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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
第二章 もうひとりの私へ

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第9話 光と闇


 朝の光が、伯爵邸の大きな窓から静かに差し込んでいた。


 白いレースのカーテンが風に揺れ、庭では庭師が朝露をまとった花々へ水を与えている。噴水の水音は穏やかで、遠くから聞こえる街の喧騒もまだ眠たげだった。


 アイは窓辺へ立ったまま、小さく息をついた。


 昨夜から、何度も同じ景色を見ている。


 それなのに胸の奥のざわめきだけは、少しも静まらなかった。


「お嬢様。」


 部屋の扉を控えめに叩く音がする。


「入って。」


 サーヤが朝食を載せた盆を持って部屋へ入ると、窓辺に立つアイの姿を見て足を止めた。


「……昨夜はあまり眠れませんでしたか。」


「顔に出てた?」


「ええ。小さい頃から、お嬢様は考え事をすると朝日を見ていらっしゃいますから。」


 アイは苦笑しながら椅子へ腰掛けた。


「隠してるつもりなんだけどなぁ。」


「私には分かります。」


 サーヤは温かい紅茶を差し出し、向かいへ静かに座る。


 湯気と共に立ち上る茶葉の香りが部屋を満たした。


「昨日のこと……ですか。」


 その一言に、アイの手が止まる。


 紅茶へ伸ばしかけた指先がわずかに揺れ、しばらくしてから小さく頷いた。


「うん。」


 窓の外へ視線を向ける。


 市場で見た、一人の少女。


 黒髪を揺らし、人混みの中へ消えていった後ろ姿。


 名前も知らない。


 どこから来たのかも分からない。


 それでも。


「初めて会った気がしなかった。」


 その言葉は、自分でも驚くほど自然に零れていた。


「懐かしい人に会ったような……そんな感じだったの。」


 サーヤは何も否定しない。


 幼い頃からアイを見てきたからこそ、その言葉が思いつきではないと分かっていた。


「《共振》が反応したのでしょうか。」


「最初はそう思った。でも違う気がする。」


 アイは胸へそっと手を当てる。


「ここがね。」


 ゆっくり目を閉じる。


「震えたの。」


 その時の感覚を思い返すだけで、胸の奥が小さく脈打つ。


 恐怖ではない。


 敵意でもない。


 嬉しいとも違う。


 もっと言葉にならない何かだった。


「昔からだったの。」


 アイは窓の外を眺めたまま、小さく続ける。


「お祭りでも、市場でも、人がたくさんいる場所へ行くと……つい誰かを探してる。」


「誰を、ですか。」


「分からない。」


 困ったように笑う。


「探したい人なんて、本当はいないはずなのに。」


 その笑顔が少しだけ寂しく見えて、サーヤは静かに視線を落とした。


 幼い頃から変わらない癖だった。


 人混みへ行けば、どこか遠くを見る。


 誰かを見つけるたび期待して、違うと分かると少しだけ肩を落とす。


 理由を尋ねても、


