第7話 いつものように
「……アムネ?」
その名前が口からこぼれた瞬間、二人の間に静かな沈黙が落ちた。
風が草原を撫でる。
少しだけ目を丸くしたあと、困ったように笑う。
「その呼び方、久しぶりに聞いたかも。」
首をかしげながら続けた。
「親しい人はみんな”アムネ”って呼ぶんだ。アムネジアって長いしね。」
「……悪い。」
ゆうきは苦笑しながら頭をかく。
「考えるより先に口が動いた。」
「気にしなくていいよ。うちもその方が呼ばれ慣れてるし。」
そう言って歩き出す。
ゆうきも隣へ並んだ。
さっきまで命懸けの戦いをしていたとは思えないくらい、穏やかな風が吹いている。
「傷、大丈夫?」
歩幅を少しだけ合わせながら聞いてくる。
「応急処置してもらったおかげで、だいぶ楽になった。」
「なら良かった。」
それだけ言うと、安心したように前を向く。
必要以上に心配しない。
でも、さりげなく気に掛けてくれる。
そんな距離感が心地良かった。
街の門が見え始める。
門番へ軽く手を振りながら中へ入ると、夕方の賑わいが二人を迎えた。
露店から漂う香ばしい匂い。
焼きたてのパンを抱えた子ども。
今日の稼ぎを笑いながら話す冒険者たち。
「やっと帰ってきたぁ。」
ぐっと背伸びをすると、小さくお腹が鳴る。
「あ……。」
少しだけ照れたように笑う。
「聞こえた?」
「ちゃんと。」
「恥ずかしいなぁ。」
そう言いながらも、お腹を押さえて笑っている。
「さっきまであんな戦いだったのに、もうお腹の心配か。」
「だって、お腹空いたもん。」
当たり前でしょ、と言いたげな顔を向ける。
「ご飯食べないと元気出ないし、魔力だって回復しないよ。それに、美味しいもの食べると幸せになれるじゃん。」
「それは否定できないな。」
「でしょ?」
少し得意そうに笑う。
その笑顔につられて、ゆうきも肩の力が抜けた。
「先にギルド寄ろ。」
「報酬も受け取らないと。」
「ああ。」
「そのあと甘いもの食べに行こ。」
「甘いもの?」
「うん。ギルドの近くに美味しい喫茶店があるんだ。焼きたてのパンもあるし、紅茶もすごく美味しいよ。」
話しているうちに少しずつ声が弾んでいく。
好きなものの話になると、分かりやすい。
「そんなにおすすめなら、気になるな。」
「後悔はさせないよ。」
胸を張る姿に思わず笑みがこぼれた。
ギルドへ入ると、受付嬢が二人を見るなりほっとした表情を浮かべる。
「お帰りなさい。戻りが遅かったので心配していたんです。」
「ちょっと予定外のことがありまして。」
簡単に事情を説明すると、受付嬢は真剣な表情で記録を取り始めた。
「森の浅層でBランク相当の魔物……確認部隊を派遣します。」
依頼品をカウンターへ並べていく。
薬草。
ホーンラビットの素材。
魔石。
そして、空間魔法から取り出されたストーンベアの素材。
「空間魔法って、本当に便利なんだな。」
思わず漏らすと、小さく笑った。
「慣れると手放せないよ。荷物を持たなくていいし、食材も新鮮なまま保存できるから。旅をするなら本当に助かる。」
「やっぱり食材なんだな。」
「そこは大事。」
真面目な顔で言い切る。
「旅の楽しみって、ご飯も入ってるでしょ?」
「確かに。」
「それに、せっかく倒した魔物も美味しく食べられるなら、その方が嬉しいし。」
「そこまで考えるのか。」
「もちろん。」
少しだけ笑って肩をすくめる。
「食べられるものを捨てるのは、もったいないから。」
その言葉に、ゆうきは自然と頷いた。
優しい。
それでいて、命をいただくことへの考え方がしっかりしている。
そういうところも、どこか惹かれる理由なのかもしれない。
報酬の入った革袋を受け取る。
「依頼達成です。お疲れさまでした。」
