第5話 存在しない探し人
翌朝、伯爵邸の前には一台の小さな馬車が用意されていた。
昨日までの雨はすっかり上がり、空には薄い雲が流れている。庭園の土はまだ湿っていたが、石畳は朝日を受けて乾き始めていた。
ゆうきとアムが屋敷へ着くと、玄関前ではアイが待ち構えていた。
「ゆーちゃーーん!」
こちらの姿を見つけるなり、大きく手を振る。
「おはよう。今日も元気だな」
「もちろん。今日は本当に探しに行く日だからね」
「昨日も十分元気だったと思うけど」
「昨日より元気だよ」
「そういうものなのか?」
「そういうものなの」
アイは当然のように答えた。
その後ろでは、侍女が持ち物を確認している。
記録を書き留めるための紙と筆記具。水筒。簡単な食料。雨具まで用意されていた。
騎士は馬車の車輪や馬具を確認し、最後に周囲へ視線を巡らせる。
「随分しっかり準備してるな」
「調査がどこまで長引くか分かりませんので」
侍女は紙束を鞄へ収めながら答えた。
「アイ様は、思いつくままに動かれることがございます。同行する側が備えておかなければなりません」
「今日はちゃんと計画通りに動くよ」
「昨日も同じことをおっしゃいました」
「昨日は予定を少し増やしただけでしょ?」
「市場と広場と丘を追加することを、少しとは申しません」
アイは返す言葉を探したが、見つからなかったらしい。
ゆうきへ助けを求めるような視線を向ける。
「俺に振られても困るよ。昨日は結構歩いたし」
「ゆーちゃんまで」
「でも、街を知れたのは良かったと思う」
「ほら」
「調査の予定として正しかったかは別だけどな」
アイは唇を尖らせた。
その横で、アムが小さく笑う。
「今日は先に順番を決めよう。教会、孤児院、役所。それから、時間があれば古い記録庫」
「古い記録庫?」
ゆうきが尋ねる。
「伯爵が閲覧を許可してくれた領内の記録。災害や討伐、移住者の記録が残ってるみたい」
「最初からそこへ行った方が早くないか?」
「人の出生や保護記録は、教会や孤児院の方が詳しいよ。それに、古い記録は量が多すぎる。先に条件を絞りたい」
「なるほど」
「役所では、アイと同じ年代に領内へ移ってきた家族や、身元不明の子どもの記録を調べる。探し人が同じ年齢とは限らないけど、手がかりにはなるかもしれない」
「分かった」
ゆうきは素直に頷いた。
アムは記憶も経験も豊富だ。
何より、曖昧な依頼だからこそ、調べる順序を考えなければ無駄が増える。
「アイは、今まで強く震えた場所を思い出せた?」
「いくつか」
アイは胸元へ手を当てた。
「人が多い場所が多かった。市場、祭り、教会。あと、北門の近くを通った時にも、少しだけ」
「北門?」
「うん。でも、何年も前だから、誰がいたかまでは覚えてないの」
「その時、何か音は聞こえた?」
「音?」
「《共振》は振動を扱う能力でしょ。視覚より先に、音や衝撃へ反応してる可能性がある」
アイは少し考えた。
「祭りの時は鐘が鳴ってた。市場はいつも騒がしいし、北門では馬車がたくさん通ってたと思う」
「それだけだと、まだ絞れないね」
「ごめんね」
「謝らなくていいよ。昔のことを急に思い出せって言われても難しいから」
アムは穏やかに答えた。
「今日は実際に歩きながら、魂の反応を見ていこう」
「うん」
アイは明るく頷いた。
その笑顔の奥には、わずかな緊張がある。
今日、何かが見つかるかもしれない。
反対に、何も見つからないかもしれない。
期待と不安を隠すように、いつも以上に元気に振る舞っているのだろう。
「じゃあ、出発しよう」
ゆうきが言うと、アイはすぐに馬車へ向かった。
「私、ゆーちゃんの隣に座る」
「アイ様。座席は皆様が座れるようになっております」
「分かってるよ。隣って言っただけ」
「先に場所を決める必要はございません」
「サーヤは細かいなあ」
「アイ様が大まかすぎるのです」
騎士が扉を開ける。
「お話は馬車の中で」
低く落ち着いた声に促され、全員が乗り込んだ。
◇
最初に訪れたのは、伯爵領で最も大きな教会だった。