『何か忘れてる気がするの。』


 そう答えるだけだった。


 サーヤは紅茶を一口飲み、穏やかに口を開く。


「もう一度、お会いになりたいのですね。」


 アイは少しだけ考え、それから照れくさそうに笑った。


「うん。」


 短い返事だった。


 けれど、その一言には迷いがなかった。


「話してみたい。」


「理由を知りたい。」


「どうして、あの子を見た時だけ胸があんなに苦しくなったのか。」


 窓の外では、小鳥が枝から枝へ飛び移っている。


 その小さな羽音に耳を澄ませながら、アイは静かに呟いた。


「もし、もう一度会えたら……今度はちゃんと名前を聞こう。」


 その願いは、誰へ届くこともなく朝の風へ溶けていった。


     ◇


 同じ頃。


 街から離れた森の奥では、焚き火から細い煙が立ち上っていた。


 灰狼傭兵団の野営地は、朝の支度で静かに動き始めている。


 団員たちは武器を整え、水を汲み、朝食の準備を進めていた。


 その少し離れた場所で、ハナは一本の短剣を布で磨いていた。


 刃に映る自分の顔は、どこか疲れて見える。


 眠れなかった。


 目を閉じれば思い出す。


 市場で見た少女の姿を。


 あの一瞬だけ、自分の世界から復讐という言葉が消えてしまった。


 そんな自分が信じられなかった。


「朝から難しい顔。」


 背後から声が掛かる。


 振り返ると、くららが湯気の立つ木製のカップを二つ持って立っていた。


「ほら。まだ熱いから気を付けて。」


 ハナは受け取り、小さく礼を言う。


 くららは隣へ腰を下ろすと、森の木々を眺めながら笑った。


「昨日からずっと上の空だね。」


「……そんなことない。」


「あるある。」


 くららは肩を軽くぶつける。


「団長も120も気付いてる。でも二人とも聞かないだけ。」


 ハナは答えなかった。


 カップから立ち上る湯気を見つめる。


 温かい。


 昔なら、その温もりすら警戒していた。


 今は違う。


 それでも昨日から胸の奥にある違和感だけは、どうしても消えてくれなかった。


 くららは横目でその表情を見つめ、ふっと微笑む。


「ねぇ、ハナ。」


「……?」


「人ってさ、会った瞬間に『この人だ』って思うこと、あると思う?」


 問い掛けに、ハナはゆっくり顔を上げた。


 返事はしない。


 けれど、その沈黙だけで十分だった。


 くららはそれ以上追及せず、立ち上がる。


「焦らなくていいよ。」


 森を渡る朝風が二人の髪を揺らした。


「答えって、探そうとすると見つからないのに、歩いてる途中で急に目の前へ転がってきたりするから。」


 そう言い残し、くららは団員たちの元へ戻っていく。


 ハナは一人残され、冷め始めた湯気を見つめていた。


 ――もう一度、会えば分かる。


 そんな根拠のない考えが、静かに胸の奥で芽生え始めていた。


朝食を終えた頃、野営地の空気はいつもの賑やかさを取り戻していた。


 焚き火の周りでは団員たちが荷物をまとめ、武器の手入れをしながら軽口を叩き合っている。鳥の鳴き声に混じって金属を研ぐ音が響き、森を抜ける風が木々の葉を優しく揺らした。


