第1話 ルーメンへの道
朝の街には、焼きたてのパンの香りが残っていた。
石畳の上を行き交う人々の足取りは、まだどこか慎重だ。修復途中の建物には真新しい木材が打ちつけられ、街壁の外では、冒険者と兵士たちが倒れた魔物の処理を続けている。
中規模のスタンピードが終結してから、まだそれほど日は経っていない。
それでも街は、少しずつ日常を取り戻し始めていた。
市場では商人が声を張り、食堂からは鍋をかき混ぜる音が聞こえる。子どもたちは大人に叱られながらも路地を駆け回り、その姿を見た人々が、困ったように笑っていた。
戦死者は一人も出なかった。
それは、この規模の災害では奇跡と呼んでいい結果だった。
だが、その奇跡が一人の少女によって支えられていたことを、街の人々すべてが知っているわけではない。
ゆうきは街の門を出る前に、もう一度だけ振り返った。
朝日に照らされた城壁には、戦いの痕がいくつも残されている。昨日まで暮らしていた場所なのに、こうして外から眺めると、少し遠い場所のように見えた。
「忘れ物?」
隣から声がした。
水色の髪が、朝の風に揺れている。
アムは旅装の上から薄い外套を羽織り、背負った荷物の紐を片手で直していた。普段通りの落ち着いた表情だったが、その瞳にはわずかに楽しげな色がある。
「いや。初めて来た街だったけど、思ったより長くいた気がしてさ。いろいろあったから、少しだけ名残惜しくなった」
「初めての街で、講習を受けて、森へ行って、ダンジョンが見つかって、最後はスタンピードだもんね。普通の新人なら逃げてるよ」
「俺だって逃げたかったよ。逃げられない場所にいただけで」
「でも逃げなかった」
アムはそう言って、ゆうきの横を通り過ぎた。
数歩進んでから振り返る。
「それに、もう帰ってこないわけじゃないでしょ。旅をしてたら、同じ街に戻ってくることだってあるよ」
「そうだな。また焼きたてのパンも食べたいし」
「そこなんだ」
「大事だろ。命懸けで守った約束だぞ」
ゆうきが追いつくと、アムは小さく肩を揺らした。
「……ハハ。じゃあ次に来た時も、うちが奢ってあげる」
「いや、次は俺が払う。いつまでもアムに出してもらうのは落ち着かない」
「新人冒険者のお財布事情を心配してあげてるのに」
「優しさと甘やかすのは違うだろ。俺だって、依頼をこなせば自分の分くらい稼げる」
「そういうところ、変わらないね」
アムは前を向いたまま呟いた。
それは、朝の風に紛れてしまいそうなほど静かな声だった。
あえて聞こえなかったふりをしなかった。
「アムもな。昔から、世話を焼く時は相手が断る隙を与えなかった」
「そうだったかな」
「そうだった。配信で誰かが落ち込んでると、何も聞かずに話題を変えて、気づいたらそいつを笑わせてた」
「……ずいぶん昔のこと、覚えてるんだね」
「俺にとっては、そんなに昔じゃないからな」
その言葉のあと、二人の間に短い沈黙が落ちた。
ゆうきにとって、Avvyで過ごした日々はまだ記憶の近くにある。
夜になれば誰かが配信を始め、そこへ自然と人が集まった。どうでもいい話をして、笑って、ときには悩みを聞いた。
画面の向こうにいたはずの仲間が、今は隣を歩いている。
けれどアムにとって、その時間は千年以上も前の出来事だった。
同じ思い出を持っている。
同じ名前を知っている。
それでも、その思い出までの距離は二人でまるで違っていた。
でも、その隔たりを簡単な言葉で埋めようとは思わなかった。
「ゆうき」
「ん?」
「そんなに気を遣わなくてもいいよ」
足を止めないまま、アムが言った。
「うちが千年以上生きてるって知ってから、たまに言葉を選んでるでしょ。昔の話をしていいのかとか、聞かない方がいいことがあるんじゃないかとか」
「……分かるのか」
「分かるよ。ゆうき、嘘をつくのは下手じゃないけど、隠し事をすると少しだけ黙るから」
「初めて聞いたんだけど」
「今初めて言ったからね」
アムは平然と答えた。
