表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの時間をもう一度  作者: ゆうき
第二章 もうひとりの私へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
42/94

第8話 震えと音



 夜明け前の伯爵領は、まだ静けさに包まれていた。


 石畳には朝露が薄く残り、店の軒先では商人たちが荷車を整え始めている。


 遠くで鐘が一つ鳴った。


 その音を合図にするように、街はゆっくりと目を覚ましていく。


          ◇


「今日も朝から調査だね」


 宿を出ると、アイは大きく背伸びをした。


 白い息が朝の空気へ溶けていく。


 隣を歩くゆうきは苦笑しながら頷いた。


「昨日だけでも結構歩いたけど、疲れてない?」


「全然!」


 そう言って笑うものの、その笑顔は少しだけぎこちなかった。


 昨夜から胸の奥に残る違和感が消えない。


 理由は分からない。


 眠っても、朝になっても。


 誰かを探しているような感覚だけが、静かに胸へ居座っていた。


 アムは二人より半歩後ろを歩きながら、街並みを眺める。


 市場。


 教会。


 石造りの建物。


 平和な街並みだった。


 だからこそ、小さな違和感が目につく。


「……人が多いね。」


 アイが頷く。


「北の橋が壊れてるから、旅人さんが集まってるんだって。」


「なるほど。」


 アムは人混みへ目を向けた。


 商人。


 冒険者。


 旅芸人。


 荷物を運ぶ人夫。


 その誰もが普通に見える。


 それでも、長く生きた勘が小さく囁いていた。


 この街には、何かがいる。


          ◇


 一方その頃。


 伯爵領から少し離れた森では、灰狼傭兵団が最後の確認を終えていた。


 地図はすでに畳まれている。


 きたまくらが全員を見回した。


「予定通り二手に分かれる。」


 団員たちが静かに頷く。


「第一部隊は商隊へ紛れて正門から。」


 くららが笑顔で手を挙げた。


「りょーかい!」


「第二部隊は森側から潜入。120、任せる。」


「了解。」


 短い返事だけが返る。


 最後に、きたまくらはハナへ視線を向けた。


「お前は俺たちと来い。」


「分かってる。」


 昨日より声は落ち着いていた。


 復讐を前にしているとは思えないほど静かだった。


 その静けさが、逆に危うい。


「一人で動くなよ。」


「昨日も聞いた。」


「今日も言う。」


「信用ない。」


「ある。」


 きたまくらは肩を竦める。


「信用してるから、念を押す。」


 ハナは小さく息を吐いた。


「……分かった。」


 その一言だけで十分だった。


          ◇


 街へ近づくにつれ、人通りは増えていく。


 第一部隊は荷馬車へ混ざり、自然と列へ溶け込んだ。


 くららは荷物を抱えたまま笑顔で商人へ話しかけている。


「今日は人が多いですねー。」


「橋が壊れてるからな。」


「大変だぁ。」


 その笑顔につられ、商人も笑った。


 誰も疑わない。


 それが《みんなのアイドル》の力だった。


 一方。


 第二部隊は城壁の外れへ回り込む。


 視界を遮る林。


 巡回兵の足音。


 120が片手を上げる。


 全員が止まった。


「三人。」


 小さな声。


「巡回速度一定。」


 ハナも耳を澄ませる。


 兵士の鎧が擦れる音。


 歩幅。


 呼吸。


 全部聞こえる。


「ハナ。」


 120が小石を差し出した。


「任せる。」


 ハナは黙って受け取った。


 魔力を流す。


 昨日拾った鳥の鳴き声。


 乾いた枝が折れる音。


 兵士たちの進路とは反対側へ、小石を投げた。


 カラン。


 直後。


 森の奥で枝が大きく折れる音が響く。


「誰だ!」


「向こうだ!」


 三人の兵士が音へ駆け出した。


「今。」


 120が呟く。


