第5話 王国が振るう最後の刃
銀色の光が、夜を埋め尽くした。
数百の魔法陣が同時に輝き、雨粒の一つ一つへ色を映す。城下町の上空に浮かんだ真祖を中心として、無数の人形たちが円を描くように展開していた。
騎士たちは剣を構え、弓兵たちは弦を引き絞る。
魔導士たちは互いの術式を重ね、炎と風、水と雷を一つの大きな流れへ変えていく。戦う術を持たない者たちも、残された魔力を隣の人形へ渡し、前線を支えていた。
誰か一人の力ではない。
国全体が、ただ一人の敵へ刃を向けていた。
「撃て!」
宮廷魔導士長の号令が響きわたり、一斉に放たれた魔法が、空を白く染めた。
炎の槍が雨を蒸発させ、雷が雲を裂く。巨大な水流が渦を巻き、風の刃がその内側を走った。
真祖は血の翼を広げ、深紅の障壁が球状に展開され、押し寄せる魔法を受け止めた。
光と闇が衝突する。
遅れて届いた轟音に、崩れかけていた城壁が震えた。石材が剥がれ落ち、城下町の屋根が風圧で吹き飛ばされていく。
それでも、グレイは視線を逸らさなかった。
魔法の奔流に隠れた真祖の位置。
障壁を構成する魔力の流れ。
再生したばかりの右腕。
血の翼へ集まる力。
空間認識で捉えたすべてを、人形たちへ共有する。
真祖の障壁は強固だった。
正面から押し破ろうとすれば、こちらの魔力が先に尽きる。
だが、どれほど強い防御にも、力を流す起点がある。
「右上だ。三層目の術式が僅かに遅れている。そこへ雷を集中させろ」
グレイの声が魔力の糸を伝うと、魔導士たちが即座に術式を組み替えた。
分散していた雷撃が一本へ集まり、障壁の右上へ突き刺さる。
深紅の表面が大きく波打った。
「騎士団、今だ!」
真祖の頭上と足元に、銀色の裂け目が開く。
離れた場所にいた騎士たちが次々と空間を渡り、障壁の周囲へ現れた。
剣。
槍。
斧。
数十の武器が、雷撃によって薄くなった一点へ叩き込まれる。
障壁へ亀裂が走った。
「人形風情が!」
真祖の怒声とともに、血の翼が振るわれる。
飛び散った赤い羽根が刃へ変わり、周囲の騎士たちを貫いた。
胸を穿たれた者。
腕を失った者。
頭部を砕かれた者。
人形たちは次々と地上へ落ちていく。
グレイの胸にも、それぞれが受けた衝撃が流れ込んだ。
糸が切れるたび、頭の内側を直接抉られるような痛みが走る。
それでも歯を食いしばり、接続を保った。
「まだ動ける者は退くな。損傷した者は地上へ戻せ。身体が残っていれば直せる」
「姫様、左翼が崩れます!」
騎士団長の声が届く。
真祖が障壁を解除し、自ら人形たちの中へ飛び込んでいた。
爪の一振りで三体を引き裂き、返す腕で魔導士の頭部を砕く。血の翼から放たれた魔力が空間を薙ぎ、逃げ遅れた人形たちをまとめて消し飛ばした。
速い。
グレイが転移先を作るより早く、人形たちの間を移動している。
攻撃を予測しても、身体がついていかない。
真祖の手が宮廷魔導士長へ伸びる。
その腕と魔導士長の間へ、父が割り込んだ。
剣と爪がぶつかる。
銀色の刃が軋み、父の両足が空中で押し戻された。
「所詮は偽物だ。生前の力を模したところで、私へ届くものか!」
「届くかどうかは、私一人で決めることではない」
父の声は静かだった。
グレイの知る、王としての声だった。
「この国を守るために立つ者は、私だけではない」
真祖の背後に空間の裂け目が開く。
騎士団長が飛び出し、両手で握った剣を血の翼へ振り下ろした。
刃が翼の根元へ深く食い込み、真祖の顔が僅かに歪んだ。
その隙に父が男の腕を払い、胸元へ剣を突き込む。
切っ先が皮膚を破り、肋骨の間へ沈んだ。
だが、心臓へ届く直前で止まる。
真祖が素手で刃を掴んでいた。
「虫が」
男は剣を握り潰した。
銀色の刃が砕け、細かな光となって雨の中へ散る。
そのまま父の首を掴み、地上へ向けて投げ落とした。
「父上!」
