第9話 光と闇
朝の光が、伯爵邸の大きな窓から静かに差し込んでいた。
白いレースのカーテンが風に揺れ、庭では庭師が朝露をまとった花々へ水を与えている。噴水の水音は穏やかで、遠くから聞こえる街の喧騒もまだ眠たげだった。
アイは窓辺へ立ったまま、小さく息をついた。
昨夜から、何度も同じ景色を見ている。
それなのに胸の奥のざわめきだけは、少しも静まらなかった。
「お嬢様。」
部屋の扉を控えめに叩く音がする。
「入って。」
サーヤが朝食を載せた盆を持って部屋へ入ると、窓辺に立つアイの姿を見て足を止めた。
「……昨夜はあまり眠れませんでしたか。」
「顔に出てた?」
「ええ。小さい頃から、お嬢様は考え事をすると朝日を見ていらっしゃいますから。」
アイは苦笑しながら椅子へ腰掛けた。
「隠してるつもりなんだけどなぁ。」
「私には分かります。」
サーヤは温かい紅茶を差し出し、向かいへ静かに座る。
湯気と共に立ち上る茶葉の香りが部屋を満たした。
「昨日のこと……ですか。」
その一言に、アイの手が止まる。
紅茶へ伸ばしかけた指先がわずかに揺れ、しばらくしてから小さく頷いた。
「うん。」
窓の外へ視線を向ける。
市場で見た、一人の少女。
黒髪を揺らし、人混みの中へ消えていった後ろ姿。
名前も知らない。
どこから来たのかも分からない。
それでも。
「初めて会った気がしなかった。」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に零れていた。
「懐かしい人に会ったような……そんな感じだったの。」
サーヤは何も否定しない。
幼い頃からアイを見てきたからこそ、その言葉が思いつきではないと分かっていた。
「《共振》が反応したのでしょうか。」
「最初はそう思った。でも違う気がする。」
アイは胸へそっと手を当てる。
「ここがね。」
ゆっくり目を閉じる。
「震えたの。」
その時の感覚を思い返すだけで、胸の奥が小さく脈打つ。
恐怖ではない。
敵意でもない。
嬉しいとも違う。
もっと言葉にならない何かだった。
「昔からだったの。」
アイは窓の外を眺めたまま、小さく続ける。
「お祭りでも、市場でも、人がたくさんいる場所へ行くと……つい誰かを探してる。」
「誰を、ですか。」
「分からない。」
困ったように笑う。
「探したい人なんて、本当はいないはずなのに。」
その笑顔が少しだけ寂しく見えて、サーヤは静かに視線を落とした。
幼い頃から変わらない癖だった。
人混みへ行けば、どこか遠くを見る。
誰かを見つけるたび期待して、違うと分かると少しだけ肩を落とす。
理由を尋ねても、
『何か忘れてる気がするの。』
そう答えるだけだった。
サーヤは紅茶を一口飲み、穏やかに口を開く。
「もう一度、お会いになりたいのですね。」
アイは少しだけ考え、それから照れくさそうに笑った。
「うん。」
短い返事だった。
けれど、その一言には迷いがなかった。
「話してみたい。」
「理由を知りたい。」
「どうして、あの子を見た時だけ胸があんなに苦しくなったのか。」
窓の外では、小鳥が枝から枝へ飛び移っている。
その小さな羽音に耳を澄ませながら、アイは静かに呟いた。
「もし、もう一度会えたら……今度はちゃんと名前を聞こう。」
その願いは、誰へ届くこともなく朝の風へ溶けていった。
◇
同じ頃。
街から離れた森の奥では、焚き火から細い煙が立ち上っていた。
灰狼傭兵団の野営地は、朝の支度で静かに動き始めている。
団員たちは武器を整え、水を汲み、朝食の準備を進めていた。
その少し離れた場所で、ハナは一本の短剣を布で磨いていた。
刃に映る自分の顔は、どこか疲れて見える。
眠れなかった。
目を閉じれば思い出す。
市場で見た少女の姿を。
あの一瞬だけ、自分の世界から復讐という言葉が消えてしまった。
そんな自分が信じられなかった。
「朝から難しい顔。」
背後から声が掛かる。
振り返ると、くららが湯気の立つ木製のカップを二つ持って立っていた。
「ほら。まだ熱いから気を付けて。」
ハナは受け取り、小さく礼を言う。
くららは隣へ腰を下ろすと、森の木々を眺めながら笑った。
「昨日からずっと上の空だね。」
「……そんなことない。」
「あるある。」
くららは肩を軽くぶつける。
