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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
第二章 もうひとりの私へ

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第4話 愛されたアイ


 伯爵邸を出た頃には、雨雲は東の空へ流れていた。


 濡れた石畳には淡い陽光が落ち、庭園の葉から雫が一つずつこぼれている。


 ゆうきは正門へ続く道を歩きながら、振り返った。


 二階の窓辺には、まだアイの姿がある。


 こちらに気づくと、大きく手を振った。


「ゆーちゃーん! 明日、迎えに行くからねー!」


 開け放った窓から街中に聞こえそうなほどの声だった。


 庭師たちが一斉に顔を上げる。


 門の兵士まで、何事かと屋敷を振り返った。


 アイの隣では侍女が何かを言っている。おそらく窓を開けたまま大声を出さないよう注意しているのだろう。


 それでもアイは気にせず、もう一度手を振った。


「元気だな」


 ゆうきも手を上げて応える。


 アムは隣で、小さく息を吐いた。


「昨日会ったばかりなのに、もう迎えに来る気なんだ」


「人懐っこいって聞いてたけど、想像以上だったな」


「ゆうきも普通に受け入れてたけどね」


「断る理由もないだろ。明日は一緒に街を回るんだし」


「そういうところだよ」


 アムは呆れたように言ったが、口元にはわずかな笑みがあった。


「でも、少し気になるな」


「《共振》のこと?」


「それもあるけど、アイ自身の方」


 アムは歩みを緩め、屋敷を見上げた。


「明るいし、周りから大切にされてる。本人もそれを分かってる。それなのに、あの子の魂にはずっと寂しさが残ってる」


「探してる誰かがいるからだろ」


「うん。でも、普通の孤独とは少し違う」


「魂が分かれてるように感じる?」


 ゆうきが尋ねると、アムはすぐには答えなかった。


「まだ、そこまでは言えないかな。ただ、《共振》は完成してない。それに、ゆうきが握手した時も同じ違和感を感じた」


「ああ。力が半分だけ流れてきたみたいだった」


「半分……か」


 アムはその言葉を繰り返す。


「探し人が能力の残りを持ってる可能性はある。でも、ただ同じ系統のスキルを持ってるだけかもしれない」


「明日から調べれば、少しは分かるかな」


「まずはアイのことを知る方が先だと思う」


「依頼人を?」


「どこで魂が反応したのかを調べるなら、これまでどんな生活をしてきたか知らないといけないからね」


 アムは正門の前で足を止めた。


「それに、アイが自分をどう思ってるのかも知っておきたい」


「幸せなのに足りないと思う自分が嫌だって言ってたな」


「そういう罪悪感は、放っておくと自分を傷つけるよ」


 声音は静かだった。


 長い年月を生きてきたアムだからこそ、知っている感情なのかもしれない。


 ゆうきはそれ以上、踏み込まなかった。


「なら、明日は調査だけじゃなくて、普通に話す時間も作ろう」


「そうだね」


 二人は門を出て、伯爵領の街へ続く坂道を下り始めた。


          ◇


 翌朝。


 宿の食堂で朝食を取っていると、外から馬車の音が聞こえた。


 ゆうきがパンを口へ運びながら窓を見る。


 伯爵家の紋章が刻まれた馬車が、宿の前へ止まっていた。


「まさか、本当に迎えに来たのか?」


「来るって言ってたでしょ」


 アムはスープを飲みながら、特に驚いた様子もない。


「でも、伯爵令嬢が朝から冒険者御用達の宿へ来るとは思わないだろ」


「アイなら来ると思ったけどな」


「昨日会ったばかりなのに、もう理解が深いな」


 宿の入口が開く。


「ゆーちゃーーん!」


 聞き覚えのある声が食堂へ響いた。


 客たちが一斉に振り返る。


 淡い色の外出着を身につけたアイが、明るい笑顔で手を振っている。


 その後ろから侍女が入り、さらに少し遅れて騎士が続いた。


「アイ様。公共の場では、もう少しお声を抑えてください」


「だって、ゆーちゃんがどこにいるか分からなかったから」


「店主へ尋ねれば済みます」


「それより早いでしょ?」


「周囲の皆様を驚かせております」


 アイはそこで初めて食堂を見回した。


