第9話 スタンピード 第一部 迫る災厄
森を抜けると、遠くに街の城壁が見えた。
「思ったより早く終わったね。」
薬草の入った袋を軽く揺らしながら、アムネが振り返る。
「帰ったら報酬受け取って、ご飯食べよ。今日は焼きたてのパンが食べたい。」
「昨日もパンだった気がするけど。」
「パンは毎日でも飽きない。」
真顔で返され、ゆうきは思わず笑う。
「そこまで好きなんだ。」
「好き。」
即答だった。
「焼きたてにスープがあったら最高。」
「そこに紅茶もあれば完璧。」
嬉しそうに話す横顔は、昨日オーガ級の魔物と戦っていた人物とは思えないほど穏やかだった。
そんな何気ない会話を交わしながら街道を歩く。
風は穏やかで、空も青い。
依頼も無事に終わった。
今日はこのまま平和に一日が終わる。
そう思っていた。
街まであと数百メートル。
その時だった。
ゴォォォォン――。
重く低い鐘の音が街中へ響き渡る。
一本ではない。
二本、三本と立て続けに鳴り始める。
「……鐘?」
ゆうきが立ち止まる。
アムネの表情から笑みが消えた。
「警鐘。」
その声はさっきまでとは違い、落ち着いていた。
街の門へ目を向けると、門番たちが慌ただしく動き回っている。
避難する住民。
荷車を押して走る商人。
武器を抱えて駆け抜ける冒険者。
穏やかだった空気は一瞬で張り詰めていた。
「何かあったのか……?」
「急ごう。」
二人は足を速める。
門をくぐると、街はすでに非常事態だった。
「西門へ応援!」
「住民を中央広場へ避難させろ!」
「治療師を集めろ!」
怒号が飛び交い、兵士たちが各持ち場へ散っていく。
何が起きているのか分からないまま、二人はギルドへ駆け込んだ。
ギルドの中も普段とは別世界だった。
受付には長蛇の列。
掲示板には赤い紙が貼られ、冒険者たちは次々と武器を受け取っている。
普段は笑顔で迎えてくれる受付嬢も、険しい表情で指示を出していた。
「アムネさん! ゆうきさん!」
二人に気付くと、ほっとしたような表情を浮かべる。
「お戻りでしたか! すぐにギルドマスターのところへ!」
二人は顔を見合わせ、そのまま奥の部屋へ向かった。
部屋の中には、街の上位冒険者たちが集まっていた。
壁には周辺一帯の地図が広げられ、赤い印がいくつも付けられている。
ギルドマスターがゆっくりと口を開いた。
「全員、よく集まってくれた。」
低く響く声に、部屋が静まり返る。
「状況は最悪だ。」
地図の一点を指差す。
街の北西。
森のさらに奥。
「二時間前、近隣ダンジョンで魔力の異常噴出を確認した。」
「その影響で、魔物たちが一斉に活性化。」
「……スタンピードだ。」
その一言で、部屋の空気が凍り付く。
「まさか……。」
誰かが息を呑む。
ギルドマスターは頷いた。
「ここ数日の異常行動。」
「森で確認されたイレギュラー。」
「魔物同士の縄張り争い。」
「すべて前兆だった。」
ゆうきは思わず拳を握る。
あのストーンベアも。
昨日遭遇した異常な魔物も。
偶然ではなかった。
「現在確認されている群れは、ボア、ディア、フォレストベア、ゴブリン、オーク。」
「さらに、後方からオーガの群れが接近中。」
部屋の空気がさらに重くなる。
ギルドマスターは一拍置き、静かに続けた。
「そして群れの先頭には――」
地図へ最後の駒が置かれる。
「Aランク魔物、《オーガキング》。」
誰一人として声を上げなかった。
その名の重さを、この場にいる全員が理解していたからだ。
ギルドマスターはアムネへ視線を向ける。
「アムネジア。」
「はい。」
「オーガキングの迎撃を任せる。」
迷いなく頷く。
「了解。」
返事は短い。
けれど、その一言だけで十分だった。
Sランク冒険者。
この場にいる誰も、その実力を疑ってはいない。
続いてギルドマスターはゆうきを見る。
「ゆうき。」
「お前は一般防衛部隊へ合流しろ。」
「無理に前へ出るな。」
