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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
第二章 もうひとりの私へ

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第6話 闇の中のハナ


 目を覚ました時、最初に聞こえたのは刃を研ぐ音だった。


 一定の間隔で、砥石が鋼の表面を滑っている。


 ハナは薄く目を開けたまま、毛布の中で息を殺した。知らない天井ではない。雨除けの布を張った傭兵団の天幕。入口の隙間から、夜明け前の青白い光が差し込んでいる。


 すぐ近くには自分の荷物。


 腰へ下げている短剣も、手を伸ばせば届くところにあった。


 奪われていない。


 拘束もされていない。


 昨夜と何も変わっていないことを確認してから、ハナは身体を起こした。


「起きたか」


 天幕の外から男の声がした。


 ハナは答えず、外套を羽織って外へ出る。


 焚き火の前では、きたまくらが片膝を立てて座っていた。大きな身体に似合わないほど細かな手つきで、短い刀身を整えている。


 周囲には複数の天幕が並び、その間を灰狼傭兵団の団員たちが行き来していた。


 馬の世話をする者。


 荷物をまとめる者。


 朝食の準備をする者。


 空はまだ暗いが、十三人の傭兵団はすでに動き始めている。


「寝不足か?」


 きたまくらは刃から目を離さずに尋ねた。


「普通」


「普通の顔には見えんな」


「顔を見ずに言うな」


「見なくても分かる。夜中に三回起きてたろ」


 ハナは眉を寄せた。


「監視してたの」


「見張りの交代で近くを通っただけだ。お前は眠りが浅すぎる」


「関係ない」


「依頼人が倒れたら、依頼が進まん。関係はある」


 きたまくらは研ぎ終えた刃を布で拭った。


 ハナが何も言わず離れようとすると、背後から別の声が飛んでくる。


「ハナちゃーん、朝ご飯できたよー!」


 明るい声と共に、くららが鍋を持って現れた。


 淡い髪を後ろでまとめ、朝から変わらない笑顔を浮かべている。


「ちゃんはいらない」


「じゃあ、はーちゃん?」


「もっといらない」


「ハナぴ?」


「やめろ」


「うーん、じゃあ今はハナちゃんで妥協しよっか」


「何も妥協してない」


 くららは楽しそうに笑いながら、木の器へスープを注いだ。


「今日は豆と干し肉のスープだよ。パンもあるから、冷めないうちに食べてね」


「いらない」


「昨日もそれ言って、夜中に干し肉食べてたでしょ」


 ハナの視線が鋭くなる。


「見てたの」


「天幕から出てきたら、ちょうど目が合ったよ。気づかなかった?」


「……気づかなかった」


「それはかなり疲れてるね」


 くららの笑顔が、ほんの一瞬だけ曇った。


 ハナは差し出された器を見た。


 湯気が立ち、豆と香草の匂いがする。腹は減っていた。


 それでも、素直に受け取ることには未だに慣れない。


「代金は払ってる」


「うん。依頼料はちゃんともらってるよ」


「なら、必要以上に世話を焼くな」


「必要かどうか決めるのは、今朝のご飯を作った私だから」


 くららは器を引かなかった。


 ハナが受け取るまで、笑顔のまま待っている。


 そのやり方が嫌いだった。


 無理やり押しつけるわけでもない。


 同情するわけでもない。


 ただ、当然のようにハナの分を用意している。


 拒絶する方が面倒になる。


 ハナは器を奪うように受け取った。


「食べればいいんでしょ」


「そうそう。偉い偉い」


「子ども扱いするな」


「二十歳の私から見れば、四つも年上なんだけどね」


「なら、なおさらやめろ」


 くららは返事の代わりに笑った。


 少し離れた場所で、きたまくらが肩を揺らしている。


「笑うな」


「笑ってない」


「顔が笑ってる」


「朝から元気で結構だと思っただけだ」


 ハナは二人から離れ、焚き火の反対側へ座った。


 スープを口に運ぶ。


 少し濃い。


 干し肉の塩気が強いが、冷えた身体にはちょうどよかった。


「味、どう?」


 くららが遠くから尋ねてくる。


「普通」


「普通かあ。じゃあ、おかわりあるよ」


「いらない」


「普通って言う時は大体気に入ってる」