 冒険者や商人たちが、何事かとこちらを見ている。


「あ……ごめんなさい」


 素直に頭を下げると、空気が少し緩んだ。


「伯爵令嬢様じゃないか?」


「どうしてこんな宿に?」


「誰かを迎えに来たらしいぞ」


 小声があちこちから聞こえる。


 アイは気にした様子もなく、ゆうきたちの卓へ近づいた。


「おはよう、ゆーちゃん。アムも」


「おはよう。ずいぶん早いな」


「楽しみで、いつもより早く起きちゃった」


「起こされる側の身にもなっていただきたいものです」


 侍女が静かに付け加えた。


「まだ朝日も昇りきらないうちから、出発の準備を始められまして」


「だって、探すなら早い方がいいでしょ?」


「調査先の施設が開いていなければ意味がありません」


「その時間まで、街を案内すればいいもん」


 アイは最初からそのつもりだったらしい。


 ゆうきはアムを見る。


「どうする?」


「まず朝食を食べ終わってからかな」


 アムは平然と答えた。


「アイも食べる?」


「食べてきたよ。でも、そっちのパン美味しそう」


「半分いる?」


「いる!」


「アイ様」


 侍女の声が少し低くなる。


「朝食は召し上がったばかりです」


「これは別腹なの」


「まだ午前でございます」


「午前でも別腹は別腹だよ」


 ゆうきはパンを半分に割り、アイへ差し出した。


 侍女が困ったように眉を下げる。


「甘やかしてはいけません」


「これくらいならいいだろ」


「ゆーちゃんは優しいね」


「 逆にアイは、会ったばかりの俺のことを、よくそんなふうに言えるよな。」


「分かるもん」


「何が?」


「人のことをちゃんと見て話す人だって」


 アイはパンを受け取り、小さく一口かじった。


 笑顔がさらに明るくなる。


「美味しい!」


「大げさだな」


「美味しい時は美味しいって言った方が、作った人も嬉しいでしょ?」


 厨房の奥で、宿の女将がこちらを見て笑っていた。


「確かに、そうかもな」


 ゆうきが言うと、アイは満足そうに頷いた。


 アムはそのやり取りを見ながら、何かを確かめるようにアイを見つめていた。


 誰かが笑うことを、自分のことのように喜ぶ。


 それは振る舞いとして身につけたものではない。


 アイの中から自然に出てくるものだった。


          ◇


 街へ出ると、昨夜の雨が嘘のように空は晴れていた。


 ただ、北へ続く街道はいまだ封鎖されている。


 橋の点検には、もうしばらく時間がかかるらしい。


 ゆうきたちは教会や孤児院へ向かう前に、まずアイの案内で街を歩くことになった。


「ここが朝の市場。お昼になると、もっと人が増えるよ」


 アイは歩きながら、店を一つずつ指差していく。


「あっちのお店は焼き菓子が美味しいの。向こうの魚屋さんは、朝早く行くと珍しい川魚が並ぶよ。あと、あの角の食堂は煮込み料理が評判」


「随分詳しいな」


「よく来るからね」


「伯爵令嬢が一人で?」


「一人じゃないよ。侍女と騎士が一緒」


 アイが後ろを振り返る。


 侍女は少し離れたところを歩き、騎士は人混みの動きを警戒している。


「私は一人でも平気なんだけど、二人が駄目って言うから」


「駄目です」


「許可する理由がありません」


 二人の声がほぼ同時に重なった。


 アイは口を尖らせる。


「ほら、いつもこうなの」


「大切にされてる証拠だろ」


「分かってるよ」


 返事は早かった。


 不満はあっても、鬱陶しいとは思っていない。


 守られていることを理解し、その気持ちを大切にしている。


 市場を歩いていると、店主たちが次々にアイへ声を掛けた。


「アイ様、おはようございます」


「おはよう。昨日の雨、大丈夫だった?」


「裏の排水路が少し溢れましたが、兵士の方々が手伝ってくれましたよ」


「怪我した人はいない?」


「おりません。ご心配ありがとうございます」


 少し進むと、果物を並べていた女性が手招きした。


「アイ様、今朝届いたばかりですよ」


「わあ、きれい!」


 赤く色づいた果実を一つ手渡される。


 アイは受け取ったあと、すぐに硬貨を出そうとした。


「そんな、差し上げますよ」


「駄目だよ。売り物でしょ?」


「いつも贔屓にしていただいていますから」


「それなら、なおさら払う。美味しいものを作ってくれた人には、ちゃんとお金が届かないと」


