第10話 焼きたてのパン
第10話 焼きたてのパン
街を包んでいた焦げた匂いは、一日が経つだけでずいぶんと薄れていた。
崩れた石壁には修復用の足場が組まれ、騎士たちと職人たちが朝から忙しく行き交っている。
市場では露店が少しずつ店を開き始め、野菜を並べる老人や、大きな鍋で温かなスープを煮込む店主の姿も見えた。
昨日まで魔物の咆哮が響いていたとは思えないほど、街には穏やかな時間が戻りつつあった。
それでも、戦いの痕跡は至るところに残っている。
砕けた石畳。
剣で刻まれた傷跡。
焼け焦げた建物。
その景色を眺めながら、ゆうきは静かに息を吐いた。
「……本当に、終わったんだな。」
あの戦いは夢ではなかった。
巨大なオーガキング。
押し寄せる魔物の群れ。
街中に響いた怒号。
そして——。
街全体を支え続けた、一人のSランク冒険者。
アムネジア。
戦場では終始押されているように見えた。
だが実際は違う。
目の前の敵だけを見ていたのではない。
戦場全体へ回復魔法を飛ばし、必要な場所へ支援を送り、危険な魔物へ上級魔法を撃ち込んでいた。
だからこそ、この街は守られた。
戦死者は、一人もいない。
「……あんな戦い方、できる人いるんだな。」
思わず苦笑が漏れる。
あれだけのことを同時にこなしながら、最後にはオーガキングを剣で討ち取ってしまう。
実力の差を見せつけられたというより、人としての器の大きさを見せられた気がした。
「おーい!」
不意に、聞き慣れた明るい声が響く。
振り返ると、人混みの向こうで白銀にも見える淡い水色の髪が揺れていた。
紙袋を胸に抱えたアムネジアが、小さく手を振っている。
「待った?」
「いや、今来たところ。」
「ふふっ、それならよかった。」
駆け寄ってきた彼女は、嬉しそうに紙袋を掲げた。
「約束、ちゃんと守ったよ。」
紙袋からふわりと立ち上る、小麦の香ばしい香り。
昨日、別れ際に交わした約束。
——焼きたてのパンを食べよう。
それを忘れずに持ってきてくれたらしい。
「ありがとう。」
「熱いうちに食べよ? ほら、あっちの噴水。」
アムネジアが指差した先には、小さな広場があった。
中央では噴水が静かな音を立て、水面をきらきらと輝かせている。
二人は縁石へ腰掛け、紙袋を開いた。
「今日はね、人気のお店に並んできたんだ。」
「朝から?」
「うん。戦いが終わったから、今日だけ特別に焼くって聞いて。」
そう言って差し出されたパンは、表面がこんがりと焼き色を帯び、中には香草入りのチーズがたっぷり入っている。
一口かじると、もちっとした生地と温かなチーズが口いっぱいに広がった。
「……美味しい。」
「でしょ?」
まるで自分が焼いたかのように胸を張る姿に、思わず笑みがこぼれる。
「昨日はゆっくり味わう余裕なんてなかったもんね。」
「それどころじゃなかったからな。」
「ふふ、確かに。」
柔らかな笑い声が噴水の水音に溶けていく。
戦場で見せた凛々しい姿とは違う。
今目の前にいるのは、ごく普通の年頃の少女のようだった。
不思議だ。
初めて会ったはずなのに、一緒にいると肩の力が抜ける。
会話が途切れても気まずくならない。
理由は分からない。
ただ、懐かしい。
そんな感覚だけが胸の奥に静かに残っていた。
アムネジアもまた、パンを小さくちぎりながら横目でゆうきを見る。
(……やっぱり。)
昨日から何度も思っていること。
一緒にいると落ち着く。
安心する。
どうしてなのかは分からない。
昔、誰かとこうして笑い合っていたような気がする。
でも、それが誰だったのかまでは思い出せない。
(……気のせい、だよね。)
千三百年という時間は、あまりにも長い。
懐かしいという感情だけが残り、顔も声も、もう霞んでしまっている。
だから、目の前の青年と結びつくはずがない。
そう、自分に言い聞かせるように、アムネジアはもう一口パンを頬張った。
昼が近づくにつれ、街にはいつもの賑わいが少しずつ戻り始めていた。
露店からは香ばしい匂いが漂い、広場では子どもたちが追いかけっこをしている。
昨日まで命の危険に晒されていたとは思えないほど、笑い声があちこちから聞こえてきた。
「こうして見ると、本当に平和になったんだな。」
