第2話 血に沈む王国
異変の始まりは、宴から三日後の朝だった。
いつもなら夜明けとともに開かれるはずの東門が、固く閉ざされたまま動かなかった。
城下町へ続く石畳には荷馬車が列を作り、商人たちが落ち着かない様子で門を見上げている。門兵は理由を説明せず、騎士たちは慌ただしく城と城壁の間を行き来していた。
高い窓からその様子を眺めていたグレイは、窓枠へ両手を置いた。
朝靄の向こうでは、市場の屋根が淡く霞んでいる。いつもなら鐘の音に混じって聞こえる客引きの声も、今日はどこか遠かった。
「何かあったのか?」
背後に立つ侍女へ尋ねても、すぐには返事がなかった。
銀色の髪を整えていた手が止まり、鏡越しに視線が揺れる。その僅かな間を見逃さず、グレイは椅子から立ち上がった。
「知らないなら、知らないと言えばいい。俺は子供だが、何も分からないと思われるのは好きではないぞ」
侍女は困ったように眉を下げた。
「……東の国境から、早馬が参りました。詳しいことは、陛下と騎士団の方々が確認なさっております」
「国境で戦いが起きたのか?」
「まだ、そうと決まったわけではございません。ただ、今はお部屋から離れぬようにと、王妃様から申しつけられております」
グレイはもう一度、窓の外へ目を向けた。
城壁の上には弓兵が並び始めていた。槍を抱えた兵士たちも、普段の訓練とは違う険しい顔で持ち場へ向かっている。
何も起きていない時、人はあんな歩き方をしない。
それでもグレイは、それ以上問い詰めなかった。
父が話してくれるまで待つ。
そう決めて、窓辺に置いていた人形へ手を伸ばす。最初に作った騎士人形は、主人の指先に触れるとゆっくり立ち上がり、窓の外を見つめた。
「お前も気になるか」
人形は小さくうなずいた。
グレイはその頭を指で撫でると、窓から離れた。
昼を過ぎても、城の空気は元に戻らなかった。
廊下を歩く者たちは皆、声を潜めていた。扉の向こうから聞こえてくる会話も、グレイが近づくと不自然に途切れる。
夕刻になり、ようやく父から呼び出しがあった。
執務室へ入ると、そこには母と騎士団長、宮廷魔導士長が揃っていた。机の上には王国全土を描いた地図が広げられ、東側の国境付近へ赤い石がいくつも置かれている。
父は普段と変わらぬ顔で、グレイを隣へ招いた。
「待たせたな。怖い思いはしなかったか?」
「怖くはない。ただ、皆が何かを隠している方が落ち着かない。国境で何があった?」
真っ直ぐに尋ねると、父は僅かに目を伏せた。
娘にどこまで伝えるべきか、迷っているのだろう。だが、やがて地図の東端へ指を置いた。
「国境近くにある砦から、連絡が途絶えた。昨夜、周辺を巡回していた部隊も戻っていない」
「敵国が攻めてきたのか?」
「それならば、まだ対処のしようがある。今のところ、軍勢が動いたという報告はない。生き残った兵の話では、襲撃者は一人だったそうだ」
一人。
その言葉が、部屋の中へ重く落ちた。
グレイは地図へ置かれた赤い石を見つめた。
国境の砦には数百人の兵がいる。強固な城壁もあり、魔法を防ぐ結界も張られていると聞いていた。
それを一人で落とす。
十歳の彼女にも、それが普通ではないことくらい分かった。
「そいつは、何者なんだ?」
父に代わり、宮廷魔導士長が答えた。
「生き残った者は、銀色の髪を持つ男だったと申しております。血のように赤い目をしており、剣も魔法も通じなかった、と」
「魔物なのか?」
「……吸血鬼である可能性が高いかと。それも、我々が知る個体とは比較にならぬほど強大な存在です」
吸血鬼。
夜の森や古い墓地に住み、人の血を啜る不死者。絵本や冒険譚で読んだことはあったが、グレイにとっては遠い世界の話だった。
それが今、王国へ向かっている。
母が椅子から立ち、グレイの肩へ手を置いた。