 全員が音もなく駆け抜ける。


 兵士との距離は十歩もない。


 それでも誰一人、振り返らなかった。


          ◇


 その頃。


 教会ではアイが古い記録へ目を通していた。


「やっぱり……見つからない。」


 孤児院。


 教会。


 住民台帳。


 どこにも探し人の名前はない。


「うーん……。」


 考え込んだ、その時だった。


 胸が震えた。


「……え?」


 鼓動ではない。


 もっと深い場所。


 誰かが近づいてくる。


 思わず立ち上がる。


「アイ?」


 ゆうきが振り返る。


「どうした?」


「……分からない。」


 胸へ手を当てる。


「でも。」


 震えが少しずつ強くなる。


「誰かが……いる。」


 アムの表情が変わった。


「どこ?」


「近い。」


 アイは窓の外を見る。


「すごく近い。」


          ◇


 同じ頃。


 城壁の内側へ潜入したハナも、足を止めていた。


「……っ。」


 胸の奥で音が鳴る。


 一度。


 また一度。


 昨日より近い。


 昨日より鮮明だった。


 まるで、誰かが自分を呼んでいる。


「ハナ。」


 きたまくらが小声で呼ぶ。


「どうした。」


「……分からない。」


 視線だけが、一つの方向へ吸い寄せられる。


 高台に建つ教会。


 朝日を受けた白い壁が、静かに光を返していた。


 理由はない。


 それでも。


 あそこへ行かなければならない。


 そんな衝動が、胸の奥から静かに湧き上がっていた。


教会の中は、朝の光に満ちていた。


 高い窓から差し込む陽射しが石床へ細長く伸び、静かな空気の中を小さな埃がゆっくり漂っている。


 アイは開いたままの古い帳簿へ視線を落としていた。


 羊皮紙は何度も読み返したせいで端が少し波打ち、インクの滲んだ文字だけが静かに並んでいる。


「……やっぱり、ない」


 小さく息を吐く。


 盗賊団。


 孤児。


 身元不明の少女。


 どれだけページをめくっても、自分が探しているものには届かなかった。


 隣では、ゆうきも別の資料を閉じる。


「こっちも収穫はなしか。」


「うん……。」


 返事はしたものの、帳簿から目を離せない。


 何かを見落としている。


 そんな感覚だけが残る。


「アイ。」


 アムが声を掛けた。


「少し休もう。根を詰めすぎだよ。」


「でも……。」


 言いかけたところで、指先が止まる。


 帳簿へ触れていた手が、小さく震えた。


 紙が震えたわけではない。


 自分の身体でもない。


 もっと奥。


 胸の奥深くで、水面へ小石が落ちたような波紋が静かに広がる。


「……え?」


 思わず胸へ手を当てる。


 鼓動とは違う。


 痛みでもない。


 懐かしい何かが、遠くから自分を呼んでいる。


「アイ?」


 ゆうきが不思議そうに顔を覗き込む。


 アイは答えず、教会の入口へ視線を向けた。


 扉の向こう。


 街のどこか。


 誰かが近づいてきている。


 理由なんてない。


 それでも、そう思った。


          ◇


 同じ頃。


 石造りの街並みを縫うように、灰狼傭兵団は静かに進んでいた。


 市場は朝の活気に包まれている。


 野菜を並べる商人。


 焼きたてのパンを運ぶ少女。


 荷車を押す男たち。


 誰もが忙しそうに行き交う中へ紛れ込めば、十三人の傭兵も旅人の一団にしか見えない。


 くららは店先へ並んだ果物を見て目を輝かせた。


「団長、見て見て。これ甘そう。」


「仕事が終わってからな。」


「一個くらいなら……。」


「仕事が終わってから。」


「ぶれないなぁ。」


 肩を落としながら笑うくららを見て、露店の店主まで笑っていた。


 その様子を横目に見ながら、ハナだけは足を止める。


 市場の喧騒が、不意に遠くなった。


 笑い声も。


 呼び込みの声も。


 馬車の車輪が石畳を軋ませる音も。


