第2話 伯爵領の街
城門の前には、雨を避けようとする人々が列を作っていた。
幌を深く下ろした荷馬車。外套の襟を立てた商人。泥に濡れた靴を気にしながら、順番を待つ旅人たち。
空はすっかり灰色に覆われ、雨は石造りの城壁を細く伝っている。
ゆうきとアムが列の最後尾へ並ぶと、すぐ前にいた男が振り返った。
「冒険者か?」
男の視線は、ゆうきの腰にある剣と、アムの旅装へ向いていた。
「はい。ルーメンへ向かう途中だったんですけど、橋が危ないって聞いて」
「ああ、北の橋だな。昨日から商人の間でも話題になってる。今朝の時点で荷馬車は通行止めらしいぞ」
「徒歩なら通れるんですか?」
「どうだろうな。雨が続けば、兵士が街道ごと封鎖するかもしれん。急ぎでなければ、この街で様子を見る方がいい」
男はそう言うと、前へ向き直った。
列はゆっくりと進んでいる。
門兵は一人ひとりの身分証を確認し、荷馬車の積み荷にも目を通していた。雨の中でも作業は雑にならず、かといって必要以上に時間をかけてもいない。
門の上では、別の兵士が街道の先を警戒している。
「思ったより、しっかりしてるな」
ゆうきが小声で言うと、アムも兵士たちへ目を向けた。
「街道沿いの領地だからね。人の出入りが多い場所は、門の管理が甘いとすぐに治安へ響くよ」
「伯爵領って聞くと、もっと堅苦しい場所を想像してた」
「領主が伯爵ってだけで、暮らしてる人たちは普通だよ。まあ、土地によって雰囲気は全然違うけど」
「アムはここに来たことある?」
「ないと思う」
「思う?」
「長く生きてると、通り過ぎただけの街まで全部は覚えてないの。名前が変わってることもあるしね」
ゆうきは何気なく聞いたつもりだったが、アムの返答には千年以上という時間が滲んでいた。
忘れていること。
変わってしまった土地。
かつて見た景色が、別の名前で呼ばれている可能性。
ゆうきにはまだ、その感覚を正しく想像できない。
だが、無理に分かったような顔をする必要もないと思っていた。
「次の方」
門兵の声が響く。
順番が来ると、ゆうきは冒険者証を差し出した。
兵士は表面を確認し、隣にいるアムへ視線を移す。
アムも身分証を見せたが、Sランクであることを示す部分は外套の影に隠れるようにしていた。
兵士は一瞬だけ目を細めたものの、余計なことは言わなかった。
「滞在目的は?」
「ルーメンへ向かう途中の避難です。北の橋の状態を確認して、通れるようなら出発します」
「橋は昼前から全面封鎖された。雨が止んでも、点検が終わるまでは通れん。冒険者ギルドか商人ギルドで最新の情報を聞ける」
「ありがとうございます」
「宿を探すなら、中央通りの南側が安い。雨で流れ込んだ旅人が多いから、早めに取った方がいいぞ」
兵士は二人の冒険者証を返し、通行を許可した。
門を抜けた瞬間、街の匂いが変わった。
湿った石畳。
パンを焼く香り。
馬と藁の匂い。
雨の中でも煮込み料理を売る屋台から、香草と肉の湯気が立ち昇っている。
街の中心へ続く大通りは広く、左右には商店が並んでいた。
軒先には布が張られ、店主たちは雨で濡れた商品を慌ただしく奥へ運んでいる。
「思ったより賑やかだな」
「街道が塞がれて、旅人が集まってるんだと思う。商人にとっては困ることだけど、宿や食堂には稼ぎ時かもね」
「そういう見方もあるのか」
「一つの出来事で、全員が同じように困るとは限らないから」
アムはそう言いながら、人の流れを避けて歩いた。
大通りの脇では、数人の兵士が倒れた木箱を起こしている。
雨で荷台が滑り、荷物が散らばったらしい。
兵士の一人が濡れた小麦袋を抱え上げ、商人へ声を掛けていた。
「袋は破れていない。中身もおそらく無事だ。倉庫まで運ぶから、馬を先に休ませろ」
「兵士様、そこまでしていただかなくても」
「道を塞いだままでは、ほかの者が通れん。気にするな」
怒鳴るでも、恩を着せるでもない。
ただ、必要なことをしているような口調だった。
その少し先では、騎士らしい男が子どもへ傘を渡している。
子どもは何度も頭を下げ、母親の元へ駆けていった。
ゆうきは街を見渡した。
「少なくとも、兵士はちゃんと働いてるみたいだな」
「今見える範囲ではね」
アムの返事は慎重だった。