「念のため、城の外へ出ることは禁止します。人形たちと遊ぶのも、しばらくは中庭までにしてください」
「俺も何か手伝える。人形なら見張りにも使えるし、兵士へ物を運ぶこともできるぞ」
「分かっています。ですが、今はまだその時ではありません。あなたの力が必要なら、必ず私たちから頼みます」
母の手は、いつもと同じように温かかった。
けれど、指先に僅かな力が入っている。
グレイはそれに気付いても、口にはしなかった。
「分かった。勝手なことはしない」
「約束ですよ」
「ああ。王女の約束だ」
そう答えると、母はようやく少しだけ笑った。
その日の夜、東の空が赤く染まった。
城から見えるほど近くはない。だが、雲の低い場所に火の色が映り、夜空の一部だけが薄く明るんでいた。
グレイは寝台から抜け出し、窓辺へ立った。
どこかの村が燃えている。
そう理解するまでに、時間はかからなかった。
翌朝、騎士たちが城を出た。
数百人の騎兵と、倍近い歩兵。宮廷魔導士の一部も同行し、城門の前には見送りの民が集まっていた。
グレイは母と並んで、城壁の上から軍列を見つめていた。
先頭を進むのは、幼い頃から何度も剣を教えてくれた騎士団長だった。白髪の混じった髪を兜へ収め、陽光を反射する鎧を纏っている。
彼は馬上から城壁を見上げると、グレイへ向かって拳を胸へ当てた。
王国騎士の敬礼だった。
グレイも覚えたばかりの仕草を返す。
「勝てると思うか?」
母はすぐには答えなかった。
「皆、この国を守るために出来ることをします」
「それは答えになっていないぞ」
「……そうですね」
母は風に乱れたグレイの髪を耳へ掛けた。
「勝つと信じています。ただ、信じることと、備えを怠ることは違います。だから私たちは、ここで出来ることをしなければなりません」
城門を出た軍勢は、長い列となって東へ進んでいった。
その姿が見えなくなっても、グレイはしばらく城壁から動かなかった。
最初の知らせが届いたのは、それから二日後だった。
東へ向かった軍勢は、途中の街で住民の避難を始めた。襲撃者は急いでいる様子もなく、村や砦を一つずつ潰しながら、真っ直ぐ王都へ近づいているという。
人間の軍を恐れていないのだ。
翌日、二つ目の報告が来た。
先行していた偵察隊が全滅した。
さらにその翌日、侯爵領の城塞が落ちた。
城内には三千人を超える兵士がいた。魔導砲と呼ばれる大型魔導具も備え、王国屈指の防衛力を誇っていた場所だった。
戦闘は、半刻も続かなかった。
生存者は一人だけ。
その兵士は城へ運び込まれてからも、同じ言葉を繰り返した。
剣が届かない。
魔法が消える。
死なない。
人の姿をしているのに、人ではない。
グレイはその兵士を直接見ることは許されなかったが、夜になると治療室の方角から叫び声が聞こえた。
何度も。
何度も。
やがて、その声も聞こえなくなった。
城下町では避難が始まった。
まず子供と老人が西門から送り出され、続いて戦えない者たちが近隣の領地へ向かった。しかし、王都には数万人が暮らしている。全員を逃がすには、時間が足りなかった。
道には荷物を抱えた人々が溢れ、泣く子供の声と馬の嘶きが絶えず響いていた。
城の食料庫は開放され、グレイの人形たちも運搬を手伝うことになった。
小さな身体で袋を抱え、荷車へ積み込んでいく。大人ほどの力はないが、疲れず、文句も言わない。避難する子供たちは動く人形を見ると、僅かな間だけ泣き止んだ。
「姫様の人形だ」
「本当に動いてる……」
「この子も一緒に逃げるの?」
幼い少女に尋ねられ、グレイは騎士人形を見下ろした。
最初に作ったその人形は、小さな剣を腰へ差し、避難の列を見守っている。
「こいつは俺と残る。この国を守る騎士だからな」
「姫様も逃げないの?」
その問いに、近くにいた侍女が息を呑んだ。