グレイが咄嗟に空間を開き、落下する父の身体を裂け目が呑み込んで城の中庭へ転移させた。
意識が一瞬そちらへ向いたその僅かな間を、真祖は見逃さなかった。
深紅の瞳がグレイを捉える。
姿が消えた。
「姫様!」
侍女の声がした時には、もう遅かった。
真祖はグレイの目前へ立っていた。
爪が胸を貫く。
小さな身体を、背中まで突き抜けた。
「あ……」
空気が漏れ出てそれ以上、声が出なかった。
心臓を握られている。
男の腕を伝い、自分の血が流れていくのが見えた。
真祖の顔がすぐ近くにある。
「お前が繋いでいるのだろう」
胸の奥で、指が動いた。
心臓が潰される。
視界が赤く弾けた。
「ならば、お前を壊せばすべて終わる」
真祖が腕を引き抜く。
グレイの身体は力を失い、崩れた城の屋根へ落下した。
雨が頬を叩く。
何かへぶつかった衝撃はあったが、痛みは遠かった。
胸に開いた穴から血が溢れている。
それでも、傷の縁では既に肉が蠢き、失われた心臓を作り直そうとしていた。
吸血鬼の再生能力。死ねない身体。
グレイは唇を噛み、意識を繋ぎ止めた。
視界の先では、彼女が作った空間の道が崩れ始めている。
人形たちへ伸びていた魔力の糸も細くなり、次々と地上へ落ちていく。
真祖の言うとおりだった。
すべての人形はグレイを中心に繋がっている。
彼女が意識を失えば、国の軍勢は止まる。
「まだ……だ」
指を動かす。
身体が応えない。
胸の奥で再生している心臓が、ひどく遅い。
人間だった頃なら、とっくに死んでいた。
ふと、そんな考えが浮かび、グレイは小さく笑った。
あの男が与えた力で、あの男へ抗っている。
皮肉ではあった。
だが、悪くない。
奪われたものを、そのまま奪った者へ返してやる。
「立て……」
自分へ命じる。
肘をつく。
屋根瓦が滑り、血に濡れた手が何度も空を掴んだ。
「立て、グレイ……」
父と母の顔が浮かぶ。
白い花をくれた少女。
厨房からパンを持たせてくれた料理長。
走るたびに叱っていた侍女。
皆がいた。
それを覚えている自分が、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「…立てぇぇ!!!!!」
叫びとともに、急速に再生した心臓が強く脈打った。
全身へ魔力が駆け巡る。白銀の瞳が静かに細められた次の瞬間、グレイは屋根を力強く蹴り放つ。
空中へ躍り出た彼女は、迷いなく指先を振るい――空間そのものを折り曲げた。
折り畳まれた空間が、彼女と真祖を隔てる距離を消し去る。
次の瞬間、グレイはすでに真祖の背後へ立っていた。
男が振り返るより早く、背中へ両手を当てる。
「貴様――」
「捕まえたぞ」
真祖の背後にある空間を閉じる。
逃げ道を一つずつ断ち切っていく。
前後。
左右。
上下。
男を中心とした小さな領域だけが、世界から切り離されていく。
真祖が腕を振るう。
鋭い爪がグレイの左肩を深々と抉り、左腕が地へと落ちた。
それでも、グレイは一歩も退かない。
激痛に顔を歪めながらも、空間の断絶だけは決して解かなかった。
「この程度で私を閉じ込められると思うな!」
血の翼が広がり、隔離された空間の内側から凄まじい魔力が叩きつけられる。
見えない壁に亀裂が走る。
グレイの右目から血が流れた。
頭蓋の内側が破裂しそうだった。
空間を切り離すだけなら難しくない。
だが、真祖ほどの存在を閉じ込め続けるには、絶えず押し返される力へ耐えなければならない。
一秒。
二秒。
それだけでも永遠のように長い。
「皆!」
グレイが叫ぶ。
止まりかけていた人形たちが、一斉に顔を上げた。
細くなっていた魔力の糸が、再び強く繋がる。
「俺がこいつを止める! 動ける者は、すべての力をここへ集めろ!」
人形たちが動き始めた。
城下町の各所から、魔力がグレイへ向かって流れてくる。
