第6話 闇の中のハナ
目を覚ました時、最初に聞こえたのは刃を研ぐ音だった。
一定の間隔で、砥石が鋼の表面を滑っている。
ハナは薄く目を開けたまま、毛布の中で息を殺した。知らない天井ではない。雨除けの布を張った傭兵団の天幕。入口の隙間から、夜明け前の青白い光が差し込んでいる。
すぐ近くには自分の荷物。
腰へ下げている短剣も、手を伸ばせば届くところにあった。
奪われていない。
拘束もされていない。
昨夜と何も変わっていないことを確認してから、ハナは身体を起こした。
「起きたか」
天幕の外から男の声がした。
ハナは答えず、外套を羽織って外へ出る。
焚き火の前では、きたまくらが片膝を立てて座っていた。大きな身体に似合わないほど細かな手つきで、短い刀身を整えている。
周囲には複数の天幕が並び、その間を灰狼傭兵団の団員たちが行き来していた。
馬の世話をする者。
荷物をまとめる者。
朝食の準備をする者。
空はまだ暗いが、十三人の傭兵団はすでに動き始めている。
「寝不足か?」
きたまくらは刃から目を離さずに尋ねた。
「普通」
「普通の顔には見えんな」
「顔を見ずに言うな」
「見なくても分かる。夜中に三回起きてたろ」
ハナは眉を寄せた。
「監視してたの」
「見張りの交代で近くを通っただけだ。お前は眠りが浅すぎる」
「関係ない」
「依頼人が倒れたら、依頼が進まん。関係はある」
きたまくらは研ぎ終えた刃を布で拭った。
ハナが何も言わず離れようとすると、背後から別の声が飛んでくる。
「ハナちゃーん、朝ご飯できたよー!」
明るい声と共に、くららが鍋を持って現れた。
淡い髪を後ろでまとめ、朝から変わらない笑顔を浮かべている。
「ちゃんはいらない」
「じゃあ、はーちゃん?」
「もっといらない」
「ハナぴ?」
「やめろ」
「うーん、じゃあ今はハナちゃんで妥協しよっか」
「何も妥協してない」
くららは楽しそうに笑いながら、木の器へスープを注いだ。
「今日は豆と干し肉のスープだよ。パンもあるから、冷めないうちに食べてね」
「いらない」
「昨日もそれ言って、夜中に干し肉食べてたでしょ」
ハナの視線が鋭くなる。
「見てたの」
「天幕から出てきたら、ちょうど目が合ったよ。気づかなかった?」
「……気づかなかった」
「それはかなり疲れてるね」
くららの笑顔が、ほんの一瞬だけ曇った。
ハナは差し出された器を見た。
湯気が立ち、豆と香草の匂いがする。腹は減っていた。
それでも、素直に受け取ることには未だに慣れない。
「代金は払ってる」
「うん。依頼料はちゃんともらってるよ」
「なら、必要以上に世話を焼くな」
「必要かどうか決めるのは、今朝のご飯を作った私だから」
くららは器を引かなかった。
ハナが受け取るまで、笑顔のまま待っている。
そのやり方が嫌いだった。
無理やり押しつけるわけでもない。
同情するわけでもない。
ただ、当然のようにハナの分を用意している。
拒絶する方が面倒になる。
ハナは器を奪うように受け取った。
「食べればいいんでしょ」
「そうそう。偉い偉い」
「子ども扱いするな」
「二十歳の私から見れば、四つも年上なんだけどね」
「なら、なおさらやめろ」
くららは返事の代わりに笑った。
少し離れた場所で、きたまくらが肩を揺らしている。
「笑うな」
「笑ってない」
「顔が笑ってる」
「朝から元気で結構だと思っただけだ」
ハナは二人から離れ、焚き火の反対側へ座った。
スープを口に運ぶ。
少し濃い。
干し肉の塩気が強いが、冷えた身体にはちょうどよかった。
「味、どう?」
くららが遠くから尋ねてくる。
「普通」
「普通かあ。じゃあ、おかわりあるよ」
「いらない」
「普通って言う時は大体気に入ってる」
ハナは返事をしなかった。
それ以上言えば、また笑われる。
朝食を取りながら周囲を見渡す。
