第9話 スタンピード 第三部 千貌の魔導士(終幕)
オーガキングの巨体が、大地へ崩れ落ちる。
轟音。
舞い上がった土煙が、ゆっくりと戦場を包み込んだ。
誰も動かない。
いや、動けなかった。
あれほど荒れ狂っていた魔物たちも、王を失ったことで統率を失い、その場から散り散りに逃げ始めている。
残った魔物も騎士団と冒険者たちによって次々と討ち取られ、戦場は少しずつ静けさを取り戻していった。
風が吹く。
血と土の匂いが混じる戦場に、ようやく鳥の鳴き声が戻ってきた。
「……終わった。」
誰かが呟く。
その一言をきっかけに、張り詰めていた糸が切れたように、その場へ座り込む冒険者が現れ始めた。
「助かった……。」
「生きてる……。」
「本当に、生き残れた……。」
勝利の歓声というより、安堵の声だった。
剣を地面へ突き立てた騎士が空を見上げ、大きく息を吐く。
隣では治療師たちがすぐに負傷者の手当てを始めていた。
「こちらに重傷者!」
「回復魔法を!」
「担架を持ってきて!」
戦いは終わった。
だが、守るべき命はまだ目の前にある。
ギルドマスターは戦場全体を見渡しながら、近くにいた副官へ声を掛けた。
「被害状況を。」
「すぐに確認します!」
副官は騎士団、治療班、冒険者ギルドへ次々と伝令を飛ばしていく。
しばらくして、一人の若い騎士が息を切らしながら駆け寄ってきた。
「報告します!」
「北門、防衛成功!」
「東門、防衛成功!」
「西門、防衛成功!」
ギルドマスターは静かに頷く。
「人的被害は。」
その問いに、若い騎士は手元の記録へ視線を落とした。
そして。
信じられないものを見るような顔で、もう一度紙を見返す。
「……?」
「どうした。」
「い、いえ……。」
騎士は何度も数字を確認する。
隣にいた治療師も首を傾げながら頷いた。
間違いない。
何度数えても結果は変わらない。
震える声で報告する。
「戦死者……。」
その場にいた全員が息を呑む。
中規模スタンピード。
オーガキング出現。
本来なら、数十人、多ければ百人近い犠牲が出てもおかしくない戦いだった。
静まり返る戦場。
若い騎士は、大きく息を吸った。
「戦死者……ゼロです!」
その言葉が、戦場へ静かに広がっていく。
誰も声を出さない。
信じられなかった。
「……ゼロ?」
「本当に?」
「あの規模で?」
ざわめきが広がる。
治療師が報告を続ける。
「重傷者はいます。」
「ですが、全員命に別状はありません。」
「回復魔法による処置が間に合っています。」
ギルドマスターは静かに目を閉じた。
そして、小さく笑う。
「そうか。」
その一言だけだった。
だが、その表情には安堵と誇らしさが滲んでいた。
近くにいたベテラン冒険者が、戦場の奥へ目を向ける。
土煙の向こう。
静かに立つ、一人の少女。
「あの人だ。」
誰かが呟く。
「アムネジアさんがいたからだ。」
「オーガキングを相手にしながら……。」
「戦場全部を見てた。」
西門では火柱が上がり。
北門では回復の光が降り。
東門では魔力が尽きかけた魔導士たちへ支援が届いた。
誰もが、自分の持ち場を守ることだけで精一杯だった。
だから気付かなかった。
あのすべてが、一人の魔導士によって繋がっていたことに。
「あれが……。」
若い冒険者が呆然と呟く。
「Sランク。」
ベテランは首を横に振る。
「違う。強いだけじゃ、ああはならない。
仲間を見捨てず、街を守り抜こうとしたからこそだ。」
戦場には、再び静かな風が吹いていた。
戦場のあちこちで、負傷者の手当てが続いていた。
「こっちは終わりました!」
「次の人を!」
治療師たちが慌ただしく駆け回る。
その傍らでは、騎士たちが倒れた魔物を確認し、街道の安全を確保していた。
ゆうきも剣を鞘へ納めると、すぐに負傷者のもとへ向かう。
瓦礫をどけ、担架を運び、治療師の指示に従って傷ついた兵士を支える。
「ありがとう、助かる。」
年配の騎士が穏やかに笑った。
「いえ。」
ゆうきも笑い返す。
戦いは終わった。
今は、一人でも多く無事に帰ることの方が大切だった。
「おーい!」
聞き慣れた明るい声が響く。
振り返ると、ぽぽが大きく手を振っていた。
「そっちは終わった?」
「今ちょうど。」
「じゃあ、こっちも手伝って!」
「はいはい、働きますよー。」
そう言いながら自分で笑い、近くにいた子どもの頭を優しく撫でる。
「怖かったね。
もう大丈夫。みんな頑張ったから。」
その子は泣きながら何度も頷いた。
ぽぽは笑顔のまま立ち上がる。
「ほら。泣いてる暇があったら、起き上がってあっちに行こう。お腹空いちゃうよ?
