第6話 廃城に訪れた悪魔
雨が上がった頃、王国には朝と呼べるものが残っていなかった。
空は白み始めていたが、東の地平を遮る黒煙のせいで、日の光は城下町まで届かない。焼け落ちた家々から細い煙が立ち、崩れた石壁の隙間には雨水が溜まっていた。
グレイは城門の前に立っていた。
泣き続けたせいで喉は痛み、声を出そうとしても掠れた息しか漏れない。真祖となった身体なら、傷も疲労もすぐに消えるはずだった。
それでも、胸の奥に残った重さだけは消えなかった。
力を奪われた兵士や民たちは、夜が明ける前に城下町を去っていた。
誰もグレイへ近づかなかった。
誰も礼を言わなかった。
振り返る者すら、ほとんどいなかった。
それでいいと思おうとした。
自分がそばにいれば、彼らは怯え続ける。ならば離れた方がいい。生き残った者が別の土地で暮らせるのなら、それだけで十分だ。
そう考えても、最後まで向けられた恐怖の目だけは頭から離れなかった。
「姫様」
背後から侍女の声がした。
グレイは振り返らなかった。
人形となった者たちは、城門の内側へ静かに並んでいる。
母。
騎士団長。
宮廷魔導士長。
侍女。
料理長。
庭師。
父はもういない。
その事実を確かめるように、グレイは胸元へ手を当てた。服の内側には、父の人形から残った小さな欠片が入っている。
「俺は、ここを出る」
誰へ告げたのか、自分でも分からなかった。
それでも人形たちは、黙って続きを待っていた。
「この国を滅ぼした真祖は死んだ。けれど、俺の中にはあいつの血が残っている。このままここにいても、何をすればいいのか分からない」
母の人形が、一歩前へ出た。
「どこへ行くのですか?」
「決めていない」
グレイは焼け落ちた街へ目を向けた。
王国の外に、どのような土地があるのか。
どのような者が暮らしているのか。
何も知らない。
十歳の王女だった彼女にとって、世界は城と城下町、地図の中に描かれた名前でしかなかった。
「この身体が何なのか、知りたい。吸血鬼として生きる方法も、あいつから奪った力を抑える方法も探す。それが分かるまで、ここへ戻るつもりはない」
「お一人で行かれるのですか?」
侍女の問いに、グレイは首を横へ振った。
「皆も連れていく」
その答えに、騎士団長が僅かに目を見開いた。
グレイは彼らを見回す。
城に置いていけば、安全かもしれない。
傷つくことも、砂になって消えることもない。
けれど、それでは人形へ残した意味がなかった。
共に在りたかった。
ただそばへ飾っておきたいわけではない。
「俺は、この世界を見てくる。皆が守ろうとした国の外に、何があるのか確かめたい。だから……一緒に来てほしい」
人形たちは互いに顔を見合わせた。
やがて母が、娘へ手を差し出した。
「もちろんです」
冷たい手だった。
グレイはその手を握った。
もう温かさはない。
けれど、握り返す力は確かにあった。
その日の午後、グレイは故郷を離れた。
残った城門を潜り、泥に濡れた街道を歩く。
小さな背には旅装をまとめた袋があり、腰には短い剣を差している。黒い外套のフードを深く被り、深紅の瞳を隠した。
人形たちは空間収納へ収めなかった。
必要に応じてそうすれば良いから。
ただ、今は一緒に行きたかった。
母と侍女はグレイのそばを歩き、騎士団長は少し前を進む。残る者たちも、かつて城内を歩いていた頃と変わらぬように列を作っていた。
王都が見えなくなる手前で、グレイは一度だけ振り返った。
雨に濡れた廃城。
崩れた塔。
黒く焼けた街。
そこに、十年間のすべてがあった。
戻ってくる日は分からない。
それでも、戻らないという選択だけは出来なかった。
「行こう」
短く告げ、グレイは前を向いた。
それから、およそ五百年。
グレイは世界各地を旅した。
砂漠を越えた。
雪に閉ざされた山を歩いた。
海を渡り、いくつもの国の興亡を見た。
吸血鬼と呼ばれる者たちにも出会った。
真祖を失い、飢えに支配された眷属。
人間の町へ紛れ、静かに暮らす者。
自らを夜の王と称し、人を家畜のように扱う者。
グレイは彼らから学び、時には戦い、必要ならばその力を奪った。
血を飲まずに生きる術も覚えた。
魔力を血の代わりに変換し、足りない分は魔物から補う。人の血を欲する衝動は完全には消えなかったが、支配されることはなくなった。
空間魔法も磨き続けた。
