80.「あの日」5
「おかあさん」
そう声をかけると、おかあさんはゆっくりと目を開けた。
レースカーテン越しのやわらかな光に宝石色の瞳がかがやいて、きらきら光っている。
ゆっくりとまばたきをすると、おかあさんは首だけを回して、わたしのほうを向いた。
「……スイ」
小さくかすれた、それでも大好きな、おかあさんの声。
くっきりと頬骨のかたちが分かるほど痩せた口元から、その二音が零れ落ちただけで、どうしようもなくうれしかった。
たまらなくて、おかあさんに駆け寄った。
おかあさんはそれを受け止めてくれて、こどものわたしよりも細くなってしまった腕で、わたしを抱きしめた。
「……うれしい、会いたかった。スイ」
おかあさんの瞳から涙がこぼれおちて、枕に吸い込まれていく。
それを見て、わたしの視界も涙でぼやけた。
おかあさんのあたたかい身体、おかあさんのにおい、おかあさんの声。
焦がれたすべてが目の前にあって、わたしに触れていた。
「スイ。スイ、ごめんね。こんなお母さんで」
「……なんで、あやまるの……」
「夢でも、うれしい、会いたかった」
うわごとみたいに、おかあさんは呟いていた。
おかあさんの指がわたしのうねうねの髪を梳いて、くすぐったい。
「スイ。ふつうに産んであげられなくてごめんね」
わたしはそれを、黙って聞いていた。
ふつうが分からないけれど、おかあさんがわたしにくれる言葉のすべてを、聞き逃したくない。
死も病もわからないのに、なぜだかそんなふうに思った。
「あんな狭い部屋に、閉じ込めてごめんね」
おかあさんは続けた。言葉の意味は、わからない。
「こんな病気になってごめんね」
謝らないで。わたしは少しも、なににも、怒ってなんかいない。
「おかあさん、わたしね、おかあさんに会いたくて来たの」
「うん」
「地下室を抜け出して、バスに乗って、タクシーも乗って、ここまで来たの」
わたし、できたよ。助けてもらいながらだけど、ここまで、ひとりで。
そう言いかけたとき、急に、お母さんが顔を上げた。
そのときのおかあさんの表情は、今まで見たことがないものだった。
おかあさんは目を見開いて、わたしを真っすぐ見つめていた。
「まさか、スイ」
「……?」
ひゅう、と、息を呑む音がした。
おかあさんの口元がわなわな震えて、まるで絞り出すように、確かめるように、わたしに問いかける。
「スイなの?」
「うん、スイだよ」
どうして、そんな怖い顔をするんだろう。
急に表情が一変したおかあさんに戸惑いながらも、聞かれたことに答える。
夢じゃなくて……?と、おかあさんが震えたまま呟くから、わたしはうなずいた。
おかあさんの、ただでさえ真っ白な頬からさらに血の気が引いていく。
おかあさんの手が、肩が、全身が、ぶるぶる震えていた。
今ならわかる。それは、絶望。
モンスターを引き寄せる体質の娘が、地下室から出てしまった。
おかあさんはすべて、わかってしまった。これから起こる災害のことも、わたしが犯す罪の大きさも。
いったいどれほどの人が犠牲になって、どれほどの悲しみを、生み出してしまうのか。




