第7話 奪われた家族
森の朝は早い。
霧が木々の根元を這い、夜露をまとった葉が風に揺れるたび、小さな雫が地面へ落ちていく。
焚き火の火はまだ消えていない。
鍋から立ち上る湯気の向こうで、大柄な男が薪をくべていた。
「ハナ、起きろ。飯だ」
低く太い声。
ハナは毛布から顔だけ出し、小さく身体を起こした。
十三歳。
盗賊団に拾われて三年が過ぎようとしていた。
「今日は寝坊だな」
「昨日、見張りだったから」
「言い訳を覚えたか」
男は笑いながら木の器を差し出す。
湯気の立つスープ。
焼きたての黒パン。
少しだけ焦げた干し肉。
豪華ではない。
それでも、ハナにとっては世界で一番温かな食卓だった。
「熱いから気をつけろ」
「……うん」
器を受け取り、一口飲む。
舌を火傷しそうになって思わず顔をしかめると、周囲から笑い声が上がった。
「だから言っただろ」
「ハナは毎回それやるな」
「学習しろよ」
悪口ではない。
笑われても嫌ではない。
ハナも少しだけ口元を緩めた。
「今日は町道沿いを見てくる」
片目の女が荷物をまとめながら言う。
「商隊が通る日だったね」
「襲うかは見てから決める。護衛の数次第だ」
「私は?」
ハナが尋ねる。
男は少し考え、
「今日は残れ」
とだけ言った。
「どうして」
「森の様子が変なんだ」
「魔物?」
「いや」
男は森の奥へ視線を向けた。
「鳥が静かすぎる」
ハナも耳を澄ませた。
確かに。
いつも聞こえる鳥の声が少ない。
風だけが枝を揺らしている。
「嫌な静けさだ」
片目の女も小さく呟いた。
「何もなきゃいいけどね」
◇
昼を過ぎても、その静けさは消えなかった。
見張りへ出ていた男たちが次々と戻ってくる。
皆、表情が硬い。
「団長」
一人が息を整えながら報告した。
「街道じゃない。南から兵が動いてる」
焚き火の周囲の空気が変わる。
「数は」
「百……いや、百五十はいる」
「そんなに」
「騎士まで混じってた」
団長の眉が寄る。
「俺たち狙いか」
「たぶん」
「位置は?」
「もう二刻もすれば、この森へ入る」
沈黙が落ちた。
盗賊団は二十数人。
正面から勝てる人数ではない。
「逃げる?」
ハナが尋ねる。
男は頷いた。
「ああ。ここは捨てる」
「荷物は」
「持てるだけでいい」
その一言で、全員が動き出した。
食料を袋へ詰める者。
武器をまとめる者。
馬へ荷物を積む者。
いつもの慌ただしさとは違う。
誰も口数が少ない。
「ハナ」
団長が呼んだ。
「お前は片目と一緒に北へ行け」
「私は戦える」
「戦わせない」
「でも」
「命令だ」
珍しく強い口調だった。
ハナは反論を飲み込む。
◇
出発の準備が終わる頃。
森の奥から、金属がぶつかる音が聞こえた。
甲冑。
盾。
馬の足音。
「もう来た!」
見張りが叫ぶ。
「早すぎる!」
団長は剣を抜いた。
「時間を稼ぐ! 北へ逃げろ!」
怒号と同時に、森の静寂が壊れた。
矢が飛ぶ。
木へ突き刺さる音。
兵士たちの掛け声。
ハナは息を呑んだ。
思っていたより近い。
もう逃げ道は狭まっていた。
「行くよ!」
片目の女がハナの腕を掴む。
「嫌!」
「行け!」
「みんなも!」
「あとで追いつく!」
その言葉が嘘だと、大人たちは誰も言わなかった。
けれど。
その場にいた全員が理解していた。
ここで時間を稼ぐ者は、生きて戻れない。
「嫌だ!」
ハナは腕を振りほどこうとする。
「一緒に行く!」
団長が振り返った。
怒鳴るかと思った。
違った。
穏やかだった。
「ハナ」
その声だけで、涙が滲んだ。
「生きろ」
「……」
「お前には、まだ先がある」
「ない!」
叫ぶ。
「ここが私の家!」
「だからだ」
団長は笑った。
いつも焚き火の前で見せる、不器用な笑顔だった。
「家族なら、生きていてほしい」
その言葉に。
胸が締めつけられた。
家族。
誰にも言われたことがない言葉だった。
ハナは首を振る。
「置いていかないで」
「置いていくんじゃない」
片目の女が肩へ手を置く。
「託すんだよ」
彼女は腰の袋から、小さな鉄片を取り出した。
「覚えてる?」
ハナは頷いた。
《共鳴》。
最初に音を保存した鉄片。
「これを持ちな」
「……」
「もし迷ったら」
女は笑う。
「走りながら鳴らせ」
「嫌」
「聞きな」
頭を優しく撫でられた。
「逃げるのも、生き残るための戦いなんだ」
その瞬間だった。
森の入口から兵士が姿を現した。
「いたぞ!」
「逃がすな!」
矢が放たれる。
一本が木へ突き刺さる。
団長が剣で受け流した。
「ハナ!」
怒鳴る。
「走れ!」
片目の女が背中を押した。
身体が前へ倒れる。
足が勝手に動き始めた。
振り返る。
団長たちは兵士の前へ立ち塞がっていた。
誰一人。
逃げようとはしていない。
ハナは叫んだ。
「いやぁぁぁぁっ!!」
返事はない。
代わりに聞こえたのは。
「行けぇぇぇぇ!!」
団長の、最後の怒鳴り声だった。
森の中を、ただ走り続けた。
枝が頬を掠め、濡れた下草が足へ絡みつく。それでも振り返ることだけはできない。