その流れを受け取り、隔離空間へ注ぎ込む。
真祖が壁を殴るたび、人形たちの身体へ亀裂が走った。
魔力を送りすぎた者から、膝をつく。
それでも誰一人、接続を切ろうとはしなかった。
「愚かな」
真祖の声が空間越しに響く。
「お前たちの王国は既にない。何を守っているつもりだ」
グレイは返事をしなかった。
守れるものは、もう少ない。
城も街も元には戻らない。
死者も蘇らない。
それでも、何もないわけではない。
人々が生きていた記憶。
互いを思った時間。
自分の胸に残っているもの。
それを奪わせないために戦っている。
「姫様!」
宮廷魔導士長の声が響いた。
崩れた城の上空へ、巨大な魔法陣が形成されている。
一枚ではない。
何十もの術式が重なり、夜空そのものを覆っていた。
炎でも、光でもない。
王国に仕えていたすべての魔導士が得意としていた術を重ね、互いの足りない部分を補い合った複合魔法。
生前であれば、これほど大規模な術式を同時に制御することは出来なかっただろう。
今の彼らには、疲労も呼吸もない。
ただ、残された魔力が尽きるまで術を維持し続けられる。
「照準、固定しました。ですが、このまま放てば姫様も巻き込まれます!」
「構わない」
即答だった。
「放て」
「しかし――」
「俺なら再生する。今を逃せば、二度とこいつを止められない!」
魔導士長が黙る。
グレイは隔離空間へ両手を向けたまま、ゆっくり振り返った。
遠く離れた空中に、魔導士長の人形がいる。
生前と同じように長い白髭を蓄え、杖を握る手だけが僅かに震えていた。
「姫様を犠牲にする命令を、私は受けられません」
「これは命令ではない」
「では、何だと仰るのです」
「頼んでいる」
グレイは笑った。
上手く笑えているかは分からない。
顔は血と雨に濡れ、片腕もまだ完全には戻っていない。
十歳の少女が見せるには、あまりにも疲れた顔だった。
「俺一人では勝てない。だから、皆の力を貸してほしい」
魔導士長は目を伏せた。
やがて杖を握り直す。
「……陛下によく似ておられる」
「そうか?」
「ええ。肝心な時ほど、無茶な頼み方をなさるところが」
その声には、僅かな笑いが含まれていた。
「宮廷魔導士団、最終術式へ移行! 姫様が作った領域以外のすべてを閉鎖せよ!」
空中へ浮かぶ人形たちが、一斉に杖を掲げる。
巨大な魔法陣がゆっくり回転を始めた。
周囲の魔力が吸い上げられ、城下町から音が消えていく。
雨すら、魔法陣の中心へ向かって流れ始める。
真祖も危険を感じたのだろう。
隔離空間の内側で、これまで以上の魔力を解放した。
血の翼が大きく広がり、見えない壁を内側から押し広げる。
亀裂が増える。
一つ。
二つ。
空間が崩れ始める。
グレイの膝が曲がった。
「まだ……!」
歯を食いしばる。
人形たちから流れ込む魔力だけでは足りない。
真祖の力が強すぎる。
このままでは魔法が完成する前に抜け出される。
何かが必要だった。
あと僅か。
ほんの少しだけ、真祖の動きを止められる力。
「グレイ」
隣から声がした。
父が立っていた。
いつの間にか、グレイのすぐ傍まで来ている。
その身体には無数の亀裂が入り、左脚は半ば崩れていた。
「父上、ここは危険だ。離れていろ」
「それは王が娘へ言う言葉だ。逆ではない」
父は隔離空間を見つめた。
「あと少しなのだろう?」
「……ああ。だが、こいつが壁を壊す方が早い」
「ならば、私が内側へ入る」
グレイは父を見た。
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「何を言っている」
「中から押さえる。お前の空間が破られたとしても、魔法が放たれるまで足を止める」
「無理だ。あの中へ入れば、お前の身体は残らない」
「分かっている」
父の声は穏やかだった。
