襲来1
今日も今日とて、やることは実験である。
瑞白町の中でも比較的汚染が少ないところの土を用意して、濃度の違う溶液と混ぜ合わせる。
そして機械に試料を入れて、汚染物質の濃度をひとつずつ測定し、ひたすらデータ化していく。
1回の実験に30分はかかる。本来は最低2時間は置かなければいけない実験が、ナグモ女史の技術によって30分に短縮されたという。
物理現象を無視しているかのような短縮だが、それと引き換えに、データの演算や書き出しはすべて自分で行わなければいけない。
天才・ナグモ女史が、自分が使うためだけに開発したピーキーすぎるマシンだ。
「コンピューターにダラダラ書き出しさせるより、自分で観察した方が早い」と、解析速度がコンピューターを上回っている特殊な生き物しか言えないセリフを言っていた。
コンピューターの速度を「ダラダラ」なんて表現する人間が居ていいのか。
そんなナグモ女史と、過集中しているときの俺しか使えない機器。通称「ナグモ専用脳焼き器」。
卒業生が名付けた俗称らしいが、確かにアレを使っているときの脳が焼き切れる感覚には覚えがある。
ぶっ通しで、かなりの時間、実験をしていた気がする。
ふと気になって時計を見ると、時刻は深夜1時を指していた。
「…うわ、」
またやってしまった。
実験を始めたのが朝の10時だから、かれこれ15時間はここにいることになる。
そのことに気づくと急に、カラカラに乾いた喉がつらくなってくる。
また、ずしりと全身にかかる脳疲労。かつてナグモ女史専用だった「脳焼き器」の名に恥じない、脳への負荷。
体中の糖分を使い切って、めまいすら覚える。
ちょうど目の前にあったエナドリに手を伸ばし、プルタブを開けた。命の水だ。
以前も同じように、気づかずに深夜まで実験機器に向かっていたことがある。
翌日サカイやキシに「帰るときに声をかけてくれ」と頼んだが、二人はばっさりと「かけたよ。聞こえてないっぽかったけど」と言われた。
集中しすぎて、声をかけられたくらいでは反応できない。それには幼いころからの心当たりがある。
「はぁ…」
一気に飲み干して、喉が焼ける感覚。5分もすれば最低限動けるようになるだろう。
昔キシに言われた「うわあ、命の前借りだぁ…」という言葉がよみがえってくる。
俺も早死にはしたくないが、こんな、体内の糖分を奪いつくすようなピーキーな機械があるのが悪い。
脳焼き器に新しい試料を入れて、実験の準備をする。
一応、今日用意した試料はこれで最後だ。
キリのいいところまで実験を終わらせて、今日も寝袋で寝よう。もうこんな時間だから寮に帰るのは面倒だ。
「…あ、戻ってきたな」
霧が晴れるように、視界が開けてくる。いまが好機と、実験開始のボタンを押した。
機械に表示される波形、一定のリズムを刻むランプの点滅、試料のわずかな状態変化。すべてが脳にダイレクトに届けられる。
一瞬たりとも見逃さず、すべての状態を記憶する。 変化量の計算をしながら、視線は試料と波形から離さない。
手元にメモを作成することを試みたこともあるが、意識がそちらに向いてしまい、変化を見逃すことがある。
だから、すべて覚える。
記憶と計算を同時に行う。これこそが俺なりの最速であり、最高効率だ。
そして、その集中は突如途切れることになる。
バツン!けたたましい音を立てて、部屋の電気が落ちた。
俺は思わず顔を上げる。照明、空調、そして実験器具。すべての電力が遮断され、たちまち暗闇に包まれた。
窓の外からはわずかな光が見える。
手探りで窓際まで歩き、カーテンを開ける。
遠くに見える医学部棟、大学病院、学生寮、そして駐屯地のほうは明るく、電気が通っているようだ。
しかし今いる工学部棟と食堂のあたり、そして狩場付近は完全に停電している。
「…最悪だ、」
今機械に入っているサンプルは駄目になってしまうだろう。もう一度やり直さなければいけなくなる。
大きくため息をついて、荷物を手に持った。
今日は諦めて帰ろう。
本当は今日も研究室に泊まろうと思ったが、電気の復旧が何時になるかわからないし、スマホの充電ができないのも困る。
スマホのライトで足元を照らしながら、仕方なく歩いた。
階段を降りて、1階の廊下を歩く。
研究室から見えた遠くの光は建物に遮られて、完全な暗闇となっている。
自分の足音と呼吸音だけが、長い廊下に響いていた。
時折他科の学生も泊まり込んでいることもあるのだが、現在この棟には、たまたま自分しかいないようだった。
そんな静寂の中——突然、けたたましい咆哮が響いた。
獣の遠吠えのような音に、足が止まる。
ガシャン!と、背後から何かが割れる音がする。振り返ると床にガラスが飛び散っていて、割れた窓の隙間から、次々に獣のような影が飛び込んできた。
スマホのライトでそちらを照らすと、光を反射した無数の目と、目が、合う。
一つの顔に3つの目があるもの、5本の肢をもつもの、体長に対して大きすぎる角をもつもの。
それぞれ熊や象くらいの大きさだろうか。それでも、世界中のどの生態系にも存在しない、異形の獣。
——モンスターだ。
理解した瞬間、脚ががくん、と折れ曲がった。床に勢いよく両膝をつく。
どうしてこんなところにモンスターがいるのだろう。
考えても分からない。
狩場の周囲と大学の外周には、モンスターの侵入を防止するゲートがあるはずだ。常に150人規模で警戒をしているはずで、こんなところまでモンスターが入ってくることは、ありえない。
逃げなければ。そう思うのに、幼少期のあの思い出がフラッシュバックして、爪の先まで体が冷えていく。
えぐり取られた山肌。燃え盛る街並み。炎をまとった超大型モンスター。瓦礫の下の無数の死体。人間が焼け焦げた匂い。喉を突く痛み。
呼吸ができない。
(…動け)
モンスターがじりじりと、こちらに向かってくる。
3つの目の下にある裂け目から大きな牙がのぞいて、涎を床にぼたぼたと垂らしながら、俺のほうに歩いてくる。
(…動け、)
立ち上がって、走らなければ。そう思うのに、神経が遮断されたように、体が言うことを聞かない。
(…動け!)
モンスターの肢が俺の頭めがけて振り下ろされて、上顎ががくん、と開かれる。
びっちり生えそろった無数の牙。飛び散った涎が、俺の手足に付着する。
生暖かく、どろどろしている。
引きちぎれそうな心臓とは裏腹に、最後に残った冷静な脳みそが告げる。
ここで死ぬんだ。
絶望とはきっと、これのことだ。そう思った。