 ハナは返事をしなかった。


 それ以上言えば、また笑われる。


 朝食を取りながら周囲を見渡す。


 第一部隊の五人は、くららの指示で荷馬車と食料を確認していた。明るい副団長に似て、会話の多い者が揃っている。


 一方、第二部隊の五人は必要な言葉しか交わさない。


 その中央では、120が地図を広げていた。


 名の呼び方は団員によって違う。


 ひゃくにじゅう。


 ひゃくに。


 いちにーぜろ。


 本人は、どれで呼ばれても訂正しない。


 ハナはまだ、呼ぶ必要がある時だけ「120」と数字のまま呼んでいた。


「食べ終わったなら来て」


 地図から目を上げず、120が言った。


「まだ半分残ってる」


「食べながら聞けばいい。時間が惜しい」


「朝くらいゆっくりさせてあげなよ」


 くららが口を挟む。


「依頼主は十一年待っている。今さら朝食の十分を急ぐ必要もない」


「なら呼ばなくてもいいでしょ」


「予定の確認は早い方がいい。感情と効率を混ぜないで」


「言い方が固いなあ」


「事実を言っているだけ」


 くららは少し頬を膨らませたが、120は気にした様子もない。


 ハナは器を持ったまま地図の前へ移動した。


 伯爵領を中心に、街道と森、周辺の村が細かく書き込まれている。


 既製品の地図ではない。


 灰狼傭兵団が依頼を受けてから調べ、補足したものだ。


 城門の数。


 兵士の詰所。


 主な商業区。


 高台にある伯爵邸。


 ハナが一人で集めてきた情報より、遥かに正確だった。


「北の橋はまだ修復中」


 120は細い棒で地図を指した。


「その影響で街道を利用する商人の多くが伯爵領へ滞在している。通常より街へ入りやすいが、人の数も多い」


「混乱を起こすなら都合がいい」


「同時に、不審者へ気づかれにくい。潜入には適している」


「予定通り北門から入る」


「予定を修正する」


 ハナが眉を寄せる。


「どうして」


「伯爵家が冒険者を招いた」


「冒険者?」


「昨日、ギルドから伯爵邸へ男女二名が向かった。男は登録されたばかりの新人。女は身分を隠しているが、Sランク冒険者アムネジアの可能性が高い」


 ハナの手が止まった。


「Sランクが、どうして伯爵家にいるの」


「不明。女の方は今日も令嬢と共に領内を回っていた。護衛か、個人的な依頼を受けたと考えるのが自然」


「計画に支障は?」


「正面から動けばある」


 120は淡々と答えた。


「Sランクが相手では、団全体で交戦しても被害は避けられない。目的は戦闘ではなく、伯爵家へ損失を与えること。相手の力量を把握するまで、実行日は確定しない」


「待てってこと?」


「そう言っている」


「もう十分待った」


 ハナの声が低くなる。


 きたまくらが刃を鞘へ収め、地図の側へ来た。


「一日二日ずれるだけだ」


「私には一日でも長い」


「焦って失敗したら、十一年が無駄になるぞ」


 ハナはきたまくらを睨んだ。


 彼は視線を逸らさない。


「契約は伯爵への復讐を手伝うこと。お前を死なせることじゃない」


「死ぬつもりはない」


「死ぬ奴は大体そう言う」


「怖いなら降りればいい」


 周囲の空気が変わった。


 団員たちの手が止まる。


 くららから笑顔が消え、120も地図から顔を上げた。


 きたまくらだけが、変わらない表情でハナを見ている。


「怖いさ」


 穏やかな声だった。


「仲間が死ぬのも、依頼人が死ぬのも嫌だからな。戦場で怖さを感じなくなった奴は、長く生きられん」


「私は仲間じゃない。依頼人」


「今はな」


 ハナは目を細めた。


「どういう意味」


「言葉通りだ」


「勝手に決めるな」


「仲間になるとは言ってない。だが、依頼が終わればどうでもいい相手だとも思ってない」


「どうして」


 問いが漏れた。


 自分でも聞くつもりはなかった。


 きたまくらは少し困ったように頭を掻く。


「それが分かれば、こっちも苦労してない」


「答えになってない」


「初めて会った時から、お前を放っておくと後悔する気がした。理由は知らん」


「同情ならいらない」


「違う」


 即座に否定された。


「同情で十三人の命を賭けるほど、俺はできた人間じゃない。依頼料も受け取ってるし、危険なら断る。ただ、お前が食事を抜いてようが、無茶な計画を立てようが、どうでもいいとは思えない。それだけだ」


