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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
間章 白銀の追憶

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第1話 人形姫の幸福な庭


グレイがこの世界で最初に覚えたものは、母の指の温かさだった。


柔らかな布に包まれた身体を抱き上げられ、窓から差し込む朝の光に目を細める。知らない天井、知らない言葉、見覚えのない美しい女性。それでも、自分へ向けられた微笑みが優しいものだということだけは分かった。


前の世界の記憶は、遠い夢のように残っていた。


けれど、新しく与えられた命に戸惑っている暇はなかった。泣けば誰かが駆けつけ、笑えば皆が喜んだ。幼い自分を覗き込む人々の顔を見ているうちに、ここが自分の生きる場所なのだと、グレイは少しずつ受け入れていった。


彼女は王国に生まれた、一人娘だった。


父は国王であり、母は王妃。城で働く者たちは皆、グレイを姫と呼んだ。


幼い頃の彼女にとって、城は世界そのものだった。


長い廊下には朝になると磨かれた石床へ光が伸び、厨房の近くを通れば、焼きたてのパンと溶かしたバターの匂いが漂ってくる。中庭では庭師が季節の花を育て、訓練場からは騎士たちの掛け声が聞こえた。


グレイは、そのどれもが好きだった。


「姫様、廊下を走ってはなりません。王妃様に知られたら、またお叱りを受けますよ」


後ろから追いかけてくる侍女の声に、七歳になったグレイは振り返った。銀色の髪が肩の上でふわりと跳ね、腕に抱えていた布人形も一緒に揺れる。


「走ってなどいないぞ。王女らしく、少し速く歩いていただけだ」


「そのような言い訳を、いったいどなたから覚えられたのですか?」


「父上だ。母上に叱られるたび、似たようなことを言っている」


侍女は足を止め、返す言葉を探すように口元を引き結んだ。だが、耐えきれなかったのか、やがて小さく息を漏らして笑った。


グレイも笑いながら、再び廊下を進んだ。


父の執務室へ向かっているところだった。


大きな扉の前で立ち止まり、侍女に教えられたとおり二度ノックする。中から入室を許す声が聞こえると、グレイは胸を張って扉を開いた。


執務机には書類が積まれていた。


その向こうで、父が重そうに肩を回している。国王として人前に立つ時には厳格な顔をしているが、娘の前では少しだけ眉尻が下がることを、グレイは知っていた。


「父上。忙しいか?」


「世界で一番大切な娘が来たのなら、今から暇になったところだ」


「またそのようなことを。宰相に怒られても知らないぞ」


「その時はグレイが守ってくれ。お前は強い王女になるのだろう?」


グレイはうなずき、抱えていた人形を机の上へ置いた。


片手ほどの大きさをした、騎士姿の布人形だった。母に選んでもらった青い布で胴を作り、侍女から譲ってもらった銀糸を髪にしている。木で削った剣まで腰に差していた。


「今日は、これを見せに来た」


グレイが人形の前へ指を差し出す。


意識を集中すると、指先から細い魔力の糸が伸びた。それは人形の手足へ静かに絡みつき、次の瞬間、小さな騎士は自ら立ち上がった。


人形は机の上を歩き、父の前まで進む。そして片膝をつくと、胸に手を当てるような仕草を見せた。


父の目が、わずかに見開かれる。


「おお……以前よりずっと滑らかになったな。指を動かしている様子もないが、どのように操っている?」


「動かしてはいないぞ。この者が自分で考え、父上へ礼をしたのだ」


「自分で、か?」


「まだ難しい命令は分からない。だが、挨拶や歩き方くらいなら覚えている。昨日は侍女の真似をして、俺の髪をとかそうとしていた」


父は人形を覗き込み、しばらく黙っていた。


グレイは褒めてもらえると思っていたものの、あまりに真剣な表情を向けられると、少しだけ不安になった。何か間違ったことをしてしまったのだろうかと、ドレスの裾を指先でつまむ。


やがて父は椅子から立ち、グレイの前へ回り込んだ。


大きな手が、銀色の髪をゆっくりと撫でる。


「グレイ。これは、とても素晴らしい力だ」


「……本当か?」


「ああ。だが、優れた力であるからこそ、扱い方を間違えてはならない。お前がこの人形を大切にしていることは、見れば分かる。これからも、その気持ちを忘れないでいてくれ」


グレイは机の上の小さな騎士を見つめた。


人形は主人の視線に気付いたように立ち上がり、両手を広げて見せる。その姿が抱きついてほしいと言っているように見えて、グレイはそっと持ち上げた。


「当然だ。こいつは俺の最初の騎士だからな」


「そうか。では、私からも礼を言わねばならないな。これからも娘をよろしく頼む」


父が人形へ頭を下げると、小さな騎士も慌てたように何度も頭を下げた。


その日から、グレイはさらに多くの人形を作るようになった。


最初の騎士に続き、ドレスを着た侍女、長い杖を持つ魔導士、丸い盾を背負った兵士。材料は布や木、使われなくなった食器の欠片など、城の者たちから譲り受けたものばかりだった。