 すべてが少しずつ薄れていく。


 代わりに、胸の奥で静かな音が響いた。


 ひとつ。


 またひとつ。


 鐘の音のようでもあり、心臓の鼓動のようでもある。


 その音に引かれるように顔を上げる。


 市場の先。


 石段を上った高台に、小さく教会の屋根が見えた。


「……あそこ。」


 無意識に呟く。


「どうした?」


 きたまくらが歩調を緩める。


 ハナは答えなかった。


 答えられなかった。


 自分でも理由が分からない。


 それなのに、目だけは教会から離れない。


 まるで長い年月を越えて、誰かがそこに立って待っているような気がした。


教会の鐘が鳴った。


 乾いた音が朝の街へゆっくりと広がり、人々は足を止めることもなく、それぞれの日常を続けていく。


 ハナだけが、その場から動けなかった。


 胸の奥で響く音が、鐘の余韻へ重なる。


 似ている。


 けれど違う。


 鐘は耳へ届く。


 この音は、自分の内側から返ってくる。


「ハナ。」


 きたまくらが小さく呼ぶ。


 返事はなかった。


 視線は高台の教会へ向いたまま動かない。


 120が周囲を一瞥し、静かに口を開く。


「立ち止まる時間はない。」


「……分かってる。」


 そう答えながらも、足は動かなかった。


 昨日よりも近い。


 丘の上で感じた違和感とは比べものにならないほど鮮明だった。


 何かが、そこにいる。


 その確信だけが、胸の中で静かに膨らんでいく。


「少しだけ。」


 ハナが呟いた。


「教会を見たい。」


 きたまくらは眉をひそめる。


「理由は。」


「……ない。」


 答えになっていないことは、自分でも分かっていた。


 くららが二人の間へ入る。


「寄り道くらいならいいんじゃない? 市場からなら教会までそんなに遠くないし。」


「目的を忘れるな。」


 120は淡々と言う。


「潜入が優先。」


「だから寄り道だって。」


「小さな判断の積み重ねが失敗になる。」


 二人の言葉を聞きながらも、ハナの意識は半分ほど教会へ向いていた。


 視界へ入る白い壁。


 高い鐘楼。


 朝日に照らされた十字架。


 見覚えがあるはずもない景色なのに、懐かしさだけが募っていく。


 胸の奥が、また小さく鳴った。


          ◇


 教会の中では、アイが窓際へ歩み寄っていた。


 古い硝子越しに見える街並み。


 市場には朝から多くの人が集まり、荷車がゆっくりと行き交っている。


 その何気ない景色の中で、不意に一人の旅人へ目が留まった。


 黒い外套。


 深く被ったフード。


 隣には大柄な男と、淡い髪の少女。


 距離がある。


 顔までは見えない。


 それでも、視線を外せなかった。


「アイ?」


 サーヤが声を掛ける。


 アイは窓へ手を添えたまま、小さく首を振る。


「……あそこ。」


「え?」


「誰かいる。」


 ゆうきも窓の外を見る。


「知り合い?」


「違う……はず。」


 言葉が途中で止まる。


 知らない。


 初めて見る。


 そう思うほど、胸が苦しくなった。


「どうして……。」


 息が浅くなる。


 会いたい。


 そんな感情が、理由もなく溢れてくる。


 アムはアイの横へ並び、静かに外を見た。


 人混みの中。


 確かに魔力が揺れている。


 強いわけではない。


 むしろ、どこにでもありそうな魔力だ。


 なのに。


 その揺らぎだけが、妙に引っ掛かった。


「ゆうき。」


「うん。」


「ちょっと様子がおかしい。」


 ゆうきも頷く。


 アイの表情は、探し人の手掛かりを見つけた時とも違っていた。


 戸惑い。


 懐かしさ。


 不安。


 いくつもの感情が混ざり合い、自分でも整理できなくなっているように見える。


「少し外へ出よう。」


 ゆうきが優しく言う。


「気分転換になるかもしれない。」


 アイは返事をしなかった。


 それでも窓から目を離し、静かに頷いた。