街道は穏やかな丘陵の間を延びている。左右には背の低い草が広がり、夜露を残した葉が陽光を受けて輝いていた。
二人のほかにも、何台かの荷馬車が同じ方向へ進んでいる。
前を走る荷車の車輪が小石を踏み、乾いた音を立てた。
「気を遣うなって言われても、無理だろ。俺が知らない時間を、アムは俺の人生が何十回あっても足りないくらい生きてきたんだから」
「別に、全部を一度に知る必要はないよ」
アムの声は穏やかだった。
「うちも全部話すつもりはないし、話したくないことだってある。忘れたことも、忘れたふりをしてることもね」
「そこまで正直に言われると、かえって安心するな」
「どうして?」
「何でも話してくれると思い込まずに済む。話したくないなら話さなくていい。でも、話したくなった時は聞く。それくらいの距離が親友だろ」
アムは答えなかった。
ただ少しだけ目を伏せ、口元を緩める。
その表情は、第一章で見せていた無邪気な少女の笑顔とは少し違っていた。
長い年月の中で身につけた静けさと、その奥に残った昔のアムが、同じ場所にいるように見える。
「……ゆうきは、ゆうきだね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「残りの半分は?」
「面倒なところも変わってないなって思ってる」
「親友なら、そこも含めて受け入れてくれ」
「仕方ないなあ」
アムは笑いながら、街道の先を指差した。
「まずは魔法都市ルーメン。そこなら各地の記録も集まってるし、転移者や珍しいユニークスキルについても調べられるかもしれない」
「図書館も大きいんだよな」
「王国でも指折り。魔法学院と研究所もあるし、魔導具職人の本部もある。ゆうきなら、街を歩くだけでも一日は潰せると思うよ」
「一日で済むかな。聞いてるだけで楽しそうなんだけど」
「目的を忘れないでね」
「仲間を探すことだろ。忘れてないよ。そのためにも、まずは情報を集めないとな」
ゆうきたちの旅の目的は、Avviで出会った仲間を探すことだった。
この世界へ転移、あるいは転生した年代は、人によって大きく異なっている。
アムはおよそ千年以上前。
ぽぽは三十年前。
ゆうきは、ほんの少し前。
同じ場所から来たはずなのに、同じ時代へ辿り着いたとは限らない。
誰がこの世界にいるのか。
どこで生きているのか。
どんな姿になっているのか。
そもそも全員が、今も生きているのか。
考えれば不安はいくらでも湧いてくる。
だからこそ、立ち止まってはいられなかった。
「ぽぽは、もう依頼先へ着いたかな」
ゆうきが呟くと、アムは空を見上げた。
「まだじゃないかな。あの依頼、ここからだとルーメンとは反対方向だったし、移動だけでも何日かかかるはずだよ」
「大規模依頼って聞いたけど、一人で大丈夫なのか?」
「ぽぽっちを一人だと思わない方がいいよ。現地の冒険者や兵士をまとめて、気づいたら全員と仲良くなってるから」
「それは想像できる」
スタンピードのあと、ぽぽは以前から受けていた依頼へ戻るため、二人とは別の道を選んだ。
別れ際にも、湿っぽい言葉はなかった。
必ずまた会えると分かっているように、ぽぽはいつもの笑顔で手を振っていた。
『大きな依頼を片づけたら、こっちでもみんなを探してみるよ。人探しは、人数が多い方がいいからね』
そう言い残し、ギター型の魔導具を背負って歩いていった。
ゆうきたちがルーメンで情報を集める。
ぽぽは別の土地を巡りながら、仲間の手がかりを探す。
進む方向は違っても、目的は同じだった。
「それでも、もう少し話したかったな。三十年ぶりって言われても、俺にはまだ実感がないけど」
「ぽぽっちは、ゆうきを見つけた時からずっと嬉しそうだったよ」
「戦いの最中だったから、よく分からなかった」
「分かりやすかったけどなあ。演奏も普段より少し速かったし、無駄に格好つけてたし」
「普段からああじゃないのか?」
「普段もああだけど、いつもより三割増しくらい」
ゆうきは笑った。
アムもつられるように笑う。