 押し問答の末、アイはきちんと代金を払った。


 受け取った果実を、その場で四つに切ってもらう。


 ゆうき、アム、侍女、騎士へ一切れずつ渡し、自分の分は残さなかった。


「アイは食べないのか?」


「一個しかなかったから」


「なら、これを半分にしよう」


 ゆうきは自分の一切れを分けようとした。


「ゆーちゃんの分が減るでしょ」


「もともとアイが買ったものだろ」


「でも、食べてもらいたかったの」


「なら、一緒に食べた方がいい」


 ゆうきが半分を差し出すと、アイは少し迷ってから受け取った。


「ありがとう」


 隣でアムが果実を口へ運ぶ。


「甘いね」


「でしょ? この辺りの果物は美味しいんだよ」


 アイは自分が褒められたように嬉しそうに笑った。


 市場を抜けるまでに、何人もの領民がアイへ声を掛けた。


 老人。


 商人。


 子ども。


 職人。


 その誰に対しても、アイは名前や顔を覚えているようだった。


「こないだ言ってた、お孫さんの熱は下がった?」


「この前壊れた荷車、直った?」


「新しいお店、来週からだったよね。楽しみにしてるね」


 形だけの言葉ではない。


 以前に聞いた話を覚え、続きを気にかけている。


 だから領民たちも、伯爵令嬢へ接する時の緊張より先に、親しげな笑顔を見せるのだろう。


「人気者だな」


 ゆうきが言う。


「アイ様は、幼い頃からこのような方です」


 侍女が答えた。


「一度聞いた人の名前や悩みを、よく覚えていらっしゃいます」


「全部は覚えてないよ」


「ご自身では、そうおっしゃいますが」


「覚えようとしてるわけじゃないの。気になるから、忘れないだけ」


 アイは前を歩きながら言った。


「困ってるって聞いたのに、そのあとどうなったか分からないままだと、落ち着かないでしょ?」


「普通は、全員のことまで気にしていられないよ」


 アムが静かに返す。


「アイが優しいから気になるんだと思う」


「優しいのかな」


「少なくとも、うちにはそう見えるよ」


「アムに言われると、なんだか照れるね」


 アイは笑った。


 それでも、その笑顔の奥にほんの少しだけ戸惑いがあった。


 自分が優しいと呼ばれることへ、慣れていないわけではない。


 ただ、それを自分の長所として素直に受け取れないのだろう。


          ◇


 市場を抜けた先に、小さな広場があった。


 中央には噴水があり、その周りを子どもたちが走り回っている。


「アイお姉ちゃん!」


 一人の少年が気づき、駆け寄ってきた。


 その声を聞いたほかの子どもたちも集まってくる。


「今日は何しに来たの?」


「この人たちだれ?」


「冒険者?」


 次々に飛んでくる質問へ、アイは一つずつ答えた。


「今日はお仕事。この人はゆーちゃんで、こっちがアム。二人とも、私の大事な相談を聞いてくれてるの」


「ゆーちゃん、弱そう」


 少年がゆうきを見上げて言う。


「正直だな」


「剣は持ってるけど、騎士様より細いよ」


「まだ新人だからな」


「魔物倒せる?」


「小さい魔物なら」


「ドラゴンは?」


「無理」


「弱いじゃん」


「そこまではっきり言われると傷つくな」


 子どもたちが笑う。


 アイも声を上げて笑った。


 アムは少し離れたところで、楽しそうにその様子を眺めている。


「アムは強いの?」


 今度は少女が尋ねた。


「うちは、ゆうきよりは強いかな」


「どのくらい?」


「ドラゴンによるね」


「倒せるの?」


「小さいのなら」


 アムが平然と答える。


 ゆうきは隣を見る。


「比較がおかしくないか?」


「嘘は言ってないよ」


「子どもの期待値を上げるなよ」


 さらに笑いが起きる。


 騎士は周囲を警戒しながらも、口元を少しだけ緩めていた。


 侍女も穏やかな表情でアイを見つめている。


 しばらくすると、転んで膝を擦りむいた少女が泣き始めた。


 アイはすぐに駆け寄り、膝をつく。


「痛かったね。見せて」


「血が出た……」


「少しだけだよ。大丈夫。ちゃんと洗えば、すぐ治るからね」


 アイは侍女から布と水を受け取り、傷口を丁寧に拭いた。


 少女が痛みに顔をしかめると、自分も同じように眉を寄せる。


「痛いよね。でも、泥が残るともっと痛くなるから、少しだけ我慢して」


