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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
間章 白銀の追憶

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第3話 我が名は、グレイ・アルタルフ・ゼロ


最初に戻ってきたのは、痛みだった。


意識よりも先に、身体が悲鳴を上げていた。


骨の内側へ焼けた鉄を流し込まれたような熱が走り、心臓が一度大きく跳ねる。その直後、胸の奥で何かが砕けた。


「あ、ぁ……っ」


声を出したつもりだった。


しかし喉から漏れたのは、空気を引っかくような掠れた音だけだった。


グレイは冷たい床の上に横たわっていた。


視界は赤く滲み、天井さえまともに見えない。何度瞬きをしても、世界を覆う血の色は消えなかった。


息を吸う。


肺が焼ける。


吐こうとすると、今度は喉の奥が裂けるように痛んだ。


身体の中で、何かが作り替えられている。


細い骨は砕かれ、より強く組み直されていく。筋肉は引き裂かれながら異質な力を受け入れ、血管を流れていた温かな血は、冷たく濁ったものへ変わっていった。


耐えられるはずがない。


十歳の身体に押し込めるには、その変化はあまりにも大きすぎた。


「ああああああああっ!」


今度こそ、叫び声が出た。


爪が石床を掻く。


指先から血が滲んでも、その傷は目の前で塞がっていく。治った直後に皮膚の下から新しい痛みが押し寄せ、グレイは何度も床へ額を打ちつけた。


止めたかった。


身体を壊せば、これ以上変わらずに済むと思った。


けれど壊しても、すぐに元へ戻る。


歪みながら。


人間だった頃とは違う形へ。


「やめろ……」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


「もう、やめてくれ……」


返事はない。


広い部屋には、グレイの荒い呼吸と、遠くで何かが燃え崩れる音だけが響いていた。


薄く目を開ける。


そこは玉座の間だった。


見慣れたはずの床には血が広がり、壁を飾っていた旗は焼け落ちている。割れた窓から入り込む赤い光が、倒れた騎士たちの鎧を鈍く照らしていた。


父の姿を探した。


玉座の前。


折れた剣を握ったまま、父は倒れていた。


「……父上」


声が震えた。


這うようにして近づこうとする。


けれど片腕に力を入れた瞬間、肩の骨が軋み、身体が床へ崩れた。見えない糸で全身を引き裂かれているような痛みに、指一本動かせない。


それでも、グレイは父を見ていた。


父の顔は、こちらへ向いていなかった。


最後まで敵を見据えていたのだろう。


王として。


父として。


国を守る者として。


「起きてくれ」


返事はない。


「母上も……待っている。皆で、逃げるんだろう」


言葉にした瞬間、地下で見た白いドレスが浮かんだ。


血に染まった胸元。


頬へ触れた指。


声にならなかった最後の言葉。


呼吸が止まった。


胸の中から何かが込み上げ、グレイは口元を押さえた。


吐き出されたのは血だった。


だが、自分のものではないような匂いがした。


鉄のように濃く、甘い。


その匂いを嗅いだ瞬間、喉が焼けるように疼いた。


欲しい。


身体の奥から、そう訴えるものがあった。


目の前にある血を舐めれば、この痛みが少し和らぐ。


倒れている者たちの身体へ牙を立てれば、力を取り戻せる。


そう理解してしまった。


「……違う」


グレイは口元を袖で乱暴に拭った。


「俺は、そんなものではない」


言い聞かせる。


けれど喉の渇きは強くなるばかりだった。


部屋には数えきれないほどの血の匂いが満ちている。壁際に倒れた兵士。玉座を守るように折り重なった騎士。父の手元に広がる赤。


どれもが、ひどく甘く感じられた。


「違う……!」


耳を塞いでも意味はなかった。


匂いは鼻からではなく、身体の内側へ直接入り込んでくる。


誰の血がまだ温かいのか。


誰の身体に魔力が残っているのか。


目を閉じていても分かってしまう。


知らなかった感覚が、あまりにも自然に馴染んでいた。


自分の中に、別の生き物がいる。