「団長も120も気付いてる。でも二人とも聞かないだけ。」
ハナは答えなかった。
カップから立ち上る湯気を見つめる。
温かい。
昔なら、その温もりすら警戒していた。
今は違う。
それでも昨日から胸の奥にある違和感だけは、どうしても消えてくれなかった。
くららは横目でその表情を見つめ、ふっと微笑む。
「ねぇ、ハナ。」
「……?」
「人ってさ、会った瞬間に『この人だ』って思うこと、あると思う?」
問い掛けに、ハナはゆっくり顔を上げた。
返事はしない。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
くららはそれ以上追及せず、立ち上がる。
「焦らなくていいよ。」
森を渡る朝風が二人の髪を揺らした。
「答えって、探そうとすると見つからないのに、歩いてる途中で急に目の前へ転がってきたりするから。」
そう言い残し、くららは団員たちの元へ戻っていく。
ハナは一人残され、冷め始めた湯気を見つめていた。
――もう一度、会えば分かる。
そんな根拠のない考えが、静かに胸の奥で芽生え始めていた。
朝食を終えた頃、野営地の空気はいつもの賑やかさを取り戻していた。
焚き火の周りでは団員たちが荷物をまとめ、武器の手入れをしながら軽口を叩き合っている。鳥の鳴き声に混じって金属を研ぐ音が響き、森を抜ける風が木々の葉を優しく揺らした。
ハナはその輪から少し離れた切り株に腰掛け、地図を広げていた。
伯爵領の見取り図。
屋敷までの道。
巡回する兵士の交代時間。
逃走経路。
何度も見返したはずなのに、視線は紙の上を滑るだけで頭へ入ってこない。
「集中できてないな。」
静かな声に顔を上げる。
120がいつの間にか向かいへ立っていた。
長い黒髪を後ろで束ね、感情をほとんど表へ出さないその表情は、今日も変わらない。
手には別の地図が握られていた。
「……ごめん。」
「謝る必要はない。集中できない理由があるなら、それを把握する方が先だ。」
ハナの前へしゃがみ込み、地図へ目を落とす。
「昨日、市場で会った少女のことか。」
図星だった。
ハナの肩がほんの僅かに揺れる。
「否定しないんだな。」
「……できない。」
短く答えると、120は小さく息をついた。
「昨日のお前は、いつもと違った。」
責めるような口調ではない。
事実を並べているだけだ。
「目標を見失ったわけではない。だが、一瞬だけ注意が逸れた。戦場なら命取りになる。」
そこまで言うと、少しだけ言葉を選ぶように黙り込んだ。
「……とはいえ。」
珍しく視線を逸らす。
「あの場面で同じ反応をしたのは、お前だけじゃない。」
ハナはゆっくりと顔を上げた。
「きたまくらも、くららも、私も。」
淡々と続ける。
「あの少女を見た瞬間、説明できない違和感があった。」
「違和感……?」
「懐かしい、という表現が近いかもしれない。根拠はない。だから今は分析対象に留めている。」
それだけ言うと、120は立ち上がった。
「感情だけで作戦は変えない。」
「だが、感情を無視し続けると判断を誤る。」
振り返らずに歩き出しながら、静かに付け加える。
「昨日の違和感を忘れろとは言わない。ただ、それに飲まれるな。」
その背中を見送りながら、ハナは無意識に胸へ手を当てていた。
まだ残っている。
市場で目が合った、ほんの一瞬の感覚が。
◇
「全員そろったな。」
広げられた地図を囲み、灰狼傭兵団の幹部三人とハナが腰を下ろす。
きたまくらは木の枝で地図を軽く叩いた。
「今日の目的は一つだ。昨日集めた情報を整理して、明日以降の動きを決める。」
くららが紙束を差し出す。
「市場で聞き込みした内容はこれ。兵士さんたち、結構おしゃべりだったよ。」
「お前だからだ。」
120が呆れたように言う。
「普通なら警戒される。」
「えへへ、褒められちゃった。」
「褒めてない。」
そんなやり取りに団長は苦笑しながら資料を受け取った。
「屋敷の警備は想定どおり。正面は堅いが、北側は巡回間隔が少し長い。」
120が別の地図へ印を付ける。
「潜入するならここが最有力。」
「ただし。」
ハナが口を開いた。
「昨日より見張りが増えてる。」
三人の視線が集まる。
「市場で兵士同士が話してた。『令嬢が怪しい人物を見掛けた』って。」
