第13話 名前を呼ぶ声 前半
夕焼けは、街の傷跡をやわらかく染めていた。
崩れた城壁の一部には木の足場が組まれ、職人たちが石を積み直している。広場では子どもたちが走り回り、噴水のそばでは老人がゆっくりとパンをちぎって鳩に分けていた。
スタンピードがあったことを、街は忘れていない。
けれど、そこに沈み込んでもいない。
誰かが壊れた屋台を直し、誰かが焦げた看板を磨き、誰かが昨日より少し大きな声で笑う。
そうやって日常は、少しずつ元の形を取り戻していく。
その景色を、静かに眺めていた。
「なんか、すごいな。」
隣を歩いていたアムネジアが、少しだけ首を傾げる。
「何が?」
「この街の人たち。怖い思いをしたはずなのに、ちゃんと前を向いてる。強いんだなって思って。」
アムネジアはしばらく街を見つめたあと、小さく笑った。
「強いっていうより、たぶん慣れてるんだと思う。泣いても、怖がっても、明日は来るから。だったら明日のパンを焼かなきゃって、そう思える人たちなんだよ。」
その言葉は穏やかだった。
けれど、少しだけ重く聞こえた。
長く生きてきた人の言葉。
たくさんの街を見て、たくさんの別れを知って、それでも守ることをやめなかった人の言葉。
「アムネジアは、そういう人たちが好きなんだな。」
「うん。強くなくても、特別じゃなくても、誰かのために明かりを灯せる人は綺麗だと思う。うちは、そういうものを守れたらいいなって思ってる。」
まっすぐな声だった。
そこに誇りはあっても、驕りはない。
堪らず、少しだけ息を吐いた。
「だから、あの日も街全体を見てたんだな。オーガキングだけじゃなくて、怪我人も、崩れそうな場所も、怯えてる人も。」
アムネジアは目を丸くしたあと、照れたように視線を逸らした。
「……見てたんだ。」
「見てたっていうか、後から気付いた。俺は目の前で必死だったけど、アムネジアはずっと街を守ってたんだって。」
褒めたつもりだった。
けれどアムネジアは、少しだけ困った顔をした。
「うちはそんな立派じゃないよ。ただ、失うのが嫌なだけ。誰かが帰る場所をなくすのも、誰かが待ってる人に会えなくなるのも、もう見たくないだけ。」
最後の言葉だけが、夕暮れの中に静かに溶けた。
ゆうきは、それ以上聞けなかった。
聞けば答えてくれるかもしれない。
でも、今はまだその時じゃない気がした。
沈黙は気まずくなかった。
二人で並んで歩く時間は、言葉がなくても不思議と落ち着く。
道端の花屋では、スタンピードの日に折れた看板が新しく塗り直されていた。店先に並ぶ花は派手ではないが、夕陽を受けて柔らかく色づいている。
アムネジアが足を止めた。
「この花、好き。」
小さな青い花だった。
派手さはない。
けれど、よく見ると花びらの先が星のように尖っている。
「綺麗だな。」
「うん。昔から、こういう小さい花が好きだった気がする。目立たないのに、ちゃんと咲いてるところがいい。」
昔から。
その言葉に、ゆうきの胸がわずかに揺れた。
最近、そういうことが増えている。
アムネジアの何気ない言葉。
笑い方。
食事の時の仕草。
隣を歩く距離。
どれも初めてのはずなのに、どこかで知っている気がする。
思い出そうとすると、霧のように遠ざかる。
けれど、完全には消えない。
「ゆうき?」
呼ばれて、ゆうきははっとした。
「ごめん、少しぼーっとしてた。」
「疲れてるなら戻る? スタンピードの後だし、無理すると後からくるよ。」
「大丈夫。むしろ、こうやって歩いてる方が落ち着く。アムネジアといると、変に気を張らなくていいから。」
口にしてから、ゆうきは少し驚いた。
あまりにも自然に出た本音だった。
アムネジアも同じように驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「……ハハ。うちも同じかも。ゆうきといると、なんか楽なんだよね。初めて会ったばかりなのに、ずっと前から知ってるみたいで。」
その一言に、足が止まりかけた。
ずっと前から知ってるみたい。
それは、自分だけが感じていたことではなかった。
「俺も、たまにそう思う。」
「……そっか。」
二人はそれ以上、何も言わなかった。
言葉にしてしまえば、何かが壊れそうだった。
まだ形になっていない感情を、無理に掘り起こすことが怖かった。
だから、ただ歩いた。
夕陽が二人の影を長く伸ばす。
その少し後ろ。
人混みの向こう側で、ぽぽが静かに二人を見守っていた。
手にはギター型の魔導具。
弦に触れることはなく、ただ肩から下げているだけだった。
「……少しずつ、ほんとに少しずつだね。」
ぽぽは誰にも聞こえない声で呟いた。
嬉しそうで、少しだけ寂しそうな声だった。