人間を餌として見る何かが。


「嫌だ……俺は、俺は……」


声が掠れた。


頭の中に、父の言葉が蘇る。


力は扱い方を間違えてはならない。


お前が大切にしている気持ちを、忘れないでいてくれ。


忘れたくない。


けれど今の自分は、父の血にさえ飢えている。


その事実が、どんな痛みよりも恐ろしかった。


グレイは爪を立て、自らの喉を掻いた。


血が流れる。


傷が塞がる。


何度繰り返しても、渇きは消えなかった。


やがて身体の奥で、心臓が再び跳ねた。


一度。


二度。


人間のものとは思えないほど遅く、重い鼓動だった。


そのたびに魔力が全身へ広がり、赤く染まっていた視界が鮮明になっていく。


遠くの炎が揺れる様子。


埃の一粒。


倒れた者の指先。


すべてが見えた。


聞こえるはずのない音まで、耳へ届く。


城の外で崩れる家屋。


雨雲の中で鳴る雷。


まだ息のある者が、城下町のどこかで漏らした小さな呻き。


グレイは身体を丸めた。


聞きたくない。


見たくない。


それでも感覚を閉じる方法が分からなかった。


この国の死が、すべて自分の中へ流れ込んでくる。


父も。


母も。


騎士団長も。


侍女も。


宮廷魔導士も。


市場で笑っていた者も。


白い花をくれた少女も。


生きているのか、もう死んでいるのか、それすら確かめることが怖かった。


「面白い」


声がした。


グレイはゆっくり顔を上げた。


玉座の脇に、あの男が立っていた。


銀髪の真祖。


服には傷一つなく、燃え落ちていく王国を眺めながら、まるで退屈な芝居でも見ているような顔をしている。


「変化には耐えたようだな。途中で精神が壊れる者も多いが、お前はまだ自分を保っている」


グレイは男を睨んだ。


立ち上がろうとする。


足に力が入らず、すぐに膝をついた。


それを見て、男は薄く笑った。


「急ぐ必要はない。人の身体を捨てたばかりだ。馴染むまでには少し時間がかかる」


「……戻せ」


「何をだ?」


「皆を戻せ。この国を、父上を、母上を……全部、元に戻せ」


男は答えず、玉座へ腰を下ろした。


それは父の座る場所だった。


グレイの指先が、床を強く掴んだ。


「そこから、どけ」


「お前はまだ理解していない。国など、長い時を生きればいくつも滅びる。親も民も、いずれ死ぬ。少し早まっただけのことだ」


「どけと言っている!」


叫びとともに、周囲の魔力が揺れた。


床へ落ちていた木片が浮かび上がる。


砕けた旗竿。


椅子の脚。


焼け残った装飾。


それらは空中で形を変え、歪な人形へ組み上がっていった。


十体。


二十体。


三十体。


グレイ自身も、その数に息を呑んだ。


これまでなら、一体を作るだけでも集中が必要だった。今は違う。素材へ触れる必要さえない。


作りたいと思っただけで、魔力が形を与えていく。


男は興味深そうに人形たちを見回した。


「なるほど。吸血鬼となったことで、力が大きく引き上げられたか」


「黙れ」


「喜べ。お前は人間だった頃より、遥かに強くなった。今なら、守れなかったものも守れるかもしれないぞ」


その言葉が、胸の奥へ突き刺さった。


守れなかった。


何も。


一つも。


人形たちが一斉に男へ飛びかかる。


木の剣が振り下ろされ、砕けた金属の槍が深紅の瞳を狙う。


男は動かなかった。


身体に触れる直前、すべての人形が赤い霧に包まれ、その場で砕け散った。


木片が雨のように床へ落ちる。


「まだ足りない」


男の声には失望すらなかった。


「だが、良い力だ。数百年も育てれば、それなりのものになるだろう。私の眷属として働くには十分だ」


「誰が……」


グレイは震える足で立ち上がった。


身体の痛みは残っている。


喉も渇いている。


それでも、先ほどよりは動けた。


「誰が、お前の眷属になるものか」


「既になっている。私の血がお前を作り替えた。お前の命は私から与えられたものだ」


「違う」


「何が違う?」


「この命は、父上と母上がくれたものだ。お前が触れていいものではない」


男の瞳が僅かに細められた。


グレイは玉座へ向かって一歩踏み出す。


膝が震える。


それでも止まらなかった。


「返せないなら、せめてそこから降りろ。その玉座は父上のものだ」