白い石を積み上げた建物の中央に、細い鐘楼が伸びている。
朝の祈りを終えた人々が外へ出るところで、入口には年配の司祭が立っていた。
「アイ様。お待ちしておりました」
「おはようございます。急にお願いしてごめんなさい」
「伯爵様より事情は伺っております。もっとも、詳しい内容までは聞いておりませんが」
司祭はゆうきとアムへ視線を向ける。
「こちらが、調査をされている冒険者の方々ですね」
「ゆうきです」
「アムネジアです。アムでいいよ」
名を聞いた司祭は一瞬驚いたが、すぐに穏やかな表情へ戻った。
「高名な方に来ていただけるとは。どうぞ、中へ」
教会の内部には、朝の香が残っていた。
高い窓から差し込む光が、床へ細長く伸びている。
正面の祭壇には、この国で信仰されている女神の像が置かれていた。
祈りを捧げている者もいるため、ゆうきたちは声を抑えて奥へ進む。
案内されたのは、教会の脇にある記録室だった。
壁一面の棚には、革表紙の帳面が年代ごとに並んでいる。
「この教会では、領内で生まれた子どもの洗礼記録や、死亡した者、婚姻した者の記録を保管しています」
司祭が一冊の帳面を取り出した。
「ただし、すべての住民が必ずここへ届け出るわけではありません。遠方の村では、地域の小さな礼拝所が記録している場合もあります」
「アイが生まれた頃の記録から見せてもらえますか?」
アムが尋ねる。
「承知しました」
机の上へ、何冊もの帳面が積まれていく。
最初に確認したのは、アイが生まれた年の出生記録だった。
伯爵家の娘であるアイの記録は、ほかよりも丁寧に書かれている。
生まれた日。
洗礼の日。
立ち会った司祭と医師。
両親の名。
どこにも異常はない。
「同じ日に生まれた子は?」
「領内全体では何人かおります。ただ、ここに記録があるのは二人ですね」
司祭が指し示した名前を、侍女が紙へ書き留める。
一人は今も街で暮らしている職人の娘。
もう一人は、幼い頃に家族と共に別の領地へ移っている。
「アイが生まれた前後に、身元不明の子どもが保護された記録は?」
ゆうきが尋ねる。
「教会では確認できません」
「捨て子や孤児も?」
「孤児院へ送られた場合は、そちらに記録がございます。ただ、教会へ預けられた子どもであれば、ここにも残っているはずです」
何年分かの帳面を調べたが、アイと直接結びつきそうな記録は見つからない。
同年代の子ども。
身元不明の少女。
突然領内へ現れた者。
どれも、探し人だと断定できるものではなかった。
昼前になる頃には、机の上に開かれた帳面が増えていた。
「何もないね」
アイが小さく呟いた。
その声には、隠しきれない落胆があった。
「最初の場所だからな」
ゆうきは帳面から顔を上げる。
「ここに記録がないからって、存在しないとは限らないよ」
「うん。分かってる」
アイは笑おうとした。
だが、いつものような明るさはない。
期待していなかったつもりでも、心のどこかでは、すぐに名前が見つかることを願っていたのだろう。
「少し休む?」
アムが尋ねる。
「まだ平気」
「無理して進めても、見落としが増えるよ」
「でも、早く見つけたいから」
「焦っても記録は増えないよ」
アムの声は優しい。
しかし、ただ慰めるだけではなかった。
「探すなら、ちゃんと探そう。休むのも調査のうちだよ」
アイは少し迷ってから、頷いた。
「分かった」
教会の中庭にある長椅子へ移動し、侍女が水筒と軽食を取り出す。
パンへ薄切りの肉と野菜を挟んだものだった。
ゆうきが受け取ろうとすると、アイが先に一つ取って差し出す。
「ゆーちゃん、どうぞ」
「ありがとう」
「アムも」
「うん。ありがとう」
全員が腰を下ろす。
騎士だけは周囲を見渡せる場所へ立っていた。
「また立ったまま食べるのか?」
ゆうきが聞く。
「慣れている」
「座った方が楽だろ」
「護衛中だ」
「教会の中庭でも?」
「場所は関係ない」
アイが困ったように笑う。
「こうなると何を言っても駄目なの」
「頑固だな」
「お前に言われる筋合いはない」