まるで、明日の予定を伝えるような口調だった。
グレイの指先が震えた。
「駄目だ」
「グレイ」
「駄目だ! 俺は皆を失わないために人形へしたんだ。なのに、またいなくなる選択をさせると思うか!」
感情が溢れた。
空間の壁が揺れる。
真祖の爪が亀裂へ食い込み、外側へ赤い光が漏れ出した。
父はそれを見ても、娘から視線を逸らさなかった。
「失うことと、別れることは同じではない」
「同じだ!」
「違う」
父の手がグレイの頭へ触れた。
冷たい。
最初の記憶にある、温かな手とは違う。
けれど撫で方は、昔と同じだった。
「私の身体がなくなっても、お前が私を思った時間は消えない。お前が私から受け取ったものも、奪われることはない」
グレイの目から涙が落ちた。
雨に混ざり、すぐに見えなくなる。
「それでは、足りない」
「そうだな。私も足りない。もっとお前の成長を見たかった。王になる姿も、その先に誰と出会うのかも、見届けたかった」
父の声が、僅かに揺れた。
人形へ残された記憶が話しているだけだとしても、その言葉はあまりにも父らしかった。
「だが、すべてを得られないからといって、得たものまで無くなるわけではない。私はお前の父であった。それだけは、死んでも変わらない」
「父上……」
「お前は一人ではない」
父はグレイの背後へ目を向けた。
母がいる。
侍女がいる。
騎士団長がいる。
国の者たちがいる。
人形でしかない。
それでも、誰もグレイへ背を向けてはいなかった。
「この戦いが終わった後、お前は長い時間を生きることになる。何を見て、誰と出会うかは分からない。だからこそ、ここで未来まで捨てるな」
父が一歩、隔離空間へ近づく。
グレイはその衣服を掴んだ。
「行くな」
「すまない」
「父上!」
「お前の頼みを断るのは、これが最初で最後だ」
父は娘の指を一本ずつ外した。
そして生前と同じように、優しく笑った。
「お前はきっと、この国の誇りになる」
グレイの視界が滲んだ。
父が空間の壁へ触れる。
「道を開けてくれ」
開けたくなかった。
このまま閉じ込めてしまえば、父は傍に残る。
戦いが終わった後も、冷たい手で髪を撫でてくれる。
声をかけてくれる。
昔のように話せる。
そんな未来へ縋りたかった。
だが、隔離空間の亀裂は広がり続けている。
真祖を止めなければ、父も母も、残ったすべての人形も壊される。
グレイは唇を強く噛んだ。
血の味が広がる。
「……絶対に、忘れない」
「ああ」
「俺が何年生きても、父上の声も、笑った顔も、この手の感触も、絶対に忘れない」
「それで十分だ」
グレイは父の前へ、小さな裂け目を開いた。
隔離空間の内側へ繋がる、片道の道。
父は一度だけグレイへ頭を下げ、迷うことなく中へ踏み込んだ。
裂け目が閉じる。
真祖の目の前へ父が現れる。
「貴様!」
男が爪を振るう。
父は避けなかった。
片手を失いながら懐へ入り込み、真祖の身体へ両腕を回す。
背後から強く抱き締めるように、男の動きを封じた。
「離せ!」
真祖の血の翼が父の身体を貫く。
陶器の胸に亀裂が入り、背中から細かな破片が飛び散った。
それでも父は腕を離さない。
「今だ、グレイ!」
父の叫びが届く。
空の魔法陣が完成した。
白。
赤。
青。
金。
無数の色が重なり、最後には透き通るような銀色へ変わっていく。
グレイは手を上げた。
全身が震えていた。
命令を下せば、父も消える。
分かっている。
それでも、躊躇している時間はなかった。
隔離空間が砕ける。
真祖が父の腕を引き千切る。
あと一瞬。
グレイは涙を拭わず、手を振り下ろした。
「放てぇぇぇぇぇっ!」
空が落ちた。
巨大な銀色の光柱が、真祖と父をまとめて呑み込む。
轟音はなかった。
あまりにも大きな力は、音すら置き去りにしていた。
光へ触れた雨が消え、雲が円形に吹き飛ぶ。