「一つの場面だけで、領主や街全体を判断しない方がいいよ。表から見えないこともあるし、反対に悪い噂だけが大きくなることもある」
「分かってる。でも、最初の印象としては悪くない」
「それならいいと思う」
二人は中央通りを進んだ。
市場に近づくにつれ、人の声が増えていく。
雨天でも営業している店は多く、屋根の下へ商品を詰め込むように並べていた。
野菜、果物、干し肉、チーズ。
金属製の鍋や農具。
色とりどりの布や、魔石を使った小さな生活道具。
ゆうきは露店の一つで足を止めた。
木製の台には、掌ほどの大きさの魔導具が並べられている。
「これは何ですか?」
「携帯用の温石だよ。魔力を込めれば半日くらい温かさが続く。旅人なら一つ持っておいて損はないよ」
店主の老婆が説明する。
ゆうきが手に取ると、表面には火属性の魔法陣が薄く刻まれていた。
「便利そうだな」
「ゆうきにはまだ早いかな」
隣からアムが口を挟む。
「魔力を入れすぎると熱くなりすぎるし、制御を誤ると壊れるよ」
「買う前に止めるなよ」
「事実を言っただけ」
老婆は二人を見比べ、くすりと笑った。
「仲がいいねえ。お嬢ちゃんが教えてやればいいじゃないか」
「お嬢ちゃん……」
アムの口元がわずかに引きつる。
見た目だけなら十五歳から十七歳ほどに見える。
老婆がそう呼ぶのは当然だった。
「そうですね。教えてもらいます」
ゆうきが笑いを堪えながら答えると、アムが小さく肘で脇腹を押した。
「今、面白がったでしょ」
「いや、似合ってると思って」
「あとで覚えててね」
声音は穏やかだったが、少しだけ冷たい。
ゆうきは温石を元の場所へ戻し、素直に店から離れた。
「買わないの?」
「今はいい。壊す未来が見えた」
「正しい判断だね」
「その代わり、ルーメンで教えてくれよ」
「ちゃんと基礎から練習するならね。魔導具は便利だけど、使う人の魔力制御が雑だと危ないから」
「分かった。先生」
「その呼び方やめて」
二人は市場を抜け、職人街へ入った。
こちらは商店街よりも建物が低く、工房から金属を打つ音が響いている。
雨で扉を閉めている店も多いが、窓の隙間から炉の赤い光が見えた。
軒先には剣や鍬、鎧の部品が並ぶ。
道の端では、職人らしい男たちが排水路へ詰まった枝葉を取り除いていた。
「水が溢れるぞ、そっちを先に開けろ!」
「分かってる! 若いのを二人、南側へ回してくれ!」
その声に応じて、近くにいた見習いらしい少年たちが走っていく。
誰かに命令されている様子はない。
街へ水が溜まらないよう、商人や職人、兵士がそれぞれ動いている。
ゆうきは足元を流れる水を見た。
「街全体で対処に慣れてる感じがする」
「雨が多い土地なのかもしれないね。排水路もきちんと作られてる」
「伯爵がちゃんと治めてるってことかな」
「可能性はある。でも、領地が整ってるのは伯爵一人の力じゃないよ。働く人がいて、管理する人がいて、税が正しく使われて、ようやく形になる」
「アム、妙に厳しいな」
「領主を一人見ただけで、その土地全部を分かった気になるのは危ないからね」
その言葉には、どこか遠い記憶が混じっているように聞こえた。
アムはかつて、公爵家の令嬢として生きていた。
その家が没落したことも、ゆうきは知っている。
だが、その詳細までは聞いていない。
今はまだ、聞く時ではない気がした。
ゆうきは話題を変えるように、通りの先へ目を向けた。
「まず宿を取ろう。門兵も早めがいいって言ってたし」
「そうだね。ギルドへ行く前に荷物を置こうか」
◇
中央通りから一本入った場所に、旅人向けの宿が並んでいた。
雨の影響でどこも混み合っている。
一軒目は満室。
二軒目は空きが一部屋だけだった。
受付にいた恰幅のいい女将が、二人を交互に見る。
「一部屋でいいなら泊まれるよ。ベッドは二つある」
「じゃあ、そこを――」
「別の宿を探します」
ゆうきの言葉へ、アムが即座に重ねた。
「どうして?」
「どうしてって、ゆうきはもう少し考えて発言して」
「ベッドが二つあるなら問題ないだろ。俺たち親友だし」
「そういう問題じゃないの」
女将が面白そうに二人を眺めている。
「若いねえ」
「違います」
アムがすぐに否定した。