最初は数歩分の距離を折るだけだった力が、やがて街と街を繋ぎ、遠く離れた国境を越えられるほどになった。
人形たちも変わった。
旅の途中で身体を壊せば、新しい素材で補った。
木だった腕が銀へ変わり、陶器だった顔が魔石を混ぜた特殊な素材へ変わる。生前より強くなった者も少なくない。
それでも、グレイは彼らの姿を大きく変えなかった。
母の白い衣装。
騎士団長の鎧。
侍女の髪型。
忘れないために。
旅の途中、何人もの人間がグレイへ同行を求めた。
助けられた恩を返したいと言う騎士。
空間魔法を学びたいと願う魔導士。
彼女を神の使いだと勘違いした村人。
だが、グレイは誰も長くそばへ置かなかった。
人間の時間は短い。
昨日まで笑っていた者が、次に訪れた時には年老いている。
それでも訪ね続ければ、最後には墓だけが残る。
別れに慣れることはなかった。
慣れたふりが上手くなっただけだった。
旅を始めてから五百年ほどが過ぎた頃、グレイは故郷へ戻った。
廃城は、かつてよりもさらに崩れていた。
城下町には草木が生い茂り、石畳の隙間から小さな花が咲いている。崩れた家の壁を蔦が覆い、市場だった広場には鹿の親子が入り込んでいた。
人の暮らしは戻っていなかった。
近隣の者たちは、この土地を避けていた。
亡霊の住む城。
人を攫い、人形へ変える魔女の城。
いつしか、そんな噂が広まっていた。
グレイは訂正しなかった。
誰も近づかない方が都合がよかった。
城を修復するつもりもなかった。
崩れた場所は崩れたままにし、かつて家族と過ごした部屋だけを整えた。人形たちと食卓を囲み、誰も口をつけない料理を並べる夜もあった。
料理長の人形は、食べる者が一人しかいなくても、毎日違う料理を用意した。
侍女は朝になるとグレイの髪を整え、騎士団長は誰も来ない城門を見回った。
母は窓辺で本を読み、時折娘へ話しかけた。
時間が止まったような暮らしだった。
グレイにとっては、それでよかった。
少なくとも、そう思っていた。
その日、廃城の上空には重い雲が広がっていた。
雨は降っていない。
ただ風だけが強く、崩れた塔の隙間を通るたび、獣の鳴き声のような音を立てていた。
グレイは玉座の間にいた。
玉座はとうに崩れている。父が倒れていた場所には、小さな銀色の箱が置かれていた。
中には、父の人形から残った欠片が収められている。
グレイが箱の蓋を閉じた時、城を覆っていた結界が僅かに揺れた。
外から誰かが入った。
魔物ではない。
人間とも違う。
膨大な魔力を持ちながら、その性質が一定していなかった。水のように静かだと思えば、次の瞬間には闇へ変わり、さらに別の属性へ揺らいでいる。
グレイは窓の外へ視線を向けた。
「珍しい客だな」
傍らに控えていた騎士団長が剣へ手を添える。
「討伐隊でしょうか」
「一人で来る討伐隊がいるか?」
「自信のある愚か者ならば、可能性はございます」
「それは否定できないな」
グレイは椅子から立ち上がった。
外見は既に、十歳の少女ではない。
真祖の血を取り込んだ影響か、身体は長い年月をかけて成長し、今では十八から二十歳ほどに見える。腰まで伸びた銀髪を揺らし、黒いゴシックドレスの裾を整える。
「俺が見てくる。皆はここにいろ」
「姫様、お一人では――」
「相手が話の通じる者なら、大勢で囲まない方がいい。通じないなら、その時に呼ぶ」
グレイは空間を折り、玉座の間から姿を消した。
訪問者は中庭に立っていた。
水色の長い髪。
見た目は十五から十七歳ほどの少女。
外套の下には動きやすい冒険者の装備を身につけ、周囲の気配を探るように静かに目を動かしている。
魔力の大きさに反して、隙がない。
派手に力を示すこともなく、自分の存在を必要以上に隠すこともない。
相当に場数を踏んでいる。
グレイは崩れた回廊の陰から、少女を観察した。
少女は地面へしゃがみ込み、落ちていた小さな木片を拾った。
人形の指だった。
数日前、見回り中に壊れた兵士人形の部品だろう。
「……人形、か」
少女が小さく呟く。
その手元へ、細い銀色の刃が走った。
少女は木片を手放し、身体を後ろへ倒す。
銀の刃は髪先を数本切り、背後の石壁へ細い亀裂を刻んだ。
「それに触れるな」
グレイは回廊の上へ姿を現した。
少女が顔を上げる。
警戒はしている。
だが、驚いてはいなかった。
「ごめん。壊すつもりはなかったんだけど、ここの住人?」
「質問に答える義務はない。依頼を受けて来たのなら、今すぐ帰れ」