 ハナはその輪から少し離れた切り株に腰掛け、地図を広げていた。


 伯爵領の見取り図。


 屋敷までの道。


 巡回する兵士の交代時間。


 逃走経路。


 何度も見返したはずなのに、視線は紙の上を滑るだけで頭へ入ってこない。


「集中できてないな。」


 静かな声に顔を上げる。


 120がいつの間にか向かいへ立っていた。


 長い黒髪を後ろで束ね、感情をほとんど表へ出さないその表情は、今日も変わらない。


 手には別の地図が握られていた。


「……ごめん。」


「謝る必要はない。集中できない理由があるなら、それを把握する方が先だ。」


 ハナの前へしゃがみ込み、地図へ目を落とす。


「昨日、市場で会った少女のことか。」


 図星だった。


 ハナの肩がほんの僅かに揺れる。


「否定しないんだな。」


「……できない。」


 短く答えると、120は小さく息をついた。


「昨日のお前は、いつもと違った。」


 責めるような口調ではない。


 事実を並べているだけだ。


「目標を見失ったわけではない。だが、一瞬だけ注意が逸れた。戦場なら命取りになる。」


 そこまで言うと、少しだけ言葉を選ぶように黙り込んだ。


「……とはいえ。」


 珍しく視線を逸らす。


「あの場面で同じ反応をしたのは、お前だけじゃない。」


 ハナはゆっくりと顔を上げた。


「きたまくらも、くららも、私も。」


 淡々と続ける。


「あの少女を見た瞬間、説明できない違和感があった。」


「違和感……?」


「懐かしい、という表現が近いかもしれない。根拠はない。だから今は分析対象に留めている。」


 それだけ言うと、120は立ち上がった。


「感情だけで作戦は変えない。」


「だが、感情を無視し続けると判断を誤る。」


 振り返らずに歩き出しながら、静かに付け加える。


「昨日の違和感を忘れろとは言わない。ただ、それに飲まれるな。」


 その背中を見送りながら、ハナは無意識に胸へ手を当てていた。


 まだ残っている。


 市場で目が合った、ほんの一瞬の感覚が。


     ◇


「全員そろったな。」


 広げられた地図を囲み、灰狼傭兵団の幹部三人とハナが腰を下ろす。


 きたまくらは木の枝で地図を軽く叩いた。


「今日の目的は一つだ。昨日集めた情報を整理して、明日以降の動きを決める。」


 くららが紙束を差し出す。


「市場で聞き込みした内容はこれ。兵士さんたち、結構おしゃべりだったよ。」


「お前だからだ。」


 120が呆れたように言う。


「普通なら警戒される。」


「えへへ、褒められちゃった。」


「褒めてない。」


 そんなやり取りに団長は苦笑しながら資料を受け取った。


「屋敷の警備は想定どおり。正面は堅いが、北側は巡回間隔が少し長い。」


 120が別の地図へ印を付ける。


「潜入するならここが最有力。」


「ただし。」


 ハナが口を開いた。


「昨日より見張りが増えてる。」


 三人の視線が集まる。


「市場で兵士同士が話してた。『令嬢が怪しい人物を見掛けた』って。」


 きたまくらは眉を上げた。


「お前、そこまで聞いてたのか。」


「……耳に入った。」


 くららが頬を掻く。


「ってことは、アイちゃんも私たちのこと気になってるのかな。」


 その名前を聞いた瞬間だった。


 ハナの胸が、また小さく脈打つ。


 理由は分からない。


 それでも、その名前だけが妙に心へ残る。


「アイ……。」


 思わず口の中で繰り返していた。


「知り合いか?」


 きたまくらの問いに、ハナは首を横へ振る。


「昨日、初めて見た。」


「そうか。」


 団長はそれ以上聞かなかった。


 代わりに静かに腕を組む。


「今回の依頼は復讐だ。」


 低く落ち着いた声が森へ溶ける。


「俺たちは依頼人の意思を尊重する。」


 誰も口を挟まない。


「でもな、ハナ。」


 きたまくらはまっすぐ彼女を見た。


「復讐を果たした先で、お前が空っぽになるような終わり方だけはさせたくない。」


 その言葉に、ハナは答えられなかった。


 盗賊団を失ってから十一年。


 考え続けてきたのは復讐だけだった。


 その先の人生なんて、一度も想像したことがない。