 ハナは何も返せなかった。


 きたまくらの言葉には、飾りがない。


 優しい言葉で取り入ろうとしているわけでもない。


 ただ、本人にも説明できない感覚を、そのまま口にしている。


「団長だけじゃないけどね」


 くららが元の笑顔へ戻りながら言った。


「私も、ハナちゃんのこと初めて会った気がしなかったもん。だから、放っておけないの」


「私は感情を理由に判断しない」


 120が続けた。


「ただ、依頼主の生存は契約の達成条件に含まれる。あなたが自滅する行動を選ぶなら止める」


「それだけ?」


 ハナが尋ねる。


 120は数秒黙った。


「……それだけではないかもしれない」


 視線がわずかに地図へ落ちる。


「だが、根拠のない感覚を説明しても意味がない」


「珍しいね。120ちゃんが曖昧なこと言うなんて」


「その呼び方はやめて」


「えー、可愛いのに」


「不快」


 120は冷たく言い切った。


 その直後、ほんの少しだけ視線を逸らした。


 言いすぎたかと考えている顔だと、くららは知っているらしい。


「はいはい。じゃあ、ひゃくにーで」


「さらに悪化してる」


 二人のやり取りに、張り詰めていた空気が少し緩む。


 ハナは残っていたスープへ目を落とした。


 温度は少し下がっている。


「計画の延期は一日だけ」


 低い声で言う。


「それ以上は待たない」


「状況次第だ」


 120が即答する。


「一日で情報を集める。判断はそのあと」


 きたまくらが間に入る。


「それでいいな」


 ハナは返事をしなかった。


 器を口元へ運び、残っていたスープを飲み干す。


 それが、今は唯一できる了承だった。


          ◇


 ハナが生まれ育った家には、温かな食事の記憶がほとんどない。


 あるのは、焦げた鍋の匂いと、床へ落ちた硬いパン。


 酒で機嫌を損ねた父親の足音。


 母親の冷たい声。


 どちらが先に怒鳴り始めたのかも分からない。


 幼いハナにとって、家とは物音を立てずに息をする場所だった。


「どこに隠した」


 父親が部屋へ入ってきた。


 ハナは壁際へ座り、膝を抱えていた。


「知らない」


「嘘をつくな」


「知らない」


 何を探しているのかさえ分からない。


 金。


 酒。


 食べ物。


 その日の気分で、なくなったものはすべてハナのせいになった。


 腕を掴まれ、無理やり立たされる。


「親のものを盗むとは、いい度胸だな」


「盗ってない」


「口答えするな」


 頬へ衝撃が走った。


 身体が床へ倒れる。


 唇が切れ、鉄の味が口の中へ広がった。


 炉の前にいた母親は、振り返ろうともしなかった。


「外でやって。うるさい」


「お前が甘やかすから、こうなるんだ」


「私のせいにしないで」


 怒鳴り声が重なる。


 父親の注意が母親へ向いた瞬間、ハナは立ち上がった。


 考えたわけではない。


 身体が勝手に動いた。


 裏口へ向かう。


 扉を開け、夜の外へ飛び出した。


「待て!」


 背後から足音が追ってくる。


 靴を履く余裕はなかった。


 冷たい土へ裸足で足を下ろし、暗い路地を走る。


 尖った石が足裏へ刺さっても、痛みを感じている暇はない。


 積み上げられた木箱の陰へ身を隠す。


 両手で口を覆い、呼吸を止めた。


「出てこい!」


 父親の声が近づいてくる。


 ハナの右手には、いつの間にか陶器の破片が握られていた。


 床へ落ちていたものを、逃げる時に掴んだらしい。


 家の中で聞いた、器の割れる音。


 鋭く。


 大きく。


 その音だけが頭の中へ残っている。


 指先から、無意識に魔力が流れた。


 陶器の破片を、路地の反対側へ投げる。


 地面へ触れた瞬間、そこから器が激しく砕ける音が鳴り響いた。


「そこか!」


 父親の足音が、音の方へ遠ざかる。


 ハナは反対方向へ走った。


 自分が何をしたのかは分からなかった。


 ただ、破片の中へ残っていた音を、もう一度外へ出した。


 それが、《共鳴(レゾナンス)》を初めて使った夜だった。


          ◇


 家を出てから、何日歩いたのかは覚えていない。


 畑の野菜を盗もうとして石を投げられた。