第一部隊の五人は、くららの指示で荷馬車と食料を確認していた。明るい副団長に似て、会話の多い者が揃っている。
一方、第二部隊の五人は必要な言葉しか交わさない。
その中央では、120が地図を広げていた。
名の呼び方は団員によって違う。
ひゃくにじゅう。
ひゃくに。
いちにーぜろ。
本人は、どれで呼ばれても訂正しない。
ハナはまだ、呼ぶ必要がある時だけ「120」と数字のまま呼んでいた。
「食べ終わったなら来て」
地図から目を上げず、120が言った。
「まだ半分残ってる」
「食べながら聞けばいい。時間が惜しい」
「朝くらいゆっくりさせてあげなよ」
くららが口を挟む。
「依頼主は十一年待っている。今さら朝食の十分を急ぐ必要もない」
「なら呼ばなくてもいいでしょ」
「予定の確認は早い方がいい。感情と効率を混ぜないで」
「言い方が固いなあ」
「事実を言っているだけ」
くららは少し頬を膨らませたが、120は気にした様子もない。
ハナは器を持ったまま地図の前へ移動した。
伯爵領を中心に、街道と森、周辺の村が細かく書き込まれている。
既製品の地図ではない。
灰狼傭兵団が依頼を受けてから調べ、補足したものだ。
城門の数。
兵士の詰所。
主な商業区。
高台にある伯爵邸。
ハナが一人で集めてきた情報より、遥かに正確だった。
「北の橋はまだ修復中」
120は細い棒で地図を指した。
「その影響で街道を利用する商人の多くが伯爵領へ滞在している。通常より街へ入りやすいが、人の数も多い」
「混乱を起こすなら都合がいい」
「同時に、不審者へ気づかれにくい。潜入には適している」
「予定通り北門から入る」
「予定を修正する」
ハナが眉を寄せる。
「どうして」
「伯爵家が冒険者を招いた」
「冒険者?」
「昨日、ギルドから伯爵邸へ男女二名が向かった。男は登録されたばかりの新人。女は身分を隠しているが、Sランク冒険者アムネジアの可能性が高い」
ハナの手が止まった。
「Sランクが、どうして伯爵家にいるの」
「不明。女の方は今日も令嬢と共に領内を回っていた。護衛か、個人的な依頼を受けたと考えるのが自然」
「計画に支障は?」
「正面から動けばある」
120は淡々と答えた。
「Sランクが相手では、団全体で交戦しても被害は避けられない。目的は戦闘ではなく、伯爵家へ損失を与えること。相手の力量を把握するまで、実行日は確定しない」
「待てってこと?」
「そう言っている」
「もう十分待った」
ハナの声が低くなる。
きたまくらが刃を鞘へ収め、地図の側へ来た。
「一日二日ずれるだけだ」
「私には一日でも長い」
「焦って失敗したら、十一年が無駄になるぞ」
ハナはきたまくらを睨んだ。
彼は視線を逸らさない。
「契約は伯爵への復讐を手伝うこと。お前を死なせることじゃない」
「死ぬつもりはない」
「死ぬ奴は大体そう言う」
「怖いなら降りればいい」
周囲の空気が変わった。
団員たちの手が止まる。
くららから笑顔が消え、120も地図から顔を上げた。
きたまくらだけが、変わらない表情でハナを見ている。
「怖いさ」
穏やかな声だった。
「仲間が死ぬのも、依頼人が死ぬのも嫌だからな。戦場で怖さを感じなくなった奴は、長く生きられん」
「私は仲間じゃない。依頼人」
「今はな」
ハナは目を細めた。
「どういう意味」
「言葉通りだ」
「勝手に決めるな」
「仲間になるとは言ってない。だが、依頼が終わればどうでもいい相手だとも思ってない」
「どうして」
問いが漏れた。
自分でも聞くつもりはなかった。
きたまくらは少し困ったように頭を掻く。
「それが分かれば、こっちも苦労してない」
「答えになってない」
「初めて会った時から、お前を放っておくと後悔する気がした。理由は知らん」
「同情ならいらない」
「違う」
即座に否定された。