「俺、そんなに頑固に見える?」
「見える」
騎士は即答した。
ゆうきがアムを見る。
「俺って頑固か?」
「自覚なかったの?」
「そこまで?」
「優しいけど、一度決めたら全然曲げないよね」
「アイもそう思う?」
「思う。私を探すって決めた時も、何を言ってもやめなさそうな顔してた」
「それは褒められてる?」
「半分くらい」
アムが先に笑った。
「それ、うちと同じ言い方」
「真似した」
「覚えるの早いね」
少しだけ空気が明るくなる。
アイはパンを食べながら、教会の鐘楼を見上げた。
「小さい頃、この鐘が鳴ると胸が震える時があったの」
「毎回?」
「ううん。たまにだけ」
アムが視線を上げる。
「同じ鐘なのに、反応する時としない時がある?」
「そう。だから、鐘そのものに反応してるわけじゃないと思う」
「その時、誰かが近くにいた可能性はあるね」
「探してる人が?」
「あるいは、その人の能力が使われていたか」
アイは胸元へ手を当てた。
「今は何も感じない」
「なら、今日はここにいないんだろうな」
ゆうきが言う。
「でも、過去にここへ来たことがあるかもしれない」
「教会は誰でも入れるからね」
アムは考えながら続けた。
「記録に残らない人も多い。まだ手がかりがないだけだよ」
休憩を終えたあと、もう一度記録室を確認した。
しかし、教会ではそれ以上の情報は見つからなかった。
◇
次に向かった孤児院は、教会から少し離れた住宅街にあった。
二階建ての古い建物だが、庭は広く、子どもたちが走り回っている。
アイが門を入ると、すぐに何人もの子どもが集まってきた。
「アイお姉ちゃん!」
「今日は何しに来たの?」
「遊べる?」
「今日はお仕事なの。でも、終わったら少し遊ぼうね」
アイは一人ずつ頭を撫で、目線を合わせて話している。
院長らしい老女が建物から出てきた。
「アイ様。お越しになると聞いておりました」
「急にごめんなさい」
「構いませんよ。子どもたちも喜びます」
老女はゆうきたちへ穏やかに頭を下げた。
「中でお話を伺いましょう」
孤児院の記録は、教会ほど整ってはいなかった。
火事で古い帳面の一部が失われた年もあり、文字が薄れて読みにくい頁も多い。
「この孤児院へ来る子どもは、領内で親を失った者だけではありません」
院長が説明する。
「街道で保護された子や、他領から逃れてきた者もおります。身元が分からないまま育つ子も少なくありません」
「アイと同じくらいの年齢で、女の子はいましたか?」
ゆうきが尋ねる。
「何人か。ただ、現在までここへ残っている者はいません。養子へ迎えられた子もいれば、成人して働きに出た子もおります」
記録を一つずつ追っていく。
年齢が近い少女。
身元不明。
他領から来た可能性。
条件だけなら該当する者は何人かいた。
だが、アイの魂は反応しない。
「この名前は?」
アイが一つの記録を指差した。
十三歳頃に保護され、その後すぐに姿を消した少女。
名前は仮のものしか書かれていない。
「覚えております」
院長が答える。
「ひどく警戒心の強い子でした。人に触れられることを嫌い、夜になると何度も窓から外を見ていた」
アイの指先が止まる。
「どんな子だったんですか?」
「黒い髪で、痩せていました。言葉は少なく、食事を隠す癖がありましたね」
「今はどこに?」
「三日ほどでいなくなりました。鍵を壊した形跡もなく、朝には寝台だけが空になっていたのです」
「能力を使ったのかもしれないね」
アムが記録を覗き込む。
「何年前?」
院長が日付を確認する。
アイが生まれるよりも、ずっと後。
年齢も合わない。
それでも、ゆうきはアイの表情を見た。
「胸は?」
「震えてない」
「じゃあ、この子ではないかもしれない」
「うん」
アイは記録から手を離した。
その後もいくつかの名を確認したが、《共振》は何も示さなかった。
記録の中には、過酷な人生を思わせる子どもたちが何人もいた。
親を失った者。
捨てられた者。
戦いや病で家族をなくした者。
アイは頁をめくるたび、表情を曇らせた。