「死者に座る権利はない」


「なら、お前にもない」


周囲の魔力が、再び大きく揺れた。


先ほどとは違う。


人形を作ろうとしたわけではない。


グレイの感情へ呼応するように、空間そのものが歪み始めた。


玉座の周囲が揺らぐ。


男の身体が遠ざかったように見えた直後、次の瞬間にはすぐ目の前へ現れた。


距離が壊れている。


グレイは無意識のまま手を伸ばし、男の頬を殴りつけた。


乾いた音が響く。


玉座に座っていた男の顔が、僅かに横を向いた。


初めてだった。


どれほどの兵士が剣を振るい、魔導士が魔法を放っても傷一つつかなかった男へ、グレイの拳が届いた。


拳の骨は砕けていた。


けれど、すぐに再生していく。


男はゆっくり顔を戻した。


「空間へ干渉したか」


その声から、僅かに笑みが消えている。


「人形だけではない。随分と面白いものを持っているな」


「俺の力を、お前が語るな」


グレイはもう一度拳を振るった。


今度は届かなかった。


男の手が首を掴み、身体を床へ叩きつける。


石が砕け、背中に衝撃が走った。


息を吐く間もなく、腹部を踏みつけられる。


骨が折れた。


臓器が潰れた感覚があった。


口から大量の血が溢れる。


それでも死ねない。


壊れた身体は、男の血に従って元へ戻ろうとする。


「これが支配だ」


男は冷たい目でグレイを見下ろした。


「お前がどれほど憎もうと、私の血からは逃れられない。逆らうたびに、その身体が誰のものか教えてやろう」


足へさらに力が込められる。


胸が潰れる。


グレイは床を掻き、口元から血を垂らしながら笑った。


小さく。


掠れた声で。


「……なら、何度でも壊せ」


男の眉が動いた。


「この身体がお前の血で出来ているなら、何度でも壊して、俺のものに作り直す。お前に従うくらいなら、永遠に痛んでいた方がましだ」


男の足が止まる。


その僅かな隙に、グレイは視線を玉座の奥へ向けた。


父が倒れている。


母も地下にいる。


城の至る場所に、大切だった者たちが残されている。


皆が死んだ。


その事実は変わらない。


失った命は戻せない。


けれど。


まだ、この城にいる。


身体がある。


記憶が残っている。


想いがある。


グレイの視線が、父の手へ向いた。


折れた剣を握り締めた指。


その姿を忘れたくない。


母の声も。


騎士団長の敬礼も。


侍女の笑い方も。


誰一人として、時間の中へ消したくない。


「……そうか」


グレイの口から、声が漏れた。


男が見下ろしている。


「何だ?」


「戻らないなら……残せばいい」


胸の奥で、何かが音を立てた。


これまで人形へ与えていたものは、動きと役割だけだった。


騎士らしく。


侍女らしく。


魔導士らしく。


誰かを真似ることは出来ても、それはあくまで形だけだった。


だが今は、違う。


城に残る魔力。


血。


記憶の残滓。


大切な者たちへ向けた想い。


それらが、見えた。


細い糸となって、グレイの周囲へ漂っている。


誰かが最後まで握っていた剣。


守ろうとした扉。


家族へ届けられなかった言葉。


一つ一つが、消えずに残っている。


グレイはゆっくり手を伸ばした。


指先が、父へ続く糸へ触れる。


その瞬間、記憶が流れ込んできた。


幼い自分を抱き上げる父。


初めて歩いた日に、大声で臣下を呼び集めたこと。


人形を見せた時、驚きながら髪を撫でてくれたこと。


最後の瞬間まで、剣を手放さなかったこと。


「……父上」


涙が頬を伝った。


喉の渇きも、身体の痛みも、その瞬間だけ遠のいた。


次に母の糸が見える。


騎士団長。


侍女。


宮廷魔導士長。


料理長。


庭師。


数えきれないほどの光が、この城と街の中へ残っている。


皆がここにいた。


確かに生きていた。


「消させない」


グレイの周囲へ、膨大な魔力が集まり始めた。


男が初めて警戒するように足を退ける。


グレイはゆっくり立ち上がった。


折れていた骨は、既に繋がっている。


銀色の髪が魔力に揺れ、赤く染まっていた瞳の奥に、淡い銀灰色の光が戻り始めた。


玉座の間に散らばる武器や布、木片が宙へ浮かぶ。


それだけではない。