急がせるつもりはない。
答えを教えるつもりもない。
あの二人は、きっと自分たちで辿り着かなければならない。
誰かに教えられた名前ではなく、自分の心で見つけた名前で呼ばなければ意味がない。
そう思っていた。
その時だった。
広場の端で、小さな悲鳴が上がった。
「魔物だ!」
誰かの声に、空気が一瞬で変わる。
ゆうきは反射的に振り返った。
広場の奥、修復途中の倉庫の影から、小型の魔物が二体飛び出していた。大きさは狼ほど。スタンピードの残党か、森から迷い込んだ個体かもしれない。
牙を剥き、怯えて動けなくなった子どもへ一直線に走っていく。
アムネジアの表情が変わった。
さっきまでの穏やかな少女の顔ではない。
街を守るSランク冒険者の顔だった。
「ゆうき、左の子をお願い。うちは前に出る。人を巻き込まないように、できるだけ音を立てずに終わらせるよ。」
「分かった。無理はするなよ。俺もすぐ動く。」
二人は同時に駆け出した。
言葉は少ない。
けれど、それだけで十分だった。
ゆうきは腰の剣へ手を伸ばしながら、子どもの前へ滑り込む。無属性の魔力を足裏へ流し、石畳を蹴る力を強めた。
一体目の魔物が跳びかかる。
ゆうきは剣を抜き、刃ではなく腹で軌道を逸らした。
魔物の体が横へ流れ、石畳を転がる。
「こっちだ。大丈夫、下がってて。絶対に前には出ないで。」
怯えた子どもに声をかけながら、ゆうきは次の動きを読む。
その横を、水色の光が駆け抜けた。
アムネジアの魔力が空気を冷やす。
氷の薄い膜が石畳に広がり、二体目の魔物の足を絡め取った。
転びかけた魔物へ、アムネジアは指先を向ける。
「ごめんね。ここは、君たちが暴れていい場所じゃないんだ。」
氷の槍が音もなく生まれ、魔物の動きを封じる。
殺しきらず、けれど逃がしもしない。
その制御の精密さに、周囲の人々が息を呑んだ。
ゆうきも一瞬だけ見惚れそうになる。
だが、足元で転がっていた一体目が不自然に身を捩った。
ただの小型魔物ではない。
背中の毛が逆立ち、口元から黒い魔力が漏れる。
スタンピードの残留魔力に侵されている。
「アムネジア!」
思わず叫ぶ。
魔物は子どもではなく、アムネジアへ向かって跳んだ。
狙いを変えた。
彼女が一番危険だと、本能で判断したのだ。
アムネジアは気付いている。
けれど、背後には逃げ遅れた老人がいた。
避ければ巻き込む。
受ければ間に合う。
その判断を、彼女は迷わなかった。
ゆうきの胸が嫌な音を立てた。
アムネジアが自分を後回しにすることは知っている。
知っているからこそ、身体が先に動いた。
無属性の魔力を脚へ流し込む。
視界が狭まる。
音が遠くなる。
届かない。
そう思った瞬間、喉の奥から声が飛び出していた。
「――アム!」
広場の時間が、止まったように感じた。
魔物の爪が空を裂く。
アムネジアの水色の髪が夕陽に揺れる。
ぽぽの指が、弦に触れないまま止まる。
そして。
アムネジアが、振り向いた。
呼ばれ慣れた名前に反応するように。
けれど、その声が誰のものだったのかを理解した瞬間、青い瞳が大きく揺れた。
ゆうきもまた、剣を握ったまま息を止めていた。
自分が今、何と叫んだのか。
なぜその名が、こんなにも自然に出てきたのか。
分からない。
分からないはずなのに。
胸の奥で、何かが確かに震えていた。
アムネジアの唇が、小さく動く。
「……今、うちのこと……。」
その声は、戦場の中とは思えないほど静かだった。
ゆうきは答えられない。
答えを持っていなかった。
ただ、夕焼けの中で彼女を見つめる。
水色の髪。
少し困ったような笑い方。
近すぎる距離。
半分こにしたパン。
熱いから気を付けて、と自然に口にした言葉。
全部が、ばらばらだった欠片が、ゆっくりと一つの形へ近付いていく。
ぽぽは広場の端で、静かに目を伏せた。
「……やっと、声が届いたんだね。」
その呟きは、誰にも届かない。
けれど、ぽぽだけは分かっていた。
今この瞬間、二人は同じ場所に立ち始めたのだと。
まだ真実には届かない。
まだ確信にはならない。
それでも。
ゆうきとアムネジアの間にあった見えない霧が、ほんの少しだけ薄くなった。
魔物の爪が迫る。
次の瞬間、アムネジアの瞳が鋭く細められた。
揺れていた表情が消え、彼女は片手を前へ出す。
「……あとで、ちゃんと聞かせて。」
氷の魔力が弾けた。
白銀の光が夕暮れを切り裂き、魔物の動きが完全に止まる。
ゆうきは息を呑みながら、それでも前へ踏み込んだ。
「ああ。俺も、ちゃんと知りたい。」
二人の声は、同じ震えを含んでいた。
戦いはまだ終わっていない。
けれど、何かが始まっていた。
名前を呼ぶ声。
それはきっと、忘れていた時間の扉を叩く音だった。