受付嬢が微笑むと、二人は軽く頭を下げてギルドをあとにした。
夕焼けが石畳をオレンジ色に染めている。
「じゃあ約束。」
「甘いものね。」
嬉しそうにそう言って歩き出す後ろ姿を見ながら、ゆうきは静かに笑った。
不思議だった。
出会ってまだ数日しか経っていない。
それなのに。
隣を歩くことが、ずっと前から当たり前だったような気がしていた。
ギルドを出ると、夕暮れの街は昼間とはまた違う表情を見せていた。
石畳を照らす橙色の光。
店先には明かりが灯り始め、人々の笑い声が通りを包んでいる。
「こっち。」
迷いなく歩き出す背中を追いかける。
角を二つ曲がると、木造の小さな喫茶店が見えてきた。
「ここ?」
「うん。お気に入り。」
扉を開けると、焼きたてのパンの香りがふわりと鼻をくすぐった。
「いらっしゃい。」
店主が穏やかに迎えてくれる。
窓際の席へ腰を下ろすと、どこかほっと息が抜けた。
「うちはいつも紅茶。」
メニューを見ながら迷いなく言う。
「それと、このはちみつパン。」
「そんなに美味しいのか。」
「美味しい。」
間を置かず返ってきた。
「食べれば分かるよ。」
そこまで言われると気になってしまう。
「じゃあ、同じものを。」
「おすすめだから。」
どこか嬉しそうだった。
注文を終えると、静かな時間が流れる。
店内には紅茶の香りが広がり、小さな音で音楽が流れていた。
「こういう店、好きなんだな。」
「うん。」
窓の外を眺めながら、小さく頷く。
「静かだし、落ち着くから。」
「確かに。」
ゆうきも同じ景色へ目を向ける。
慌ただしかった一日が、少しずつ遠ざかっていくようだった。
やがて運ばれてきたパンからは、湯気が立ち上っている。
「熱いから気を付けてね。」
そう言いながら、自分はためらいなく一口。
「……おいしい。」
自然と笑みがこぼれる。
「でしょ?」
「これは人気なのも分かる。」
「おすすめしたくなるんだよね。」
その笑顔を見ていると、不思議とこちらまで嬉しくなる。
紅茶を一口飲み、ふっと息をつく。
「今日は大変だったね。」
「そうだな。」
「怖くなかった?」
突然の問いに、少し考える。
「怖かったよ。」
隠さず答えた。
「正直、あの魔物を見た時は終わったと思った。」
「でも。」
カップを置いて笑う。
「助けてくれる人がいたから、生きて帰れた。」
その言葉に、少し照れたように視線を逸らす。
「うち一人じゃないよ。」
「ゆうきもちゃんと戦ってた。」
「まだまだだけどな。」
「最初から何でもできる人なんていないよ。」
その言葉には、不思議と重みがあった。
「少しずつできることを増やしていけばいい。」
「その方が、きっと楽しいから。」
ゆうきは静かに頷いた。
焦る必要はない。
その一言で、肩の力が少し抜けた気がした。
店を出る頃には、空には星が瞬き始めていた。
「星、きれい。」
立ち止まり、夜空を見上げる。
その横顔を見ていると、どこか懐かしい気持ちになる。
理由は分からない。
けれど、その感覚を無理に言葉へすることはしなかった。
「今日はありがとう。」
宿へ向かう分かれ道で、小さく手を振る。
「こちらこそ。」
「また依頼、一緒に行こうね。」
「ああ。」
短く返すと、満足そうに笑った。
「じゃあ、おやすみ。」
「おやすみ。」
背中を見送りながら、ゆうきは小さく息を吐く。
今日一日だけで、いろいろなことがあった。
初めての依頼。
初めての恐怖。
初めて命を預けた相手。
それでも、一番心に残っていたのは。
何気なく交わした会話と、隣を歩いた時間だった。
「……また明日か。」
そう呟く自分に、思わず笑ってしまう。
異世界へ来てから初めて。
“明日”が少し楽しみだと思えた。