城下町の中心が白く染まり、周囲の瓦礫が影も残さず蒸発していく。
グレイは空間を何重にも折り畳み、自分と人形たちを遠くへ退避させた。
それでも衝撃を完全には防げない。
防御に使った空間が一枚ずつ砕け、最後の壁を越えた熱が肌を焼いた。
銀髪が舞い上がる。
再生したばかりの身体に、再び無数の傷が走る。
それでもグレイは目を閉じなかった。
光の中心を見つめ続ける。
父がいた場所を。
やがて、銀色の柱が細くなった。
夜空へ吸い込まれるように消えていく。
雲の切れ間から月が覗き、焼けた城下町を淡く照らした。
中心には巨大な穴が開いていた。
石も土も溶け、底には赤熱した地面が見える。
父の姿はなかった。
真祖の姿も見えない。
グレイは息を止めた。
終わった。
そう思った瞬間、穴の底から手が伸びた。
黒く焼け焦げた腕。
指先の肉は失われ、白い骨が露出している。
それが地面を掴む。
真祖が、ゆっくりと這い上がってきた。
全身の大半が炭のように変わっている。
血の翼は消え、片目も潰れていた。
それでも生きている。
深紅の瞳がグレイを見上げた。
「人形……ごときが……」
掠れた声。
先ほどまでの威圧感はない。
再生も始まっていなかった。
魔力を使い切ったのだ。
あれほどの攻撃を受け、生き残っただけでも異常だった。
それでも、もう最初のような絶望的な存在ではない。
グレイはゆっくり穴の縁へ降り立った。
足元には、父の人形を形作っていたと思われる小さな欠片が落ちていた。
雨に打たれ、銀色の光を反射している。
グレイはそれを拾い、胸元へ押し当てた。
「父上が、道を作ってくれた」
真祖が起き上がろうとする。
片腕を地面へつき、焼けた身体を持ち上げる。
「私は……真祖だ。人形と……出来損ないの眷属などに……」
「まだ、自分が上だと思っているのか」
グレイは穴の底へ向かって歩き出した。
一歩進むたび、溶けた地面が靴の下で冷えていく。
空間魔法で熱を別の場所へ逃がしていた。
真祖は立ち上がろうとしたが、膝が崩れた。
再生するための魔力がない。
血を吸う相手もいない。
周囲にいるのは、既に生者ではない人形だけだった。
「近付くな……」
男の声に、初めて恐怖が混じった。
グレイは足を止めない。
「お前が最初に俺の前へ現れた時、皆が同じことを思っただろうな」
「私は、お前を……強くした。永遠の命を与えた……」
「頼んでいない」
「人間のままなら、いずれ死んでいた! 短い時間を生き、老い、何も残せず消えていた!」
真祖の声が大きくなる。
それは説得ではなかった。
自分の行いが間違っていなかったと、自らへ言い聞かせているようだった。
グレイは男の前へ立つ。
見下ろす立場が、ようやく逆になった。
「何も残らないかどうかを、お前が決めるな」
「貴様……」
「父上は残した。母上も、皆もだ。俺の中に、確かに残っている」
グレイの右手に、銀色の刃が形成される。
空間を細く断絶させた、形のない剣。
防御も再生も、今の真祖には残されていない。
「俺が生きている限り、この国は消えない」
真祖は後ずさろうとした。
だが、空間が歪み、逃げた距離が元へ戻される。
何度動いても、グレイとの間は離れない。
「待て」
「お前は待ったか?」
「私を殺せば、貴様は永遠に眷属のままだ。真祖を失った吸血鬼は、己の血に呑まれるぞ」
グレイの刃が止まった。
真祖の口元に、僅かな笑みが戻る。
「そうだ。私を殺せば、お前も終わる。衝動へ支配され、人の血を求めるだけの獣になる。私の支配下にいれば、それを抑える術を教えてやれる」
グレイは黙って男を見た。
嘘かもしれない。
だが、完全な虚偽とも思えなかった。
今も喉は渇いている。
戦いの中で流れた自分の血にすら、身体が反応していた。
この男を殺した後、自分がどうなるかは分からない。
人を襲う化け物になるかもしれない。