「やっぱり、気付いてたんだ」
少女は立ち上がり、手についた土を軽く払った。
「近くの村で、ここに入った人が戻らないって聞いた。人を人形に変える魔女が住んでるとも言ってたけど、うちは確かめに来ただけ」
「確かめた後はどうする?」
「本当に人を襲ってるなら止める。噂が間違ってるなら、そのまま帰るよ」
淡々とした答えだった。
嘘をついているようには見えない。
それでも、グレイは警戒を解かなかった。
これまでにも、似た言葉を口にしながら剣を向けてきた者はいた。
「戻らない者たちは、城の財宝を盗みに来た盗賊だ。人形へはしていない」
「じゃあ、どこにいるの?」
「森の外へ転移させた。少しばかり記憶は曖昧にさせたが、命までは取っていない」
アムネはわずかに目を細めた。
「……それを、そんな簡単にやったみたいに言うんだね」
アムネは短く息を漏らした。
聞き覚えのある言葉だった。
意味ではない。
声の調子。
何かを面白がった時の、僅かに上がる語尾。
グレイの胸の奥が、不自然に揺れた。
遠い昔。
別の世界。
夜遅くまで続いた誰かとの会話。
けれど、記憶へ手を伸ばすより早く、少女の魔力が変化した。
水色だった髪が漆黒へ染まる。
周囲に闇が広がり、足元から伸びた影がグレイの立つ回廊へ迫った。
「話は出来そうだけど、まだ信用されてないみたいだね」
「それで闇魔法を使うのか?」
「そっちが先に攻撃したでしょ。うちも自分の身くらいは守りたいからさ」
影が壁を駆け上がる。
グレイは空間を折り、背後へ回った。
手刀を首筋へ落とす。
少女の姿が水となって崩れた。
同時に真上から氷の槍が降り注ぐ。
グレイは片手を上げ、頭上の空間を別の場所へ接続した。
氷の槍が裂け目へ吸い込まれ、少女の背後から放出される。
少女は振り返らない。
髪を金色へ変え、全身を雷へ同調させる。
雷光となった身体が一瞬でその場から離れ、氷槍を避けた。
「面白い」
グレイは口元を僅かに緩めた。
何百年も生きてきた。
数え切れないほどの魔導士と戦った。
だが、一人でこれほど多くの属性を、呼吸するように切り替える者は見たことがない。
「お前、何者だ?」
「先に名乗るのが礼儀じゃない?」
「俺の城へ勝手に入った者が言うことか?」
「それはごもっとも」
少女が笑う。
「でも、今は話すより止めた方が早そうだね」
金色の髪が赤へ変わった。
少女の周囲へ、幾つもの火球が生まれる。
ただ浮かべているだけではない。
温度を細かく変え、グレイの逃げ道を塞ぐように配置している。
グレイは指を鳴らした。
中庭の各所に空間の裂け目が開く。
その奥から騎士人形たちが飛び出した。
「レイ様!」
先頭の騎士団長が剣を抜く。
その呼び方を聞いた瞬間、少女の表情が変わった。
ほんの僅か。
戦闘中でなければ見落としていたほどの変化だった。
「……レイ?」
少女の口から、同じ音が漏れる。
グレイも動きを止めた。
胸の奥に残っていた違和感が、一気に形を持つ。
その呼び方。
遠い昔、自分をそう呼んでいた者がいた。
銀色の城も、真祖の血も、人形たちも存在しなかった頃。
姿も声も違う。
それでも、何気ない言葉の選び方に、記憶の面影が残っている。
少女の火球が消えた。
赤かった髪が、普段の水色へ戻っていく。
二人の間に、風だけが通り過ぎた。
グレイは少女を見つめたまま、ゆっくり口を開く。
「……名前は?」
少女はすぐには答えなかった。
何かを確かめるように、グレイの顔を見つめている。
「アムネジア」
その名を聞いた瞬間、長い年月の向こうで途切れていた記憶が繋がった。
グレイの唇が、僅かに開く。
「……アム?」
少女の瞳が大きく見開かれた。
火も水も雷もない。
ただ、一人の少女がそこにいた。
「……レイ?」
何百年ぶりだったのか。
数える意味はなかった。
グレイは笑おうとした。
けれど、上手く出来なかった。
代わりに視界が滲み、目の前の少女の輪郭が揺れる。
アムネも同じように立ち尽くしていた。
「リアルか、それ……」
グレイの口から、掠れた声が漏れる。
今度はアムネが、小さく笑った。
「うちも、同じこと思ってる。……ハハ。まさか、こんなところにいるなんてさ」
人形たちは剣を構えたまま、二人を見比べている。
グレイは手を上げ、武器を下ろすよう命じた。
それから、アムネへ向かってゆっくり歩き出す。
まだ信じ切れない。