 きたまくらは少しだけ笑う。


「俺たちは傭兵だからな。依頼はやり遂げる。でも、それとお前の人生は別の話だ。」


 森を吹き抜けた風が地図の端をめくる。


 その音だけが、しばらく四人の間を流れていた。


沈黙を破ったのは、くららだった。


「団長、それだとちょっと分かりにくいよ。ハナっちが復讐したいなら手伝う。でも、終わったあとまで一人で立ってろとは言わない、ってことでしょ?」


「……お前は人の話を勝手に軽くするな。」


「軽くしてないよ。分かりやすくしてるの。」


 きたまくらは苦い顔をしたが、否定はしなかった。


 ハナは三人の顔を順に見る。


 依頼を受けただけの傭兵。


 本来なら、それ以上でもそれ以下でもないはずだった。


 それなのに彼らは、作戦より先に自分のその後を考えている。


 それが不思議で、同時に少しだけ怖かった。


「……どうして。」


「何がだ?」


「そこまで気にするの。」


 問い掛けると、きたまくらは腕を組んだまま首を傾げた。


「さあな。放っておけねぇからじゃ駄目か?」


 あまりにも迷いのない答えだった。


 くららも隣で大きく頷く。


「うん。ハナっちって、ちゃんと食べないし寝ないし、怪我しても黙ってるし。気にしない方が無理だよ。」


「それはただの監視対象では。」


 120が淡々と口を挟む。


 くららは不満そうに頬を膨らませた。


「そういう言い方するから冷たいって思われるんだよ。」


「事実を述べただけだ。」


「ほら、また。」


 120は一瞬だけ黙った。


 それからハナへ視線を向ける。


「……言い方が悪かった。」


 唐突な謝罪に、くららが目を丸くする。


 きたまくらも小さく笑った。


「珍しいな。」


「必要だと思ったから訂正しただけだ。」


 平静を装っているが、ほんの僅かに視線が泳いでいる。


 ハナはそれに気付き、何も言わず目を伏せた。


 胸の奥に、昔の記憶が触れる。


 言葉は不器用でも、行動だけは優しい人たち。


 食事を作ってくれた男。


 逃げ道を教えてくれた青年。


 笑うことを忘れないようにと酒瓶を掲げた男。


 記憶の中の声は、今でも消えていない。


「……私は。」


 声がうまく続かなかった。


 皆が待っている。


 急かさず、答えを押し付けず、ただこちらを見ている。


「復讐をやめるつもりはない。」


 きたまくらは頷いた。


「分かってる。」


「伯爵が正しかったことも、知ってる。」


 その言葉を口にした瞬間、喉の奥が狭くなった。


「盗賊団は人を襲った。商人から奪って、領民を困らせた。討伐されても仕方なかった。」


 地図の上へ落とした視線が、少しずつ滲んでいく。


 それでも、ハナは瞬きをしなかった。


「でも、私には家族だった。」


 誰も否定しない。


「正しかったからって、奪われたことが消えるわけじゃない。」


 風が止まり、森が一瞬だけ静かになった。


 きたまくらは地図から枝を離し、地面へ置いた。


「そうだな。」


 それだけだった。


 慰める言葉も、正しさを説く言葉もない。


 ハナは顔を上げる。


「……否定しないの。」


「できるわけねぇだろ。失ったのはお前だ。俺たちじゃない。」


 きたまくらの声は穏やかだった。


「外から見て正しいことと、当事者の痛みは別だ。どっちか一つに決める必要はない。」


 くららがそっと膝を抱える。


「悲しいものは、正論じゃ消えないもんね。」


 120はしばらく黙ったまま地図を見ていた。


「感情を論理で消すことはできない。できるのは、感情が判断を壊さないよう整理することだけだ。」


 冷たい言葉に聞こえる。


 けれど、その声はいつもより少しだけ柔らかかった。


「だから私は作戦を立てる。お前が後悔しないために。」


 ハナは返事をしなかった。


 代わりに、短剣の柄を握る指から少しだけ力を抜いた。


 復讐を否定されなかったことに安堵したのか。


 自分の痛みをそのまま受け止められたことが怖いのか。


 まだ分からない。


 ただ、昨日までは揺らがなかったはずの決意の隣に、別の何かが生まれていた。


 市場で見た少女。


 アイ。