「同情で十三人の命を賭けるほど、俺はできた人間じゃない。依頼料も受け取ってるし、危険なら断る。ただ、お前が食事を抜いてようが、無茶な計画を立てようが、どうでもいいとは思えない。それだけだ」
ハナは何も返せなかった。
きたまくらの言葉には、飾りがない。
優しい言葉で取り入ろうとしているわけでもない。
ただ、本人にも説明できない感覚を、そのまま口にしている。
「団長だけじゃないけどね」
くららが元の笑顔へ戻りながら言った。
「私も、ハナちゃんのこと初めて会った気がしなかったもん。だから、放っておけないの」
「私は感情を理由に判断しない」
120が続けた。
「ただ、依頼主の生存は契約の達成条件に含まれる。あなたが自滅する行動を選ぶなら止める」
「それだけ?」
ハナが尋ねる。
120は数秒黙った。
「……それだけではないかもしれない」
視線がわずかに地図へ落ちる。
「だが、根拠のない感覚を説明しても意味がない」
「珍しいね。120ちゃんが曖昧なこと言うなんて」
「その呼び方はやめて」
「えー、可愛いのに」
「不快」
120は冷たく言い切った。
その直後、ほんの少しだけ視線を逸らした。
言いすぎたかと考えている顔だと、くららは知っているらしい。
「はいはい。じゃあ、ひゃくにーで」
「さらに悪化してる」
二人のやり取りに、張り詰めていた空気が少し緩む。
ハナは残っていたスープへ目を落とした。
温度は少し下がっている。
「計画の延期は一日だけ」
低い声で言う。
「それ以上は待たない」
「状況次第だ」
120が即答する。
「一日で情報を集める。判断はそのあと」
きたまくらが間に入る。
「それでいいな」
ハナは返事をしなかった。
器を口元へ運び、残っていたスープを飲み干す。
それが、今は唯一できる了承だった。
◇
ハナが生まれ育った家には、温かな食事の記憶がほとんどない。
あるのは、焦げた鍋の匂いと、床へ落ちた硬いパン。
酒で機嫌を損ねた父親の足音。
母親の冷たい声。
どちらが先に怒鳴り始めたのかも分からない。
幼いハナにとって、家とは物音を立てずに息をする場所だった。
「どこに隠した」
父親が部屋へ入ってきた。
ハナは壁際へ座り、膝を抱えていた。
「知らない」
「嘘をつくな」
「知らない」
何を探しているのかさえ分からない。
金。
酒。
食べ物。
その日の気分で、なくなったものはすべてハナのせいになった。
腕を掴まれ、無理やり立たされる。
「親のものを盗むとは、いい度胸だな」
「盗ってない」
「口答えするな」
頬へ衝撃が走った。
身体が床へ倒れる。
唇が切れ、鉄の味が口の中へ広がった。
炉の前にいた母親は、振り返ろうともしなかった。
「外でやって。うるさい」
「お前が甘やかすから、こうなるんだ」
「私のせいにしないで」
怒鳴り声が重なる。
父親の注意が母親へ向いた瞬間、ハナは立ち上がった。
考えたわけではない。
身体が勝手に動いた。
裏口へ向かう。
扉を開け、夜の外へ飛び出した。
「待て!」
背後から足音が追ってくる。
靴を履く余裕はなかった。
冷たい土へ裸足で足を下ろし、暗い路地を走る。
尖った石が足裏へ刺さっても、痛みを感じている暇はない。
積み上げられた木箱の陰へ身を隠す。
両手で口を覆い、呼吸を止めた。
「出てこい!」
父親の声が近づいてくる。
ハナの右手には、いつの間にか陶器の破片が握られていた。
床へ落ちていたものを、逃げる時に掴んだらしい。
家の中で聞いた、器の割れる音。
鋭く。
大きく。
その音だけが頭の中へ残っている。
指先から、無意識に魔力が流れた。
陶器の破片を、路地の反対側へ投げる。
地面へ触れた瞬間、そこから器が激しく砕ける音が鳴り響いた。
「そこか!」
父親の足音が、音の方へ遠ざかる。
ハナは反対方向へ走った。
自分が何をしたのかは分からなかった。
ただ、破片の中へ残っていた音を、もう一度外へ出した。