 店先のパンへ手を伸ばし、腕を掴まれた。


 村の井戸で水を飲もうとして、犬をけしかけられた。


 悪いことだとは知っていた。


 けれど、何も奪わずに生きる方法を、誰も教えてくれなかった。


 腹が減れば盗む。


 見つかれば逃げる。


 それしかなかった。


 雨の降る夜。


 ハナは森の中で動けなくなった。


 濡れた枯葉の上に横たわり、身体を丸める。


 寒い。


 腹が空いた。


 眠れば、もう痛みを感じなくて済む気がした。


「死んでるのか?」


 知らない男の声が聞こえた。


「まだ息はある」


「子どもかよ」


「放っておけば朝までもたん」


「だからって拾うのか?」


「ここで見捨てたら、寝覚めが悪い」


 身体が持ち上げられた。


 抵抗しようとしたが、指一本動かなかった。


 次に目を開けた時、火が見えた。


 粗末な毛布が身体へ掛けられている。


 鍋から湯気が上がり、肉と野菜の匂いがした。


 腹が大きく鳴る。


「起きたか」


 頬に傷のある大柄な男が、木の器を差し出した。


「食え」


 ハナは動かなかった。


「毒は入ってない」


「……何をさせるの」


「何の話だ」


「食べたら、何をさせるの」


 男は少し黙った。


 器から自分で一口食べる。


「今は生きることだけ考えろ。話はそのあとだ」


「信用できない」


「信用しなくていい」


 男は器をハナの前へ置き、数歩離れた。


「だが、食わなければ死ぬ」


 誰も無理に食べさせようとはしなかった。


 奪おうともしない。


 ハナはしばらく器を睨んでいた。


 やがて手を伸ばし、抱え込むように持つ。


 一口目は熱かった。


 舌が焼けるようだったが、止められない。


 噛むことも忘れ、急いで飲み込む。


「ゆっくり食え」


 近くにいた片目の女が言った。


 ハナは器を守るように抱え、女を睨んだ。


「取らないで」


「取らないよ」


「嘘」


「それ、お前の分だから」


 最後まで誰も取り上げなかった。


 器の底が見えても、殴られなかった。


 代わりに何かを要求されることもなかった。


 その夜、ハナは生まれて初めて、温かな食事を腹いっぱい食べた。


          ◇


 彼らは盗賊だった。


 街道を通る商人を襲い、領主の倉庫へ忍び込む。


 抵抗した者を傷つけることもある。


 善人ではない。


 それは、幼いハナにもすぐ分かった。


「ここにいたいなら働け」


 大柄な男に言われた。


「何をすればいい」


「最初は薪と水だ」


「それだけ?」


「それもできない奴に、ほかのことを任せられるか」


 ハナは頷いた。


 食事をもらうなら、役に立たなければならない。


 失敗すれば捨てられる。


 そう思い、言われたことはすべて覚えた。


 食べられる草。


 乾いた薪の見分け方。


 足音を消して歩く方法。


 追われた時の逃げ道。


 相手の目線から次の動きを読むこと。


 何よりも、生き残ること。


 盗賊たちは口が悪かった。


 失敗すれば怒鳴った。


 仲間同士で殴り合うこともある。


 それでも、ハナを殴る者はいなかった。


 高熱を出した時には、交代で見張った。


 食べ物を寝床へ隠していることに気づいても、取り上げなかった。


「腐ったもんを食って腹を壊された方が面倒だ」


 片目の女は、乾燥させたパンをハナへ渡した。


「隠すなら、こっちにしな」


「どうして怒らないの」


「食い物がなくなる怖さを知ってる奴なら、それくらいする」


 女はそれ以上聞かなかった。


 家から逃げた理由も。


 身体に残る傷のことも。


 ハナが話さない限り、誰も無理に聞こうとはしなかった。


 それが、ありがたかった。


          ◇


 《共鳴》の使い方を見つけたのも、盗賊団にいた頃だった。


 ある日、ハナが小石から鳥の声を響かせると、片目の女が興味深そうに目を細めた。


「今の、もう一度できる?」


「できる」


「声も入れられるのかい?」


「たぶん」


「やってみな」


 女は金属片を差し出した。


「私の声を、ここへ入れるんだ」


「どうやって」


「お前の力だろ。私が知るか」