「街を守ることを最優先に動け。」
「はい。」
力強く返事をする。
別々の戦場。
それが最善だと分かっていた。
部屋を出る前。
アムネがふと振り返る。
さっきまでの真剣な表情が少しだけ柔らぎ、いつもの笑顔が戻る。
「終わったらさ。」
「焼きたてのパン、食べに行こ。」
ゆうきも笑って頷いた。
「ああ。約束だ。」
その約束を胸に。
二人は、それぞれの戦場へ向かって駆け出した。
ギルドを出ると、街の空気はさらに慌ただしさを増していた。
兵士たちは防壁へ資材を運び、冒険者たちは班ごとに編成されていく。
泣きながら親の手を引く子ども。
荷物を抱えて避難する老人。
その光景を見たゆうきは、自然と足を止めた。
「……。」
怖い。
正直にそう思った。
昨日まで、自分はただの一般人だった。
それが今は、街を守るために武器を持とうとしている。
責任の重さが、ようやく実感として胸へ落ちてきた。
「ゆうき。」
アムネが一歩近付く。
「大丈夫?」
その声は、戦闘前とは思えないほど優しかった。
「……怖いよ。」
隠すことはしなかった。
「俺一人の失敗で、誰かが傷付くかもしれないって考えると。」
アムネは少しだけ目を細める。
「それでいい。」
「え?」
「怖いって思える人の方が、ちゃんと周りを見られる。」
「怖さを忘れた人は、自分も仲間も守れなくなるから。」
その言葉は、昨日ガレスから聞いた言葉とどこか重なった。
――怖さを忘れた冒険者から先に死ぬ。
「だから。」
アムネは小さく笑う。
「帰ってきて。」
「それだけ。」
「パンの約束、まだだから。」
その一言で、不思議と肩の力が抜けた。
「……ああ。」
「ちゃんと帰る。」
「うん。」
満足そうに頷くと、アムネはくるりと背を向ける。
「じゃあ、行ってくる。」
そのまま人混みの中へ消えていく。
走る姿は軽やかだった。
誰よりも落ち着き、誰よりも迷いがない。
ゆうきはその背中を見送りながら、小さく息を吸った。
「俺も行くか。」
防衛部隊の集合場所へ向かうと、すでに数十人の冒険者が集まっていた。
年齢も経験も様々だ。
鎧姿のベテラン。
緊張した面持ちの新人。
杖を抱える魔導士。
弓を点検する狩人。
皆、表情こそ違うが、覚悟だけは同じだった。
「新入りか。」
声を掛けてきたのは、短い髭を生やした中年の冒険者だった。
「はい。」
「昨日登録したばかりです。」
男は一瞬驚いた顔をしたあと、大きく笑う。
「ははっ、運が悪いな。」
「普通なら最初のスタンピードなんて何年も経験しない。」
「まあ、これも冒険者ってやつだ。」
気さくな口調に少し緊張がほぐれる。
「名前は?」
「ゆうきです。」
「俺はバルド。」
「今日は同じ班らしい。」
そう言って大きな手を差し出してきた。
ゆうきもその手を握る。
「よろしくお願いします。」
「固くなるな。」
「無理に目立とうとしなくていい。」
「生き残ることだけ考えろ。」
その言葉には、長年冒険者として生きてきた重みがあった。
その時だった。
城壁の上から大きな声が響く。
「確認!」
「魔物の群れを視認!」
街中が一斉に静まり返る。
誰もが城門の外を見つめる。
土煙が上がっていた。
遠くの地平線を埋め尽くすほどの影。
大地を震わせる足音。
ドン……
ドン……
ドン……
その音は、少しずつ近付いてくる。
兵士が息を呑む。
冒険者が武器を握る。
誰も言葉を発しない。
やがて土煙の中から、一匹のボアが姿を現した。
続いてディア。
ゴブリン。
オーク。
その後ろからは巨大なフォレストベアが何頭も姿を見せる。
群れは止まらない。
まるで黒い濁流のように、街へ向かって押し寄せていた。
そして、その遥か後方。
周囲の魔物より頭一つ大きな巨体が、ゆっくりと歩いている。
まだ距離は遠い。
それでも分かった。
あれが群れの王。
――オーガキング。
その存在だけで、戦場の空気は一変した。
スタンピードが、始まる。




