本人へ視線を向ける。
「街へ入れるか。」
問い掛けは体調ではなく、覚悟を確かめるものだった。
ハナは短剣の柄へ触れた。
家族を奪った伯爵領。
兵士の姿を見るたび、胸の奥には今も怒りが浮かぶ。
その感情は消えていない。
消すつもりもなかった。
「行ける。」
「復讐はどうする。」
きたまくらの声は静かだった。
「会ってから決める。」
以前なら口にできなかった答えだった。
復讐する。
その言葉だけを支えに生きてきた。
今も、伯爵を許したわけではない。
それでも、知らないまま剣を振るうことだけはできなくなっている。
きたまくらはゆっくり頷く。
「なら、そうしよう。」
「反対しないの。」
「俺が決めることじゃない。」
焚き火へ薪を一本くべる。
「俺たちはお前の復讐を請け負った。でも、お前の人生まで請け負ったわけじゃない。」
炎が大きく揺れ、四人の顔を照らした。
「選ぶのはお前だ。ただし、選んだ後で一人にするつもりもない。」
くららが嬉しそうに笑う。
「そうそう。何選んでも、ご飯はちゃんと食べてもらうからね。」
「そこ?」
「大事だよ。」
ハナは僅かに口元を緩めた。
120はその様子を見た後、何も言わず地図へ視線を戻す。
感情は情報の一つ。
そう考えて再接触を選んだ。
だが、今はそれだけではない。
ハナが自分の意思で答えを探そうとしている。
その選択を守ることも、作戦の一部に加えていた。
「明日の朝、街へ入る。」
120が地図を丸める。
「今夜は休め。判断力が落ちた状態では接触させない。」
「分かった。」
会議はそれで終わった。
団員たちがそれぞれの持ち場へ戻っていく中、ハナだけは火の前へ残った。
炎の向こうに、アイの姿が浮かぶ。
もう一度会えば、何かが変わる。
その予感は、怖いほど確かだった。
◇
翌朝。
街の門が開くと同時に、灰狼傭兵団の四人は人混みへ紛れた。
きたまくらは旅商人に見える外套を羽織り、くららも普段より目立たない服装へ着替えている。120は髪をまとめ、視線だけで周囲を確認していた。
ハナは深くフードを被り、三人の少し後ろを歩く。
昨日とは街の見え方が違った。
道幅。
兵士の数。
逃走経路。
以前なら、それだけを確認していた。
今は、人の顔を見てしまう。
黒髪ではない少女。
背丈の似た女。
白い服を着た誰か。
自分が探していることに気付くたび、胸の奥が僅かに熱を持った。
「右の屋台。」
120が小さく告げる。
くららが自然な足取りで屋台へ近づき、果物を一つ手に取った。
「これ、おいくらですか?」
「二つで銅貨三枚だよ。」
「じゃあ二つ。そういえば、今朝から兵士さん少なくない?」
何気ない口調だった。
店主は警戒することもなく答える。
「ああ、何でも伯爵家のお嬢様が西の礼拝堂へ行くらしい。護衛を増やすと目立つからって、街中の巡回を少し変えたんだと。」
「お嬢様が?」
「若い娘を探してるらしいよ。昨日の市場にいたとか何とか。」
くららは果物を受け取り、笑顔で礼を言った。
少し離れた場所へ戻ると、120へ小声で伝える。
「西の礼拝堂。アイちゃんが来るって。」
「情報の流れ方が不自然に早い。」
120は街路の先へ視線を向ける。
「意図的に流している。」
「罠?」
ハナが尋ねる。
「可能性はある。」
短く答えた後、120は続ける。
「だが、兵士の配置が減っているという情報まで同時に流している。捕縛目的なら不自然だ。」
きたまくらが小さく笑う。
「向こうも話したいってことか。」
「断定はできません。」
「行くんだろ?」
「行きます。」
迷いのない返事だった。
四人は西区画へ向けて歩き始める。
道を進むほど市場の喧騒は遠ざかり、人通りも少なくなっていく。
ハナの胸の奥では、《共鳴》とは違う微かな音が鳴り始めていた。
まだ遠い。
それでも、確実に近づいている。
歩幅が無意識に早くなる。
「ハナ。」
きたまくらの声に、足を止めた。
「急ぐな。」
「……うん。」
深く息を吸う。
焦れば、また周囲が見えなくなる。
今度は自分の意思で会う。
昨日とは違う。
そう言い聞かせながら、再び歩き出した。
◇
古い礼拝堂は、街の外れにひっそりと残っていた。
白かったはずの石壁は風雨に晒され、ところどころ蔦に覆われている。小さな鐘楼には鐘もなく、扉の上へ刻まれた紋章も年月によって薄れていた。
それでも内部は掃除されていた。
割れた窓から朝の光が差し込み、長椅子の上へ斜めの影を落としている。
アイは祭壇の前へ立ち、両手を胸の前で重ねていた。
隣にはサーヤ。
入口近くにはリクが立ち、外の気配へ神経を向けている。
ゆうきとアムは少し離れた長椅子へ腰掛けていた。
「緊張してる?」
ゆうきの問いに、アイは小さく笑う。
「してる。」
隠しても仕方がない。
胸の奥は、朝から落ち着かなかった。
「でも、来てほしい。」
「来ると思うよ。」
ゆうきは静かに答える。
「ハナも、昨日のままでは終われないはずだから。」
アイは礼拝堂の扉へ視線を向けた。
外から風が吹き込み、床へ落ちていた小さな葉を転がしていく。
胸の奥で、微かな震えが強くなった。
「……来る。」
誰かの気配を見つけたわけではない。
足音もまだ聞こえない。
それでも、分かった。
《共振》が反応している。
指先まで伝わる、小さな震え。
昨日よりもはっきりしている。
アムも同時に立ち上がった。
「アイちゃん?」
「近い。」
その声へ応えるように、礼拝堂の外で砂利を踏む音がした。
一歩。
また一歩。
リクが剣の柄へ手を掛ける。
「リク。」
アイが静かに呼び止める。
剣を抜かないでほしい。
その意思を受け取り、リクは柄へ添えた手を離さなかったものの、刃を抜くことはしなかった。
扉の向こうで足音が止まる。
短い沈黙。
やがて、古びた扉がゆっくりと開いた。
朝の光を背負い、四つの影が礼拝堂へ伸びる。
先頭にはきたまくら。
その隣に120とくらら。
そして三人の少し後ろに、黒いフードを被った少女が立っていた。
アイの胸が強く震えた。
少女が顔を上げる。
黒い髪の奥から、あの瞳がこちらを見る。
ハナも動けなかった。
昨日より遠い距離。
兵士も、人混みもない。
それなのに、目が合った瞬間、周囲の全てが消えたように感じた。
「……アイ。」
ハナの唇から、初めてその名前が零れる。
アイは驚いたように目を見開き、それから僅かに笑った。
「ハナ。」
互いの名前が、誰もいない礼拝堂へ静かに響いた。
《共振》と《共鳴》が、同時に小さく鳴る。
まだ痛みはない。
ただ、長く離れていた何かが、ようやく同じ場所へ辿り着いたような音だった。