倒れていた者たちの身体から、魔力の糸が伸びてくる。


男の目が細められた。


「何をするつもりだ?」


「家族を迎えに行く」


「死者を蘇らせるつもりか。そんなことは出来ない」


「分かっている」


グレイは静かに答えた。


死者は戻らない。


声も、体温も、命も。


それでも、残っているものはある。


「俺は、皆の代わりを作るんじゃない。皆がここにいたことを、誰にも奪わせない」


床へ横たわる父の身体を、柔らかな銀色の光が包んだ。


血に濡れた衣服。


折れた剣。


最後まで崩れなかった表情。


それらが魔力へ溶け、少しずつ形を変えていく。


人を素材にする。


その言葉だけなら、男と同じ化け物に聞こえるだろう。


けれど、グレイの胸にあったのは欲望ではなかった。


失いたくない。


ただ、それだけだった。


父の身体は光の中で縮まり、一体の人形へ変わっていく。


人の形を保ちながらも、肌には滑らかな陶器の質感が宿り、王の衣装は生前の姿をそのまま再現していた。


閉じていた瞼が、ゆっくり開く。


その瞳には命の光はない。


けれど、父が持っていた記憶と人格の一部が確かに宿っている。


人形となった父はグレイを見つめ、以前と同じように眉尻を下げた。


「……グレイ」


その声を聞いた瞬間、グレイの膝が崩れかけた。


本物ではない。


分かっている。


父が生き返ったわけではない。


それでも、その呼び方を覚えている。


「父上……」


伸ばした手が震える。


父の人形は、その手を取った。


温かくはなかった。


だが、拒まれなかった。


男はしばらく黙っていた。


やがて、低く笑う。


「死者へ縋るか。惨めだな」


グレイは父の手を握ったまま、男へ振り返った。


「お前には分からないだろうな」


「何?」


「誰かを大切に思ったことがないお前には、何を残したいと思うのかも分からない」


男の表情から、完全に笑みが消えた。


グレイは父の手を離し、一歩前へ出る。


身体の中で、吸血鬼の力が脈打っている。


人形を生み出す力。


空間を歪める力。


父と母から受け継いだ誇り。


そのすべてが、今初めて一つになろうとしていた。


「お前は俺の名を知らない」


男は何も答えない。


「俺を眷属と呼び、所有したつもりでいる。だが、お前が血を流し込む前から、俺には名前があった」


魔力が玉座の間を満たした。


割れた窓の外で、空が唸る。


遠くから雷鳴が響き、やがて最初の雨粒が焼けた城へ落ち始めた。


グレイは胸へ手を当てた。


真名。


前の世界から持ってきた、自分だけの名。


この世界で誰にも告げたことのない、魂に刻まれた名前。


それは過去を忘れないための名前であり、ここから先を生きるための誓いでもあった。


「よく聞け」


赤かった瞳が、深い紅へ染まる。


口元から鋭い牙が覗く。


小さな身体から放たれた魔力が、城全体を震わせた。


十歳の王女はもういない。


国を失い、家族を奪われ、人の身体さえ壊された。


それでも、その心だけは誰にも渡さなかった。


グレイは男を真っ直ぐに見据えた。


「俺の名は――Glay Altarf Zero」


一歩踏み出す。


空間が折れ、二人の距離が消えた。


「グレイ・アルタルフ・ゼロ。お前に奪われたすべてを背負い、お前へ終わりを告げる者の名だ」


男の頬へ、グレイの拳が再び届いた。


今度は骨の砕ける音がした。


血が飛ぶ。


深紅の雫が玉座へ落ちた。


男はゆっくりと首を戻し、自らの頬へ触れた。


指先に付いた血を見て、初めて驚きの色を浮かべる。


その背後では、人形となった父が折れた剣を構えていた。


城の各所から、無数の魔力が集まり始めている。


母が。


騎士たちが。


家臣たちが。


城下町で生きた者たちが。


失われた王国そのものが、グレイの呼びかけへ応えようとしていた。


窓の外で雨が強くなる。


炎が少しずつ煙へ変わり、赤かった夜が暗く沈んでいく。


グレイは男を見据えたまま、ゆっくり笑った。


少女らしさの残る、歪な笑みだった。


「さあ、始めようか」


その声に応えるように、城の奥で無数の足音が鳴り始めた。

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