それが、《共鳴》を初めて使った夜だった。
◇
家を出てから、何日歩いたのかは覚えていない。
畑の野菜を盗もうとして石を投げられた。
店先のパンへ手を伸ばし、腕を掴まれた。
村の井戸で水を飲もうとして、犬をけしかけられた。
悪いことだとは知っていた。
けれど、何も奪わずに生きる方法を、誰も教えてくれなかった。
腹が減れば盗む。
見つかれば逃げる。
それしかなかった。
雨の降る夜。
ハナは森の中で動けなくなった。
濡れた枯葉の上に横たわり、身体を丸める。
寒い。
腹が空いた。
眠れば、もう痛みを感じなくて済む気がした。
「死んでるのか?」
知らない男の声が聞こえた。
「まだ息はある」
「子どもかよ」
「放っておけば朝までもたん」
「だからって拾うのか?」
「ここで見捨てたら、寝覚めが悪い」
身体が持ち上げられた。
抵抗しようとしたが、指一本動かなかった。
次に目を開けた時、火が見えた。
粗末な毛布が身体へ掛けられている。
鍋から湯気が上がり、肉と野菜の匂いがした。
腹が大きく鳴る。
「起きたか」
頬に傷のある大柄な男が、木の器を差し出した。
「食え」
ハナは動かなかった。
「毒は入ってない」
「……何をさせるの」
「何の話だ」
「食べたら、何をさせるの」
男は少し黙った。
器から自分で一口食べる。
「今は生きることだけ考えろ。話はそのあとだ」
「信用できない」
「信用しなくていい」
男は器をハナの前へ置き、数歩離れた。
「だが、食わなければ死ぬ」
誰も無理に食べさせようとはしなかった。
奪おうともしない。
ハナはしばらく器を睨んでいた。
やがて手を伸ばし、抱え込むように持つ。
一口目は熱かった。
舌が焼けるようだったが、止められない。
噛むことも忘れ、急いで飲み込む。
「ゆっくり食え」
近くにいた片目の女が言った。
ハナは器を守るように抱え、女を睨んだ。
「取らないで」
「取らないよ」
「嘘」
「それ、お前の分だから」
最後まで誰も取り上げなかった。
器の底が見えても、殴られなかった。
代わりに何かを要求されることもなかった。
その夜、ハナは生まれて初めて、温かな食事を腹いっぱい食べた。
◇
彼らは盗賊だった。
街道を通る商人を襲い、領主の倉庫へ忍び込む。
抵抗した者を傷つけることもある。
善人ではない。
それは、幼いハナにもすぐ分かった。
「ここにいたいなら働け」
大柄な男に言われた。
「何をすればいい」
「最初は薪と水だ」
「それだけ?」
「それもできない奴に、ほかのことを任せられるか」
ハナは頷いた。
食事をもらうなら、役に立たなければならない。
失敗すれば捨てられる。
そう思い、言われたことはすべて覚えた。
食べられる草。
乾いた薪の見分け方。
足音を消して歩く方法。
追われた時の逃げ道。
相手の目線から次の動きを読むこと。
何よりも、生き残ること。
盗賊たちは口が悪かった。
失敗すれば怒鳴った。
仲間同士で殴り合うこともある。
それでも、ハナを殴る者はいなかった。
高熱を出した時には、交代で見張った。
食べ物を寝床へ隠していることに気づいても、取り上げなかった。
「腐ったもんを食って腹を壊された方が面倒だ」
片目の女は、乾燥させたパンをハナへ渡した。
「隠すなら、こっちにしな」
「どうして怒らないの」
「食い物がなくなる怖さを知ってる奴なら、それくらいする」
女はそれ以上聞かなかった。
家から逃げた理由も。
身体に残る傷のことも。
ハナが話さない限り、誰も無理に聞こうとはしなかった。
それが、ありがたかった。
◇
《共鳴》の使い方を見つけたのも、盗賊団にいた頃だった。
ある日、ハナが小石から鳥の声を響かせると、片目の女が興味深そうに目を細めた。
「今の、もう一度できる?」
「できる」
「声も入れられるのかい?」
「たぶん」