グレイは少し考えたあと、少女の目線へ合わせるように屈んだ。
「俺は王女だ。皆を見送る役目がある。それに父上と母上も城にいる。心配しなくても、あとでちゃんと追いつくぞ」
「本当?」
「ああ。だから先に行って、俺たちの分まで安全な場所を取っておいてくれ」
少女はまだ不安そうだったが、最後には小さくうなずいた。
別れ際、手にしていた白い花をグレイへ差し出す。
「これ、姫様にあげる」
道端に咲いていたものだろう。短い茎の先で、花弁が少し潰れている。
グレイは両手で受け取った。
「ありがとう。大切にする」
少女は母親に手を引かれ、何度も振り返りながら西門へ向かっていった。
人波の中へ小さな背中が消えてからも、グレイはしばらく花を見つめていた。
「姫様、お部屋へお戻りください。そろそろ日が暮れます」
侍女に促され、グレイは花を胸元へ抱いた。
「この花を水に挿してくれ。あの子が戻ってきた時、まだ咲いているようにしたい」
「……かしこまりました」
侍女は笑おうとした。
けれど、その表情は最後まで形にならなかった。
夜になり、城門は閉ざされた。
避難しきれなかった民は城下町の地下倉庫や神殿へ集められ、戦える者は武器を取った。鍛冶屋も商人も、普段なら剣を握らない者たちまで城壁へ向かっていく。
父は広間に諸侯と将軍たちを集め、最後の軍議を開いていた。
グレイは母とともに、城の奥にある部屋へ移された。
窓のない石造りの一室。王族が襲撃を受けた時に使う避難場所だという。分厚い扉には幾重もの結界が施され、外の音はほとんど届かない。
それでも、地面を伝う微かな振動までは消せなかった。
遠くで魔法が放たれるたび、天井から細かな埃が落ちる。
戦いが始まったのだ。
「母上。俺をここから出してくれ」
「いけません」
「人形たちは外にいる。あいつらを通して、城壁の様子も分かる。俺なら負傷者を運べるし、矢や薬も届けられる」
「あなたはこの国の王女です。王女だからこそ、今は生きることを優先しなければなりません」
母の声は穏やかだったが、拒絶の意思は揺らがなかった。
グレイは唇を噛んだ。
王女だから守られる。
父も母も、いつもそう言う。
けれど、外では皆が王女を守るために戦っている。自分だけが安全な場所に座り、震動が止まるのを待つことが正しいとは思えなかった。
「俺は、守られるだけの王女にはなりたくない。父上は、俺の力がいつか国を支えると言った。なら、その時は今だろう?」
母の目が揺れた。
答えを探すように、グレイの顔を見つめる。
その時、扉の向こうから激しい衝撃音が響いた。
結界が青白く明滅し、部屋全体が大きく揺れる。棚から燭台が落ち、床の上を転がった。
母は咄嗟にグレイを抱き寄せた。
「何が……」
言葉が終わる前に、扉が開いた。
入ってきたのは血に濡れた騎士だった。片腕を押さえ、息を切らしながら母の前へ膝をつく。
「王妃様、姫様……すぐに地下通路へ。東壁が突破されました」
「騎士団は?」
「団長が城門前で迎撃しております。ですが、敵は……我々の攻撃を受けても、歩みを止めません」
グレイの喉が、僅かに鳴った。
「父上はどこだ?」
「陛下は玉座の間にて、残存兵力をまとめておられます。ここへ戻るよう申し上げましたが、民を残して逃げることは出来ぬ、と……」
母の腕に力が入る。
その一瞬だけ、王妃ではなく、一人の妻の顔が見えた。
だが、すぐに表情を整えると、騎士へ静かに命じた。
「地下通路へ向かいます。案内してください」
「母上」
「行きますよ、グレイ」
「父上を置いていくのか?」
「あなたを生かすことが、あの方の望みです」
「俺の望みは聞かないのか!」
声が石壁へ反響した。
母は足を止めた。