ゆうきもようやく意味に気づき、慌てて両手を振った。
「本当に違います。昔からの友達で、そういう関係じゃなくて」
「はいはい。別に詮索はしないよ」
「その顔は信じてないだろ」
「客の事情は客の事情さ。泊まるのかい、泊まらないのかい?」
アムは迷わず首を横へ振った。
「ほかを探します」
「そうかい。雨が強くなってるから気をつけな」
宿を出たあと、ゆうきは隣を歩くアムへ問いかけた。
「そんなに嫌だった?」
「嫌というより、変な誤解をされるのが面倒なの」
「もうされてたけどな」
「ゆうきのせいでしょ」
「親友なら同じ部屋でも普通だと思っただけだよ」
「男女で旅をしてる時点で、世間はそう見ないこともあるの。千年以上生きてなくても分かることだよ」
「返す言葉がない」
アムは小さく息を吐いた。
「別に、ゆうきを警戒してるわけじゃないからね」
「分かってる」
「そこはすぐ信じるんだ」
「アムがそう言うならな」
あまりに迷いなく返したためか、アムは一瞬だけ黙った。
それから前を向き、少しだけ歩く速度を上げた。
三軒目の宿には、運よく二部屋の空きがあった。
建物は古いが掃除が行き届き、食堂も併設されている。
二人はそれぞれの部屋を取り、濡れた外套を預けた。
荷物を置いて一階へ戻ると、食堂から温かな匂いが漂ってくる。
「先に食べる?」
アムが尋ねる。
「ギルドを見てからにしよう。情報を聞くのが遅くなると困るし」
「珍しいね。食事より用事を優先するなんて」
「アムは俺を何だと思ってるんだ」
「パンを命懸けの約束にする人」
「間違ってないのが悔しい」
二人は宿の場所を確認し、再び街へ出た。
雨は先ほどより弱まっていたが、空は暗いままだ。
軒先を伝う水が、石畳へ一定の間隔で落ちている。
◇
冒険者ギルドは中央広場の東側にあった。
二階建ての大きな建物で、入口の上には剣と杖を組み合わせた紋章が掲げられている。
扉を開けると、熱気とざわめきが二人を迎えた。
雨で足止めされた冒険者たちが集まっているらしく、依頼掲示板の前には人だかりができている。
酒場を兼ねた一角では、昼間から酒を飲む者もいた。
濡れた革鎧の匂い。
煮込み料理の香り。
硬貨が卓上へ置かれる音。
前の街のギルドと似ている部分もあれば、空気は少し違う。
こちらは街道を行き交う冒険者が多いためか、旅装の者が目立った。
「まず橋の情報を聞こう」
「うん。そのあと、数日かかるなら短い依頼も見てみようか」
二人は受付の列へ並んだ。
前では、商人らしい男が受付職員へ声を荒らげている。
「いつ通れるんだ! こっちは生鮮品を積んでるんだぞ!」
「現在、領兵と職人ギルドが確認へ向かっています。安全が確保されるまでは通行許可を出せません」
「明日まで待てというのか!」
「明日通れるとは申し上げておりません。北の街道を迂回する道もありますが、こちらも雨の影響が出ています」
受付職員は困った顔をしながらも、声を荒らげずに説明している。
商人はしばらく不満を口にしていたが、最後には肩を落として去っていった。
その背中を見送り、受付職員が小さく息を吐く。
「次の方、どうぞ」
ゆうきたちが前へ出ると、職員はすぐに表情を整えた。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「ルーメンへ向かう途中で、この街へ避難してきました。北の橋が通れないと聞いたんですけど、今の状況を教えてもらえますか?」
「はい。正午の時点で徒歩を含め、全面通行止めとなっています。橋脚の一部に損傷があり、増水も始まっているため、少なくとも本日中の解除はありません」
「明日以降は?」
「雨が止み、水位が下がってから点検となります。順調でも二日から三日。損傷が大きければ、さらにかかる可能性があります」
「やっぱり、すぐには動けないか」
「ルーメンまでの迂回路もありますが、山道を通るため、現在の天候ではおすすめできません」
アムが横から尋ねる。
「この街で数日滞在する間に受けられる、短期の依頼はある?」
「採取や荷運び、街道周辺の見回りなどが出ています。ただ、雨のため屋外依頼の多くは一時停止中です」
受付職員は机の下から数枚の紙を取り出した。