きたまくらは眉を上げた。
「お前、そこまで聞いてたのか。」
「……耳に入った。」
くららが頬を掻く。
「ってことは、アイちゃんも私たちのこと気になってるのかな。」
その名前を聞いた瞬間だった。
ハナの胸が、また小さく脈打つ。
理由は分からない。
それでも、その名前だけが妙に心へ残る。
「アイ……。」
思わず口の中で繰り返していた。
「知り合いか?」
きたまくらの問いに、ハナは首を横へ振る。
「昨日、初めて見た。」
「そうか。」
団長はそれ以上聞かなかった。
代わりに静かに腕を組む。
「今回の依頼は復讐だ。」
低く落ち着いた声が森へ溶ける。
「俺たちは依頼人の意思を尊重する。」
誰も口を挟まない。
「でもな、ハナ。」
きたまくらはまっすぐ彼女を見た。
「復讐を果たした先で、お前が空っぽになるような終わり方だけはさせたくない。」
その言葉に、ハナは答えられなかった。
盗賊団を失ってから十一年。
考え続けてきたのは復讐だけだった。
その先の人生なんて、一度も想像したことがない。
きたまくらは少しだけ笑う。
「俺たちは傭兵だからな。依頼はやり遂げる。でも、それとお前の人生は別の話だ。」
森を吹き抜けた風が地図の端をめくる。
その音だけが、しばらく四人の間を流れていた。
沈黙を破ったのは、くららだった。
「団長、それだとちょっと分かりにくいよ。ハナっちが復讐したいなら手伝う。でも、終わったあとまで一人で立ってろとは言わない、ってことでしょ?」
「……お前は人の話を勝手に軽くするな。」
「軽くしてないよ。分かりやすくしてるの。」
きたまくらは苦い顔をしたが、否定はしなかった。
ハナは三人の顔を順に見る。
依頼を受けただけの傭兵。
本来なら、それ以上でもそれ以下でもないはずだった。
それなのに彼らは、作戦より先に自分のその後を考えている。
それが不思議で、同時に少しだけ怖かった。
「……どうして。」
「何がだ?」
「そこまで気にするの。」
問い掛けると、きたまくらは腕を組んだまま首を傾げた。
「さあな。放っておけねぇからじゃ駄目か?」
あまりにも迷いのない答えだった。
くららも隣で大きく頷く。
「うん。ハナっちって、ちゃんと食べないし寝ないし、怪我しても黙ってるし。気にしない方が無理だよ。」
「それはただの監視対象では。」
120が淡々と口を挟む。
くららは不満そうに頬を膨らませた。
「そういう言い方するから冷たいって思われるんだよ。」
「事実を述べただけだ。」
「ほら、また。」
120は一瞬だけ黙った。
それからハナへ視線を向ける。
「……言い方が悪かった。」
唐突な謝罪に、くららが目を丸くする。
きたまくらも小さく笑った。
「珍しいな。」
「必要だと思ったから訂正しただけだ。」
平静を装っているが、ほんの僅かに視線が泳いでいる。
ハナはそれに気付き、何も言わず目を伏せた。
胸の奥に、昔の記憶が触れる。
言葉は不器用でも、行動だけは優しい人たち。
食事を作ってくれた男。
逃げ道を教えてくれた青年。
笑うことを忘れないようにと酒瓶を掲げた男。
記憶の中の声は、今でも消えていない。
「……私は。」
声がうまく続かなかった。
皆が待っている。
急かさず、答えを押し付けず、ただこちらを見ている。
「復讐をやめるつもりはない。」
きたまくらは頷いた。
「分かってる。」
「伯爵が正しかったことも、知ってる。」
その言葉を口にした瞬間、喉の奥が狭くなった。
「盗賊団は人を襲った。商人から奪って、領民を困らせた。討伐されても仕方なかった。」
地図の上へ落とした視線が、少しずつ滲んでいく。
それでも、ハナは瞬きをしなかった。
「でも、私には家族だった。」
誰も否定しない。
「正しかったからって、奪われたことが消えるわけじゃない。」
風が止まり、森が一瞬だけ静かになった。
きたまくらは地図から枝を離し、地面へ置いた。
「そうだな。」
それだけだった。
慰める言葉も、正しさを説く言葉もない。
ハナは顔を上げる。
「……否定しないの。」
「できるわけねぇだろ。失ったのはお前だ。俺たちじゃない。」
きたまくらの声は穏やかだった。
「外から見て正しいことと、当事者の痛みは別だ。どっちか一つに決める必要はない。」
くららがそっと膝を抱える。