          ◇


 市場へ戻る頃には、人の流れはさらに増えていた。


 呼び込みの声が飛び交い、香ばしいパンの匂いが風へ乗る。


 旅人と領民が肩をぶつけ合いながら行き交う中、ハナは教会へ続く石段を見上げていた。


 自然と足が前へ出る。


 一段。


 また一段。


「ハナ。」


 きたまくらの低い声が背中へ届く。


 その足が止まることはなかった。


 止められない。


 何かに引かれている。


 そんな言葉では足りないほど、強い衝動だった。


 一方。


 教会の扉が静かに開く。


 朝の光を背に、三人の姿が現れた。


 アイ。


 ゆうき。


 アム。


 石段を下り始めたアイが、何気なく顔を上げる。


 人混みの向こう。


 黒い外套の少女と目が合った。


 その瞬間だった。


 世界から音が消えた。


 市場の喧騒も。


 商人の声も。


 鐘の余韻も。


 何も聞こえない。


 ただ、胸の奥だけが震えていた。


 アイは息を呑む。


 ハナもまた、小さく目を見開いていた。


 初めて会う。


 そのはずだった。


 それなのに。


 言葉にならない懐かしさだけが、二人の間を静かに満たしていく。


 風が吹いた。


 アイの髪が揺れる。


 ハナの外套が小さくはためく。


 どちらも動けない。


 ほんの数十歩の距離が、あまりにも遠かった。


先に我に返ったのはハナだった。


 喉の奥がひどく乾いている。


 視線を逸らそうとしても、身体が言うことを聞かない。


 石段の途中に立つ少女。


 朝日に照らされた淡い髪。


 困ったように揺れる青い瞳。


 どこかで見たことがある。


 そんなはずはない。


 記憶をどれだけ辿っても、答えは見つからなかった。


「……ハナ。」


 きたまくらが一歩前へ出る。


 その声で、ようやく身体が動いた。


 ハナは無意識に半歩退く。


 胸の奥では、まだ《共鳴》が静かに鳴り続けていた。


          ◇


 一方、アイもまた息を整えられずにいた。


 少女が後ろへ下がる。


 たったそれだけの動作なのに、胸の奥が締めつけられる。


 行かないで。


 思わずそんな言葉が込み上げた。


 理由は分からその場へ、小さな風が吹き抜けた。


 市場の喧騒が戻る。


 子どもが笑いながら駆けていき、荷馬車の車輪が石畳を軋ませた。


 まるで今までの静寂が幻だったかのように、街はいつもの朝へ戻っていく。


 それでも二人だけは、動けずにいた。


「アイ。」


 サーヤがそっと袖を引く。


「お嬢様。」


 その声で、ようやくアイは現実へ引き戻された。


「あ……ご、ごめん。」


 慌てて笑顔を作る。


 いつものように。


 誰にも心配をかけないように。


 けれど、その笑顔はどこか力が入っていなかった。


「具合でも悪い?」


 ゆうきが覗き込む。


「ううん、大丈夫。」


 そう答えながらも、もう一度だけ人混みの向こうを見る。


 黒い外套の少女は、きたまくらたちと共に歩き出していた。


 こちらを振り返ることはない。


 それなのに。


 胸の奥だけが追いかけていた。


          ◇


「行くぞ。」


 きたまくらが静かに言う。


 ハナは返事をしなかった。


 足は前へ進んでいる。


 それでも、心だけが後ろへ引かれていた。


 あの少女は誰だったのか。


 なぜ目が離せなかったのか。


 考えようとするたび、頭の奥が鈍く痛む。


「……ちっ。」


 小さく舌打ちを漏らす。


 こんな感覚は初めてだった。


 十一年間。


 復讐だけを見て生きてきた。


 迷ったことなど一度もない。


 なのに今日だけは違う。


 伯爵令嬢を見た瞬間、憎しみより先に別の感情が胸を満たした。


 認めたくない。


 認めれば、十一年間が揺らぐ。


 だから必死に押し込める。


「ハナ。」


 きたまくらは歩幅を合わせながら声を掛けた。


「無理はするな。」


「してない。」