「街中で完結するものでしたら、倉庫整理、工房の補助、避難してきた商人の荷物運搬などがあります。冒険者ランクを確認してもよろしいですか?」
ゆうきは冒険者証を出した。
職員は等級を見て頷く。
「登録から日が浅いのですね。それでしたら、危険度の低い依頼をご案内できます」
続いて、アムも冒険者証を差し出した。
職員の視線が止まる。
一度。
もう一度。
冒険者証と、目の前の少女を見比べる。
「……え?」
声が漏れた。
アムは少し困った顔をした。
「大声は出さないでもらえると助かるな」
職員は慌てて口元を手で覆い、周囲を確認する。
「し、失礼いたしました。確認のため、少々お待ちいただけますか?」
「別にいいけど、普通に対応してくれれば大丈夫だよ」
「承知しました」
職員の背筋が急に伸びた。
ゆうきはその様子を見て、小声でアムへ話しかける。
「毎回こうなるのか?」
「だから、あまり見せたくないんだよね」
「Sランクが七人しかいないなら、仕方ないだろ」
「目立つのは面倒なの」
受付職員は必要事項を記録すると、冒険者証を丁寧に返した。
「街道情報については、更新があり次第、掲示板へ掲載いたします。また、滞在中に何かお困りのことがあれば、ギルドへお申しつけください」
「普通でいいって言ったのに」
「これでも普通に努めております」
「声が少し震えてるよ」
「申し訳ございません」
ゆうきは笑いそうになるのを堪えた。
職員は一度咳払いをし、気持ちを切り替えるように書類を整えた。
「短期依頼についてですが、Sランクの方へ通常の荷運びをお願いするのも、その……」
「うちは付き添い。依頼を受けるなら、ゆうきに合うものでいいよ」
「分かりました。それでしたら――」
職員が書類へ目を落とした時、隣の受付から話し声が聞こえてきた。
「だから、正式な依頼じゃないんだって」
若い冒険者の男が、面倒そうに頭を掻いている。
「伯爵令嬢本人からの相談なんだろ? そんなの俺たちが受けていい話なのか?」
「身分を伏せて話せる方を探しているそうです。戦闘依頼ではなく、相談に近い内容だと聞いております」
「でも詳しいことは会うまで言えない。報酬も未定。怪しすぎるだろ」
「伯爵家の紹介状はあります。危険な依頼ではありません」
「貴族の危険と、俺たちの危険は意味が違うからな。悪いけど、ほかを当たってくれ」
男は席を立ち、仲間と共に離れていった。
ゆうきは無意識にそちらへ目を向けた。
受付に残された職員は、困ったように一枚の書類を見つめている。
「伯爵令嬢の依頼?」
ゆうきが呟くと、目の前の受付職員が顔を上げた。
「お聞きになりましたか」
「少しだけ。誰かを探してるんですか?」
「正確には、相談できる冒険者を探しておられます。ただし、伯爵家からの正式な指名依頼ではありません」
アムの目が細くなる。
「令嬢本人が、家を通さずに冒険者を探してるの?」
「はい。表立って依頼を出したくない事情があるようです」
「内容も分からない?」
「ギルド側にも詳しい説明はありません。信用できる者を紹介してほしいとだけ」
「それで、誰でもいいから声を掛けてるの?」
「いえ。身元が確かで、依頼内容を外へ漏らさず、相談者を頭ごなしに否定しない方を探しています」
「随分と条件が曖昧だね」
アムの声は柔らかいが、警戒が混じっている。
「伯爵家が関わってるなら、もっと正式な形で依頼を出すはず。令嬢本人だけが動いてるなら、家族や使用人にも知られたくない事情があるのかな」
「その可能性はあります。ただ、令嬢に仕える侍女と騎士は把握しているようです」
「伯爵本人は?」
「少なくとも、ギルドへ依頼が持ち込まれた時点では知らされていないと聞いています」
ゆうきは腕を組んだ。
「断られてるのは、条件が分からないからか」
「ええ。貴族との個人的な関わりを避ける冒険者も多いですから」
それは理解できる話だった。
依頼内容が不明。
報酬も未定。
依頼人は伯爵令嬢。
問題が起きれば、普通の依頼より面倒なことになる可能性が高い。
「ゆうき」
アムが横から静かに呼んだ。
「受けたい顔してる」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔に出てるよ」
