第12話 懐かしい距離
スタンピードが終わってから数日。
街には、少しずつ日常が戻り始めていた。
壊れた石畳は職人たちが丁寧に積み直し、崩れた屋台は新しい木材で組み上げられている。
子どもたちの笑い声も、以前より少しだけ大きく聞こえるようになった。
広場の噴水では、小さな虹が朝日に照らされて揺れていた。
そんな景色を眺めながら、ギルドからの帰り道を歩いていた。
「ゆうき。」
後ろから聞こえた声に振り返る。
水色の髪を揺らしながら、小走りで近付いてくる少女。
アムネジアだった。
「おはよう、アムネジア。」
「うん、おはよ。今日は依頼もないし、街を案内しようかなって思って。ゆうき、まだちゃんと見て回れてないでしょ?」
自然な誘いだった。
まるで以前から何度も一緒に歩いてきた友人を誘うような、肩の力の抜けた笑顔。
少し笑って頷く。
「そういえば、ほとんどギルドと宿と森しか知らないかも。」
「でしょ? せっかく住む街なんだから、好きになってほしいし。」
その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。
“好きになってほしい。”
街のことを、こんなふうに言える人なんだ。
だからみんな、彼女を慕うのだろう。
二人は並んで歩き始めた。
朝の市場は活気に満ちている。
焼きたてのパンの香り。
採れたての野菜。
果物を並べる店主。
魚を豪快に並べる漁師。
どこからともなく香草の匂いが風に乗って流れてくる。
「この時間の市場、好きなんだ。」
アムネジアは嬉しそうに周囲を見回した。
「みんな今日も頑張ろうって顔してるから。見てるだけで元気になる。」
「確かに。」
「ほら、あのおじさんなんて昨日まで腰痛いって言ってたのに、今日はもう大声出してる。」
野菜屋の主人が、
「今日は安いよー!」
と元気いっぱい叫んでいる。
ゆうきは思わず吹き出した。
「元気だな。」
「人って不思議だよね。昨日泣いてても、今日は笑えることもある。」
アムネジアは静かに呟く。
「だから、うちは今日笑える人が一人でも増えたら、それだけで嬉しいかな。」
その言葉に、少しだけ足を止めた。
スタンピードの日。
彼女はオーガキングと戦いながら、街中へ回復魔法を飛ばし続けていた。
あれもきっと、同じ理由だったのだろう。
目の前の勝利ではなく。
誰かが今日を笑って終われるように。
そんな願いが、彼女の戦い方そのものだった。
歩いていると、パンの袋を抱えた小さな女の子が転びそうになる。
アムネジアはすぐに支えた。
「大丈夫?」
「う、うん!」
「慌てなくてもパンは逃げないよ。」
少女は照れくさそうに笑う。
「ありがとう!」
元気よく走っていく後ろ姿を見送りながら、アムネジアも笑った。
「……ハハ。元気だね。」
その笑顔を見て、また胸がざわついた。
(……なんだろう。)
(この笑い方。)
(初めて見るはずなのに。)
(ずっと知ってる気がする。)
けれど思い出せない。
霧の向こうに何かある。
そんな感覚だけが残っていた。
市場を抜けると、小さな雑貨屋が見えてきた。
木でできた店先には、手作りのアクセサリーや食器、小さなぬいぐるみが並んでいる。
「ここ、好きなんだ。」
「へぇ。」
「全部手作りなの。見てるだけでも楽しいよ。」
二人は店へ入る。
木の香りが優しく鼻をくすぐった。 店内には静かな音楽が流れている。
棚に並ぶ品々を眺めながら歩いていると、不意にアムネジアが小さな狐の木彫りを手に取った。
「かわいい。」
その声があまりにも嬉しそうで、思わず笑う。
「そういうの好きなんだ。」
「うん。なんか見てるだけで落ち着く。」
木彫りを優しく撫でる仕草まで、どこか愛おしかった。
店を出る頃には、太陽は少し高く昇っていた。
「そろそろお昼にしよっか。」
アムネジアが指差した先には、小さな食堂。
石造りの建物から、美味しそうな匂いが漂ってきていた。
店の扉を開けると、焼きたてのパンと香草の香りがふわりと迎えてくれた。
木目の美しい机と椅子が規則正しく並び、窓から差し込む昼の陽射しが店内をやわらかく照らしている。
昼前ということもあり、席は半分ほど埋まっていた。
仕事の合間に食事を取る職人たちや、買い物帰りの親子が穏やかに談笑している。
その何気ない日常が、この街を守り切った証のように思えた。
「窓際、空いてる。」
アムネが指差し、二人は並んで腰を下ろす。