ゆうきがぽつりと呟く。
アムネジアは噴水の水面を眺めながら、小さく頷いた。
「うん。でもね、平和って急に戻ってくるものじゃないの。」
「……?」
「怖かった記憶は、しばらく残るから。だから少しずつ、『もう大丈夫なんだ』って思える時間が必要なんだよ。」
優しい声だった。
昨日、戦場で見せた強さとは違う、人の心に寄り添うような温かさ。
ゆうきは静かに頷いた。
そのときだった。
「いたいたー!」
広場の向こうから、どこか聞き覚えのある明るい声が響く。
ギターケースを背負った青年が、大きく手を振りながらこちらへ歩いてきた。
「やっぱりここだった!」
「ぽぽ。」
アムネジアが自然に笑みを浮かべる。
昨日、一緒に戦った旅の吟遊詩人。
ぽぽは二人の前まで来ると、ほっと息をついた。
「探したよー。街の人が『噴水広場にいたよ』って教えてくれてさ。」
「何か用だったの?」
「用ってほどじゃないけど、昨日はゆっくり話せなかったからね。」
そう言って屈託なく笑う。
その笑顔には、人を安心させる不思議な力があった。
昨日の戦場でもそうだった。
演奏が始まるだけで、周囲の空気が少し軽くなる。
焦っていた冒険者も、傷ついた騎士も、不思議と前を向いていた。
あれは魔法だけではない。
きっと、この人自身が持っている力なのだろう。
「そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったね。」
ぽぽは胸に手を当てる。
「旅する吟遊詩人、ぽぽです。見ての通り、歌ったり演奏したりしながら旅をしてるよ。」
「ゆうきです。昨日はありがとうございました。」
「そんな堅くならなくていいよ。昨日はみんな頑張ったんだから。」
ははっと笑いながら、ぽぽは噴水の縁へ腰を下ろした。
初対面とは思えないほど自然な距離感だった。
けれど、不思議と押しつけがましさはない。
誰とでもこんなふうに接しているのだろう。
「パン食べてたんだ?」
「昨日の約束で。」
アムネジアが紙袋を見せる。
「へぇ、いいなぁ。」
少し羨ましそうな声。
その直後だった。
「アム、そのパン一口ちょうだい。」
あまりにも自然だった。
まるで何十年もそう呼び続けてきたような口調。
アムネジアも何一つ気にした様子はなく、小さく笑う。
「もう。しょうがないなぁ。」
パンをちぎってぽぽへ渡す。
「いただきまーす。」
嬉しそうに頬張るぽぽ。
「んーっ! やっぱり焼きたては最高!」
その様子を見て、ゆうきは思わず笑った。
けれど、その笑みはすぐに小さな疑問へ変わる。
「……アム?」
ぽぽがきょとんと首を傾げる。
「ん?」
「今……。」
「ああ。」
ぽぽは何でもないことのように笑った。
「アムネジアのこと。昔からそう呼んでるんだ。」
「そうなんですね。」
「長い付き合いだからねぇ。もう癖みたいなもん。」
隣ではアムネジアも肩をすくめる。
「最初はちゃんと『アムネジア』って呼んでくれてたんだけどね。」
「長いからねぇ。」
「途中から面倒になったんでしょ。」
「否定はしない。」
三人で笑い合う。
ただ、その会話だけが、ゆうきの胸に小さく残った。
(アム……。)
どこかで聞いたことがあるような。
そんな気がした。
けれど、思い出せない。
記憶を探っても何も浮かばず、
(……気のせいか。)
そう結論づけるしかなかった。
一方でアムネジアも、ゆうきが「アム」という呼び名に反応したことなど気にも留めていなかった。
ただ昔からの愛称。
それ以上でも、それ以下でもない。
だから笑いながら話題を変える。
「そういえばぽぽ、今日は演奏しないの?」
「もちろんするよ。」
ぽぽは背負っていたギターケースを軽く叩いた。
「昨日は戦うための演奏だったからね。」
その笑顔は、どこか昨日よりも柔らかかった。
「今日は、笑ってもらうために弾こうかな。」
ぽぽは背負っていたギターケースをゆっくりと下ろした。
留め具を外すと、中から現れたのは昨日の戦場でも使っていたギター型の魔導具だった。
黒を基調とした木目に、魔石がいくつも埋め込まれている。
昨日はその魔石が眩しく輝き、強力な支援魔法や攻撃魔法を増幅していた。
しかし今日は違う。