グレイは初めて、母へ逆らうような目を向けていた。胸の奥で、恐怖と怒りが混ざっている。外に出れば死ぬかもしれない。それでも、ここから逃げれば二度と父に会えないような気がした。
「父上も一緒でなければ行かない。俺は父上と母上と、この国の皆と生きるんだ。誰か一人を置いていくのは嫌だ」
「グレイ……」
母が何かを言いかけた、その時だった。
扉の外から、悲鳴が聞こえた。
続いて金属の砕ける音。
石の廊下を、何かがゆっくり歩いてくる。
一歩。
また一歩。
急いでいる様子はない。
その足音が近づくたび、騎士の顔から血の気が引いていった。
「まさか……もう、ここまで……」
騎士は剣を抜き、二人を庇うように扉の前へ立った。
「地下通路へ! この先を右へ曲がれば入口があります。絶対に振り返らず、お逃げください!」
母はグレイの手を掴み、部屋の奥にある別の扉へ向かった。
しかし、二人が数歩進んだところで、背後から鈍い音がした。
振り返るなと言われた。
それでもグレイは、振り返ってしまった。
騎士の身体が壁へ叩きつけられていた。
剣は半ばから折れ、鎧の胸元が大きく陥没している。床へ崩れ落ちても、もう動かなかった。
開かれた扉の向こうに、一人の男が立っていた。
月光を溶かしたような長い銀髪。
白い肌。
整いすぎた顔には、感情らしいものがほとんど浮かんでいない。
何よりも目を引いたのは、その瞳だった。
暗い廊下の中で、深紅の眼だけが濡れたように光っている。
男は倒れた騎士を一瞥すると、ゆっくりグレイへ視線を移した。
その瞬間、身体が動かなくなった。
魔法を使われたわけではない。
ただ見られただけで、心臓を直接掴まれたような圧力が全身を縛った。
母がグレイを背後へ隠し、男を睨みつける。
「この国に、何の恨みがあるのです」
「恨み?」
男は初めて、僅かに首を傾けた。
その声は驚くほど穏やかだった。
「そのようなものはない。ただ、近くを通った。それだけだ」
城の外では、今も人が死んでいる。
家が燃え、兵士たちが命を懸けている。
それが、この男にとっては、道端の草を踏んだ程度の出来事なのだ。
グレイの指先が震えた。
恐怖ではない。
怒りだった。
「ふざけるな」
母の背中越しに、男を睨みつける。
「皆が暮らしていた。昨日まで笑っていた者がいた。それを、近くを通っただけで奪ったというのか」
男はグレイを見つめた。
深紅の瞳が、初めて僅かな興味を示す。
「その目。私を前にしても、まだ怒りを抱けるか」
「当たり前だ。俺はこの国の王女だ。お前が何者でも、俺の国を好き勝手にしていい理由にはならない!」
グレイが腕を振ると、廊下の陰から人形たちが飛び出した。
城内に残していた十数体。
騎士人形が剣を抜き、魔導士人形が小さな杖を掲げる。兵士人形たちは隊列を組み、母とグレイを守るように男の前へ並んだ。
男は足を止めた。
「人形か」
「ただの人形ではない。俺の騎士たちだ」
「面白い」
男が指を僅かに動かした。
それだけだった。
目に見えない何かが廊下を走り、人形たちの身体がまとめて吹き飛ぶ。壁へ激突し、布が裂け、木製の腕や足が床へ散らばった。
最初の騎士人形も、グレイの足元まで転がってきた。
胸の部分が裂け、片腕がなくなっている。
「……おい」
グレイは膝をつき、人形を抱き上げた。
魔力の反応はまだ残っている。動こうとして、小さな身体が僅かに震えていた。
「もういい。動くな」
人形は主人の声を聞かず、残された腕で剣を拾おうとした。
その姿を見て、胸の奥が焼けるように熱くなる。
「この力……」
男の声が近づく。
「未熟だが、興味深い。人形へ擬似的な意思を宿しているのか。成長すれば、良い余興になりそうだ」
「余興ではない」
グレイは人形を胸へ抱き、立ち上がった。
「こいつらは、俺の家族だ」
男の唇が、僅かに歪んだ。