「この子たち、今はどうしてるんですか?」
「全員の現在までは把握しておりません。ただ、養子先から手紙をくれる者もおりますよ」
院長は別の箱から何通かの手紙を取り出した。
元気に暮らしているという報告。
仕事を始めたという知らせ。
結婚し、子どもが生まれたという便り。
アイは一通ずつ、安心したように読んでいた。
「探し人の調査だぞ」
騎士が静かに声を掛ける。
「分かってるよ。でも、気になるでしょ」
「すべてを確認していては、時間が足りなくなる」
「少しだけだから」
騎士は止めようとしたが、結局何も言わなかった。
ゆうきはその様子を見て、少し笑う。
「甘いな」
「何がだ」
「最終的には、いつもアイの好きにさせてる」
「必要な範囲で許可しているだけだ」
「それを甘いって言うんじゃないか?」
「違う」
否定は早かった。
しかし、アイが手紙を読み終えるまで急かさなかった。
◇
孤児院を出た頃には、日が少し傾いていた。
役所へ向かう途中、アイはいつもより静かだった。
「疲れた?」
ゆうきが尋ねる。
「少しだけ」
「体じゃなくて、気持ちの方か」
アイは驚いたようにゆうきを見た。
「分かるの?」
「孤児院を出てから、全然喋らないからな」
「そうだね」
しばらく歩いたあと、アイはぽつりと呟いた。
「私が探してる人も、ああいう場所にいたのかな」
「分からない」
「誰にも大切にされないまま、生きてたかもしれないよね」
「その可能性はある」
ゆうきは否定しなかった。
「でも、そうじゃない可能性もある」
「うん」
「まだ何も分かってないのに、一番悪い未来だけを自分の中で決めるなよ」
「……ゆーちゃんは、やっぱり甘やかしてくれないね」
「優しいことだけ言ってほしかった?」
「少しだけ」
「じゃあ、追加する」
ゆうきは前を向いたまま言った。
「どんな場所にいたとしても、見つけたあとにできることはある。過去を変えることはできないけど、その人がこれから一人でいなくて済むようにはできるかもしれない」
アイは足を止めた。
ゆうきも振り返る。
「それは、約束してくれる?」
「相手が望むなら」
「そこも条件つきなんだ」
「勝手に助けるって決めるのは、相手のためじゃないだろ」
アイは少しだけ寂しそうに笑った。
「うん。そうだね」
アムが二人の横へ並ぶ。
「会ってみないと分からないよ。優しい人かもしれないし、すごく怒りっぽい人かもしれない」
「アムみたいに?」
「うちは怒りっぽくないよ」
「昨日、宿でゆーちゃんが部屋を一緒にしようとした話をしたら、少し怒ってた」
アムの足が止まる。
「ゆうき、話したの?」
「違う。アイが宿の女将から聞いたらしい」
「女将さん、楽しそうに教えてくれたよ」
「……あとで宿を変えようかな」
「気にしなくていいだろ。誤解だって説明したし」
「説明するほど怪しく聞こえるんだよ」
アムは額へ手を当てた。
少しだけ、いつもの空気が戻る。
◇
役所では、移住者や保護された住民の記録を確認した。
伯爵の許可があるとはいえ、個人情報へ関わる部分は職員が条件に合うものだけを抜き出している。
アイと同年代。
少女。
身元が不明、あるいは他領から移住。
該当する記録はいくつもあった。
しかし、どれも《共振》は反応しない。
アイが記録へ手を触れても。
名前を読み上げても。
魂は静かなままだった。
「本当に誰もいないのかな」
夕方が近づく頃、アイの声から明るさが消え始めた。
今日一日で、何冊もの記録を調べた。
名前も。
年齢も。
出身地も分からない。
手がかりは、魂が震えるという感覚だけ。
最初から難しい依頼だと分かっていた。
それでも、何も見つからない時間が続けば、不安になる。
「今日は終わりにする?」
アムが尋ねる。
「まだ古い記録庫が残ってる」
「今から行っても、全部は見られないよ」
「少しだけでも見たい」
アイは譲らなかった。
「ここまで何もなかったから、最後の場所に何かあるかもしれない」
「期待しすぎない方がいい」
「分かってる」
「本当に?」