「やってみな」
女は金属片を差し出した。
「私の声を、ここへ入れるんだ」
「どうやって」
「お前の力だろ。私が知るか」
投げやりな教え方だった。
それでも女は、成功するまで何度も付き合った。
初めて保存できた言葉は、短い一言。
『逃げろ』
金属片から、女の声が流れた。
ハナは目を見開いた。
「できた」
「使い道は多そうだね」
女はハナの額を指で押した。
「敵の目を逸らしたいなら、別の場所から足音を鳴らす。仲間への合図なら、決めた音を使う。会話を保存できれば、情報も持ち帰れる」
「戦える?」
「戦う前に逃げられる」
女は笑った。
「それが一番大事だよ」
ハナは音を集めた。
足音。
鐘。
鳥の鳴き声。
金属がぶつかる音。
人の叫び。
無機物の数を増やせば、複数の場所から同時に音を鳴らすこともできた。
右へ進みたい時は、左から足音を響かせる。
追手が迫れば、遠くで仲間の声を再生する。
街道で聞いた会話を、拠点へ持ち帰る。
ハナの力は、盗賊団の役に立った。
「お前のおかげで助かった」
「よくやったな」
「次も頼むぞ」
そう言われるたび、胸の奥が温かくなった。
必要とされる。
戻る場所がある。
帰りを待ってくれる者がいる。
ハナはそこで初めて、家族というものを知った。
◇
「悪いことをしてるの?」
焚き火の前で、ハナが大柄な男へ尋ねたことがある。
男は剣を研ぐ手を止めなかった。
「ああ」
「なら、やめればいい」
「簡単に言うな」
「やめたくないの?」
「まともな生き方を知らない奴ばかりだ。今さら町へ行って、普通に働かせてくれと言っても、誰も雇わん」
「でも、奪われた人は困る」
「そうだな」
男は否定しなかった。
「俺たちは善人じゃない。お前まで同じになる必要もない」
「私も盗んだ」
「生きるためだろ」
「同じじゃないの」
「同じかどうかは、お前がこれから決めろ」
男はようやく手を止めた。
「お前には、まだ選べる時間がある」
「ここを出ろってこと?」
「そうは言ってない」
「なら、どういう意味」
「いつか自分で考えろってことだ」
ハナには分からなかった。
ここを出たいとは思わない。
外の世界は、自分を殴り、追い払い、泥棒と呼んだ。
この場所だけが食事を与え、名前を呼び、帰りを待ってくれる。
「私はここにいる」
「そうか」
「追い出しても戻ってくる」
「面倒な奴だ」
男はそう言って、少しだけ笑った。
◇
あの場所を失ってから十一年。
ハナは一人で生きてきた。
盗賊団に教わった方法を使い、身を隠し、情報を集めた。
伯爵領の兵が討伐へ動いた理由も知った。
盗賊団が領民や商人へ被害を与えていたことも理解している。
討伐に理由がなかったとは思わない。
それでも。
正しい理由があれば、失った者が戻ってくるわけではなかった。
伯爵が領民を守ったという事実と。
ハナが家族を奪われたという事実。
どちらも消えない。
だから、ハナは復讐を選んだ。
ほかに生きる理由を見つけられなかった。
◇
灰狼傭兵団と出会ったのは、今から数か月前だった。
酒場の奥。
周囲から離れた卓で、ハナはきたまくらへ依頼内容を伝えた。
「伯爵家への復讐を手伝ってほしい」
きたまくらはすぐには答えなかった。
隣に座るくららは笑顔を消し、120は無表情のままハナを見ていた。
「暗殺か?」
「違う」
「なら、何を望む」
「伯爵が一番大切にしているものを奪う」
「娘か」
きたまくらの声に、責める響きはなかった。
ただ事実を確認している。
「そう」
「娘本人に、盗賊団討伐の責任はない」
「分かってる」
「それでも狙う?」
「伯爵に、同じものを失わせるため」
きたまくらは腕を組んだ。
「断ることもできる」
「なら断ればいい」
「依頼料は?」
ハナは用意していた袋を卓へ置いた。
十一年間で集めた金。
危険な仕事も。
盗みも。