背中には、まだみんなの声が残っていた。
「行けぇ!」
団長の怒鳴り声。
仲間たちの叫び。
剣と剣がぶつかる鋭い音。
それらが木々の間を抜け、風に乗って届いてくる。
耳を塞いでも意味はなかった。
聞こえているのではない。
胸の奥へ刻み込まれていく。
息は乱れ、視界は涙で滲んでいた。
何度も木の根へつまずき、そのたびに泥だらけになりながら立ち上がる。
立ち止まれば戻りたくなる。
だから前だけを見た。
◇
気づけば、森は夕暮れに染まっていた。
大木の幹へ身体を預けると、張り詰めていた力が一気に抜ける。
その時、小さな鉄片が掌の中で震えた。
乾いた音が鳴る。
『逃げろ』
片目の女の声だった。
短い一言。
《共鳴》へ残されていた音が、静かな森へ溶けていく。
ハナは鉄片を見つめた。
指先が震える。
もう一度、小さく魔力が流れた。
『生きるんだよ』
優しく笑う声。
焚き火の匂いまで思い出せそうだった。
胸へ抱き寄せる。
冷たい鉄なのに、不思議と温もりだけが残っている気がした。
木々の間を風が抜ける。
返事はない。
それでもハナは、しばらくその場を動けなかった。
◇
夜が明ける頃には、涙も乾いていた。
向かった先は約束された避難場所ではない。
盗賊団の拠点だった。
誰か一人でも、生き残っているかもしれない。
そんな希望を捨てきれなかった。
森は静かだった。
あれほど賑やかだった焚き火の笑い声も、朝食を囲む声も聞こえない。
代わりに残っていたのは、焼け焦げた木材の匂いだけだった。
崩れた天幕。
割れた器。
倒れた荷車。
黒く染み込んだ血。
誰もいない。
兵が遺体を運んだのだろう。
盗賊として。
討伐された者として。
それが当然なのだと、頭では理解できた。
焚き火の跡へ腰を下ろす。
土の上には、縁の欠けた木の器が転がっていた。
昨日まで使っていたものだ。
拾い上げると、微かな魔力が指先へ触れた。
『熱いから気をつけろ』
団長の声。
昨日の朝。
最後に聞いた言葉だった。
器を抱き締めたまま、ハナは俯く。
森には何も返ってこない。
風が灰をさらい、小さな葉が一枚、器の中へ落ちた。
◇
盗賊団は善人ではなかった。
商人を襲い、金品を奪い、ときには人を傷つけた。
領民にとって脅威だったことも知っている。
だから伯爵が討伐を命じた理由も分かる。
領主として、守るべきものがあった。
その判断は間違っていなかったのだろう。
それでも。
ハナにとって、あの人たちは家族だった。
飢えた自分へ食事を差し出し、眠る場所を作り、名前を呼んでくれた。
善悪だけでは測れない時間が、確かにそこにはあった。
足元へ、一枚の紙が風に乗って転がってくる。
伯爵家の紋章が押された討伐命令書だった。
ハナはしばらく見つめ、静かに握り潰す。
「……返して」
小さく零れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
誰へ向けた言葉なのか分からない。
伯爵へなのか。
運命へなのか。
あるいは、もう届かない誰かへなのか。
答えは返らなかった。
ただ、その日から復讐だけが生きる理由になった。
◇
――十一年後。
焚き火を囲み、灰狼傭兵団の幹部が地図を広げていた。
「教会、孤児院、記録庫。伯爵令嬢は昨日もそこを回っていた」
120が淡々と報告する。
「探し人の調査と並行して、十一年前の盗賊団討伐記録も調べている」
ハナの指先が止まる。
「……討伐記録を?」
「ああ。理由は分からない。ただ、令嬢自身が望んで閲覧したらしい」
きたまくらが腕を組む。
「偶然とは思えんな」
「現時点では判断材料が足りない」
120は地図へ目を落としたまま続けた。
「予定通り明日潜入する。情報を集め、必要なら計画を修正する」
「一人で突っ込んだりしないでよ、ハナちゃん」
くららが笑いながら言う。
「今回はちゃんと一緒に行くからね」
「子どもじゃない」
「うん。でも放っておけないんだよね」
軽い口調だった。
それなのに、不思議と胸へ残る。
ハナは視線を逸らした。
依頼人と傭兵。
その関係のはずだった。
なのに、気づけば食事を用意され、怪我をすれば手当てをされる。
距離を置こうとしても、いつの間にか隣へ誰かがいる。
あの頃と少しだけ似ている。
そう思ってしまう自分が、嫌だった。
◇
翌朝。
丘の上から伯爵領を見下ろす。
朝日に照らされた石壁。
市場へ集まる人々。
煙突から細く昇る白い煙。
穏やかな街だった。
その景色を眺めた瞬間だった。
胸の奥が、小さく震える。
「……っ」
心臓とは違う。
もっと深い場所で、静かな波紋が広がっていく。
懐かしい。
会ったこともないはずなのに。
胸の奥で何かが、誰かを探している。
「ハナちゃん?」
くららの声に、ゆっくり息を吐いた。
「……何でもない」
そう答えたものの、視線は屋敷から離れなかった。
風が丘を吹き抜ける。
その風は、街のどこかにも同じように流れていた。