アムの問いに、アイは答えなかった。
分かっていないわけではない。
だが、期待せずにはいられないのだろう。
「行こう」
ゆうきが言った。
アムが視線を向ける。
「少しだけ確認しよう。ただし、日が落ちる前まで。何もなくても、今日はそこで終わり」
「ゆーちゃん」
「無理に全部調べるのは駄目だ。でも、ここで帰ったら、アイは夜まで気にするだろ」
「それはそうだけど」
「アムも一緒なら、見落としは減る。最後に一箇所だけ見よう」
アムは小さく息を吐いた。
「分かった。でも、本当に少しだけだからね」
「うん!」
アイの表情へ、わずかに明るさが戻った。
◇
古い記録庫は、伯爵邸の敷地内でも人の出入りが少ない場所にあった。
屋敷の裏手。
古い石壁に囲まれた、二階建ての建物。
領地の歴史、軍務、災害、過去の裁判、討伐記録などが保管されている。
伯爵の許可証を見せると、管理人が重い鍵束を持って現れた。
「閲覧できるのは一階の一般記録までです。軍の編成や機密に関わるものは、許可があってもお見せできません」
「探しているのは、身元不明者や過去の事件に関する記録です」
アムが答える。
「それなら、南側の棚でしょう。ただ、整理が追いついていないものも多い」
管理人が鍵を差し込む。
何度か回そうとしたが、古い錠前は固く動かない。
「またか」
管理人は眉を寄せ、力を込めた。
金属が擦れる音がする。
しかし、鍵は途中で止まった。
「昨日の雨で湿気たのかもしれません。少々お待ちを」
「私がやってもいい?」
アイが前へ出る。
「アイ様が?」
「鍵の中を見るだけです。壊さないよ」
管理人は迷い、侍女を見る。
侍女が頷くと、場所を譲った。
アイは扉の前へ立ち、錠前へ指先を添える。
目を閉じる。
淡い魔力が、金属の内部へ流れ込んでいく。
カチ。
小さな音。
鍵穴の奥で、部品が震えた。
「錆びてるところがある。鍵を少しだけ左へ戻して、そのあと持ち上げるように回して」
管理人が言われた通りに動かす。
今度は抵抗なく、鍵が回った。
「開いた」
「すごいな」
ゆうきが錠前を覗き込む。
「内部が見えるのか?」
「見えるというより、震え方で形が分かるの」
「中に何があるかも?」
「近ければね」
アイは少し得意そうに笑う。
管理人は感心したように錠前を見つめた。
「錠前師にも向いていそうな能力ですな」
「昔、屋敷の鍵を勝手に開けて叱られたことがあります」
侍女が静かに付け加える。
「それは言わなくていいでしょ」
「事実です」
扉が開く。
中には、紙と革の古い匂いが満ちていた。
狭い窓から差し込む光に、細かな埃が舞っている。
棚は天井近くまで伸び、年代や分類を書いた札が掛けられていた。
「時間がないから、分かれて探そう」
アムが言う。
「ゆうきは移住者と行方不明者。うちは災害と魔力異常。アイたちは、討伐や事件の記録を見て」
「どうして討伐記録を?」
アイが尋ねる。
「探し人が普通の生活をしてなかった可能性もあるから。街や村の記録に残らないなら、事件や討伐の記録へ名前が出てるかもしれない」
「分かった」
それぞれ棚へ向かう。
ゆうきは過去二十年ほどの行方不明者記録を確認した。
子ども。
旅人。
家出人。
事故と判断された者。
見つからないまま記録が終わっている者。
だが、アイが探している誰かと結びつくものはない。
アムも魔力災害や転移現象らしい記録を探したが、該当するものは見つからなかった。
アイは侍女と共に、棚から古い記録箱を下ろしている。
騎士は周囲を警戒しながら、重い箱を運んでいた。
「これは?」
アイが一枚の札を見つけた。
そこには、過去の討伐記録と書かれている。
「古すぎませんか?」
侍女が箱の年代を確認する。
「アイ様がお生まれになった頃より、かなり後のものも混じっております」
「でも、見てみる」
箱を机へ置く。
蓋を開けると、中には紐でまとめられた報告書が何束も入っていた。
魔物の討伐。
街道を荒らした傭兵団。
領境で起きた小規模な衝突。
そして、盗賊団の討伐。