 その名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が微かに震える。


「作戦は予定どおり進める。」


 120が地図へ指を置く。


「ただし、変更点が一つある。伯爵令嬢との接触は避ける。」


 ハナの視線が僅かに動いた。


「理由は?」


「昨日の反応が読めない。能力によるものか、別の要因か判断できていない以上、接触は危険だ。」


「でも向こうも探してるかもしれないよ?」


 くららの問いに、120はすぐ答える。


「だからこそだ。互いに目的が分からない状態で接触すれば、状況が制御できなくなる。」


「私なら制御できる。」


 ハナが言うと、120は真っ直ぐ見返した。


「昨日のお前はできていなかった。」


 容赦のない言葉だった。


 くららが咄嗟に口を開きかけるが、きたまくらが手で制する。


「続けろ。」


 120は一度だけ息を吸った。


「市場であの少女を見た瞬間、お前は周囲への警戒を失った。私たちがいなければ、兵士に囲まれていた可能性もある。」


「……。」


「責めているわけではない。だから判断材料が必要だと言っている。」


 ハナは反論できなかった。


 視線が合った一瞬。


 あの時、復讐も警戒も、十一年間積み重ねたもの全てが遠のいた。


 自分の中に、知らない感情が入り込んだようだった。


「会わなければ、分からない。」


 気付けば、そう口にしていた。


「危険でも?」


「うん。」


 120は黙る。


 きたまくらも、くららも口を挟まない。


「会えば……何か分かる気がする。」


 根拠はなかった。


 それでも今は、伯爵への復讐と同じくらい、その答えを知りたいと思っている。


 そんな自分を認めることが、何より怖かった。


 120は長い沈黙の後、地図から手を離した。


「なら条件を付ける。」


「条件?」


「単独接触は禁止。私たちの視界内で会うこと。異常が起きた場合は即座に離脱する。」


 くららが口元を緩める。


「それって、会ってもいいってこと?」


「合理的に見て、避け続ける方が問題を増やす可能性が高いと判断しただけだ。」


「はいはい。」


 きたまくらは小さく笑い、立ち上がった。


「決まりだな。復讐の件は進める。その上で、昨日の嬢ちゃんについても調べる。」


「依頼外。」


「気になるだろ?」


 きたまくらがそう言うと、120は僅かに眉を寄せた。


「……否定はしない。」


 森の隙間から差し込む光が、地図の上へ細く落ちていた。


 その光のすぐ隣には、木の枝が作る濃い影がある。


 どちらかだけでは、森の形は見えない。


 ハナはその境目を見つめながら、昨日出会った少女の名をもう一度、胸の内で繰り返した。


同じ頃、伯爵邸では朝の執務が始まっていた。


 重厚な扉の向こうでは、書類をめくる音だけが静かに響いている。


 窓から差し込む光は机の上をゆっくりと移り、山積みになった報告書の端を照らしていた。


 伯爵は一枚の報告書を閉じると、小さく目を伏せた。


「昨日の件は、それだけか。」


 向かいに立つリクが背筋を伸ばしたまま答える。


「はい。市場で令嬢様へ接近した様子はありません。ただ、周囲へ紛れ込んでいた者が数名いた可能性があります。」


「可能性、か。」


「確証はございません。」


 伯爵は椅子へ深く腰掛け、窓の外へ視線を向ける。


 市場は今日も多くの人で賑わっている。


 あの日と変わらない。


 盗賊団を討伐した日も、人々は同じように朝を迎えていた。


 守れた命がある。


 安心して荷を運べる商人がいる。


 夜道を恐れず歩ける子どもたちがいる。


 それは間違いなく、自分が守りたかった景色だった。


「……後悔はしていない。」


 ぽつりと漏れた言葉に、リクは顔を上げる。


「ですが。」


 伯爵は机の引き出しを開け、小さな木箱を取り出した。


 中には古びた短剣が一本だけ納められている。


 柄には盗賊団の印が刻まれていた。


「現場に残されていた物です。」


 リクが静かに説明する。


「所有者は特定できませんでした。」


 伯爵は短剣へそっと触れた。


 使い込まれた跡がある。


 丁寧に研がれ、大切に扱われていたことが分かる一本だった。


「盗賊も……人だった。」