その声は、街道を渡る風に乗って草原へ消えていった。
◇
昼前になる頃には、陽射しが少し強くなっていた。
二人は街道脇に立つ大きな木の下で足を止めた。
枝葉が広く影を作り、その下には旅人が腰を休められるよう、古い丸太が置かれている。
アムが何もない空間へ手を差し入れた。
水面に触れたように空間が揺らぎ、その中から布包みと水筒が取り出される。
「やっぱり便利だな、それ」
「空間魔法を荷物入れみたいに言わないでよ。維持も管理も、それなりに繊細なんだからね」
「でも、入ってるのはパンだろ?」
「パンを甘く見ない方がいいよ。潰さず、乾燥させず、温度まで保ってるんだから」
「その技術、絶対ほかに使い道あるだろ」
「今はこれが最適な使い道なの」
アムは布包みを開いた。
中には、出発前に街で買った丸いパンと、薄切りの肉、チーズが入っている。
まだほんのりと温かい。
二人は丸太へ並んで腰を下ろし、それぞれパンを手に取った。
街道を旅する商人たちの話し声と、遠くで鳴く鳥の声が聞こえる。
戦いのない時間だった。
刃を抜く必要もなく、魔力を張り巡らせる必要もない。
ただ、隣にいる相手と食事をする。
それだけのことが、ゆうきには不思議に思えた。
「どうしたの?」
「いや。アムとこうして旅してるの、まだ少し変な感じがしてさ」
「昨日までは普通だったのに?」
「昨日までは、アムネジアっていう知り合ったばかりの冒険者と一緒にいたからな。今はアムと旅をしてる」
「同じうちなのに」
「同じだけど、違うだろ」
ゆうきはパンをちぎりながら言った。
「アムだって、俺がゆうきだって分かってから、少し変わったじゃん」
「そうかな」
「変わった。前より静かになった」
アムの手が止まった。
「最初の……じゃなくて、街で会った頃はもっとよく喋ってたし、距離も近かった。今は前より落ち着いてる」
「嫌だった?」
「まさか。どっちもアムだろ」
ゆうきは即座に答えた。
「最初は、懐かしさに引っ張られてたんじゃないかと思ってる。今は再会したことを少しずつ受け止めて、本来のアムに戻ってるだけじゃないか?」
アムはしばらく、手の中のパンを見つめていた。
水色の前髪が風に揺れ、その表情を隠す。
「……うち自身も、よく分かってなかったんだと思う」
やがて、アムは静かに口を開いた。
「懐かしいって気持ちだけが先にあって、何が懐かしいのか思い出せなかった。だから、なくしたものを見つけたみたいに、離したくなかったのかもしれない」
「それで距離が近かったのか」
「迷惑だった?」
「嬉しかったよ。初対面なのに妙に近いなとは思ったけど」
「そこは忘れて」
「無理だな。宿代も食事代も全部払われた」
「だから、それは新人のお財布を心配してあげたの」
「それだけじゃなかったんだろ?」
アムは返事をしなかった。
だが、否定もしなかった。
「無理に昔のアムへ戻らなくていいからな」
ゆうきは続けた。
「昔と同じところも、変わったところもある。俺が知らないアムがいるのは当然だし、それを知っていくのも旅の一部だと思ってる」
「ゆうきは、怖くないの?」
「何が?」
「うちが、ゆうきの知ってるアムじゃなくなってるかもしれないこと」
アムの声には、わずかな迷いが混じっていた。
千年以上を生きた者の問いではなかった。
長い時間を隔てて親友と再会した、一人の少女の問いだった。
ゆうきは少し考えてから答えた。
「変わってない方が怖いよ。千年以上も生きて、何も変わらないなんてありえないだろ」
「……普通、そこは変わってないって言って安心させない?」
「俺、嘘は嫌いだから」
「そうだったね」
「でも、どれだけ変わっても、目の前にいるアムを知っていけばいい。昔のアムと同じかどうかを確かめるために、一緒にいるわけじゃないからな」
アムは目を見開いた。
それから、困ったように息を吐いた。
「そういうこと、簡単に言うよね」
「簡単じゃないよ。ちゃんと考えて言ってる」
「分かってるから困るの」