アイの指が、一つの束へ触れた。
その瞬間。
「――っ」
胸の奥が大きく震えた。
アイは息を呑み、その場で身体を固くする。
「アイ様?」
侍女がすぐに支える。
机の上に置かれた報告書が、かすかに震え始めた。
紙が擦れ合い、低い音を立てる。
「アイ!」
ゆうきとアムが駆け寄る。
「大丈夫か?」
「胸が……」
アイは報告書から手を離そうとした。
しかし、指が動かない。
痛みではない。
これまで感じた震えとは比べものにならないほど強い感情が、報告書を通して流れ込んでくる。
悲しい。
苦しい。
冷たい。
誰かが泣いている。
声を出さずに。
一人で。
「離して」
アムがアイの手首へ触れる。
無理に引き剥がすのではなく、アイと報告書の間へ自分の魔力を薄く流し込んだ。
震えが少しずつ弱まる。
アイの指が離れた瞬間、報告書が机へ落ちた。
「はっ……」
アイは大きく息を吸う。
侍女が身体を支え、近くの椅子へ座らせた。
「何があった?」
ゆうきが目線を合わせる。
「分からない」
アイの瞳には涙が浮かんでいた。
「これを見た瞬間、すごく悲しくなったの。誰かが全部なくしたみたいに」
「自分の記憶?」
「違うと思う。でも……私のことみたいに苦しかった」
アムは机に落ちた報告書へ目を向けた。
古い紐をほどき、最初の頁を開く。
そこには討伐対象となった盗賊団の名。
被害の内容。
討伐へ参加した兵士の数。
命令を出した者。
そして、討伐が行われた日付が記されていた。
「アム?」
ゆうきが声を掛ける。
アムは日付を見たまま、返事をしない。
「何か分かったのか?」
「まだ」
アムはゆっくりと頁をめくる。
討伐された者の数。
逃亡者。
確認できなかった遺体。
生き残りの可能性。
記録の端には、短い一文が残されている。
年若い少女が一名、包囲を抜けた可能性あり。
アムの指先が、その部分で止まった。
「アイ」
「何?」
「この討伐記録に触れたのは、初めて?」
「うん。こんな場所に来たこともない」
「盗賊団について、誰かから聞いたことは?」
「ないと思う」
騎士が記録を覗き込む。
「この討伐は、数年近く前のものだ。アイ様が関わる理由はない」
「今のアイの年齢とも直接は合わないね」
ゆうきが言う。
「でも、魂は反応した」
アムは静かに答えた。
「名前でも、年齢でもない。記録の中にある出来事へ、アイの魂が反応してる」
「探してる人が、この盗賊団にいたってこと?」
アイが尋ねる。
「可能性はある」
「じゃあ、あの悲しさは……」
アイは胸元を押さえた。
先ほど流れ込んできた感情を思い出すように、目を伏せる。
「その人が、家族を失った時の気持ちなのかな」
誰もすぐには答えられなかった。
盗賊団は領民へ被害を与えていた。
討伐には理由があった。
だが、その中にいた誰かにとっては、犯罪者たちが家族だった可能性もある。
「この日付……」
アムがもう一度確認する。
討伐が行われたのは、アイが生まれたあと。
同じ時代に、アイとはまったく異なる人生を歩んでいた少女が存在していたことになる。
アイ自身とは接点がない。
それでも、魂は記録へ触れた瞬間に強く震えた。
「アム、何を考えてる?」
ゆうきが尋ねる。
「二つの可能性」
アムは報告書を閉じずに答えた。
「アイが探してる相手が、この盗賊団と関係してる。もう一つは――」
そこで言葉を止めた。
「もう一つは?」
「アイ自身の魂が、この出来事を知ってる」
部屋の空気が重くなる。
「でも、私はここにいたことなんてないよ」
「分かってる」
「盗賊団にも会ったことない」
「うん」
「じゃあ、どうして?」
「まだ分からない」
アムは曖昧な答えで誤魔化さなかった。
「だから、もっと調べる必要がある」
報告書の最後には、生き残った可能性のある少女について、ごく僅かな情報が残されていた。
年齢は十三歳前後。
黒い髪。
小柄。
魔法、あるいは未知の技能を用いて包囲を抜けた可能性あり。
その後の行方は不明。
「十三歳……」
アイが呟く。
「今、生きてたら私と同じくらい?」