父や母が守ったものを、自分の手で汚すかもしれない。
恐怖はあった。
けれど、迷いは長く続かなかった。
「なら、その時は俺が俺を終わらせる」
「何?」
「お前へ従うくらいなら、その方がいい」
グレイは刃を構えた。
真祖の瞳が見開かれる。
「やめろ! 私は数千年を生きた真祖だぞ! 貴様のような小娘が、この私を――」
「俺の名を忘れたか?」
銀色の刃が持ち上がる。
雨に濡れた髪の間から、深紅の瞳が男を射抜いた。
「我が名は、Glay Altarf Zero」
力を失ってなお、真祖は最後に爪を伸ばした。
グレイの頬を浅く裂く。
それでも彼女は動じなかった。
「お前に終わりを告げる者の名だ」
刃を振り下ろす。
空間が断絶した。
真祖の身体へ、細い銀色の線が走る。
次の瞬間、首が胴から離れた。
男の頭部が地面へ落ちる。
深紅の瞳は驚愕に見開かれたまま、グレイを見上げていた。
身体が倒れる。
真祖の魔力が急速に崩れ始める。
血。
肉。
骨。
数千年の間に蓄えた力が、赤黒い霧となって溢れ出した。
それは消えることなく、周囲を漂いながらグレイの身体へ集まってくる。
避けようとした。
だが、身体の中に残された男の血が、主人を求めるように反応した。
「何だ……」
霧が皮膚から染み込む。
真祖の記憶。
力。
吸血鬼としての本能。
数えきれないほどの命を奪ってきた感覚が、濁流となって流れ込んでくる。
グレイは頭を押さえ、膝をついた。
「あああああああっ!」
先ほど眷属へ変えられた時とは比べものにならない。
身体だけではない。
魂の形そのものを、より大きな存在へ押し広げられていく。
血液が沸騰する。
骨が軋む。
心臓が一度止まり、再び動き始める。
視界が真紅に染まり、周囲に残るすべての魔力が、手に取るように分かった。
吸血鬼たちを従える力。
夜そのものから力を得る感覚。
傷ついても滅びない生命力。
空間へ干渉するグレイ本来の魔力と、真祖の血が混ざり合っていく。
「嫌だ……!」
男の記憶が入り込む。
泣き叫ぶ人間。
焼かれる街。
牙を向けられた子供。
命乞いをする者へ、男が向けていた退屈そうな目。
自分がその存在へ近づいていくような恐怖に、グレイは胸を掻きむしった。
「俺は、お前じゃない……!」
血が溢れる。
傷はすぐに塞がる。
「俺は……俺だ!」
叫びに呼応するように、周囲の空間が震えた。
真祖の記憶と力だけを、自分の中で別の領域へ押し込める。
受け入れるのではない。
支配する。
自分の身体へ入り込んだすべてを、グレイという存在の下へ置く。
真祖の血が抵抗する。
人間を見下ろせと囁く。
血を飲めと訴える。
すべてを奪える力があると、心の奥へ入り込もうとする。
そのたびにグレイは、父の言葉を思い出した。
力は扱い方を間違えてはならない。
大切にしている気持ちを忘れるな。
「黙れ」
小さく呟く。
男の声が遠のく。
「この力は、俺のものだ」
赤黒い霧がすべて身体へ吸収された。
雨だけが残る。
真祖だった男の身体は、灰となって崩れ始めた。
指先から。
腕。
胴体。
最後には首も形を失い、雨水へ混ざって消えていく。
グレイはその場へ膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返した。
心臓が打つたび、地面が僅かに揺れる。
その存在格だけで、周囲の魔力が彼女を避けるように流れていた。
自分が何になったのか。
説明されなくても分かった。
真祖を討ち、その血と力を奪った。
今、この世界に新たな真祖が生まれた。
人形たちが、穴の縁へ集まっている。
母。
騎士団長。
侍女。
宮廷魔導士長。
そして、国の者たち。
父だけがいない。
グレイは掌を開いた。
そこには、光の中で拾った小さな欠片がある。
それを胸元へ大切にしまった。