笑ったのだと気付くまで、少し時間がかかった。
「ならば、なおさら良い。奪えば、どのような顔をするのか見てみたい」
母が魔法を放った。
眩い光が廊下を満たし、男の身体を包み込む。直後、グレイの手を掴み、地下通路へ向かって走り出した。
「今です!」
二人は廊下を駆けた。
背後で光が弾け、石壁が崩れる音がする。グレイは人形を片腕に抱えたまま、必死に母の背中を追った。
曲がり角を抜け、階段を駆け下りる。
しかし、地下通路の入口へ辿り着く直前、目の前の空間が赤く染まった。
男が立っていた。
先ほどの光魔法を受けたはずなのに、衣服にすら傷がない。
母が足を止め、グレイを背後へ押しやる。
「逃げなさい」
「母上」
「ここから先は、振り返ってはいけません。あなたは生きて、この国のことを覚えていてください」
「嫌だ」
「グレイ」
母の声が、僅かに震えた。
「あなたを愛しています。だから、どうか生きて」
その言葉を最後に、母は男へ向かって駆けた。
白い光が全身を包み、両手の間に巨大な魔法陣が展開される。廊下を覆うほどの光が放たれ、床も壁も震えた。
グレイは目を閉じることすら出来なかった。
光の中から男の腕が伸びる。
母の身体を、まるで邪魔なものを払うように薙いだ。
白いドレスが宙を舞った。
壁へぶつかり、床へ崩れる。
「母上!」
グレイは駆け寄った。
母の身体を抱き起こす。胸元から溢れた血が、白い布を瞬く間に赤く染めていく。
「母上、起きろ。俺を置いていくな。約束しただろう、父上も一緒に逃げるんだ」
母の瞼が、僅かに開いた。
震える指が、グレイの頬へ触れる。
何かを言おうと唇が動いた。
けれど、声にはならなかった。
指先から力が抜け、床へ落ちる。
「……母上?」
返事はなかった。
グレイは何度も呼んだ。
肩を揺らした。
頬へ触れた。
それでも、母はもう目を開かなかった。
背後から、男の足音が近づいてくる。
グレイは母の身体を抱いたまま、動かなかった。
泣き声も出ない。
胸の中にあるものが大きすぎて、どうすれば外へ出せるのか分からなかった。
男がすぐ傍で立ち止まる。
「良い目になった」
グレイはゆっくり顔を上げた。
深紅の瞳を睨みつける。
「殺す」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「お前だけは、必ず俺が殺す」
男は愉快そうに笑った。
「その憎しみが、どこまで育つか見てみたくなった。お前は殺さない」
男の手が、グレイの首を掴んだ。
抵抗する間もなく、身体が持ち上がる。足が床を離れ、息が詰まった。
グレイは男の腕を掴み、爪を立てた。蹴りつけても、噛みついても、僅かにも揺らがない。
「離せ……!」
「お前には才能がある。人間として終わらせるには惜しい」
男の口元から、鋭い牙が覗いた。
何をされるのか理解した瞬間、初めて恐怖が怒りを上回った。
「やめろ」
身体を捩る。
逃げようとする。
だが、首を掴む手は鉄よりも固かった。
「俺は、お前のものにはならない……! 殺すなら殺せ!」
「心配するな。今のお前には選ぶ権利などない」
牙が、首筋へ触れた。
冷たい。
そう感じた直後、皮膚を突き破る痛みが走った。
「あああああああっ!」
熱いものが身体から吸い出される。
血と一緒に、力も意識も奪われていく。手足が冷たくなり、視界が暗く滲んだ。
それでも、意識を失う直前まで、グレイは男を睨み続けた。
遠くから、鐘の音が聞こえた。
王都に危険を知らせる鐘。
窓のない地下であるはずなのに、燃える木の匂いが鼻を刺した。
城下町が燃えている。
市場も、庭も、少女からもらった白い花も。
皆がいた場所が、炎の中へ消えていく。
最後に見えたのは、血に濡れた母の白いドレスだった。
そして世界は、赤黒い闇の中へ沈んだ。