「そういう顔じゃない。」


「……顔なんて見ないで。」


「見てなくても分かる。」


 以前も聞いた言葉だった。


 その時は鬱陶しいと思った。


 今も鬱陶しい。


 それなのに、不思議と腹は立たなかった。


「何かあったか。」


「何も。」


「本当に?」


「……分からない。」


 その一言を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。


 分からない。


 今までのハナなら絶対に言わない言葉だった。


 きたまくらは追及しない。


 ただ小さく頷き、それ以上何も聞かなかった。


 その沈黙がありがたかった。


          ◇


 宿へ戻る道すがら、アイは何度も後ろを振り返っていた。


 人混みの中に、もう黒い外套は見えない。


 見失っただけなのに、胸の奥がぽっかり空いたようだった。


「探し人?」


 ゆうきが歩きながら尋ねる。


 アイは首を横に振る。


「違うと思う。」


「思う?」


「……うん。」


 自分でも答えが曖昧だった。


 探していた人とは違う。


 それなのに、やっと会えたような気もする。


 矛盾した感情が胸の中で絡まり、言葉にならない。


 アムは隣を歩きながら、そんなアイを横目で見つめていた。


 昨日までは《共振》が反応しているだけだと思っていた。


 だが、今日見たものは違う。


 あの少女も同じように動きを止めていた。


 偶然ではない。


 なら、何なのか。


 答えはまだ見えない。


 けれど、一つだけ確かなことがあった。


 この伯爵領で起きている出来事は、探し人の依頼だけでは終わらない。


 もっと大きな何かが、静かに動き始めている。


          ◇


 夕暮れ。


 灰狼傭兵団の野営地では、小さな焚き火が揺れていた。


 団員たちは情報を持ち寄り、それぞれ報告を終えていく。


「教会周辺に異常なし。」


「伯爵邸の警備は通常通り。」


「北門の巡回は一時間ごと。」


 120は報告を聞きながら地図へ印を付けていく。


 必要な情報だけを拾い、余計な言葉は挟まない。


 すべてが終わると、きたまくらはハナへ目を向けた。


「今日はここまでだ。」


「……明日は。」


「予定通り。」


 短い返事だった。


 それだけで十分だった。


 ハナは焚き火の火を見つめる。


 揺れる炎が、あの日の焚き火と重なった。


 家族だった盗賊団。


 灰狼傭兵団。


 そして今日出会った少女。


 別々の記憶のはずなのに、どこかで一本の糸につながっているような感覚だけが残っていた。


 夜空を見上げる。


 雲一つない空に、星が静かに瞬いている。


 その光は遠い昔から変わらない。


 人が出会い、別れ、また巡り会うことなど知っているかのように。


 ハナはそっと目を閉じた。


 胸の奥では、まだ小さな音が鳴り続けている。


 その音の意味を知る日は、もう遠くなかった。


 名前も知らない。


 初めて会った相手だ。


 それでも。


 失いたくない、と心が叫んでいた。


「アイ?」


 ゆうきがそっと肩へ手を置く。


 その温もりで、アイは小さく瞬きをした。


「……ごめん。」


 声が震える。


「変なの。初めて会った人なのに……。」


 最後まで言い切れなかった。


 胸へ手を当てても、震えは収まらない。


 アムは黙ったまま、黒い外套の少女を見つめていた。


 魔力。


 違う。


 姿。


 違う。


 なのに。


 魂だけが、奇妙なほどよく似ていた。


 長い年月を生きてきた経験の中でも、こんな感覚は初めてだった。


「……。」


 考えがまとまらない。


 だから今は、何も言わなかった。


          ◇


「団長。」


 120が静かに口を開く。


「予定を変更します。」


「理由は。」


「あの三人です。」


 視線の先には、教会から出てきた三人。


 その中でも、一番前に立つ銀髪の少女へ120は目を向けていた。