「終わったぞ、父上」
雨音に紛れるほど、小さな声だった。
返事はない。
それでいいと、思うことは出来なかった。
けれど父が何を残してくれたのかは、分かっている。
グレイは立ち上がった。
真祖となった身体は、先ほどまでの傷をすべて治していた。
それでも胸の奥に開いた穴だけは、塞がらなかった。
「帰ろう」
グレイは人形たちへ告げた。
どこへ帰るのかは、自分でも分からない。
城は崩れ、国も滅びた。
それでも母の人形が隣へ立ち、グレイの手を取った。
侍女たちは静かに頭を下げる。
騎士団長が残った者たちをまとめ始める。
帰る場所がないのなら、残った者たちで作ればいい。
そう考えた時、城下町の外から音が聞こえた。
馬の蹄。
複数の人間の呼吸。
遠くへ避難していた者たちか、近隣から救援へ来た兵士たちだろう。
生き残りがいた。
その事実に、グレイの口元が僅かに緩んだ。
白い花をくれた少女も、避難の列にいた。
もしかすると無事かもしれない。
国は失われたが、すべてが消えたわけではない。
グレイは穴から外へ上がった。
救援に来た一団が、崩れた城門の前で立ち止まっている。
騎士。
領民。
避難していた者たち。
皆が、焼け落ちた街を見つめていた。
やがて、その視線がグレイへ向く。
銀色の髪。
白い肌。
深紅の瞳。
その背後には、死者の面影を残した人形たちが並んでいる。
グレイは一歩前へ出た。
「真祖は倒した」
誰も答えなかった。
「もう、この国を襲う者はいない。避難した者たちを戻し、負傷者を探してくれ。俺の人形たちも手伝わせる」
沈黙が続く。
助かった。
そう言ってもらえると思っていたわけではない。
それでも、皆が生き残ったことを喜ぶ声くらいは聞けると思っていた。
一人の男が、震える手で剣を抜いた。
グレイの足が止まる。
男は王国の兵士だった。
顔に見覚えがある。
城門で何度も挨拶をしたことがあった。
「姫……様……?」
「そうだ。俺だ」
グレイは深紅の瞳を伏せないよう、真っ直ぐ彼を見た。
兵士の視線が、背後の人形へ向く。
母の人形。
騎士団長。
かつて同じ場所で働いていた者たち。
「それは……」
「皆だ。命を戻すことは出来なかった。だが、記憶と人格は残っている。これからも――」
「近付くな!」
兵士の叫びが、雨の中へ響いた。
グレイは言葉を失った。
剣先が、自分へ向けられている。
先ほどまで真祖へ向けられていたはずの、王国の剣だった。
周囲の者たちも後ずさる。
子供を抱く母親が、その目を手で覆った。
誰かが震える声を漏らした。
「赤い目……」
「吸血鬼だ」
「人を……人形に……」
「姫様ではない」
言葉が少しずつ重なる。
グレイの背後で、騎士団長の人形が剣へ手を伸ばした。
彼女は片手を上げ、それを止めた。
「待て。皆、混乱しているだけだ」
自分へ言い聞かせるように告げる。
兵士へ向かって、もう一歩進む。
「俺は変わっていない。身体は吸血鬼にされた。だが、俺はこの国の――」
兵士が剣を振るった。
刃はグレイの頬へ届く前に止まった。
空間が自動的に歪み、攻撃を拒んでいた。
兵士はそれを見て、さらに顔を青ざめさせる。
「化け物……」
雨音の中でも、その言葉だけははっきり聞こえた。
グレイの胸元で、父の欠片が僅かに揺れた。
真祖を倒した。
国を滅ぼした者を討った。
皆を忘れないために人形へ残した。
それでも、目の前の者たちが見ているのは王女ではなかった。
赤い瞳をした吸血鬼。
死者を従える何か。
「違う」
グレイの唇から、声が漏れた。
誰へ向けたものかは分からない。
「俺は……」
言葉が続かなかった。
一人が逃げ出す。
それを合図にしたように、他の者たちも後ずさった。
恐怖に染まった目。
自分を見るたび、皆の顔が歪む。
その視線は、真祖が向けていたものとは違う。
だからこそ、耐え難かった。