 投げやりな教え方だった。


 それでも女は、成功するまで何度も付き合った。


 初めて保存できた言葉は、短い一言。


『逃げろ』


 金属片から、女の声が流れた。


 ハナは目を見開いた。


「できた」


「使い道は多そうだね」


 女はハナの額を指で押した。


「敵の目を逸らしたいなら、別の場所から足音を鳴らす。仲間への合図なら、決めた音を使う。会話を保存できれば、情報も持ち帰れる」


「戦える?」


「戦う前に逃げられる」


 女は笑った。


「それが一番大事だよ」


 ハナは音を集めた。


 足音。


 鐘。


 鳥の鳴き声。


 金属がぶつかる音。


 人の叫び。


 無機物の数を増やせば、複数の場所から同時に音を鳴らすこともできた。


 右へ進みたい時は、左から足音を響かせる。


 追手が迫れば、遠くで仲間の声を再生する。


 街道で聞いた会話を、拠点へ持ち帰る。


 ハナの力は、盗賊団の役に立った。


「お前のおかげで助かった」


「よくやったな」


「次も頼むぞ」


 そう言われるたび、胸の奥が温かくなった。


 必要とされる。


 戻る場所がある。


 帰りを待ってくれる者がいる。


 ハナはそこで初めて、家族というものを知った。


          ◇


「悪いことをしてるの?」


 焚き火の前で、ハナが大柄な男へ尋ねたことがある。


 男は剣を研ぐ手を止めなかった。


「ああ」


「なら、やめればいい」


「簡単に言うな」


「やめたくないの?」


「まともな生き方を知らない奴ばかりだ。今さら町へ行って、普通に働かせてくれと言っても、誰も雇わん」


「でも、奪われた人は困る」


「そうだな」


 男は否定しなかった。


「俺たちは善人じゃない。お前まで同じになる必要もない」


「私も盗んだ」


「生きるためだろ」


「同じじゃないの」


「同じかどうかは、お前がこれから決めろ」


 男はようやく手を止めた。


「お前には、まだ選べる時間がある」


「ここを出ろってこと?」


「そうは言ってない」


「なら、どういう意味」


「いつか自分で考えろってことだ」


 ハナには分からなかった。


 ここを出たいとは思わない。


 外の世界は、自分を殴り、追い払い、泥棒と呼んだ。


 この場所だけが食事を与え、名前を呼び、帰りを待ってくれる。


「私はここにいる」


「そうか」


「追い出しても戻ってくる」


「面倒な奴だ」


 男はそう言って、少しだけ笑った。


          ◇


 あの場所を失ってから十一年。


 ハナは一人で生きてきた。


 盗賊団に教わった方法を使い、身を隠し、情報を集めた。


 伯爵領の兵が討伐へ動いた理由も知った。


 盗賊団が領民や商人へ被害を与えていたことも理解している。


 討伐に理由がなかったとは思わない。


 それでも。


 正しい理由があれば、失った者が戻ってくるわけではなかった。


 伯爵が領民を守ったという事実と。


 ハナが家族を奪われたという事実。


 どちらも消えない。


 だから、ハナは復讐を選んだ。


 ほかに生きる理由を見つけられなかった。


          ◇


 灰狼傭兵団と出会ったのは、今から数か月前だった。


 酒場の奥。


 周囲から離れた卓で、ハナはきたまくらへ依頼内容を伝えた。


「伯爵家への復讐を手伝ってほしい」


 きたまくらはすぐには答えなかった。


 隣に座るくららは笑顔を消し、120は無表情のままハナを見ていた。


「暗殺か?」


「違う」


「なら、何を望む」


「伯爵が一番大切にしているものを奪う」


「娘か」


 きたまくらの声に、責める響きはなかった。


 ただ事実を確認している。


「そう」


「娘本人に、盗賊団討伐の責任はない」


「分かってる」


「それでも狙う?」


「伯爵に、同じものを失わせるため」


 きたまくらは腕を組んだ。


「断ることもできる」


「なら断ればいい」


「依頼料は?」


 ハナは用意していた袋を卓へ置いた。


 十一年間で集めた金。


 危険な仕事も。


 盗みも。


 情報の売買もした。


 復讐以外へ使うつもりはなかった。


 120が袋の中身を確認する。


