81.「あの日」6
「スイ、帰りなさい」
「えっ」
それでも、そのときのわたしは、その言葉の真意は分からない。
再会を喜んでくれたはずのおかあさんが、わたしを拒絶した。
「早く、早く地下室に帰りなさい。今すぐに!」
おかあさんの細い腕が、全力でわたしの身体を押した。
引きはがされるぬくもり、遠ざかるおかあさんの身体。
「おかあさん…………?」
呼びかけに答えてくれることはなく、おかあさんは半狂乱になりながら、わたしに帰るように叫んでいた。
パニックになって一歩も動けないわたしに、おかあさんの叫び声が降り注いでいた。
その叫びを切り裂いたのは、低く、うなるような地響き。
数拍遅れて、建物がミシミシと歪む音がした。
足元が揺れる。ベッドや窓が軋む音。
隣の部屋から、廊下から、悲鳴が聞こえる。
地震だ、誰かの大声。
ばちん!と音を立てて、電気が消える。
数秒、すぐに蛍光灯が点滅して、緊急用電源を使用します、機械みたいなアナウンス。
「ああ、……そんな……」
おかあさんの嘆き。
なにが、なにが起きているの。
ぐわん、ぐわん、建物がひっくりかえるみたいな、大きな揺れ。
途切れない悲鳴、遠くから聞こえる大きな獣の咆哮。
窓の外が赤く光っていた。遠くにゆらゆらと、赤く揺れる何かが見える。
その赤はあっという間に山肌の建物を飲み込んだ。
数秒立たず、大きなコンクリートの塊は、おもちゃのブロックのように崩れていく。
火事だ、火が、こんなに早く、どうなっているんだ、患者さんの避難を!
男女さまざまな声が上がる。
赤が噴き上がる。熱い。熱い。病院の建物は崩れてはいないけれど、すでに壁や窓からの熱気で、皮膚が焼かれるような心地がした。
どうしよう。おかあさん、熱いよ。たすけて。
わたしがおかあさんに手を伸ばすのと、おかあさんがわたしの手を取るのは、同時だった。
「スイ!」
おかあさんはぼろぼろ泣きながら、わたしの手を強く引いた。
「スイ、……ほんとうに、ごめんね」
その言葉はきっと、おかあさんの心からの後悔だ。
わたしをこの世に生んでしまったこと。わたしを外に出してしまったこと。
それでも。それでもおかあさんは、わたしを強く抱きしめた。
葛藤。絶望。恐怖。苦痛。後悔、後悔。
失われる多くの命に、わたしが背負う罪の重さに、おかあさんの顔は歪んでいた。
そして、その表情は最後に、やわらかく、微笑んだ。
「会いに来てくれてありがとう」
大好きなおかあさんは、わたしに、そう言った。
それを聞いて、わたしはうれしかった。生きてきた中で、いちばんうれしかった。
すっかり満足したわたしは、おかあさんに抱きしめられながら、意識を失った。




