第6話 星空の下で
ゆうきの呼吸は、ようやく落ち着きを取り戻していた。
傷口は治療魔法によって塞がっている。
だが、失った血まではすぐに戻らない。
顔色は青白く、意識も戻る気配はなかった。
アムネジアは胸へ手を当て、小さく息を吐く。
「……よかった。」
その一言と共に、張り詰めていた緊張が一気にほどけた。
膝から力が抜け、その場へ座り込む。
少し離れた場所では、倒したストーンベアが静かに横たわっていた。
本来なら素材を剥ぎ取り、魔石を回収する。
それが冒険者として当たり前の仕事だ。
それでも今は、そんな気持ちにはなれなかった。
「ごめんね……。」
ぽつりと呟く。
「私が一緒に来ようなんて言わなければ。」
返事はない。
眠ったままのゆうきは、穏やかな寝息を立てている。
アムネジアは首を横に振った。
落ち込んでいる時間はない。
まずは夜を越える準備をしなければならない。
空間魔法を展開する。
目の前に小さな亀裂が走り、中から荷物が現れた。
折り畳み式の簡易テント。
毛布。
焚き火台。
水袋。
干し肉と硬いパン。
普段から一人で依頼を受けることも多いため、最低限の野営道具は常に持ち歩いていた。
「今日はここで休もうね。」
返事はない。
それでも自然とそう話しかけてしまう。
ゆうきを抱え、木の根元へ寝かせる。
傷口へ負担が掛からないよう毛布を折り畳み、そっと頭を乗せた。
「これで……。」
小さく微笑む。
焚き火へ火を灯すと、橙色の炎がゆらゆらと揺れ始めた。
森の夜は早い。
夕焼けはいつの間にか消え、深い藍色の空が広がっていた。
やがて一つ。
また一つと星が姿を現す。
アムネジアは焚き火の前へ座り、静かに夜空を見上げた。
「綺麗。」
その言葉が自然と漏れる。
子どもの頃から好きだった。
夜空。
星。
理由は分からない。
ただ、見上げているだけで胸が温かくなる。
「変だよね。」
誰へ話すでもなく笑う。
「昔から好きなの。」
「誰かと一緒に見たことがある気がして。」
でも、その誰かが思い出せない。
家族でもない。
友達でもない。
顔も声も分からない。
それなのに。
胸の奥だけが覚えている。
「……不思議。」
炎が小さく弾ける。
その音だけが森へ響いた。
しばらく黙って星を眺めていたアムネジアは、小さく笑った。
「あとね。」
「もう一つ好きなものがあるの。」
少し照れくさそうに頬を掻く。
「バイク。」
その単語を口にすると、自分でも可笑しくなったのか苦笑する。
「この世界にはないのにね。」
もちろん、本物を見たことなんてない。
それでも頭の中には、不思議とはっきり浮かぶ。
風を切って走る音。
どこまでも続く道。
ヘルメット越しに見える景色。
全部、知らないはずなのに。
「速そうで。」
「かっこよくて。」
「自由そうで。」
「昔から好きなんだ。」
空を見上げたまま続ける。
「いつかね。」
「そのバイクに乗って。」
「仲の良かった人に会いに行きたいって思ってた。」
「……そんな気がするの。」
胸が少しだけ締め付けられる。
「でも、その人が誰なのか思い出せない。」
「約束してた気もするのに。」
「名前も。」
「顔も。」
「何一つ分からない。」
それでも。
「会いたかった。」
その言葉だけは、迷いなく口にできた。
「大切な人だったんだろうなぁ。」
アムネジアは寂しそうに笑う。
「変だよね。」
「記憶にない人を、大切だったなんて。」
その時だった。
「……。」
背後から、小さな物音が聞こえた。
アムネジアは振り返る。
ゆうきの指先が、わずかに動いている。
「……ゆうき?」
急いで駆け寄り、顔を覗き込む。
呼吸は先ほどよりもしっかりしている。
頬にも少しだけ赤みが戻ってきていた。
「よかった……。」
安心した途端、涙が一粒だけ頬を伝う。
「本当に、よかった。」
眠ったままのゆうきは、かすかに眉を動かした。
まるで、遠い夢でも見ているように。
その表情を見つめながら、アムネジアはそっと微笑む。
「おやすみ。」
その声は焚き火の音に溶け、満天の星空へ静かに消えていった。