庭師にもらった枝から作った人形は、土を耕す真似をした。料理長から譲られた木べらで作った人形は、厨房へ入りたがった。


それぞれが少しずつ違う動きをする。


グレイは彼らへ話しかけ、名前を与え、出来ることが増えるたびに喜んだ。


十歳を迎える頃には、彼女の後ろを十数体の人形が歩くようになっていた。


ある日の午後、宮廷魔導士たちが中庭へ集められた。


国王から、姫のユニークスキルを正式に確認するよう命じられたためだ。


グレイは芝生の中央に立ち、その周囲へ人形たちを並べた。騎士、魔導士、侍女、兵士。大きさも素材もばらばらだったが、皆が主人の合図を静かに待っている。


老齢の宮廷魔導士が、長い白髭を撫でた。


「姫様。まずは、この者たちを一斉に動かしていただけますかな?」


「それだけでよいのか? なら、昼食の準備をさせよう」


グレイが軽く手を叩く。


人形たちは一斉に動き出した。


二体が小さな敷物を広げ、別の人形が木製の皿を並べる。侍女姿の人形は小さな水差しを運び、騎士は周囲を警戒するように芝生の端を歩いた。


それぞれへ細かく命令しているわけではない。


グレイが思い描いた光景を理解し、自分の役目を選び、互いにぶつからないよう動いている。


見守っていた魔導士たちの間から、驚きの声が上がった。


「これほどの数を同時に操りながら、魔力の乱れがほとんどないとは……」


「操っているのではない。魔力を与えただけで、個々が判断して動いているように見える」


「十歳でこの完成度……。成長すれば、一人で騎士団にも匹敵する力となりましょう」


言葉を交わす大人たちの様子を、グレイは少し離れた場所から眺めていた。


褒められていることは分かった。


だが、一人で騎士団になりたいわけではない。


人形たちが増えるのが嬉しかった。自分が眠っている間も、彼らが同じ部屋にいてくれることが楽しかった。ただ、それだけだった。


老魔導士がグレイの前へ歩み寄り、深く頭を下げる。


「姫様。この老骨、長く魔術を研究してまいりましたが、これほど稀有な才能を目にしたのは初めてでございます。いずれ姫様の御力は、この国を支える大きな柱となりましょう」


グレイはすぐには答えず、敷物の端を直している小さな侍女人形へ目を向けた。


風に煽られて何度も布がめくれ、そのたびに懸命に押さえている。


グレイが近づいて手を貸すと、人形は礼をするように小さく頭を下げた。


「俺は、この者たちを戦わせるためだけに作ったわけではないぞ」


「もちろん承知しております。しかし、力は使い方によって多くの民を救えます。姫様がお優しい方であるからこそ、我々も安心して未来を託せるのです」


その言葉を聞いて、グレイは城の向こうへ目を向けた。


高い城壁の先には、赤や茶色の屋根が並んでいる。市場の鐘が鳴り、遠くから人々の声が風に乗って届いていた。


父が守っている国。


母が愛している民。


そして自分を見かけるたび、笑顔で手を振ってくれる城下町の人々。


いつか自分も、その景色を守るのだろう。


そう思うと、不思議と胸が温かくなった。


「なら、もっと増やさないとな。一人では出来ないことも、皆でなら出来る。こいつらは小さいが、なかなか頼りになるんだ」


グレイが笑うと、人形たちは誇らしげに胸を張った。


その夜、城ではグレイの十歳の誕生日を祝う宴が開かれた。


広間には多くの灯りがともされ、楽団の穏やかな演奏に合わせて、色鮮やかな衣装を着た人々が行き交う。長い食卓には焼いた肉や果物、香草の匂いが立ちのぼる温かなスープが並んでいた。


グレイの席の隣では、父が臣下たちと話し、母は時折こちらを見て微笑んでいる。


足元には、最初に作った騎士人形が座っていた。


宴が終わる頃、グレイは眠気に負け、母の肩へ寄りかかっていた。


「今日は楽しかったですか?」


母の静かな問いかけに、グレイは目を閉じたままうなずく。


「楽しかった。皆がいて、父上と母上もいて……明日も人形を作る。次は、もっと大きなものにするぞ」


「それは楽しみですね。ですが今夜は、もうお休みなさい。続きは明日でも逃げませんよ」


「分かっている……明日だな」


母の指が髪を撫でる。


暖炉の薪が小さく爆ぜ、遠くで誰かの笑い声が聞こえた。最初の騎士人形は、グレイの膝へ寄りかかるように座っている。


明日になれば、また同じ朝が来る。


父と母に挨拶をして、城の皆と笑い、人形たちと遊ぶ。


グレイは何の疑いもなく、そう信じて眠りについた。


窓の外では、雲一つない夜空に月が浮かんでいた。


その光は城を、街を、穏やかな王国のすべてを静かに照らしている。


まだ誰も、その平穏に終わりが近づいていることを知らなかった。

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