「前金としては十分。ただし、伯爵家を相手にするには危険度が高い」


「足りない分は成功後に払う」


「あなたに、これ以上の資産があるとは思えない」


「命でも何でも使えばいい」


 その瞬間。


 きたまくらの表情が変わった。


「そういう言い方はするな」


「何が」


「自分の命を金みたいに扱うなと言ってる」


「私の勝手でしょ」


「依頼を受けるなら、勝手じゃない」


 初対面の男に言われる理由はなかった。


 ハナは席を立とうとした。


「依頼は受ける」


 きたまくらが言った。


 ハナは動きを止める。


「ただし条件がある。実行方法はこちらで決める。無関係な領民は巻き込まない。お前も勝手に死ぬな」


「最後の条件はいらない」


「なら受けない」


「……分かった」


 その時は、依頼を得るためだけに頷いた。


 だが、それから数か月。


 灰狼傭兵団は、契約に含まれないことまでハナへしてきた。


 食事を用意する。


 傷を手当てする。


 眠っていなければ休ませる。


 無茶をすれば止める。


 誰も、理由を説明できない。


 ハナにも理解できなかった。


 ただ。


 十一年前に失った場所と、少しだけ似ていた。


 そう思うことが、一番嫌だった。


 また大切だと思えば。


 また失った時に、立てなくなる。


 だから、依頼人と傭兵。


 それ以上にはならない。


 そう決めていた。


          ◇


 昼を過ぎる頃、灰狼傭兵団は野営地を移した。


 第一部隊は伯爵領の周辺へ入り、情報収集。


 第二部隊は森の中に新たな拠点を作る。


 きたまくらとハナは、伯爵領を見渡せる丘へ向かった。


 くららと120も同行している。


 森を抜けると、視界が開けた。


 なだらかな丘の向こう。


 広い農地と街道。


 その中心に、石造りの城壁が見える。


 伯爵領。


 十一年間、何度も頭の中で思い描いた場所。


 あの向こうに、命令を出した伯爵がいる。


 守られ。


 愛され。


 何も失わずに生きてきた娘がいる。


「思ったより人が多いね」


 くららが街道を見下ろした。


「橋の影響だろう」


 120は遠眼鏡を覗いている。


「北門へ入る商人が通常より多い。潜入は容易。ただし、ギルドと兵士の巡回も増えている」


「アムネジアは?」


 きたまくらが尋ねた。


「今朝、伯爵令嬢と共に教会へ入った。ほかに新人冒険者の男、従者、騎士が同行している」


「令嬢が教会で何を?」


「調査しているように見える。内容までは不明」


 ハナは伯爵邸を見つめた。


 遠すぎて、人の姿までは見えない。


 それなのに。


 胸の奥で。


 何かが鳴った。


「……っ」


 心臓とは違う。


 耳から聞こえる音でもない。


 自分という存在の、もっと深いところ。


 長い間沈黙していた何かが、遠くの誰かへ向けて呼びかけるように響いている。


「ハナちゃん?」


 くららが顔を覗き込もうとする。


 ハナは一歩下がった。


「何でもない」


「顔色悪いよ」


「平気」


「平気な人は胸を押さえないけど」


 言われて初めて、自分が胸元へ手を置いていることに気づいた。


 すぐに離す。


「痛むのか」


 きたまくらが尋ねる。


「違う」


「なら何だ」


「分からない」


 ハナは苛立ったように答えた。


 伯爵領へ目を向けるたび、魂の音が強くなる。


 懐かしい。


 会いたい。


 そんな感情が、自分のもののように湧き上がる。


 あり得ない。


 あの街に、会いたい相手などいない。


 いるのは奪うべき者だけ。


「一度戻ろう」


 きたまくらが言う。


「必要ない」


「体調が悪いなら作戦を見直す」


「体調じゃない」


「なら説明しろ」


「分からないって言ったでしょ」


 強い声が出た。


 きたまくらは何も言わず、ハナを見ている。


 責めるでもない。


 哀れむでもない。


 ただ、言葉の続きを待っていた。


「……この街へ近づくと、変な感じがする」


 ハナは視線を逸らした。


「音が鳴る。耳じゃなくて、もっと中で」


「いつから?」


 120が尋ねる。