情報の売買もした。
復讐以外へ使うつもりはなかった。
120が袋の中身を確認する。
「前金としては十分。ただし、伯爵家を相手にするには危険度が高い」
「足りない分は成功後に払う」
「あなたに、これ以上の資産があるとは思えない」
「命でも何でも使えばいい」
その瞬間。
きたまくらの表情が変わった。
「そういう言い方はするな」
「何が」
「自分の命を金みたいに扱うなと言ってる」
「私の勝手でしょ」
「依頼を受けるなら、勝手じゃない」
初対面の男に言われる理由はなかった。
ハナは席を立とうとした。
「依頼は受ける」
きたまくらが言った。
ハナは動きを止める。
「ただし条件がある。実行方法はこちらで決める。無関係な領民は巻き込まない。お前も勝手に死ぬな」
「最後の条件はいらない」
「なら受けない」
「……分かった」
その時は、依頼を得るためだけに頷いた。
だが、それから数か月。
灰狼傭兵団は、契約に含まれないことまでハナへしてきた。
食事を用意する。
傷を手当てする。
眠っていなければ休ませる。
無茶をすれば止める。
誰も、理由を説明できない。
ハナにも理解できなかった。
ただ。
十一年前に失った場所と、少しだけ似ていた。
そう思うことが、一番嫌だった。
また大切だと思えば。
また失った時に、立てなくなる。
だから、依頼人と傭兵。
それ以上にはならない。
そう決めていた。
◇
昼を過ぎる頃、灰狼傭兵団は野営地を移した。
第一部隊は伯爵領の周辺へ入り、情報収集。
第二部隊は森の中に新たな拠点を作る。
きたまくらとハナは、伯爵領を見渡せる丘へ向かった。
くららと120も同行している。
森を抜けると、視界が開けた。
なだらかな丘の向こう。
広い農地と街道。
その中心に、石造りの城壁が見える。
伯爵領。
十一年間、何度も頭の中で思い描いた場所。
あの向こうに、命令を出した伯爵がいる。
守られ。
愛され。
何も失わずに生きてきた娘がいる。
「思ったより人が多いね」
くららが街道を見下ろした。
「橋の影響だろう」
120は遠眼鏡を覗いている。
「北門へ入る商人が通常より多い。潜入は容易。ただし、ギルドと兵士の巡回も増えている」
「アムネジアは?」
きたまくらが尋ねた。
「今朝、伯爵令嬢と共に教会へ入った。ほかに新人冒険者の男、従者、騎士が同行している」
「令嬢が教会で何を?」
「調査しているように見える。内容までは不明」
ハナは伯爵邸を見つめた。
遠すぎて、人の姿までは見えない。
それなのに。
胸の奥で。
何かが鳴った。
「……っ」
心臓とは違う。
耳から聞こえる音でもない。
自分という存在の、もっと深いところ。
長い間沈黙していた何かが、遠くの誰かへ向けて呼びかけるように響いている。
「ハナちゃん?」
くららが顔を覗き込もうとする。
ハナは一歩下がった。
「何でもない」
「顔色悪いよ」
「平気」
「平気な人は胸を押さえないけど」
言われて初めて、自分が胸元へ手を置いていることに気づいた。
すぐに離す。
「痛むのか」
きたまくらが尋ねる。
「違う」
「なら何だ」
「分からない」
ハナは苛立ったように答えた。
伯爵領へ目を向けるたび、魂の音が強くなる。
懐かしい。
会いたい。
そんな感情が、自分のもののように湧き上がる。
あり得ない。
あの街に、会いたい相手などいない。
いるのは奪うべき者だけ。
「一度戻ろう」
きたまくらが言う。
「必要ない」
「体調が悪いなら作戦を見直す」
「体調じゃない」
「なら説明しろ」
「分からないって言ったでしょ」
強い声が出た。
きたまくらは何も言わず、ハナを見ている。
責めるでもない。
哀れむでもない。
ただ、言葉の続きを待っていた。
「……この街へ近づくと、変な感じがする」
ハナは視線を逸らした。
「音が鳴る。耳じゃなくて、もっと中で」
「いつから?」