小鳥のさえずりが森に響く。
朝日が木々の隙間から差し込み、焚き火の残り火を優しく照らした。
「……ん。」
ゆうきはゆっくりと瞼を開く。
ぼやけた視界の中に、揺れる木漏れ日が映る。
「ここは……。」
体を起こそうとして、脇腹に鈍い痛みが走った。
「っ……。」
「起きた!」
明るい声と共に、アムネジアが駆け寄ってくる。
その表情は、今にも泣き出しそうなくらい安堵していた。
「大丈夫?」
「……ああ。」
ゆうきは傷口へ手を当てる。
服は破れている。
だが、傷はすでに塞がっていた。
「治療……してくれたのか。」
「うん。」
アムネジアは嬉しそうに頷く。
「よかった……。」
その一言を聞いた瞬間、ゆうきは違和感を覚えた。
どうして。
そこまで安心した顔をするんだろう。
昨日会ったばかり。
数日前に知り合っただけ。
それなのに。
まるで、大切な人が助かったような表情だった。
「……ありがとう。」
そう言うと、アムネジアは照れたように笑う。
「間に合って、本当によかった。」
その笑顔を見た瞬間だった。
胸が強く締め付けられる。
(……なんだ。)
景色が揺れる。
頭の奥が熱くなる。
知らない部屋。
明るい画面。
笑い声。
「アム!」
誰かがそう呼んだ。
その声は。
自分の声だった気がした。
「っ……!」
「ゆうき?」
アムネジアが心配そうに覗き込む。
「大丈夫?」
「……ああ。」
違う。
思い出せない。
今のは何だった。
夢。
幻覚。
それとも。
ゆうきは首を横に振った。
「平気。」
「無理しないでね。」
その優しい声に、胸のざわめきだけが残る。
簡単な朝食を済ませると、二人は街へ戻ることにした。
森の中は昨夜とは違い、穏やかな空気に包まれている。
朝露が草花を濡らし、小さな鳥たちが枝から枝へ飛び移っていた。
「傷、本当に痛くない?」
「少しだけ。」
「ごめんね。」
「アムネジアが謝ることじゃない。」
「でも。」
「助けてくれた。」
「それだけで十分だ。」
アムネジアは少しだけ俯き、小さく笑った。
「そう言ってもらえると嬉しい。」
街道が見えてきた。
もうすぐ城門だ。
その時だった。
道端へ、一輪の小さな青い花が咲いているのが目に入る。
アムネジアが立ち止まった。
「綺麗。」
しゃがみ込み、花を優しく眺める。
その横顔。
風に揺れる髪。
柔らかな笑顔。
その全てが。
どうしてだろう。
涙が出そうになるくらい懐かしかった。
(なんで。)
知らない。
知らないはずなのに。
昨日から積み重なってきた違和感。
《魂の共鳴》が五割だったこと。
初対面なのに安心できたこと。
必死に助けてくれたこと。
星が好きだと言ったこと。
バイクが好きだと言ったこと。
「仲の良かった人に会いに行きたかった。」
昨夜聞いた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
その瞬間。
胸の奥で、何かが繋がった。
(……まさか。)
そんなはずはない。
でも。
もし。
本当に。
ゆうきは足を止める。
「アムネジア。」
「ん?」
振り返る。
その笑顔を見た瞬間、確信に近い何かが胸を満たした。
ゆっくりと口を開く。
「一つだけ、聞いてもいいか。」
「いいよ。」
ゆうきは小さく息を吸う。
「……もしかして。」
その二文字を口にした瞬間だった。
胸が大きく脈打つ。
「アムネ……?」
世界が静まり返る。
風が止まる。
鳥の声も聞こえない。
アムネジアは目を見開いたまま動かなかった。
「……え?」
その呼び名を聞いた瞬間。
胸の奥が熱くなる。
苦しい。
懐かしい。
涙が出そうになる。
知らない。
そんな名前、知らないはずなのに。
どうして。
どうして、その名前を呼ばれると。
こんなにも嬉しいの。
「……アムネ。」
アムネジアは無意識に、その名前を口にしていた。
その瞬間。
胸の奥で、何かが静かに動き始めた。
まだ思い出せない。
けれど。
確かに、止まっていた時間が動き出したのだった。