「困ってる人がいるなら、話くらい聞いてもいいと思っただけ」
「内容が分からないのに?」
「だから、まず聞くんだよ。無理なことなら断ればいい」
アムは目を閉じ、短く息を吐いた。
「ゆうきらしいけど、貴族の家に関わるのは普通の依頼より慎重になった方がいいよ」
「分かってる。アムが怪しいと思うなら、受けない」
「そこまでうちに決めさせないで」
「じゃあ、一緒に聞いて判断しよう」
アムは少しだけ考えた。
受付職員は二人のやり取りを黙って見守っている。
「令嬢の人柄は?」
やがてアムが尋ねた。
「領民からは好かれている方です。市場や孤児院へ顔を出すことも多く、身分を理由に威圧するような話は聞きません」
「伯爵家そのものの評判は?」
「少なくとも現在は、領内で大きな不満はありません。税も周辺領より重くなく、街道や水路の整備にも力を入れています」
「過去に問題は?」
その質問に、受付職員は少し言葉を詰まらせた。
「……領地が長く続いていれば、何もないとは申し上げられません。盗賊団の討伐や、周辺集落との争いもありました。ただ、それが今回の相談と関係しているかは分かりません」
アムは職員の表情を見つめた。
嘘をついている様子はない。
だが、何かを断言できるほど情報を持っているわけでもなさそうだった。
「相談を受けるだけなら、断ることもできる?」
「もちろんです。伯爵邸で話を聞き、その場で受けないと判断しても問題ありません」
「報酬も、そのあと決める?」
「はい。依頼として成立した場合に、内容に応じて協議する予定です」
アムはゆうきへ視線を向けた。
「どうする?」
「話を聞こう。橋が直るまで時間もあるし、何か本当に困ってるなら放っておけない」
「そう言うと思った」
「アムは嫌か?」
「嫌じゃない。ただ、少し変なんだよね」
「何が?」
「依頼の出し方もそうだけど……まだ会ってもいないのに、妙に気になる」
アムは自分でも理由が分からないように、わずかに眉を寄せた。
危険を察知した時とは違う。
敵意でもない。
遠くで何かが触れ合い、ほんの一瞬だけ波紋が届いたような感覚。
それはあまりにも小さく、掴もうとすれば消えてしまいそうだった。
「気になるなら、なおさら会ってみよう」
「ゆうきは単純だね」
「考えすぎて動けなくなるよりはいいだろ」
「その分、うちが考えることになるんだけど」
「頼りにしてる」
「便利な言葉だなあ」
アムは呆れたように言いながらも、断らなかった。
受付職員は安堵した表情で、隣の職員から書類を受け取った。
「それでは、伯爵邸への紹介状を作成します。お二人のお名前を記載してもよろしいでしょうか」
「お願いします」
職員は羽根ペンを取り、用紙へ文字を書き始めた。
ゆうきの名前。
続いて、アムネジアの名前。
アムはその文字を見つめたが、訂正はしなかった。
公の場では、今もアムネジアを名乗っている。
アムという呼び方を知る者は限られていた。
紹介状へギルドの印が押される。
職員は乾くのを待ち、丁寧に封筒へ入れた。
「こちらを伯爵邸の門でお見せください。先方へも、冒険者が見つかったことを使いで知らせます」
「今日すぐに行ってもいいんですか?」
「雨の状況にもよりますが、先方はいつでも構わないと。ただ、夕刻が近いので、明日の朝でも問題ありません」
ゆうきは窓の外を見る。
雲はまだ厚いが、雨はかなり弱まっている。
「どうする、アム?」
「今日は街の様子をもう少し見て、明日の朝にしよう。急いで行っても、相手に準備ができてないかもしれないし」
「分かった」
受付職員が封筒を差し出す。
「依頼人のお名前は、こちらに記載されています」
ゆうきは封筒を受け取った。
表には伯爵家の紋章。
その下に、依頼人の名が書かれている。
アイ。
「アイ……」
ゆうきが読み上げた瞬間だった。
アムの指先が、わずかに動いた。
ほんの一瞬。
胸の奥を、冷たいものが通り過ぎる。
知らない名前のはずだった。
聞き覚えもない。
それなのに、何かが引っかかった。
懐かしさとは違う。
危険とも違う。
もっと形のない、説明できない違和感。
「アム?」
ゆうきが顔を覗き込む。
「どうした?」
「……何でもない」
アムはそう答えたが、視線は紹介状へ向いたままだった。