 傷を手当てしたあと、少女の目元を拭う。


「泣いてもいいよ。でも、歩けそう?」


「うん」


「偉いね」


 アイは少女が立ち上がるまで、手を握っていた。


 その姿を見ながら、ゆうきはアムへ小声で話しかける。


「確かに、太陽みたいな子だな」


「明るいだけじゃないね」


「人が痛がると、自分まで痛そうな顔をする」


「感じ取りすぎるんだと思う」


 アムの表情には、少しだけ心配が浮かんでいた。


「他人の痛みへ敏感なのは優しさだけど、全部を自分の中へ入れてたら疲れるよ」


「アイは、それを人に見せなさそうだな」


「うん」


 手当てを終えたアイは、何事もなかったように子どもたちと笑っている。


 自分が心配したことも。


 少女の痛みに胸を痛めたことも。


 すべて明るい笑顔の中へ隠していた。


          ◇


 広場を離れたあと、ゆうきたちは街の外れにある小高い丘へ向かった。


 そこからは、伯爵領の街を一望できる。


 アイは幼い頃から、この場所が好きなのだという。


 なだらかな斜面には草が広がり、一本だけ大きな木が立っている。


 木の下には古いベンチが置かれていた。


「ここから見る街が、一番好きなの」


 アイはベンチへ座り、眼下の景色を見つめた。


 市場の屋根。


 教会の鐘楼。


 職人街から昇る細い煙。


 遠くには伯爵邸も見える。


「全部見えるから?」


「うん。それに、みんなが暮らしてるって分かるから」


「音はほとんど聞こえないけどな」


「でも、煙が上がってたり、馬車が動いてたりするでしょ。それを見ると、今日も誰かが働いて、ご飯を作って、話してるんだなって思えるの」


 ゆうきとアムも隣へ座る。


 侍女と騎士は少し離れた場所で待っていた。


「小さい頃から、ここへ来てたのか?」


「うん。侍女に連れてきてもらったのが最初だったかな」


 アイは記憶を辿るように空を見上げた。


「父様が忙しい日とか、一人で寂しくなった時に来てた。でも、街を見てると、自分が一人じゃないって思えたんだよね」


「伯爵とは仲がいいんだな」


「うん。父様はすごく優しいよ」


 アイは迷いなく答えた。


「小さい頃は仕事を抜け出して遊んでくれたし、誕生日はどれだけ忙しくても一緒にいてくれた。私が熱を出した時なんて、一晩中そばにいたんだって」


「伯爵本人が?」


「うん。朝になって侍女に叱られてたみたい」


「どうして叱られたんだ?」


「看病は任せて休んでくださいって言われたのに、聞かなかったから」


 アイはその光景を想像したように笑った。


「母様も、私のことをすごく大切にしてくれた。礼儀には厳しかったけど、それ以上に優しかったよ」


 過去形だった。


 ゆうきは少しだけ迷ってから尋ねる。


「今は?」


「母様は、私が小さい頃に亡くなったの」


 アイの声は静かだった。


「病気だった。最後まで私の前では笑ってたよ」


「……ごめん」


「謝らなくていいよ。悲しかったけど、ちゃんと愛されてたって覚えてるから」


 アイは街へ視線を戻した。


「侍女も騎士も、ずっと私のそばにいてくれた。父様も領民のみんなも優しい。私は本当に、何か足りないって言えないくらい幸せなんだ」


 風が丘を渡る。


 柔らかな髪が揺れ、アイは片手で耳へ掛けた。


「それでも、探してしまうんだな」


 ゆうきが言う。


「うん」


 アイは笑わなかった。


「ここに座って街を見てる時も、祭りで人がたくさんいる時も、ふと誰かがいないって思うの」


「いつ頃から?」


「覚えてない。物心がついた頃には、もうあった気がする」


「子どもの頃、誰かと別れた記憶は?」


「ないよ。侍女にも父様にも聞いたけど、そんな人はいないって」


 アムが静かに尋ねる。


「その誰かを、どんな人だと思ってる?」


「分からない」


「会ったら何をしたい?」


 アイは少し考えた。


「……謝りたいのかも」


「どうして?」


「分からない。でも、待たせてごめんって言いたい気がする」


 アムの瞳がわずかに揺れた。


 アイ自身に覚えがないのなら、それは魂に残った感情なのかもしれない。


「それから、ちゃんと笑ってるか聞きたい」


「相手の心配が先なんだな」


「だって、ずっと探してるのが私だけじゃなかったら、その人も寂しかったかもしれないでしょ?」