「情報通りなら、あれが伯爵令嬢。」


「そうか。」


 きたまくらは小さく頷く。


 ハナはまだ動かない。


 ただ少女だけを見つめている。


「ハナ。」


 もう一度呼ぶ。


 返事はない。


 その横顔には、怒りも憎しみも浮かんでいなかった。


 あるのは戸惑いだけだった。


「……違う。」


 ハナが小さく呟く。


「違う。」


 誰へ言い聞かせるように、もう一度繰り返す。


「伯爵の娘。」


 そうだ。


 目の前にいるのは、自分から家族を奪った男の娘。


 復讐の相手。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 そう思おうとするたび、胸の奥が痛んだ。


 憎めない。


 そんな感情が、自分の中から湧いてくる。


 認めたくなかった。


          ◇


 市場では、人々が二組の間を何も知らずに行き交っていた。


 荷車が通る。


 子どもが笑いながら駆け抜ける。


 果物を売る店主が客を呼び込む。


 誰一人、この一瞬が二人の運命を大きく変えようとしていることなど知らない。


 アイは一歩だけ前へ出た。


 その瞬間。


 胸の奥の震えが一気に強くなる。


「……っ!」


 思わず息を呑む。


 視界が揺れた。


 知らない景色が頭をよぎる。


 暗い森。


 焚き火。


 笑う誰か。


 泣いている少女。


 次の瞬間には消えていた。


「今の……何?」


 頭を押さえる。


 断片だった。


 夢よりも曖昧で、記憶よりも鮮明な光景。


 一方でハナもまた、足を止めていた。


 温かな食卓。


 大きな屋敷。


 優しく頭を撫でる誰か。


 見たことのない景色が一瞬だけ脳裏を掠める。


「違う……。」


 そんな記憶はない。


 あるはずがない。


 額へ手を当て、ゆっくり首を振る。


「ハナ!」


 くららが駆け寄る。


「顔色悪いよ!」


「平気。」


 短く返す。


 平気ではなかった。


 何が起きているのか、自分でも分からない。


          ◇


 その様子を見つめながら、アムは静かに目を細めた。


 偶然。


 そう片づけるには、不自然すぎる。


 二人とも同じタイミングで反応した。


 魔力ではない。


 ユニークスキルだけでも説明できない。


 もっと根源的な何か。


 胸の奥に、長い間忘れていた違和感が静かに引っ掛かる。


「ゆうき。」


「うん?」


「……少し、気になることができた。」


 アムの声は普段と変わらない。


 けれど、その瞳だけは珍しく真剣だった。


 ゆうきも、その表情を見て小さく頷く。


「あとで聞く。」


「うん。」


 今はまだ。


 何一つ確証がない。


 だから言葉にはしない。


 アムはもう一度、黒い外套の少女を見つめた。


 少女もまた、一瞬だけこちらを振り返る。


 二人の視線が再び交わる。


 今度は胸の奥で、小さく音が重なった。


 震える音と。


 鳴り響く音。


 それは誰にも聞こえないまま、静かに二人の魂だけへ刻まれていった。


その場へ、小さな風が吹き抜けた。


 市場の喧騒が戻る。


 子どもが笑いながら駆けていき、荷馬車の車輪が石畳を軋ませた。


 まるで今までの静寂が幻だったかのように、街はいつもの朝へ戻っていく。


 それでも二人だけは、動けずにいた。


「アイ。」


 サーヤがそっと袖を引く。


「お嬢様。」


 その声で、ようやくアイは現実へ引き戻された。


「あ……ご、ごめん。」


 慌てて笑顔を作る。


 いつものように。


 誰にも心配をかけないように。


 けれど、その笑顔はどこか力が入っていなかった。


「具合でも悪い?」


 ゆうきが覗き込む。


「ううん、大丈夫。」


 そう答えながらも、もう一度だけ人混みの向こうを見る。


 黒い外套の少女は、きたまくらたちと共に歩き出していた。


 こちらを振り返ることはない。