アムは残っていたパンを口へ運び、ゆっくりと噛んだ。
横顔にはもう迷いは見えなかった。
ただ、少しだけ目元が柔らかくなっていた。
「ありがとう、ゆうき」
「どういたしまして」
「それと、昔のうちを理由に遠慮するのは禁止ね。聞きたいことがあるなら聞いて。答えたくなかったら、うちが答えないって言うから」
「分かった。じゃあ、さっそく一つ聞いていいか?」
「いいよ」
「千年以上生きてるのに、どうしてパンの取り分で俺より大きい方を選んだんだ?」
「長く生きてることと食欲は関係ないでしょ」
アムは真顔で答えた。
ゆうきはしばらく耐えたが、やがて吹き出した。
アムも少し遅れて声を上げる。
「……ハハ。そんなに笑うこと?」
「いや。安心した。そこは昔から変わってない」
「何それ」
二人の笑い声の向こうを、一台の荷馬車が通り過ぎていった。
◇
午後になると、空の様子が変わり始めた。
遠くの山々から、灰色の雲が流れてきている。
朝は穏やかだった風も少しずつ強くなり、街道沿いの草が一斉に同じ方向へ傾いていた。
アムは足を止め、空を見上げた。
「思ったより早いな」
「雨か?」
「たぶん。それも、少し強いのが来る」
ゆうきも空を見る。
雲の動きは速く、先ほどまで見えていた青空が見る間に覆われていく。
「このまま進める?」
「雨だけならね。でも、この先の街道は川沿いを通る。降り方によっては危ないかも」
二人が話していると、後方から車輪の音が近づいてきた。
幌を張った荷馬車が速度を落とし、御者台に座る年配の男が二人へ声を掛ける。
「兄ちゃんたち、ルーメン方面へ行くのか?」
「そのつもりです」
「なら今日はやめといた方がいいぞ。昨日の雨で、北の橋がだいぶ傷んでる。これからまた降れば、通行止めになるかもしれん」
男は前方の空を見て、顔をしかめた。
「この辺りの雨は急だからな。道もぬかるむし、川が増水すれば馬車は動けん。俺たちも手前の伯爵領へ避難するところだ」
「伯爵領までは、ここからどのくらいですか?」
「歩きなら二刻もかからん。西の分かれ道を曲がれば、城壁が見えるはずだ。宿もあるし、街道の情報なら商人ギルドか冒険者ギルドで聞ける」
「ありがとうございます。助かりました」
「旅人同士、困った時はお互いさまだ。雨が落ちてくる前に急いだ方がいいぞ」
男は手を上げると、馬車を先へ進めた。
ゆうきは遠ざかる幌を見送り、アムへ目を向けた。
「どうする?」
「伯爵領へ寄ろう。橋が壊れてから戻るより、状況を確認してから進んだ方がいい」
「賛成。無理に進む理由もないしな」
「ゆうき、少しは冒険者らしくなったね。最初なら、行けるところまで行こうって言いそうだったのに」
「それ、褒めてるのか?」
「半分くらい」
「また半分かよ」
西へ向かう分かれ道へ入る頃、冷たい雫が一滴、ゆうきの頬へ落ちた。
空を見上げる間にも、二滴、三滴と雨が続く。
「来たね」
アムが片手を上げる。
淡い水色の魔力が指先へ集まり、二人の頭上に薄い膜のようなものが広がった。
落ちてきた雨粒は膜へ触れる直前に流れを変え、左右へ滑り落ちていく。
「便利だな、水魔法」
「これは水と風を少し合わせてる。ずっと維持するのは面倒だから、早めに着こう」
「俺も手伝えるか?」
「今のゆうきだと、魔力の流れを乱す可能性の方が高いかな」
「はっきり言うな」
「必要なことは、はっきり言うんでしょ?」
自分の言葉を返され、ゆうきは苦笑した。
「じゃあ、荷物を持つ」
「空間収納があるから平気」
「道を見る」
「一本道だよ」
「……応援する」
「それが一番いらないかも」
「何かさせてくれよ」
「じゃあ、少し急いで歩いて」
「了解」
雨脚は次第に強くなっていった。
土の道へ黒い染みが広がり、やがて細い水の流れとなって轍の間を走り始める。
道の左右には農地が増え、遠くに石造りの家々が見え始めた。
畑で作業していた人々が、農具を抱えて急いで戻っていく。
羊の群れを追う少年が泥に足を取られ、危うく転びそうになった。