 アイは両手を膝の上で握った。


「私には父様も侍女も騎士も、たくさんの人がいる。でも、その人には誰もいなかったらって考えると、怖くなるの」


 ゆうきは何も言えなかった。


 その不安は、ただの想像ではないように聞こえた。


 遠く離れた半身の孤独を、理由も分からず感じ取っているような。


「アイは、自分が幸せなことを悪いと思ってる?」


 アムが尋ねた。


 アイは少し驚いた顔をした。


「……どうして?」


「探してる相手が苦しんでるかもしれないって考えた時、自分だけが幸せなのが申し訳なくなるんじゃない?」


 しばらく沈黙が続いた。


 風が草を揺らし、街の方から鐘の音が届く。


「…少しだけ」


 やがて、アイは認めた。


「すごく変だよね。誰かが苦しんでる証拠なんてないのに」


「変じゃないよ」


「でも、全部想像かもしれない」


「想像でも、そう感じたことは本物でしょ」


 アムは穏やかに続ける。


「ただ、自分が幸せなことまで責めなくていい。誰かが苦しんでるからって、アイが笑わない理由にはならないよ」


「もし、探してる人が本当に苦しんでたら?」


「その時は、会ってから一緒に考えればいい」


「簡単に言うね」


「簡単じゃないよ」


 アムは小さく笑った。


「うちも、昔は自分だけ生き残ったことを何度も考えたから」


 ゆうきがアムを見る。


 それ以上は語らなかった。


 公爵家の没落。


 長い時間の中で失った者たち。


 そのすべてを、今ここで話すつもりはないのだろう。


「幸せだった時間は、誰かを裏切るものじゃない」


 アムの声は静かだった。


「それを忘れない方がいいよ」


 アイはアムを見つめた。


 水色の髪を揺らす少女が、自分より遥かに長い時間を生きていることを知っている。


 その言葉が、ただの慰めではないことも感じ取ったのだろう。


「うん」


 小さく頷いた。


「ありがとう、アム」


「どういたしまして」


 しばらく三人で街を眺めた。


 誰も無理に話そうとはしなかった。


 静かな時間が、丘の風と共に流れていく。


          ◇


 その日の午後、ゆうきたちは伯爵邸へ戻った。


 教会や孤児院の記録を調べる前に、アイの出生や幼少期について確認する必要があったからだ。


 案内されたのは、屋敷の奥にある小さな書斎だった。


 大きな執務室とは異なり、家族の記録や個人的な手紙が保管されているらしい。


 侍女が棚から一冊の厚い帳面を取り出す。


「アイ様がお生まれになった頃の記録です」


 頁には、出生の日付や立ち会った医師、乳母の名前などが記されていた。


 アムは一つずつ丁寧に確認する。


「出生に異常は?」


「特にはございませんでした」


「魔力の暴走や、周囲で変わったことは?」


「私が仕えるようになったのは、その少し後ですが、先代の侍女からもそのような話は聞いておりません」


「生まれた時から、一人だった?」


 アムの問いに、侍女は少し戸惑った。


「双子であったか、という意味でしょうか」


「うん」


「アイ様はお一人でお生まれになっています」


 アイは横から帳面を覗き込む。


「私に双子がいたら、父様が隠す理由なんてないと思うよ」


「そうだね。でも、確認は必要だから」


 アムは次の頁へ進む。


 出産の日。


 その前後に屋敷へ出入りした者。


 医師の報告。


 どこにも不審な記録はない。


「この日に、領内で大きな出来事はあった?」


「私どもの記録にはございません。ただ、領全体の記録となると、別の保管庫になります」


「そこも見られる?」


 ゆうきが尋ねると、侍女は少し考えた。


「伯爵様の許可が必要なものもございます。一般的な出生記録や災害の記録でしたら、教会や役所でも確認できますが」


「じゃあ、先にそっちからだな」


「父様へ話してもいいよ」


 アイが言った。


「秘密にしたいんじゃなかったのか?」


「最初は、心配させたくなかった。でも、ゆーちゃんたちが一緒に調べてくれるなら、ちゃんと話した方がいいと思う」


「無理に急がなくていいよ」


 ゆうきは言った。


「言えると思った時でいい。調べられる範囲から始めよう」


「でも、隠し続けるのも嫌なの」


 アイは真剣な表情で答えた。


「父様は私に、困った時は頼ってほしいっていつも言う。それなのに、私はずっと何も言わなかった」