魔石は淡く光るだけで、戦場のような緊張感はどこにもない。
「せっかくだし、一曲だけ。」
ぽぽが弦を優しく弾く。
軽やかな音色が噴水の水音に重なり、広場へゆっくりと広がっていく。
激しい旋律ではない。
春風のように穏やかで、どこか懐かしさを感じる曲だった。
足を止める人が一人。
また一人。
買い物帰りの女性も、荷車を押す老人も、小さな子どもも自然と集まってくる。
昨日まで不安そうだった子どもが、母親の手を離して音楽に合わせて体を揺らした。
「お兄ちゃん、すごーい!」
無邪気な歓声に、ぽぽは演奏を止めることなく笑顔で手を振る。
その様子を見ていた周囲の大人たちも、つられるように笑みを浮かべていた。
ゆうきは静かにその光景を眺める。
「……昨日とは、全然違うな。」
戦場では、誰よりも冷静に仲間を支え続けていた。
今は演奏だけで、人を笑顔にしている。
どちらも同じ人間とは思えないほど自然だった。
隣でアムネジアも目を細める。
「ぽぽってね。」
音楽へ耳を傾けながら、小さく呟く。
「昔からこうなんだ。」
「昔から?」
「うん。どんなに落ち込んでる人でも、気付いたら笑わせてるの。」
その言葉には、長い付き合いだからこそ知る温かさが滲んでいた。
「すごい人なんだな。」
「すごいよ。」
アムネジアは迷いなく頷く。
「魔法がすごいとか、歌が上手とか、それだけじゃないの。」
一拍置いて、優しく笑った。
「ぽぽはね、人が笑う瞬間を作るのが、本当に上手。」
その言葉どおりだった。
演奏が終わる頃には、広場には拍手が響いていた。
「ありがとう!」
ぽぽが深く頭を下げると、子どもたちが一斉に駆け寄る。
「もう一曲!」
「聞きたい!」
「今度は元気なやつ!」
「ははっ、人気者だな。」
ゆうきが思わず笑う。
ぽぽは困ったように頭を掻きながらも、どこか嬉しそうだった。
「じゃあ一曲だけだよ?」
子どもたちから歓声が上がる。
再び軽快な音楽が広場を包み込んだ。
その光景を見つめながら、アムネジアはぽつりと呟く。
「街に必要なのは、強い人だけじゃないんだよ。」
「……。」
「こうやって笑える時間を作れる人も、同じくらい大切。」
ゆうきは静かに頷いた。
昨日、自分は剣を振るうことしかできなかった。
アムネジアは街全体を守った。
ぽぽは人の心を支えた。
同じ戦いでも、それぞれの役割がある。
そのことを、この二日間で強く実感していた。
やがて演奏が終わり、子どもたちは満足そうに手を振りながら帰っていく。
ぽぽはギターをケースへしまうと、二人へ向き直った。
「さて。」
いつもの明るい笑顔。
「僕はそろそろギルドに顔を出してくるよ。報酬も受け取らないと旅が続けられないからね。」
「もう旅に出るの?」
ゆうきが尋ねる。
「うーん、もう少しだけこの街にいるかな。」
ぽぽは空を見上げて笑う。
「まだ寄りたい場所もあるし、会いたい人もいるから。」
その言葉に、アムネジアは「そっか」とだけ返した。
ゆうきは深く考えなかった。
旅人なのだから、そういうものなのだろうと。
けれど、ぽぽだけは心の中で小さく呟く。
(やっと会えたんだから。)
(そんなに急いで行くわけないじゃん。)
三十年。
ようやく再会できた、大切な友達。
今はまだ何も話せない。
話すべき時でもない。
それでも、こうして同じ景色を見ながら笑っていられるだけで十分だった。
ぽぽは二人に手を振る。
「じゃあ、また後で!」
人混みへ溶け込むように歩いていく背中を見送りながら、ゆうきはふと呟いた。
「なんか、不思議な人だったな。」
アムネジアは小さく笑う。
「うん。不思議だけど……あれがぽぽなんだ。」
風が広場を吹き抜ける。
噴水の水しぶきが陽の光を受け、小さな虹を作っていた。
ゆうきはその虹を眺めながら、先ほど耳にした呼び名をもう一度だけ思い返す。
(……アム。)
胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。
理由は分からない。
思い出せることもない。
けれど、その小さな違和感は、静かに心のどこかへ残り続けていた。
まだ誰も知らない。
それが、長い年月を越えて繋がる再会への、小さな第一歩であることを。