「前から、時々あった。でも、ここまで強いのは初めて」


「原因に心当たりは」


「ない」


「伯爵家に関係する可能性は?」


「分からない」


 分からないと口にするたび、苛立ちが増す。


 自分のことなのに。


 誰より自分を守ってきたはずなのに。


 胸の奥で鳴るものだけは、何一つ理解できない。


「私は、あの街を知らない」


 ハナは言った。


「伯爵令嬢にも会ったことはない。それなのに、知ってるみたいな感じがする」


「懐かしい?」


 くららが優しく尋ねた。


「違う」


 否定は早かった。


 だが、違わない。


 それが一番腹立たしかった。


「何でもいい」


 ハナは伯爵邸を睨む。


「計画は変えない。あの中に原因があるなら、会えば分かる」


「復讐の対象に会えば、か」


 きたまくらが静かに言う。


「そう」


「その音が、やめろと言っていても?」


 ハナの瞳が鋭くなる。


「私が十一年、何のために生きてきたと思ってるの」


「知らん。お前の全部を知ったつもりもない」


「なら、余計なことを言わないで」


「だが、何かを確かめる前に取り返しのつかないことをするなとは言える」


「アイを守るつもり?」


「依頼を受けたのはお前だ」


「なら黙って従って」


「それはできん」


 きたまくらは伯爵領へ目を向けた。


「俺たちは金で雇われた。だが、人の心まで預けたつもりはない。必要なら止める」


「契約違反」


「契約には、お前の言うことを何でも聞くとは書いてない」


 ハナは拳を握った。


 怒りはある。


 それでも、きたまくらたちを置いて一人で進もうとは思わなかった。


 灰狼傭兵団の力が必要だから。


 それだけ。


 そう言い聞かせる。


「明日、街へ入る」


「まずは情報収集だ」


 120が言った。


「令嬢とSランク冒険者の目的を確認する。実行はそのあと」


「一日だけ」


「保証はしない」


「120」


「安全性を無視した期限は受け入れない。あなたは焦りすぎている」


「十一年待った」


「だからこそ、最後の数日で失敗するのは愚か」


 冷たい言葉だった。


 ハナは120を睨む。


「言い方」


 くららが小声で止める。


「事実」


 120はそう答えたあと、わずかに唇を閉じた。


 言いすぎた。


 自分でもそう思ったのだろう。


「……あなたの十一年を軽く見ているわけではない」


 少し遅れて付け加える。


「失敗させたくないだけ」


 ハナは答えなかった。


 怒りを保つには、その言葉は真っ直ぐすぎた。


 きたまくらが地図を畳む。


「今日はここまでだ。二部隊に分かれて調査する。ハナは俺たちと戻れ」


「指図しないで」


「依頼人が勝手に街へ入らないよう見張る必要がある」


「信用してないの」


「してない」


 即答された。


「お前は今、一人でも行く顔をしてる」


「……行かない」


「本当か?」


「一日だけ待つって言った」


「なら信じる」


 きたまくらはそれ以上確認しなかった。


 くららがハナの隣へ並ぶ。


「戻ったら何か甘いもの食べよっか」


「いらない」


「果物を煮たやつ、団員が作ってるよ」


「いらない」


「じゃあ、私が食べてる横にいてね」


「どうして」


「一人より美味しいから」


 意味が分からなかった。


 それでも、完全に嫌だとは思えない自分がいた。


 ハナは返事をせず、丘を下り始めた。


 背後には、伯爵領がある。


 振り返らない。


 そう決めたはずなのに。


 数歩進んだところで、もう一度だけ街を見た。


 その瞬間。


 魂の奥で、音が鳴る。


 先ほどよりも強く。


 遠くにいる誰かもまた、自分を探しているように。


「……誰なの」


 小さく漏れた声は、風に消えた。


 答えはない。


 伯爵領の高台にある屋敷。


 そのどこかにいる誰かへ向けて、ハナの魂だけが鳴り続けている。


 十一年間、復讐だけを支えに生きてきた少女は。


 まだ知らない。


 憎むべき伯爵の娘こそが。


 自分が生まれた時から探し続けていた、もう一人の自分であることを。

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