「それは、父親を信用してないからじゃないだろ」


「うん。だから、余計に申し訳なくて」


「なら、話す時は俺たちも一緒にいるよ」


「本当?」


「依頼として関わってるんだから、説明する責任もある」


 アイの表情が明るくなる。


「ありがとう、ゆーちゃん」


 その時、書斎の外から控えめな音がした。


 騎士が扉を開ける。


「伯爵様がお戻りになりました」


 アイが立ち上がった。


「もう?」


「橋の視察が予定より早く終わったそうです。アイ様がお客様を招いていると聞き、後ほど挨拶をしたいとのことです」


「ちょうどよかった。父様に話す」


 侍女が心配そうに尋ねる。


「本当によろしいのですか?」


「うん。もう決めた」


 アイは迷いなく答えた。


 それから、ゆうきとアムへ振り返る。


「二人も一緒に来てくれる?」


「もちろん」


「うちもいいよ」


 アムも頷く。


          ◇


 伯爵は、想像していたよりも気取らない人物だった。


 年齢は四十代半ばほど。


 視察から戻ったばかりらしく、華美な礼服ではなく、泥の付いた外套を身につけている。


 使用人から着替えを勧められたようだが、客を待たせる方が失礼だと、そのまま応接室へ来たらしい。


「待たせてしまって申し訳ない」


 伯爵はゆうきたちへ頭を下げた。


「この領地を預かる者として、まずは雨の中、街道の事情で足止めさせていることを詫びたい」


「伯爵様が謝ることではないと思います」


 ゆうきが答える。


「自然のことですし、橋を無理に通さない判断は正しいです」


「そう言ってもらえると助かる。橋脚の一部が損傷していた。徒歩であっても危険だっただろう」


 伯爵は向かいへ座る前に、アムへ視線を向けた。


「千貌のアムネジア殿とお見受けする」


「今は旅の途中の冒険者として来てるから、アムネジアでいいよ」


「では、そうさせていただこう」


 相手が年下に見えても、Sランク冒険者へ過度にへりくだらない。


 だが、軽視もしない。


 自然な距離の取り方だった。


「それで、アイ」


 伯爵は娘へ顔を向ける。


「私に話したいことがあるそうだね」


「うん」


 アイは少しだけ緊張していた。


 いつものように笑おうとしたが、うまく表情を作れない。


 伯爵は急かさず待っている。


「私、ずっと誰かを探してるの」


 アイは胸元へ手を置いた。


 幼い頃から感じていた欠落。


 知らない誰かを探してしまうこと。


 夢の中に、別の世界のような景色があること。


 《共振》がゆうきとアムへ反応したこと。


 隠さず、一つずつ話した。


 伯爵は途中で口を挟まなかった。


 驚きはある。


 理解できていない部分もある。


 それでも、娘の言葉を疑うような表情は見せなかった。


「だから、二人に探すのを手伝ってもらうことにしたの」


 話し終えると、アイは不安そうに父親を見つめた。


「黙ってて、ごめんなさい」


 伯爵はすぐに答えなかった。


 しばらく目を閉じ、静かに息を吐く。


「私が悲しいのは、お前が奇妙なことを考えていたからではない」


 やがて、伯爵は言った。


「それほど長く悩んでいたのに、私へ話せないと思わせてしまったことだ」


「違うの。父様を信じてなかったわけじゃないよ」


「分かっている。だからこそ、私ももっと早く気づくべきだった」


 伯爵はアイの前へ移動し、片膝をついた。


 父親として、娘と同じ目線になる。


「アイ。お前が誰かを探したいのなら、探していい。それがこの領地の外にいる者でも、過去の記憶の中にいる者でも、私は否定しない」


「父様……」


「ただ、一人で抱え込まないでほしい。お前が笑っているからといって、何も悩んでいないとは限らない。それを、私は忘れていた」


 アイの瞳に涙が浮かんだ。


「ごめんなさい」


「謝らなくていい」


「でも、私、こんなに幸せなのに、ずっと何かが足りないって思ってて……」


 声が震える。


「父様も、侍女も、騎士も、みんな大切にしてくれるのに。それなのに満足できない自分が、ずっと嫌だった」


 それは、ゆうきたちへ話した時よりも深い告白だった。


 最も大切な父親へ向けているからこそ、隠してきた罪悪感まで溢れている。


 伯爵は娘の手を取った。