 静かな声だった。


「家族がいた者もいただろう。守りたかった者もいたはずだ。」


 リクは返す言葉を探す。


「ですが、放置すれば領民に犠牲が出ていました。」


「ああ。」


 伯爵は頷く。


「だから私は命じた。」


 それが領主としての責務だった。


 正しい判断だったと、今も思っている。


 それでも。


「正しいことは、誰も傷付けないという意味ではない。」


 短剣を木箱へ戻し、静かに蓋を閉じる。


 その音だけが部屋へ小さく響いた。


「リク。」


「はい。」


「昨日、アイが見掛けたという少女。」


「危険人物と判断しております。」


「そうだろうな。」


 伯爵は苦笑する。


「私も領主としてなら、そう判断する。」


 しばらく沈黙が流れた。


「だが父親としては……。」


 そこで言葉を止める。


 アイが帰宅してから見せた、あの表情。


 幼い頃から抱え続けてきた欠落が、初めて形を持ったような顔だった。


 あれを見間違えるほど、娘を見てこなかったわけではない。


「調べてくれ。」


 リクは一礼する。


「捕らえますか。」


「いや。」


 伯爵は静かに首を振った。


「まずは知りたい。」


 何者なのか。


 なぜアイがあそこまで気に掛けるのか。


 その理由を。


     ◇


 昼を過ぎた頃。


 ゆうきとアムネは伯爵邸の庭園を歩いていた。


 色とりどりの花が咲き、風が吹くたびに甘い香りが漂う。


 アムネは一輪の白い花へしゃがみ込み、指先でそっと花弁へ触れた。


「……綺麗。」


 その横顔を見ながら、ゆうきが笑う。


「そういう顔してる時のアムって、本当に花が好きなんだな。」


「花だけじゃないよ。」


 アムネは立ち上がり、小さく肩をすくめた。


「季節がちゃんと巡ってるって分かる景色が好き。」


 その言葉に、ゆうきは少しだけ考えるように空を見上げる。


「長く生きると、一年って短く感じるの?」


「短いね。」


 アムネは苦笑した。


「でも、大切な人と過ごした一日は、何百年経っても覚えてる。」


 柔らかな風が二人の間を通り抜ける。


 しばらく無言で歩いていると、アムネが不意に立ち止まった。


「……ゆうき。」


「どうした?」


 返事をしながら振り返る。


 アムネは屋敷の向こう、市場のある方角をじっと見つめていた。


「昨日の子。」


「ハナ?」


「うん。」


 少しだけ困ったように眉を寄せる。


「何か引っ掛かるの。」


 ゆうきも表情を引き締めた。


「敵だから?」


「違う。」


 即座に首を横へ振る。


「ユニークスキルとも違う気がする。」


 言葉を探すように目を閉じる。


「昔……似た話を聞いたことがある気がするんだけど。」


「思い出せない?」


「うん。」


 記憶の奥に薄い霧が掛かっているようだった。


 あと少しで届きそうなのに、手を伸ばすたび遠ざかっていく。


 アムネは自分の胸へそっと手を当てる。


「昨日、アイちゃんとハナちゃんが目を合わせた瞬間だけ、この辺がね……。」


 小さく拳を握る。


「ぎゅってなった。」


 ゆうきは静かに耳を傾ける。


 否定もしない。


 答えを急かしもしない。


「アムがそこまで気になるなら、きっと何か理由があるんだろう。」


「でも、まだ分からない。」


「分からないなら、一緒に探せばいい。」


 その一言に、アムネは目を丸くした。


「決めつけるより、見て確かめよう。」


 ゆうきは笑う。


「人も、理由も、事情も。知らないまま決めるのは好きじゃないから。」


 アムネはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく笑みを浮かべる。


「……そういうとこ。」


「ん?」


「変わらないね。」


 その笑顔には、どこか懐かしさが滲んでいた。


 庭園を渡る風が二人の髪を揺らす。


 遠くでは鐘の音が街へ響き、人々はいつも通りの昼を過ごしている。


 誰もまだ知らない。


 光と闇。


 二つの人生が、再び交わろうとしていることを。

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