敵ならば殺せる。
憎まれているのなら、受け止められる。
けれど彼らは、ただ怯えている。
グレイが守ろうとした者たちが、彼女の存在そのものを恐れている。
「化け物が……」
今度は別の誰かが言った。
その声を聞いた瞬間、グレイの中で何かが切れた。
深紅の瞳が、暗く光った。
周囲の空間が沈む。
逃げようとしていた者たちの足が止まった。
魔力を持つ者たちの身体から、淡い光が引き剥がされていく。
「姫様!」
咄嗟に従者が叫んだ。
母の人形がグレイの腕を掴む。
それでも力は止まらない。
兵士たちの魔力。
騎士の身体能力。
魔導士の術式。
自分へ向けられた力が、空間を通して奪われていく。
殺すつもりはなかった。
ただ、もう剣を向けられないようにしたかった。
怖がられないようにする方法が分からなかったから、怖がる力そのものを消そうとした。
人々が次々と膝をつく。
握っていた剣が地面へ落ちる。
「やめて……」
誰かが泣いた。
グレイはその声を聞いて、ようやく我に返った。
手を下ろす。
力を奪う流れが止まった。
誰も死んではいない。
だが、皆が地面へ伏し、恐怖に震えている。
今度こそ、彼らの目に迷いはなかった。
グレイは化け物だった。
少なくとも、彼らにとっては。
「……そうか」
声が出た。
不思議なほど静かだった。
グレイは自分の両手を見る。
白い肌。
人間だった頃より細く、美しく、傷一つない指。
この手で父を人形へ変えた。
この手で真祖を殺した。
そして今、守ろうとした者たちから力を奪った。
「そう見えるのか」
誰も答えない。
雨が強くなる。
グレイの髪を濡らし、黒く焼けた地面へ流れていく。
口元が、ゆっくりと持ち上がった。
笑おうと思ったわけではなかった。
ただ、他にどんな顔をすればいいのか分からなかった。
「は……」
喉から、小さな息が漏れる。
「はは……」
一度笑い始めると、止まらなかった。
「はははははっ……!」
雨の中で、グレイの笑い声が響く。
助けた者たちは、さらに怯えた顔をした。
それが可笑しかった。
国を滅ぼした真祖を殺したのに。
家族を失ったのに。
自分まで人ではなくなったのに。
最後に残った者たちから向けられた言葉が、化け物だった。
「はははははははっ!」
空を仰ぐ。
雲の向こうに月がある。
十歳の誕生日の夜も、同じような月が城を照らしていた。
あの時は、明日も同じ日が来ると思っていた。
父がいて。
母がいて。
城の皆が笑っていた。
小さな騎士人形が膝へ寄りかかっていた。
あの日から、まだ幾日も経っていない。
それなのに、何も残っていない。
笑い声が掠れた。
息が続かない。
肩が震える。
グレイは両手で顔を覆った。
「……いやだ」
膝が崩れる。
濡れた地面へ手をつく。
「こんなの、嫌だ……」
笑い声はもう出なかった。
代わりに、喉の奥から押し殺していたものが溢れた。
「父上……母上……」
人形たちは傍にいる。
それでも、もう本当の父と母ではない。
温かくない。
成長を見守ってくれることもない。
母の手料理を食べることも、父に褒めてもらうことも出来ない。
何も戻らない。
分かっていた。
分かっていたはずなのに、戦いが終わるまでは考えないようにしていた。
終わってしまったから。
もう、目を逸らすものがなかった。
「帰りたい……」
どこへ帰りたいのか。
焼ける前の城へ。
誕生日の夜へ。
父の執務室へ。
母の腕の中へ。
どれも、もう存在しない。
「帰りたいよぉ……!」
十歳の少女の声が、亡国へ響いた。
グレイは地面へ額をつけ、泣き叫んだ。
真祖としての威厳も。
王女としての誇りも。
すべて消えていた。
ただ、家族を失った子供だけが残っていた。
雨は容赦なく降り続ける。
声が枯れても。
涙が出なくなっても。
グレイの慟哭は、長い間止まらなかった。