「お前が何かを探しているからといって、私たちを大切にしていないとは思わない」


「でも……」


「人の心は、器ではない。何かで満たされたからといって、ほかの何かを求めてはいけないわけではないよ」


 伯爵は優しく続けた。


「お前が笑ってくれることを、私は嬉しく思う。だが、笑顔だけを求めているわけではない。悲しいなら悲しいと、寂しいなら寂しいと言ってほしい」


 アイは俯いた。


 涙が一粒、膝の上へ落ちる。


「私は、父親として頼りないかもしれない。それでも、お前の気持ちを迷惑だと思うことはない」


「……うん」


 小さな声だった。


 伯爵はアイの涙を拭う。


 その様子を見ていた侍女も、静かに目元を押さえていた。


 騎士は表情を変えなかったが、握った拳へ力が入っている。


 アイがどれほど愛されて育ったのか。


 説明されなくても、そこにいる全員の姿が物語っていた。


「ゆうき殿、アムネジア殿」


 伯爵が二人へ向き直る。


「娘の話を聞き、否定せずにいてくれたことへ感謝する」


「まだ何も見つけてません」


「それでもだ。私では、今までこの子の苦しみに気づけなかった」


 伯爵は深く頭を下げた。


「領内の記録を調べるために必要な許可は出そう。ただし、住民の個人情報や、軍務に関わるものもある。すべてを無条件で開示することはできない」


「当然だと思います」


 ゆうきは答える。


「必要な範囲だけで大丈夫です。俺たちも、探している相手の名前や顔すら分かっていませんから」


「難しい依頼だな」


「はい。だから、必ず見つけるとは約束してません」


 伯爵はゆうきを見つめた。


「正直なのだな」


「できないことを、できるとは言えません。でも、最初から存在しないと決めつけたくもないんです」


「そうか」


 伯爵は静かに頷く。


「アイがお前たちを信じた理由が、少し分かった気がする」


 アイは涙を拭いながら、それでも明るく笑った。


「ゆーちゃんはね、優しいけど何でもいいよって言う人じゃないんだよ」


「会って一日しか経ってないのに、ずいぶん詳しいな」


「分かるもん」


 昨日と同じ答えだった。


 アムが隣で小さく笑う。


「ゆうきは分かりやすいからね」


「アムまで乗るなよ」


 部屋の空気が少しだけ和らいだ。


          ◇


 話を終えたあと、伯爵は必要な書類を整えるため執務室へ戻った。


 アイは泣いたことを恥ずかしがるように、庭へ出たいと言い出した。


 侍女は目元が赤いままでは風に当たらない方がいいと止めたが、結局、屋敷の回廊から庭園を眺めることで落ち着いた。


「父様に話せてよかった」


 アイは回廊の欄干へ手を置いた。


「ずっと怒られるかもしれないって思ってた」


「伯爵が?」


「怒るというより、悲しませると思ってたの。私が足りないって思ってることを知ったら、自分の愛情が足りなかったって感じるんじゃないかって」


「実際、少しはそう思ってたかもしれないな」


 ゆうきは正直に言った。


 アイが驚いた顔をする。


「でも、それはアイを責めてるんじゃない。自分が気づけなかったことを悔やんでただけだろ」


「うん」


「話さなければ、伯爵はずっと気づけなかった。今日伝えたことで、これからは一緒に考えられる」


「そうだね」


 アイは庭へ視線を移した。


 咲き始めた花々の上を、白い蝶が飛んでいる。


「私、父様に愛されてる」


「見てれば分かるよ」


「侍女にも騎士にも、みんなにも大切にされてる」


「うん」


「私は幸せだよ」


 アイは一つずつ確かめるように言った。


 その声には、迷いがなかった。


「でも、探してもいいんだよね」


「いいよ」


 ゆうきは即答した。


「自分が幸せだって認めることと、欠けてる何かを探すことは両立する」


「こんなに大切にされているのに、足りないと思ってしまう自分が、ずっと嫌だったんです」


 丁寧な言葉が混じった。


 伯爵令嬢としてではない。


 長い間、自分自身へ向けていた嫌悪を、ようやく誰かへ打ち明ける言葉だった。


 ゆうきは少し考えた。


「足りないと思うこと自体は、悪くないんじゃないか」


「どうして?」


「何かを大切にできる人間ほど、失われてるものにも気づくから」


 アイは黙って聞いている。


「それに、自分の中に欠けた部分があるからって、今ある幸せが偽物になるわけじゃない。アイが父親や侍女たちを大切にしてるのは、本当だろ」