「近いかもしれない」
ゆうきが答える。
「名前は?」
「書かれてない」
騎士が報告書を確認する。
「兵士たちも把握していなかったのだろう。盗賊団の構成員すべての名が分かっていたわけではない」
アイは唇を噛んだ。
初めて見つかった手がかり。
だが、それは喜べるものではなかった。
盗賊団。
討伐。
家族を失った少女。
自分の魂が感じ取った、深い悲しみ。
「この子を探したい」
アイは静かに言った。
「探し人と違ったとしても?」
アムが尋ねる。
「うん」
アイは迷わなかった。
「もし今も一人でいるなら、知らないふりをしたくない」
「同情だけで近づくと、傷つけるかもしれないよ」
「分かってる」
「盗賊団を家族だと思っていたなら、伯爵家を憎んでる可能性もある」
「……それでも」
アイは自分の胸へ手を当てる。
「この悲しさを感じたのに、何もしないのは嫌」
アムはしばらくアイを見つめていた。
明るく、優しい少女。
誰かの痛みを自分のことのように感じてしまう。
その優しさが、いつか自分を傷つけることもあるだろう。
それでも、それはアイが持つ本物の心だった。
「分かった」
アムは記録を整えた。
「次は、この盗賊団について調べよう。討伐に参加した兵士、生き残りの目撃情報、その後に領内で起きた不審な事件」
「ありがとう」
「ただし、相手がアイを憎んでいても、全部受け入れようとしないでね」
「どういうこと?」
「相手の苦しみを理解することと、傷つけられることを許すのは違うから」
アイは少し驚き、それから真剣に頷いた。
「うん」
窓の外は、すでに夕暮れへ近づいていた。
今日はこれ以上調べられない。
報告書は管理人の許可を得て、明日もう一度閲覧することになった。
記録庫を出る前、アイは一度だけ振り返った。
机の上に残された盗賊団の記録。
紙へ触れていない今も、胸の奥には微かな震えが残っている。
探し人の姿は、まだ見えない。
名前も分からない。
それでも、初めて。
自分の魂が向かおうとしている方向だけは、見えた気がした。
◇
伯爵領から離れた森の奥。
黒い外套をまとった少女は、岩陰へ腰を下ろしていた。
掌には、いくつもの小さな石が並んでいる。
足音。
馬車の車輪。
金属がぶつかる音。
遠くで鳴いた鳥の声。
それぞれの石には、異なる音が封じ込められていた。
少女が一つへ指を触れると、石の内部から低い男の声が流れる。
『北門の交代は、日没直後だ』
必要な情報を聞き終えると、少女は魔力を止めた。
音が途切れる。
伯爵領へ入るための準備は、少しずつ整っていた。
門の配置。
警備の交代。
屋敷までの道。
逃走経路。
時間をかけて集めた情報を、頭の中で組み立てる。
その時。
少女の胸の奥で、何かが強く鳴った。
「……っ」
反射的に立ち上がる。
周囲には誰もいない。
封じた石も反応していない。
それでも、魂の奥だけで音が続いている。
悲しみ。
戸惑い。
そして、自分を探そうとする誰かの気配。
「やめろ」
少女は胸元を強く押さえた。
その感覚を押し潰すように、息を整える。
「今さら、誰が……」
答えは返らない。
けれど、伯爵領の方角へ顔を向けた瞬間。
魂の音が、さらに強くなった。
少女は奥歯を噛み締める。
あの場所にいる。
長い間、自分の中で鳴り続けていた何か。
その正体が。
憎むべき伯爵の領地にいる。
「関係ない」
自分へ言い聞かせる。
「私には、やることがある」
盗賊団を壊滅させた伯爵家。
家族を奪った者たち。
その痛みを返すために、ここまで生きてきた。
今さら、理由の分からない音に惑わされるつもりはない。
少女は石を一つずつ外套の内側へ収めた。
最後に残った小石から、聞き覚えのない少女の声が漏れる。
『この子を探したい』
少女の動きが止まった。
封じた覚えのない声だった。
明るく。
優しく。
それなのに、ひどく懐かしい。
少女は石を握り締める。
「……誰なんだ、お前は」
小石は何も答えない。
ただ、魂の奥で。
名前のない音だけが、いつまでも鳴り続けていた。