姿は違う。
声も、昔とは同じではない。
それでも「アム」と呼んだ時に返ってきた「レイ」の響きだけは、間違えようがなかった。
互いの前まで来ても、すぐには触れなかった。
長すぎる時間が、二人の間に残っていた。
先に手を伸ばしたのはアムネだった。
「久しぶり、でいいのかな」
「他に適切な言葉があるなら教えてくれ」
「ないかも」
「なら、久しぶりだな」
グレイはその手を取った。
温かかった。
父や母の人形とは違う。
生きている者の手だった。
その感触に、胸の奥で止まっていた何かが僅かに動いた。
「城へ入れ」
「いいの? さっきまで殺し合いかけてたけど」
「お互い無傷だろ。あれを殺し合いとは呼ばない」
「うち、結構本気で避けてたんだけどな」
「俺も本気で当てるつもりはなかった」
「それは嘘でしょ」
アムネが笑う。
「……ハハ。レイ、昔から負けず嫌いだったもんね」
グレイは僅かに目を細めた。
「アムこそ、昔から余計なことを覚えているな」
その日の夜、廃城の食卓には二人分の食事が並んだ。
人形たちの席も、いつもどおり用意されている。
アムネは最初こそ驚いた顔をしたが、何も尋ねず、空いている椅子へ腰を下ろした。
料理長の人形が作ったスープを口へ運び、素直に美味しいと言った。
それだけで、グレイは少しだけ救われた。
人形を恐れない。
化け物とも言わない。
ただ、そこにいる者として接している。
「一緒に来ない?」
食事が終わり、窓辺で紅茶を飲んでいた時、アムネがそう言った。
グレイはすぐには答えなかった。
「うちは、まだ仲間を探してる。世界中を歩いてるし、レイが一緒なら退屈もしないと思う」
「俺はもう、旅を終えた」
「ここに残るの?」
「ああ」
グレイは人形たちへ視線を向けた。
この城には家族がいる。
父の欠片もある。
何百年歩いても見つからなかった、自分が帰るべき場所だった。
「ここを離れられない。俺がいなくなれば、城を守る者がいなくなる。それに、皆と過ごす時間を、もう十分に失った」
アムネは何も言わず、紅茶の表面を見つめていた。
無理に誘うことも、理由を聞き出すこともしなかった。
しばらくして、カップを置く。
「そっか。なら、うちが会いに来ればいいね」
グレイはアムネを見た。
「簡単に言うな。ここは人里からも遠いぞ」
「空間魔法ほど便利じゃないけど、移動には慣れてる。何百年も探し回ってるんだから、今さら少し遠いくらいで変わらないよ」
「そうか」
「うん」
グレイは窓の外へ目を向けた。
雲の切れ間から月が見えている。
かつて王国を照らしていたものと、何も変わらない月だった。
「なら、また遊びに来てくれよな」
「もちろん」
アムネは立ち上がり、外套を肩へ掛けた。
「今度は依頼じゃなく、友達として来るよ」
その言葉を残し、アムネは翌朝、廃城を去った。
次に来たのは三か月後だった。
珍しい茶葉を持ち、何事もなかったように城門を潜ってきた。
その次は半年後。
東の国で手に入れた菓子を抱えていた。
ある時は一年以上姿を見せず、グレイがもう来ないのではないかと思い始めた頃、泥だらけになって現れた。
「途中で少し面倒な依頼に捕まってさ。遅くなった」
そう言って笑うアムネを、グレイは呆れた顔で迎えた。
「遅い。茶葉の一つでも持ってこい」
「ちゃんとあるよ。今回はお酒も持ってきた」
「それなら許す」
季節が巡った。
廃城の庭に花が咲き、枯れ、雪が積もる。
そのたび、時折アムネが訪れた。
二人は多くを語らなかった。
旅先の話を聞き、人形たちと食卓を囲み、時には城の外で軽く魔法を撃ち合った。
グレイは旅へ戻らなかった。
アムネも、城へ留まることはなかった。
それぞれに過ごす時間があり、それぞれに守りたい場所があった。
離れているからこそ、次に会う時に話せることが増えた。
全部を理解する必要はなかった。
理解できない部分があっても、そばにいられることを、二人は長い時間をかけて知っていった。
ある夕暮れ、アムネを見送ったあと、グレイは城門に一人で立っていた。
遠ざかる水色の髪が森の向こうへ消える。
侍女の人形が、隣へ静かに並んだ。
「よいご友人ですね」
グレイはしばらく森を見つめていた。
やがて、ほんの僅かに口元を緩める。
「ああ。少し騒がしいけどな」
廃城はもう、孤独だけが住む場所ではなかった。
次の来訪を待つ時間が、そこに残るようになっていた。




