8.休講
その少女は、相変わらずいつも後ろの席を特等席にして、前のめりで講義を聞いていた。
筆記用具もノートも持たずに、体ひとつで教授のゆっくりとした話を受け止めている。
雪解けをもたらす春のやわらかな光が、少女の薄い色の髪を照らしている。
彼女がまたたくたびに、大きな瞳がきらきらと輝いていた。
板書をするでもなく、ただ食い入るように教授の話に耳を傾けて、それをきっちり90分間続けている。
何が彼女にそこまで刺さっているのかは知らないが、教授のマニアックな話を、誰よりも集中しながら真剣に聞いていた。
そして板書を消す俺の背中を穴が開きそうなくらい見つめて、いつの間にかいなくなっている。
学生の中でも、彼女は目立っていた。
話しかけてもいいものなのか、思案しているような学生もいたが、誰も彼女に話しかけることはしなかった。
コミュニケーションスキルの低い男子学生の空間にありがちな、みんなで同じくらい女子と距離をとろう、みたいな、不思議な距離感だけがあった。
それに彼女は、姿勢だけは誰よりも真面目だった。
示し合わせたわけではないが、きっと全員が、彼女の学びを邪魔してはいけないと思った。少なくとも、俺は強くそう思っていた。
そんなことを考えているうちに、彼女が講義室に現れはじめて、1か月が経っていた。
スマホに一通のメールが届く。
表題は『休講のお知らせ』——おじいちゃん先生が、風邪をひいてしまったらしい。今日の講義は休みになる。
すでに講義の開始時間は迫っていた。
準備を終えて、講義室に向かおうとしていたところだ。
筆記用具とノートパソコンを机に置いて、急に開いてしまった時間をどう使おうか思案していると、彼女の顔が思い浮かんだ。
正式に受講しているわけではなさそうな少女には、きっとこのメールは届いていない。
あの少女は、多分、授業に来ている。
授業を受けるのが楽しみで仕方がないような顔をした少女が、講義室にぽつんと座っている。
その姿を想像して、ちりりと胸が痛んだ心地がした。
講義室に向かうと、案の定、少女はいつもの特等席に座っていた。
時間になっても誰も来ない状況で、不安そうに瞳を揺らしていた彼女は、俺の姿をみて、少し表情をゆるめた。
「今日、休講だって」
意を決して、彼女に話しかける。突然話しかけられて、少女はまるい目を大きく見開いた。
「きゅ、うこう」
「先生が風邪ひいたらしい。今日は休みだ」
「そっか……」
彼女はこの状況に合点がいったような顔をしたあと、分かりやすく肩を落とした。
はじめて会った日と同じように、窓から日が差し込んでいる。
「…………」
「…………」
無言、静寂。気まずい空気が流れる。
話してもいいものなのか、思案する。
突然現れた名前も所属も知らない少女に、聞きたいことがたくさんある。意を決して俺は口を開いた。
「きみは、」
と、言いかけた言葉を遮るように彼女は立ち上がり、慌てて講義室を出ていった。
ぱたぱたと音を鳴らして走っていく。
いつもは気づかないうちに、静かに講義室を出て行ってしまう彼女が、今日はなりふり構わず走る姿を、俺は見送ることしかできない。
「は、速……」
あまりの速さに呆気にとられてしまった。
小さな講義室内で彼女はあっという間に加速して、廊下の向こうへ消えていく。
何かスポーツでもやっているのだろうか、人間離れしているとも思える速さだ。
「あ、」
ふと足元を見ると、ピンク色のハンカチが落ちていた。彼女のものだろうか、それを拾い上げる。
シンプルな無地の生地に、白い糸で刺繍がしてある。彼女の名前かもしれない。
「……す、い」
S、U、I——スイ。
それが彼女の名前だろうか。
相変わらず所属はわからないし、どこに届ければいいかも分からない。
学生課に届けるにしても、明らかに大学生より幼く見える彼女は、本当にこの学校の学生なのだろうか。
まあ、次の授業で届ければいいか。
俺はハンカチを畳んで、自分の研究室に持ち帰ることにした。