 それなのに。


 胸の奥だけが追いかけていた。


          ◇


「行くぞ。」


 きたまくらが静かに言う。


 ハナは返事をしなかった。


 足は前へ進んでいる。


 それでも、心だけが後ろへ引かれていた。


 あの少女は誰だったのか。


 なぜ目が離せなかったのか。


 考えようとするたび、頭の奥が鈍く痛む。


「……ちっ。」


 小さく舌打ちを漏らす。


 こんな感覚は初めてだった。


 十一年間。


 復讐だけを見て生きてきた。


 迷ったことなど一度もない。


 なのに今日だけは違う。


 伯爵令嬢を見た瞬間、憎しみより先に別の感情が胸を満たした。


 認めたくない。


 認めれば、十一年間が揺らぐ。


 だから必死に押し込める。


「ハナ。」


 きたまくらは歩幅を合わせながら声を掛けた。


「無理はするな。」


「してない。」


「そういう顔じゃない。」


「……顔なんて見ないで。」


「見てなくても分かる。」


 以前も聞いた言葉だった。


 その時は鬱陶しいと思った。


 今も鬱陶しい。


 それなのに、不思議と腹は立たなかった。


「何かあったか。」


「何も。」


「本当に?」


「……分からない。」


 その一言を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。


 分からない。


 今までのハナなら絶対に言わない言葉だった。


 きたまくらは追及しない。


 ただ小さく頷き、それ以上何も聞かなかった。


 その沈黙がありがたかった。


          ◇


 宿へ戻る道すがら、アイは何度も後ろを振り返っていた。


 人混みの中に、もう黒い外套は見えない。


 見失っただけなのに、胸の奥がぽっかり空いたようだった。


「探し人?」


 ゆうきが歩きながら尋ねる。


 アイは首を横に振る。


「違うと思う。」


「思う?」


「……うん。」


 自分でも答えが曖昧だった。


 探していた人とは違う。


 それなのに、やっと会えたような気もする。


 矛盾した感情が胸の中で絡まり、言葉にならない。


 アムは隣を歩きながら、そんなアイを横目で見つめていた。


 昨日までは《共振》が反応しているだけだと思っていた。


 だが、今日見たものは違う。


 あの少女も同じように動きを止めていた。


 偶然ではない。


 なら、何なのか。


 答えはまだ見えない。


 けれど、一つだけ確かなことがあった。


 この伯爵領で起きている出来事は、探し人の依頼だけでは終わらない。


 もっと大きな何かが、静かに動き始めている。


          ◇


 夕暮れ。


 灰狼傭兵団の野営地では、小さな焚き火が揺れていた。


 団員たちは情報を持ち寄り、それぞれ報告を終えていく。


「教会周辺に異常なし。」


「伯爵邸の警備は通常通り。」


「北門の巡回は一時間ごと。」


 120は報告を聞きながら地図へ印を付けていく。


 必要な情報だけを拾い、余計な言葉は挟まない。


 すべてが終わると、きたまくらはハナへ目を向けた。


「今日はここまでだ。」


「……明日は。」


「予定通り。」


 短い返事だった。


 それだけで十分だった。


 ハナは焚き火の火を見つめる。


 揺れる炎が、あの日の焚き火と重なった。


 家族だった盗賊団。


 灰狼傭兵団。


 そして今日出会った少女。


 別々の記憶のはずなのに、どこかで一本の糸につながっているような感覚だけが残っていた。


 夜空を見上げる。


 雲一つない空に、星が静かに瞬いている。


 その光は遠い昔から変わらない。


 人が出会い、別れ、また巡り会うことなど知っているかのように。


 ハナはそっと目を閉じた。


 胸の奥では、まだ小さな音が鳴り続けている。


 その音の意味を知る日は、もう遠くなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