今日は街のみんなも頑張ったし、美味しいもの食べなきゃね!」
その言葉に、周囲から小さな笑い声が漏れる。
張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく。
ゆうきはその姿を見つめながら思った。
(やっぱりすごい人だ。)
強い。
だけど、それ以上に。
人の心を軽くすることができる。
それは魔法では作れない力だった。
その時だった。
街道の向こうから、静かに歩いてくる一人の姿が見えた。
白銀にも見える淡い髪。
風に揺れるローブ。
土埃を払いながら歩いてくる少女を見つけると、周囲の冒険者や騎士たちは自然と道を空けた。
「アムネジアさんだ……。」
「無事だったか。」
「あの人が一人でオーガキングを……。」
誰もが尊敬の眼差しを向ける。
けれど当の本人は、そんな視線を気にする様子もなく歩いていた。
少しだけ疲れたように肩を落としながらも、その表情は穏やかだった。
ギルドマスターが歩み寄る。
「ご苦労だった。」
アムネジアは軽く頭を下げる。
「終わりました。町も無事です。」
それだけ伝える。
自分が倒したことも。
どれだけ魔法を使ったかも。
何一つ口にしなかった。
ギルドマスターは静かに頷く。
「戦死者はゼロだ。」
その言葉に、アムネジアは一瞬だけ目を丸くした。
「……本当に?」
思わず漏れた小さな声。
ギルドマスターは笑みを浮かべる。
「ああ。君のおかげだ。」
その言葉を聞いて、ほっと息を吐いた。
胸の奥に張り詰めていたものが、ようやくほどけていく。
「……よかった。」
その一言だけだった。
けれど、その小さな呟きには、誰よりも大きな安堵が込められていた。
ゆっくりと顔を上げる。
その視線は、人混みの向こう側を見ていた。
ゆうきが人混みをかき分けながら駆け寄った。
「アムネジア!」
その声に、ゆっくり振り返る。
一瞬だけ驚いたように目を丸くしたあと、ふっと表情が柔らかくなった。
「ゆうき。無事だったんだ。」
「もちろん。そっちこそ大丈夫か? 遠くから見てたけど、かなり押されてるように見えて……正直、心配だった。」
アムネは少し照れくさそうに笑う。
「心配かけちゃったね。でも大丈夫。最初はみんなを守る方を優先してたから、ああいう戦い方になっただけ。戦線が落ち着けば、あとは目の前だけ見ればよかったから。」
ゆうきは戦場を見渡した。
あちこちで治療師が負傷者を癒やし、騎士たちは住民を安心させるために声を掛けている。
そして、誰の顔にも絶望はなかった。
「さっき聞いたよ。」
「戦死者、ゼロなんだって。」
その言葉に、静かに目を伏せる。
「……うん。それを聞いて安心した。今回は運が良かったんじゃなくて、みんなが最後まで諦めなかった結果だと思う。」
「でも、その『みんな』を支えてたのはアムネジアだ。」
「オーガキングと戦いながら、回復も支援も攻撃も全部やってた。俺、途中でやっと気付いたんだ。一人で戦ってたんじゃない。街全体を守ってたんだなって。」
アムネジアは少しだけ困ったように笑う。
「それより約束、覚えてる?」
ゆうきは一瞬きょとんとしたあと、思わず笑う。
「もちろん。焼きたてのパン、だろ?」
「うん。」
その一言だけで十分だった。
二人は並んで街へ歩き始める。
少し後ろでは、ぽぽが負傷者へ笑顔で声を掛けながら歩いていた。
「今日はみんな頑張ったね! 帰ったら温かいご飯でも食べて、ゆっくり休もう!」
その明るい声に、疲れ切っていた冒険者たちの表情が自然と和らぐ。
ぽぽは前を歩くゆうきの背中を見つめ、小さく笑った。
(やっぱり、ゆうきだ。)
胸の奥に込み上げる嬉しさをそっとしまい込み、何も言わず後を歩く。
話すのは、もう少しだけ先でいい。
夕日に染まる城壁が、静かに三人を迎えていた。
スタンピードは終わった。
けれど――。
止まっていた時間は、少しずつ動き始めていた。