「その名前、知ってるのか?」
「知らないよ。少なくとも、覚えてる限りでは」
「じゃあ、どうしてそんな顔してるんだ?」
「分からない」
アムは正直に答えた。
「ただ、聞いた瞬間に少しだけ……何かが触れた気がした」
「魔力?」
「それとも違う。魂に近いところかな」
ゆうきの表情が少し真剣になる。
アムがそう言うなら、ただの気のせいとして流すべきではない。
「危険そう?」
「今のところは。敵意も悪意も感じないから」
「なら、明日会えば分かるかもしれないな」
「そうだね」
アムは紹介状に書かれた名を、もう一度見つめた。
アイ。
短い名前。
知らない少女。
それでも、胸の奥へ落ちた小さな違和感は消えなかった。
まるで、遠く離れた場所で誰かが何かを探し続けているような。
その声にならない想いが、一瞬だけ届いたような気がしていた。
◇
ギルドを出る頃には、雨はほとんど止んでいた。
雲の切れ間から薄い光が差し込み、濡れた石畳を白く照らしている。
街には再び人の流れが戻り始めていた。
店主たちは軒先へ商品を出し、子どもたちは水たまりを避けるでもなく走り回っている。
広場の中央では、兵士が橋の通行止めを知らせる札を立てていた。
「二、三日は足止めか」
ゆうきが紹介状を外套の内側へしまう。
「ちょうどいいのかもしれないね」
アムが答えた。
「何もしないで待つより、話を聞いてる間に橋が直るなら無駄にはならない」
「それに、この街の飯も気になる」
「やっぱりそれなんだ」
「旅の楽しみだろ」
二人は食堂を探しながら、中央広場を歩いた。
途中、道端でパンを売る店を見つけると、ゆうきは迷わず足を止める。
アムは呆れた顔をしたが、結局一緒に並んだ。
「夕食前だよ」
「一個だけだから」
「さっきも市場で焼き菓子を見てたよね」
「見ただけだろ」
「目が欲しそうだった」
「人の顔を読みすぎなんだよ」
「ゆうきが分かりやすいの」
店主から焼きたての小さなパンを二つ買い、一つをアムへ渡す。
「俺が払った」
「はいはい。偉いね」
「子ども扱いするな」
アムは笑いながらパンを受け取った。
二人は店の軒下へ並び、まだ温かいパンを口へ運ぶ。
香ばしい生地の中には、塩気のあるチーズが入っていた。
「うまい」
「悪くないね」
「明日、アイに会う前にもう一個買おうかな」
「人の相談を聞きに行くのに、食べ歩きしながら行くつもり?」
「門の前で食べ終わればいいだろ」
「そういう問題かなあ」
アムの声には、先ほどの違和感がわずかに残っていた。
だが今は、無理に答えを出そうとはしていない。
明日になれば、依頼人と会える。
顔を見て。
声を聞いて。
魂に触れたような感覚の正体を確かめればいい。
ゆうきとアムは、雨上がりの街を宿へ向かって歩き出した。
その頃。
高台にある伯爵邸では、一人の少女が窓辺に立っていた。
雨が止んだ街を見下ろしながら、胸元へそっと手を添えている。
朝から続いていた震えは、まだ消えていなかった。
それどころか、先ほどから少しずつ強くなっている。
何かが、この街の中にいる。
探していた誰かではないのかもしれない。
それでも、自分の知らない何かへ繋がる存在が近くにいる。
「アイ様」
背後から侍女が声を掛けた。
「冒険者ギルドより連絡がございました。ご相談を聞いてくださる方が見つかったそうです」
アイは振り返る。
その顔に、いつもの明るい笑顔が広がった。
「本当?」
「はい。明日の朝、こちらへいらっしゃるとのことです」
「どんな人たち?」
「男性の新人冒険者と、水色の髪をした女性だと聞いております」
「水色の髪……」
胸の奥が、また震えた。
先ほどよりも強く。
アイは驚いて息を止める。
「アイ様?」
「ううん、何でもない。明日、ちゃんと迎える準備をしないとね」
そう言って笑ったものの、胸元へ置いた手は離せなかった。
男性の新人冒険者。
水色の髪の女性。
まだ名前も知らない。
それなのに、魂だけが先に知っているように震えている。
アイは窓の外へ目を向けた。
雨雲の向こうから、わずかな夕日の光が街へ差し込んでいる。
長い間、理由も分からず探し続けてきた何か。
それへ続く扉が、明日、初めて開く。
そんな予感がしていた。