「うん」


「なら、それでいい。探してる相手が見つかった時に、その人も大切にすればいい」


「そんなに簡単にできるかな」


「できないかもしれない」


 ゆうきは曖昧に笑わなかった。


「相手がアイを嫌うかもしれないし、思ってたような人じゃないかもしれない。見つけたら全部解決するとも限らない」


 アイの目が少し伏せられる。


「でも、会う前から決めなくていい。まずは見つける。その先は、その時に考えよう」


「ゆーちゃんって、優しいことを言ったあとに、ちゃんと怖いことも言うよね」


「都合のいいことだけ言っても仕方ないからな」


「でも、不思議と嫌じゃない」


 アイは顔を上げた。


 目元にはまだ涙の跡が残っている。


 それでも、笑顔は先ほどより自然だった。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 少し離れた場所で、アムは二人の会話を聞いていた。


 ゆうきがアイへ向ける言葉に、特別な警戒はない。


 目の前で困っている誰かへ、いつも通り向き合っているだけだ。


 アイもまた、ゆうきたちの輪へ入り込もうとしているのではない。


 ゆうき個人へ、まっすぐに信頼を向けている。


 その距離感は、アムにとって不快なものではなかった。


「アイ」


 アムが声を掛ける。


「明日から、記録を調べよう。教会と孤児院、それから領内の出生記録。近隣から流れ着いた子どもの情報も必要かな」


「うん」


「《共振》が強く反応した場所も、思い出せる範囲で教えて」


「分かった」


「無理に全部思い出そうとしなくていいからね。少しずつでいい」


「アムは、本当に落ち着いてるね」


「長く生きてるから」


「私も長く生きたら、アムみたいになれるかな」


「どうだろう」


 アムは少し考え、静かに笑った。


「アイはアイのままでいいと思うよ」


 その言葉に、アイは明るく頷いた。


 回廊の向こうから、侍女が呼びに来る。


 伯爵の許可が下り、明日から領内の記録を確認できるようになったらしい。


 アイは先ほどまで泣いていたことなど忘れたように、侍女の元へ駆けていく。


「走ると転びますよ」


「大丈夫!」


「先日も同じことをおっしゃって転ばれました」


「今日は転ばないから!」


「転ぶ者は皆、そのように申します」


 騎士も後ろから続く。


 その姿を見て、ゆうきは笑った。


「本当に愛されてるな」


「うん」


 アムはアイの背中を見つめていた。


 明るく。


 人懐っこく。


 誰かの痛みへ敏感で、自分の痛みは笑顔の奥へ隠してしまう少女。


 光の中で育ち、その光を誰かへ分け与えられるほど優しい。


 それでも、魂の奥には埋まらない空白が残っている。


「だからこそ、見つけないとね」


 アムが呟く。


「アイが探してる誰かを」


 その日の夕暮れ。


 伯爵邸の窓辺で、アイは一人、街を眺めていた。


 父親へ話せたことで、胸の重さは少しだけ軽くなっている。


 探していい。


 寂しいと言っていい。


 幸せでありながら、足りないものを求めてもいい。


 初めて、そう思うことができた。


 アイは胸元へ手を当てる。


 魂の震えは、今は静かだった。


 だが、消えたわけではない。


 目を閉じると、まだ見ぬ誰かの存在を感じる。


 遠く。


 暗い場所。


 何かを押し殺しながら、一人で立っている誰か。


「待っててね」


 アイは小さく呟いた。


「今度こそ、ちゃんと探すから」


 その声に応えるように。


 伯爵領から少し離れた森の中で、一つの小石がかすかな音を立てた。


 誰も触れていないはずの石の内部から、短い呼吸音が漏れる。


 その近くで、黒い外套をまとった少女が足を止めた。


 聞こえてるはずのない声へ振り返る。


 けれど、そこには誰もいない。


 少女は眉を寄せ、石を拾い上げた。


 掌の中で、封じた覚えのない音がもう一度だけ鳴る。


 待っててね。


 遠くから届いたような少女の声。


「……誰だ」


 低い声が、森の闇へ落ちる。


 返事はない。


 ただ、魂の奥で。


 長い間、押し殺してきた何かが、かすかに鳴り続けていた。

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