「悲しいものは、正論じゃ消えないもんね。」
120はしばらく黙ったまま地図を見ていた。
「感情を論理で消すことはできない。できるのは、感情が判断を壊さないよう整理することだけだ。」
冷たい言葉に聞こえる。
けれど、その声はいつもより少しだけ柔らかかった。
「だから私は作戦を立てる。お前が後悔しないために。」
ハナは返事をしなかった。
代わりに、短剣の柄を握る指から少しだけ力を抜いた。
復讐を否定されなかったことに安堵したのか。
自分の痛みをそのまま受け止められたことが怖いのか。
まだ分からない。
ただ、昨日までは揺らがなかったはずの決意の隣に、別の何かが生まれていた。
市場で見た少女。
アイ。
その名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が微かに震える。
「作戦は予定どおり進める。」
120が地図へ指を置く。
「ただし、変更点が一つある。伯爵令嬢との接触は避ける。」
ハナの視線が僅かに動いた。
「理由は?」
「昨日の反応が読めない。能力によるものか、別の要因か判断できていない以上、接触は危険だ。」
「でも向こうも探してるかもしれないよ?」
くららの問いに、120はすぐ答える。
「だからこそだ。互いに目的が分からない状態で接触すれば、状況が制御できなくなる。」
「私なら制御できる。」
ハナが言うと、120は真っ直ぐ見返した。
「昨日のお前はできていなかった。」
容赦のない言葉だった。
くららが咄嗟に口を開きかけるが、きたまくらが手で制する。
「続けろ。」
120は一度だけ息を吸った。
「市場であの少女を見た瞬間、お前は周囲への警戒を失った。私たちがいなければ、兵士に囲まれていた可能性もある。」
「……。」
「責めているわけではない。だから判断材料が必要だと言っている。」
ハナは反論できなかった。
視線が合った一瞬。
あの時、復讐も警戒も、十一年間積み重ねたもの全てが遠のいた。
自分の中に、知らない感情が入り込んだようだった。
「会わなければ、分からない。」
気付けば、そう口にしていた。
「危険でも?」
「うん。」
120は黙る。
きたまくらも、くららも口を挟まない。
「会えば……何か分かる気がする。」
根拠はなかった。
それでも今は、伯爵への復讐と同じくらい、その答えを知りたいと思っている。
そんな自分を認めることが、何より怖かった。
120は長い沈黙の後、地図から手を離した。
「なら条件を付ける。」
「条件?」
「単独接触は禁止。私たちの視界内で会うこと。異常が起きた場合は即座に離脱する。」
くららが口元を緩める。
「それって、会ってもいいってこと?」
「合理的に見て、避け続ける方が問題を増やす可能性が高いと判断しただけだ。」
「はいはい。」
きたまくらは小さく笑い、立ち上がった。
「決まりだな。復讐の件は進める。その上で、昨日の嬢ちゃんについても調べる。」
「依頼外。」
「気になるだろ?」
きたまくらがそう言うと、120は僅かに眉を寄せた。
「……否定はしない。」
森の隙間から差し込む光が、地図の上へ細く落ちていた。
その光のすぐ隣には、木の枝が作る濃い影がある。
どちらかだけでは、森の形は見えない。
ハナはその境目を見つめながら、昨日出会った少女の名をもう一度、胸の内で繰り返した。
同じ頃、伯爵邸では朝の執務が始まっていた。
重厚な扉の向こうでは、書類をめくる音だけが静かに響いている。
窓から差し込む光は机の上をゆっくりと移り、山積みになった報告書の端を照らしていた。
伯爵は一枚の報告書を閉じると、小さく目を伏せた。
「昨日の件は、それだけか。」
向かいに立つリクが背筋を伸ばしたまま答える。
「はい。市場で令嬢様へ接近した様子はありません。ただ、周囲へ紛れ込んでいた者が数名いた可能性があります。」
「可能性、か。」
「確証はございません。」
伯爵は椅子へ深く腰掛け、窓の外へ視線を向ける。
市場は今日も多くの人で賑わっている。
あの日と変わらない。
盗賊団を討伐した日も、人々は同じように朝を迎えていた。
守れた命がある。
安心して荷を運べる商人がいる。
夜道を恐れず歩ける子どもたちがいる。
それは間違いなく、自分が守りたかった景色だった。
「……後悔はしていない。」