ゆうきは反射的に街道を外れ、少年の元へ駆け寄る。
「大丈夫か?」
「う、うん。でも、こいつが動かなくて」
群れから離れた一頭の子羊が、ぬかるみに脚を取られていた。
ゆうきが抱き上げようとしたところで、足元の泥が小さく波打つ。
アムの魔力が地面を滑り、子羊の脚の周囲から水分だけを抜き取っていった。
柔らかな風が吹き、泥がほどける。
「これなら動けるよ」
子羊は一度身体を震わせると、少年の方へ駆けていった。
「ありがとう、お兄ちゃん! お姉ちゃんも!」
少年は頭を下げ、群れを追って走り去っていく。
その背中を見送ったあと、アムがゆうきの靴へ目を落とした。
「もう泥だらけ」
「仕方ないだろ。転びそうだったんだから」
「ゆうきなら行くと思ってたけどね」
アムが指を鳴らす。
靴と裾に付着した泥が水へ溶け、風に運ばれて道の脇へ落ちた。
「ありがとう。アムがいると旅が快適すぎるな」
「うちがいない時に何もできなくなるのは困るから、ルーメンに着いたら生活魔法も練習してもらうよ」
「分かってる。借りた力に頼るだけじゃ、自分の力にはならないからな」
「その調子」
二人が再び歩き始めると、雨雲の向こうで低い雷鳴が響いた。
しばらくして、丘の上に城壁が見えた。
滞在していた街よりも規模は小さいが、周囲には広い農地といくつもの集落が広がっている。
城壁の奥には、尖った屋根を持つ建物が並び、さらにその向こうの高台には大きな屋敷が建っていた。
「あれが伯爵領か」
「うん。領都としては、それほど大きくないね。でも、街道沿いの土地だから人の出入りは多そう」
「今日は宿を取って、橋の状態を調べるくらいかな」
「そうだね。雨が長引くなら、何か短い依頼を受けてもいいかも」
「旅費も必要だしな。今度こそ、アムに食事代を出させない」
「まだ気にしてるの?」
「気にするよ」
城壁へ続く道には、雨を避けようとする旅人や荷馬車が集まり始めていた。
門の兵士たちは濡れながらも列を整理し、一台ずつ荷物を確認している。
雨音。
馬の鳴き声。
車輪が泥を踏む音。
さまざまな音が混ざり合う中、ゆうきは高台に建つ伯爵邸を見上げた。
この時の彼には、まだ知る由もなかった。
自分たちが雨を避けるために選んだこの場所で、一人の少女が、長い間探し続けてきた何かと出会うことを。
◇
伯爵邸の二階。
大きな窓の向こうで、灰色の雨が庭園を濡らしていた。
少女は窓際の椅子へ座り、読みかけの本を膝の上に置いている。
明るい色の髪が肩へ流れ、その横顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
部屋の奥では侍女が茶器を整えている。
「アイ様。雨が強くなってまいりました。今日は庭へ出るのをお控えくださいね」
「分かってるよ。前に少しくらい平気って出ていったら、すごく怒られたもん」
「少しくらいとおっしゃって、ずぶ濡れでお戻りになったのはどなたでしたか?」
「……その話、まだ覚えてたの?」
「忘れる理由がございません」
少女――アイは、困ったように笑った。
その時だった。
胸の奥で、何かが揺れた。
「……え?」
アイは反射的に胸元を押さえた。
痛みではない。
苦しくもない。
けれど、自分の中にある何かが、確かに震えている。
一度。
もう一度。
遠くから伝わってくる足音に応えるように、魂の奥が小さく震え続ける。
「アイ様?」
侍女が心配そうに近づいてくる。
アイは答えられなかった。
窓の外へ目を向ける。
雨に煙る街の向こう。
城門へ続く道を、たくさんの旅人が進んでいる。
誰の顔も見えない。
それでも、アイには分かった。
何かが近づいている。
ずっと待っていたものかもしれない。
顔も知らない。
名前も知らない。
本当に存在するのかさえ分からない、何か。
アイは胸へ手を当てたまま、窓の向こうを見つめた。
「……誰か、来た」
その声は、激しくなる雨の音に静かに溶けていった。