120が尋ねる。
「前から、時々あった。でも、ここまで強いのは初めて」
「原因に心当たりは」
「ない」
「伯爵家に関係する可能性は?」
「分からない」
分からないと口にするたび、苛立ちが増す。
自分のことなのに。
誰より自分を守ってきたはずなのに。
胸の奥で鳴るものだけは、何一つ理解できない。
「私は、あの街を知らない」
ハナは言った。
「伯爵令嬢にも会ったことはない。それなのに、知ってるみたいな感じがする」
「懐かしい?」
くららが優しく尋ねた。
「違う」
否定は早かった。
だが、違わない。
それが一番腹立たしかった。
「何でもいい」
ハナは伯爵邸を睨む。
「計画は変えない。あの中に原因があるなら、会えば分かる」
「復讐の対象に会えば、か」
きたまくらが静かに言う。
「そう」
「その音が、やめろと言っていても?」
ハナの瞳が鋭くなる。
「私が十一年、何のために生きてきたと思ってるの」
「知らん。お前の全部を知ったつもりもない」
「なら、余計なことを言わないで」
「だが、何かを確かめる前に取り返しのつかないことをするなとは言える」
「アイを守るつもり?」
「依頼を受けたのはお前だ」
「なら黙って従って」
「それはできん」
きたまくらは伯爵領へ目を向けた。
「俺たちは金で雇われた。だが、人の心まで預けたつもりはない。必要なら止める」
「契約違反」
「契約には、お前の言うことを何でも聞くとは書いてない」
ハナは拳を握った。
怒りはある。
それでも、きたまくらたちを置いて一人で進もうとは思わなかった。
灰狼傭兵団の力が必要だから。
それだけ。
そう言い聞かせる。
「明日、街へ入る」
「まずは情報収集だ」
120が言った。
「令嬢とSランク冒険者の目的を確認する。実行はそのあと」
「一日だけ」
「保証はしない」
「120」
「安全性を無視した期限は受け入れない。あなたは焦りすぎている」
「十一年待った」
「だからこそ、最後の数日で失敗するのは愚か」
冷たい言葉だった。
ハナは120を睨む。
「言い方」
くららが小声で止める。
「事実」
120はそう答えたあと、わずかに唇を閉じた。
言いすぎた。
自分でもそう思ったのだろう。
「……あなたの十一年を軽く見ているわけではない」
少し遅れて付け加える。
「失敗させたくないだけ」
ハナは答えなかった。
怒りを保つには、その言葉は真っ直ぐすぎた。
きたまくらが地図を畳む。
「今日はここまでだ。二部隊に分かれて調査する。ハナは俺たちと戻れ」
「指図しないで」
「依頼人が勝手に街へ入らないよう見張る必要がある」
「信用してないの」
「してない」
即答された。
「お前は今、一人でも行く顔をしてる」
「……行かない」
「本当か?」
「一日だけ待つって言った」
「なら信じる」
きたまくらはそれ以上確認しなかった。
くららがハナの隣へ並ぶ。
「戻ったら何か甘いもの食べよっか」
「いらない」
「果物を煮たやつ、団員が作ってるよ」
「いらない」
「じゃあ、私が食べてる横にいてね」
「どうして」
「一人より美味しいから」
意味が分からなかった。
それでも、完全に嫌だとは思えない自分がいた。
ハナは返事をせず、丘を下り始めた。
背後には、伯爵領がある。
振り返らない。
そう決めたはずなのに。
数歩進んだところで、もう一度だけ街を見た。
その瞬間。
魂の奥で、音が鳴る。
先ほどよりも強く。
遠くにいる誰かもまた、自分を探しているように。
「……誰なの」
小さく漏れた声は、風に消えた。
答えはない。
伯爵領の高台にある屋敷。
そのどこかにいる誰かへ向けて、ハナの魂だけが鳴り続けている。
十一年間、復讐だけを支えに生きてきた少女は。
まだ知らない。
憎むべき伯爵の娘こそが。
自分が生まれた時から探し続けていた、もう一人の自分であることを。