ぽつりと漏れた言葉に、リクは顔を上げる。
「ですが。」
伯爵は机の引き出しを開け、小さな木箱を取り出した。
中には古びた短剣が一本だけ納められている。
柄には盗賊団の印が刻まれていた。
「現場に残されていた物です。」
リクが静かに説明する。
「所有者は特定できませんでした。」
伯爵は短剣へそっと触れた。
使い込まれた跡がある。
丁寧に研がれ、大切に扱われていたことが分かる一本だった。
「盗賊も……人だった。」
静かな声だった。
「家族がいた者もいただろう。守りたかった者もいたはずだ。」
リクは返す言葉を探す。
「ですが、放置すれば領民に犠牲が出ていました。」
「ああ。」
伯爵は頷く。
「だから私は命じた。」
それが領主としての責務だった。
正しい判断だったと、今も思っている。
それでも。
「正しいことは、誰も傷付けないという意味ではない。」
短剣を木箱へ戻し、静かに蓋を閉じる。
その音だけが部屋へ小さく響いた。
「リク。」
「はい。」
「昨日、アイが見掛けたという少女。」
「危険人物と判断しております。」
「そうだろうな。」
伯爵は苦笑する。
「私も領主としてなら、そう判断する。」
しばらく沈黙が流れた。
「だが父親としては……。」
そこで言葉を止める。
アイが帰宅してから見せた、あの表情。
幼い頃から抱え続けてきた欠落が、初めて形を持ったような顔だった。
あれを見間違えるほど、娘を見てこなかったわけではない。
「調べてくれ。」
リクは一礼する。
「捕らえますか。」
「いや。」
伯爵は静かに首を振った。
「まずは知りたい。」
何者なのか。
なぜアイがあそこまで気に掛けるのか。
その理由を。
◇
昼を過ぎた頃。
ゆうきとアムネは伯爵邸の庭園を歩いていた。
色とりどりの花が咲き、風が吹くたびに甘い香りが漂う。
アムネは一輪の白い花へしゃがみ込み、指先でそっと花弁へ触れた。
「……綺麗。」
その横顔を見ながら、ゆうきが笑う。
「そういう顔してる時のアムって、本当に花が好きなんだな。」
「花だけじゃないよ。」
アムネは立ち上がり、小さく肩をすくめた。
「季節がちゃんと巡ってるって分かる景色が好き。」
その言葉に、ゆうきは少しだけ考えるように空を見上げる。
「長く生きると、一年って短く感じるの?」
「短いね。」
アムネは苦笑した。
「でも、大切な人と過ごした一日は、何百年経っても覚えてる。」
柔らかな風が二人の間を通り抜ける。
しばらく無言で歩いていると、アムネが不意に立ち止まった。
「……ゆうき。」
「どうした?」
返事をしながら振り返る。
アムネは屋敷の向こう、市場のある方角をじっと見つめていた。
「昨日の子。」
「ハナ?」
「うん。」
少しだけ困ったように眉を寄せる。
「何か引っ掛かるの。」
ゆうきも表情を引き締めた。
「敵だから?」
「違う。」
即座に首を横へ振る。
「ユニークスキルとも違う気がする。」
言葉を探すように目を閉じる。
「昔……似た話を聞いたことがある気がするんだけど。」
「思い出せない?」
「うん。」
記憶の奥に薄い霧が掛かっているようだった。
あと少しで届きそうなのに、手を伸ばすたび遠ざかっていく。
アムネは自分の胸へそっと手を当てる。
「昨日、アイちゃんとハナちゃんが目を合わせた瞬間だけ、この辺がね……。」
小さく拳を握る。
「ぎゅってなった。」
ゆうきは静かに耳を傾ける。
否定もしない。
答えを急かしもしない。
「アムがそこまで気になるなら、きっと何か理由があるんだろう。」
「でも、まだ分からない。」
「分からないなら、一緒に探せばいい。」
その一言に、アムネは目を丸くした。
「決めつけるより、見て確かめよう。」
ゆうきは笑う。
「人も、理由も、事情も。知らないまま決めるのは好きじゃないから。」
アムネはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑みを浮かべる。
「……そういうとこ。」
「ん?」
「変わらないね。」
その笑顔には、どこか懐かしさが滲んでいた。
庭園を渡る風が二人の髪を揺らす。
遠くでは鐘の音が街へ響き、人々はいつも通りの昼を過ごしている。
誰もまだ知らない。
光と闇。
二つの人生が、再び交わろうとしていることを。