席に着くと、店員が笑顔で水を運んできた。
「今日のおすすめは、香草チキンのクリームパスタと野菜たっぷりのスープですよ。」
「じゃあ、それ二つお願いします。…ぁ。」
そう答えると、アムネはくすりと笑った。
「同じの頼むと思ってたの?」
「…もしかして違ってた?」
「大丈夫、正解だよ。」
それだけで、また二人は笑う。
しばらくして運ばれてきた料理は、湯気と一緒に食欲を誘う香りを漂わせていた。
白いクリームソースに絡んだ平打ちの麺。
香ばしく焼かれた鶏肉。
彩り豊かな野菜。
横には焼きたての丸パンが二つ。
そして、具だくさんのスープ。
「いただきます。」
「いただきます。」
自然に声が重なる。
一つの大きなパンを手に取り、ちぎろうとした、その時だった。
「半分こで。」
「半分こで。」
二人の声が、ぴたりと重なった。
動きが止まる。
目が合う。
「……え?」
ゆうきが思わず笑うと、アムネもきょとんとしたまま瞬きを繰り返した。
「……あれ? うち、なんで今そう言ったんだろ。」
「俺も。なんか当たり前みたいに口から出た。」
どちらともなく顔を見合わせ、小さく吹き出す。
「じゃあ、せっかくだから半分こ。」
「そうだね。」
アムネはパンを綺麗に二つへ割り、その片方をゆうきの皿へ乗せた。
その手つきは、驚くほど自然だった。
何も考えていない。
考える前に身体が動いていた。
皿へ置いた瞬間、アムネの手が止まる。
(……なんで。こんなこと、普通しないよね。
なのに、すごく自然だった。)
まるで昔から何度も繰り返してきた動作のようだった。
ゆうきもまた、その様子を不思議そうに見つめる。
違和感はある。
けれど、不快ではない。
むしろ――
それが当たり前だったような安心感が、胸の奥に広がっていた。
「……美味しい。」
クリームパスタを口に運んだアムネが、ふっと目を細める。
「優しい味だね。」
「派手じゃないけど、なんか落ち着く。」
「うん。毎日食べても飽きない味。」
そう言って笑う横顔を見ながら、ゆうきは静かに頷いた。
特別な料理じゃない。
豪華な食材でもない。
それでも、誰かと向かい合って食べるだけで、こんなにも温かい時間になる。
そんな当たり前の幸せが、この世界には流れていた。
食事を続けていると、アムネがスープへ手を伸ばした。
まだ湯気が立っている。
その瞬間、考えるより先に口を開いていた。
「熱いから気を付けて。見た目より熱そうだから、少し冷ましてから飲んだほうがいいよ。」
その声に、アムネの手が止まる。
ゆっくりと顔を上げると、青い瞳が小さく揺れていた。
「……え?」
「ん?」
「いや、その……。」
何かを言いかけて、言葉が見つからない。
ただ胸の奥が、少しだけ苦しくなった。
(なんで。)
(その言葉。)
(すごく……。)
懐かしい。
理由なんて分からない。
誰かに何度も言われていたような。
大切にされていた記憶が、心の奥で微かに揺れる。
「……ありがとう。」
それだけを言って、アムネは少し息を吹きかけてからスープを口に運んだ。
「……うん、熱かった。」
その答えに、ゆうきは思わず笑ってしまう。
「だから言っただろ。」
「うん。ちゃんと聞けばよかった。」
二人は顔を見合わせて笑う。
その笑顔は、どこまでも自然だった。
店の外では、窓辺に小鳥が一羽舞い降りている。
誰かがパンくずを落としたのだろう。
小さく首を傾げながらついばむ姿に、アムネが目を細めた。
「平和って、こういうことなんだろうね。」
「こういうこと?」
「うん。誰も急いでなくて、ご飯を食べて、小鳥がいて、子どもが笑ってて……そういう何気ない時間が続くこと。」
少しだけ遠くを見るような目だった。
「戦うことより、守りたいのはこっちなんだ。」
ゆうきは窓の外へ視線を向ける。
石畳を歩く人々。
市場帰りの夫婦。
笑いながら走る子どもたち。
荷車を押す老人。
どれも、特別ではない。
だからこそ失いたくない景色だった。
「……分かる。」
その一言だけで十分だった。
アムネは嬉しそうに微笑む。
「ゆうきなら、そう言ってくれると思ってた。」
どうしてそう思ったのか。
本人にも分からない。
それでも、不思議と疑う気持ちはなかった。
昼の陽射しは少しずつ傾き始め、窓から差し込む光も柔らかな橙色へ変わっていく。
その穏やかな時間は、どこか懐かしく、そして胸が温かくなるような静けさに包まれていた。




